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第5章 やって来たアサシン・ドール
38: 乳房というオプション
しおりを挟む雇われ看護師の外国人女性の名前が判った。
投げやりな感じで、その大きな胸にネームプレートを付けていたからだ。
この国には英語を読める人間は少ないが、初見の人間の為には流石に名無しというわけには行かないのだろう。
パリスだ、姓の方は判らない。
勿論、本名ではないだろう。
豊かなブロンドの髪と青い目。この国では普段、絶対にお目にかからない姿だ。
ただこんな国にでも「上等な外国の女性」が、バスタブの排水溝に流れ込む髪の毛のように、本来の場所から抜け落ちて流れ着くことがある。
例えば、人身売買まで取り扱う寂寥ファミリーの闇マーケットなどにだ。
浴場で、僕は車椅子に座ったままパリスに全身を洗い清められた。
女魃蛭は、僕の皮膚の下に上手く潜り込んで、息を秘めているのだろうが、奴らを刺激せず僕の身体を洗うパリスの手際は、すこぶる優れていた。
それに毛の硬いボディブラシで、かなりきつく擦られたが、それもマッサージと思えば気持ちがよかった。
傷が癒えたばかりの改造場所も、他と同じように擦り立てられ、身が竦む思いで予想される痛みに備えたものの、何ともなかったのは驚きだった。
背中を洗われる時は、介助士が僕を赤子のように持ち上げ、その間にもう一人の介助士が、ゼリーまみれの車椅子を洗浄していた。
せっかく洗った車椅子に、泡まみれのまま戻され、顔と頭を洗われたとき、その感触で自分の頭に髪の毛が一本もないことに気がついた。
よくよく見ると、腕にも脚にも臑毛どころか産毛さえなくなっている。
どうやら僕は全身を完全に脱毛されているらしい。
「少し頭がザラザラするわね。人間ってほんとタフだわ。あんな強力な薬品で毛穴の底まで焼き尽くされても、まだ生き残っている毛根があるんだから。でも、あと2回の脱毛処理でキレイさっぱり永久脱毛できるわよ。汗腺まで焼かれて体温調節ができなくなるっていう副作用さえなかったら、私もこの脱毛処理を受けたいんだけどね。」とバリスが言う。
けれど実際の僕の状態は、パリスのいう美容的な脱毛処理というイメージからはかけ離れていて、鼻毛も眉も睫さえも綺麗さっぱりなくなった妖怪のようなノッペリ顔と身体にされているのだろうと思った。
頭から冷水シャワーを浴びせられ、泡が流された。
乾いたタオルで全身を拭き清められる。
「水を飲みたいでしょうけど、弛緩剤が効いている間は、うまく飲み込めないのよ。舌も動かないでしょ。だからもう少し待ってね。弛緩剤が切れるまで、後2時間はかかるから、その間、2回目の脱毛処理を済ませちゃいましょうね。」
2回目の脱毛処理?これ以上の何があると言うのか、、。
車椅子が押され、浴場の奥に連れて行かれた。
そこには細長い浴槽があって、壁のノズルから何とも不気味な赤黒い泥が流れ込んでいた。
パリスの眉が顰められているのは、その泥の臭いが凄まじいせいだろう。
鼻と口にチューブを挿管されている僕は、その臭いに悩まされることはない。
もしその臭いを嗅いでいたら、そんなヘドロのような液体に自分の身を浸されることに怯んでいたことだろう。
ゴム手袋をした介助士が、僕を抱き上げ、その泥の表面に僕の身体をそっと浮かべた。
頭と腰が押しつけられ、ずぶずぶと身体が泥の中にめり込んでいく。
急に怖くなった。
すがるようにパリスに目をやると、彼女は片手で鼻をつまみながら手を振っていた。
「この人物への医療行為もどきに関わっているのは、パリスにしろヨンパリにしろ、流れ者の外国人ばかりのようだな?まあ、普通考えられないような手術をしてるんだ。当然といえば当然だが。それにしても、この人物がこれで、生き延びて日本に来てるなら、恐ろしいまでの生命力だ。」
私は正直な所を言った。
