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第5章 ティムドガッド侵攻へ

38: エイブラハムの憂鬱

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 レヴィアタン覇権を目指すトレーシー家の状況は、足踏み状態から後退へと、ジリジリと変化しつつあった。
 そのきっかけは、暮神時五郎が自分の息子・剣録と、アンジェラの関係を破棄したあたりからだと、エイブラハムは考えていた。
 暮神時五郎はそれでも、暮神家はトレーシー家につくと宣言してくれたが、息子が軍に入ってからは、やはり様々な面でトレーシー家への協力は鈍くなっていた。

 それと共に大きいのは、張が軍部の肩入れを明確にした事だ。
 それによって豪族の均衡は、完全にトレーシー派と反トレーシー派の二つに別れ、この二つは常に綱引きをするようになった。
 今も、エイブラハムは、この情況をどう打開すべきかを彼の知的支援スードであるキャスパーと話し合っている最中だった。

 エイブラハムは、会話の途中なのに、霧にかすんだような意識の中で、いつもの考えを弄んでいた。
 最近、難しい会話が長くなると、集中が途切れ、こういう思考状態に陥る事が多くなっていた。
 しかしそれは、エイブラハムの年齢のせいでも、何かの病状のようでも、なさそうだった。

『スードという存在は、つくづく不思議なものだ。人間がスードを差別するのは、本当の所、彼らの人間に対する吸引力を恐れてではないだろうか。』
 エイブラハムはキャスパーの灰色の瞳から自分の目が引き離せなくなっている。
 一種の催眠状態と言っても良い。
 彼が此処までのし上がる原動力となったブレインであるキャスパーを、こうして目の前に見ていると、物事を考えているのは、自分なのか彼なのかの区別が付かなくなるのだ。
 エイブラハムは気を取り直して、キャスパーに口を開いた。
 しかしまだその声が、自分のものであるような気がしなかった。

「キャスパー。ティムドガッドの件で、誰が我々のパーティを裏切ったか想像が付くかね?」
 エイブラハムはタミヤを使って、軍部がパーティを襲撃した際の内通者の割り出しを既に済ませていたし、ティムドガッド派兵のカラクリも、おおよその見当がついていたが、キャスパーの洞察力をもう一度試してみるつもりになっていた。
 スードの取り扱いが大きく絡むこの件については、襲撃事件以降は、人間間の暗部に精通しているタミヤを使っていて、キャスパーには一歩退かさせていたから、彼の見立ても聞いて見たいと思っていたのだ。

「暮神氏のご子息でしょう?」
 その名前を聞いてエイブラハムはため息をついた。
 エイブラハムがその事を突き止める為に、かけた時間と労力を考えると、キャスパーの回答の早さは正に神業と言ってよかった。
 それに剣録はエイブラハムの盟友である暮神時五郎の息子だ。
 エイブラハムのスードであるキャスパーが、簡単に容疑者としてあげられる人物でも、その名を口に出来る人物でもなかった。

 キャスパーは、今回に限らず、全ての問題を限られた数少ない情報だけを元にして正解を考え出してきている。
 この能力は、エイブラハムが彼を買い上げてから十五年間というもの間違った答えを出した事がなかった。

「彼は、今回、ティムドガッド侵攻軍の副指令官に任命されるそうだ。異常とも言える程の昇進スピードと抜擢だな。それに彼は竜の卵の防衛部門を主席で卒業しているし、豪族の中でも人気がある。それにスマートなあの見栄えだ、大衆にも受けが良いだろう。さぞかし活躍する事だろうな、、。今更言っても仕方がないが、私の時に活躍して欲しかったよ。」

 エイブラハムには、暮神剣録があのパーティ襲撃を手引きした事についての怒りは特になかった。
 そこにはきっと何かの事情や思惑があったに違いないというような、剣録を慮る気持ちがある。
 もっともそれは、エイブラハムの中に、剣録が自分の娘と同じように育ててきた人間だからという気持ちと、彼の兄、剣聖の死についての裏事情を知っているという部分があったからだ。
 子どもの頃のアンジェラと剣録のペアは本当に可愛らしくて妻と私の宝物だった、と今でもエイブラハムはそう考えている。

「暮神剣禄氏の栄達は、そこでは留まらないでしょうね。そして彼はやがて、貴方を脅かす存在になる。」
 キャスパーがエイブラハムの思いを突き破るように言った。

「、、、それも剣録君がティムドガッドから生きて帰ればの話だ。お前にも、そこまでは予測できまい?」
 それには取り合わずキャスパーは話を続けた。
 ユーモアの片鱗もない口調だった。
「あの計画は、どうします?」

 エイブラハムにとって国土の拡充は、人間とスードの融合が不可欠だった。
 それが軍部の言うように、圧倒的な戦力を持った人間が国土拡充を可能にする事をやってのければ、エイブラハムの計画は根こそぎ潰える。
 『外界への根本的な対処を抜きに軍事力で他国を吸収したとしても、そこに希望はない』
  いくらそう声を上げても戦勝気分に酔った国民は、エイブラハムの主張に耳を傾けることはないだろう。

「、、、計画な。時間がない。色々と動きまわって見たが結局駄目だった。これからはやり方を少し変えるつもりだ。今こちらに残ったのは、反戦平和という役にも立たない大義名分だけだからな。綺麗事ばかりは言っておれん。軍の派兵は来週中に早まりそうだ。我々のバイオアップ兵士を使わずに、軍は通常武器だけで行くらしい。まああれが、通常武器と言えるならばだが。、、そのために、私はお前と話をしている。」

 国民が軍事力によるティムドガッドへの侵略を許すのであれば、その兵力の中に融合者を紛れ込ませて人間とスードの融合の既成事実を作ってしまう。
 紛れ込ませる方法は派兵されるバイオアップ兵士を使う。
 本当の勝負はその後で、、それがエイブラハムが考えた次のやり方だった。
 もちろんその事はキャスパーも知っている。
 それが今、バイオアップ兵士の投入が見送られる状況に陥ったのだ。

「通常兵器、、、レブィアタンの辺境区域に隠されていた軍の核シェルター内部の軍備ですね。母星のΩシャッフル以前のものだ。何故、あんなものをグレーテルがこちらに運んだのか理解に苦しみますよ。凶悪すぎる。あれが今回持ち出されるならばトレーシー社のバイオアップなど必要ないはずだ。」
 何故かキャスパーは、エイブラハムの持ち出した話題に対してすぐには反応せず、違う話を持ち出した。
 最近のキャスパーはこういう傾向が強くなっていた。
 そうやって会話の主導権を自分の方に引き寄せようとするのだ。

「兎に角、そこにあったんだ。それは仕方がない。地球から転送された人間だって、選ばれた人間だったわけじゃない。犯罪者だって、何人も含まれていた。、、あの軍備を見つけたのが、これまた暮神剣禄だという話もある。本当に色々と役に立つ男だよ。軍部のお偉方が暮神を可愛がるわけだ。」
 エイブラハムは仕方なく、キャスパーの話に付き合っている。
 もうかなり前からマスターとスレイブという関係が弱まっているのだ。


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