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最終章 竜来る

73: 蒼い河

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 ユーマ・グレイが手にしている舵は、森の木から削り出したものだ。
 グレイほどの力があれば丈夫なナイフ一本でほとんどのものが作り出せる。
 舵に対する蒼い河の水の抵抗は事の他強かった。
 まるでどろどろに溶けた溶岩のようだ。
 蒼い河に差し込んだ、お手製の舵を取りながら、ユーマ・グレイは不思議に思っていた。
 この魔女は、なぜこれほど長い期間、外界の旅を続けて体調を崩さないのだろうか?

 魔女がスードでないのは判っている。
 いやそのスードの中でも堅牢を誇るユーマ・グレイですら、レヴィアタンを離れ、長旅を続けてからは、その体調は万全とは言えなかったのだ。
 人間の体質をスードに似せる薬品を作ったヴィルツの女なのだから、それに似た処方を自分の身体に施している可能性はあったが、それにしても魔女の体調は人間の限界を遙かに超えて、平常過ぎた。

 一つ思い当たる節があったのは、魔女が指し示す道筋には、これと言った害獣や極端に厳しい天候の変化が見当たらなかったという事だった。
 ユーマ・グレイ自身、外界への旅が初めてだったので、比較が出来ないのだがスプリガンから教えられていた外界の予備知識とは、その困難度において随分の差があった。
 何処に向かっているのは分からないが、何故か、魔女はそこにたどり着くまでの一番安全な道を知っているように思えた。
 おそらくその道を辿っている限り、天からの毒も低減された状態になっているのかも知れなかった。


「お前に言っておくが、この河の水は飲まないように。この碧さには意味がある。毒の碧よ。いえ、毒水ということじゃない。これは水でさえすらないのよ。」
 水でさえすらないという意味はよく判った。
 筏が、河の中程の流れに乗った時に判ったのだが、碧い水は自分自身で移動しているのだ。
 舵を使わなければならないのは、時々蒼い水面に黒い岩が突き出していることがあり、それを避ける時ぐらいだった。
 後は流されるままにしておけばいい。
 しかもそのスピードは信じられない程、速く安定しいる。

 この旅に出る前、ユーマ・グレイは、『軍さえも探査の方向を伸ばしたことのない未知の外界に出向くのは、例えスードであっても魔女であっても無謀ではないのか?』と、スプリガンに聞いた事がある。
 それに対してスプリガンは、『あの魔女は外界からのある声に導かれて旅に出る。この旅は、その声に守られているから安全だ。安全だから、ヴィルツもそれを許した。、、そう聞いている。』と答えた。
 もちろんスプリガンは『そんな言葉は信用すべきではない』と締めくくったのだが。

 だがユーマ・グレイの今までの体験からすると、それはあながち否定できない。
 実際、安全だったのだ。
 そうだとするならコモンナンド魔女が、この碧い河の秘密を知っているのは、その「声」の教えと導きという事になる。
 それどころか、魔女はその声に導かれる事によって、空の毒からも逃れているのだ。

「コモンナンド様は昔から声の導きをお聞きになっていたのですか?」
 思わずユーマ・グレイは聞いてしまった。
 スプリガンならそんな迂闊な事は絶対にしなかっただろうが、その類い希なる破壊力を買われてスード居留地区から引き抜かれた彼には、まだ純朴な部分が残っていたのだ。
 コモンナンドは一瞬、奇妙な光をその緑の瞳に宿したが、それでもユーマ・グレイの問い掛けに答えるつもりになったらしい。

「あの声が聞こえただしたのは、私がお前達のレヴィアタン国に移り住んでから。私は自分の気を飛ばして、声の辿った道を調べてみたのだけれど、どうやらお前達の国のあちこちに散らばっている聖剣とやらが、私にとってのアンテナ代わりになっているようだね。おそらくそれらの聖剣がなければ、あの声も私には届いていなかったはずだわ。そしてその声の持ち主も、聖剣からのある強力なメッセージを傍受して、聖剣が中継機として使える事を知ったようだね。」

「傍受と仰いましたか?」
「そう。声の主が傍受したのは、暮神剣録の持つ聖剣が送ったもののようだわ。私には聖剣が、誰に対してその内容を送ったのかは未だに判らないけどね。その内容はティムドガッド王の死だったそうよ。声の主が、そう言っていた。」

「、、聖剣がアンテナ。つまり全ては、聖剣が起こした奇蹟という事ですか!?」
「さあ、どうだろうね。私の神は、グレーテルではないのよ。」
「では、その声の主は、貴方様の神なのですか?」
「それを確かめに行く旅だ。しかし、おそらくは違うと私は思っている。」
 そう言ってコモンナンド魔女は、碧い河のまぶしいばかりの水面を見つめた。

「貴方様はまだ、ティムドガッド王を殺した暮神剣録を恨んでおいでなのですか?」
「ほう、ユーマ・グレイ、お前今日は良く口をきくね?」

「も、申し訳ありません。以後、口を慎みます。」
「いいのよ、今日は。この蒼い河に流されて行けばその内、河自体が大瀑布となってこの星の裂け目に流れ落ちる。そこが、この旅の目的地。そこまでは、何の異変も起こらない。そう声の主が仰ってる。つまり私は、お前と話をするしか、やることがないということだね。」
「申し訳ありません。」

「、、、ティムドガッド王の話だっわね。お前は、なぜそれが気になるの?」
「私はスード居留区で殺人を犯しました。私の妻を穢した男がいたのです。私はその男が許せなくて、気がついたら変身を起こし、相手を食い殺していました。相手を殺すなどスードでは考えられないことです。しかも変身までして。、、私の中の憎しみや、恨みの心は異常なのです。ですから、そういった人殺しの内容については、ついつい考え込んだり、場合よっては明け透けに聞いてしまうのです。」

「それはお前が、本当は自分は当たり前の感情を持っているのではないかと疑っているから。それを人様の話で、確かめてみたくなるのじゃないか?」
「そ、そんなめっそうもない。」
 魔女の前でユーマ・グレイは、否定の際まで、へりくだるようになっていた。

「お前は確かに、ヴィルツ様から聞いたレヴィアタン国のスードの姿とは一致しないね。、、しかし、面白い話だ。、、私の方はティムドガッド王が殺されたと聞いた時は、せいせいしたわ。ねえ、ユーマ・グレイ。お前は、この私が生まれ落ちた時から魔女だったと思っているのかい?お前が言う、恨みや怒りの感情は、とても重要なものだと私は思っているよ。」
 魔女の顔が真っ直ぐにユーマ・グレイに向けられた。
 そしてその瞳は緑色に強く輝いていた。

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