それに、戸橋巡査の仕事ぶりに疑いは持たないが、この人物の自分語りに信憑性があるかどうかは別問題だ。
その点は私も丑虎巡査部長と同意見だった。
「ヨンパリ?」
指尻女史が、知らない事もあるようだった。
「簡単に言ってしまえば悪徳医者、、どこの国の医者かは、お察しの通り。悪徳医者は日本にもいなくはないが、レベルが違う。そしてこの人物の生国には、そのヨンパリさえいないという事ですな。ただし国自体は、酷く貧しいが、一部には莫大な富が集中する、、。」
そしてこの香革という人物も、あの蓮華座と何らかの関係があるのか、それは未だ不明だった。
蓮華座は海馬美園国では流通していないようだ。
御白羅巡査部長の報告によると、いくら依存性がなく、ずば抜けた効能があっても値が高すぎて、海馬美園国では市場が形成できないらしい。
そして、蓮華座の最大の売りは全能感だが、海馬美園国の権力者達は、わざわざ薬を服用せずとも、それを得ることが簡単に出来るのだ。
全能感の殆どは、他人の自分に対する無批判な服従から生まれるからだ。
その辺りの国情の違いを上手く利用したのが、美馬という男だった。
ヨンパリは、以前にもまして悪魔じみて見えた。
同じ東洋系なのに、、この男より、西洋人であるパリスの方にずっと親しみを感じる。
「久しぶりだね、お坊ちゃん。今日の手術自体は楽勝だよ。基本の手術は大方終了したんだけど、これからやるのは、まあ追加オプションだね。君のパパの要望だ。手術自体は前のと比べると随分軽いモノだけど、問題はあの虫たちが、君の身体を守ろうと彼らなりのやり方で頑張りだす事だね。彼らは、宿主の人間の気持ちなんか、考えないからな。君の心が、それに耐え切れればいいんだが。君のパパは、君なら大丈夫だと言ってたけどね。」
合成音の読み上げより、テキストの方を先に読み進めていた指尻女史の顔色が変わった。
指尻女史は、おそらく「パパ」という単語に反応したのだろう。
人には誰にも触れて欲しくない過去があるものだ。
クッション床がたわみ、僕をくるむゴム袋がまさぐられた。
ジッパーの引き下げられる響き。
脱皮する蝉のようにゴム袋が引き剥かれる。
反射的に目を開けようとしたが、瞼すら自由にならなかった。
瞼が赤く染まり、そんな光ですら目に痛い。
身体がまさぐられる。
全身をくまなくチェックされている。
事務的だが、乱暴な扱いではなかったので、僕はなされるがままに身を任せた。
この一連の動きは僕の身体を点検するというより、僕の中にいる女魃蛭の様子を見ているのだと理解した。
僕の身体はすっかり弱り切っていた。
いや、本当は弱ってはいないのだが、弱っているように感じているのだ。
弛緩剤がまだ強烈に効いていた。
パリスが僕の背中に手を差し入れ、ゆっくりと上体を起こしてくれた。
背中が突っ張る。
腰から上が一本の棒のようになっていて、突っ張ったまま上体が起きていった。
上体の角度とともに、押し曲げられていく股関節がゴキゴキと痛む。
これが将来的に、僕の運動能力を飛躍的に加速させてくれる仕掛けだとは、とても思えなかった。
そして上体が90度に起こされた時、自分の胸に生じた重い振動に意識が持って行かれた。
視界の下で、なにやら丸みを帯びたふたつの塊が揺れている。
眼球を動かそうとして、 目の奥にビキッと走る痛みに、また涙がどっとあふれた。
目の筋肉すら固まってしまっていたようだ。
それでもわずかに視界が動いたことで、僕は痛みを堪えてもう一度眼球を動かそうと試みた。
さっきよりも視界が動き、痛みも少なく感じる。
涙をあふれさせている僕に気がついて、パリスが再び目を拭ってくれた。
僕の顎と後頭部に、パリスの手が添えられ強い力が込められる。
首の奥でぞっとする軋みが響き、錆びたジョイントを捩じるような鈍さを感じた。
首の骨に今まで感じたこともない硬い抵抗感がある。
女魃蛭の奴らが何かをしたのか?いや奴らにはそんな高度な反応は出来ない。
身体に埋め込まれた金属パーツと、女魃蛭の防衛反応との相乗効果と考えた方が良いのだろう。
頭蓋骨に感じる圧迫から、パリスの力の込めようも相当なものだとわかる。
それでもついに、針金の束を折り曲げるような粘りとともに、頭が下を向いた。
眼下に、僕の胸から生え出した巨きなふたつの肉球が目に映る。
僕は一瞬、我が目を疑った。
どう見ても巨大な乳房に見える。
肉球の頂点には桃色の乳首まであった。
目をしばたくか、何かで擦りつけたくなる。
どちらもできずにいる僕は、唯一動かせる眼球をいったん上に向け、もう一度見直した。
乳房は間違いなく、そこに存在し揺れていた。
「これが見せたかったの。形も質感も最高の乳房よ。羨ましいわ」
パリスのその言葉が僕の頭の中をグルグルと回っていた。
「しかも、そこらの豊胸手術とは次元が違うのよ。詰め物なんかじゃなく、あなた自身の細胞から培養された本物の乳房。ヨンパリは、無責任だから安全検証もされていない最新技術を、なんでもかんでも模倣して投入するのよ。乳腺だってあるんだから、妊娠ホルモンを投与すれば、母乳だって出せるんじゃないの?」
寥虎が望むなら乳房を作れと言われれば作るが、母乳など出したくもない。
第一、寥虎は、女を愛したくて、僕を女に似せようとしているのだろうか?
そんな事はない筈だ。
女など寥虎が望めば、幾らでも手に入る。
パリスの手が僕の乳房に添えられ、指が優しく動かされた。
くすぐったさがある。
その指が乳首を撫で上げたとき、鳥肌が立つような見知らぬ感覚が乳首の中に生じ、乳房全体が一回り膨らんだかのような熱っぽい感覚が生じた。
その中には紛れもない快感があって、僕を困惑させた。
「感じるみたいね。凄い、神経の接合も成功してるってことね。というか、これはヨンパリの技術の腕じゃなく、あの虫の力なのかしら?」
パリスは僕の目の動きを探っていたのだろうか、僕の思いをあからさまに見透かされて、僕は顔が火照るような気がした。
この下りで、指尻女史は明らかにショックを受けた様子だった。
人口の乳房を持つ指尻女史だが、女装はいざ知らず、自分の身体を弄ることには女史にもそれなりの経緯があったに違いない。
それがこの香革という人物の成り行きと、深くシンクロしているのに違いなかった。
ただ隣に座っている丑虎巡査部長は、その事に気付かず、この怪異な手術に登場する虫に興味が集中しているようだった。
「この女魃蛭って何でしょうね?香革って人物の妄想上の生き物なのかな、それとも実際に存在する生物、、だとするとチスイビルの変種の可能性がありますね。」
この言葉に、指尻女史は自分の気持ちを無理矢理、方向転換させたようだ。
丑虎巡査部長の学者馬鹿故の鈍感さは、時に役立つこともある。
「チスイビルに付いて、何かご存じなんですか?」
「僕は小さい頃、田舎の婆さんに預けられていて、その頃、雨降りの後で山の中を歩いていてチスイビルに喰われた事があるんですよ。家に帰って見ると自分の着ていた真っ白な開襟シャツの襟ぐりの辺りが真っ赤になっていて吃驚しました。チスイビル、“頭が三角なナメクジ”です。そいつは、ばあさんの説明によるとかみつく時、まぁ簡単にいうと口の中から「モルヒネ」のような物質を出すようで、それが麻酔代わりになって、人間にほとんど痛みを感じさせないんです。それに血が止まらなくなる物質も一緒に吐き出して、自分の仲間に人の身体から立ち上る血の濃い匂いを知らせるのだといいます。後に僕はそれが『ヒルジン』という血液の凝固を抑制する物質だということを学びました。女魃蛭というのは、そういう能力をベースに持った、やや寄生虫よりの蛭の変種、、、なんて事が想像できますね。いや、これこそ想像ですが、、。」
一応、丑虎巡査部長は、自分の考えを「想像」という言葉に変えて締めくくった。
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