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第1章 彼らの世界
05: リアルチャクラ『不安定因子』
しおりを挟むチャンピオンは、女のマスクなどの外見から、相手を甘くみて、こんな安易な戦いのアプローチをしてしまった自分を呪った。
一方、螺子は、組み合ったチャンピオンの掌から、微弱な電流が流れ出すのを感じた。
次のリアルチャクラの発火の予兆だ。
早く予想を立てて対応を決めなくてはならない。
螺子の力のリアルチャクラは既に入っている。
螺子の場合、この程度では変態は起きない。
しかし力負けしない自信はあった。
電流が前兆だとすると、チャンピオンは次のリアルチャクラを解放するために変態も辞さないつもりなのだ。
『相手に合わせての変態はしたくない。』
その螺子の躊躇を見抜いたのか、チャンピオンの突然の部分変態が始まった。
チャンピオンの筋肉が盛り上がった両腕から、血管が浮きだし、それは瞬く間に弾けて飛んだ。
ビュルルと数本の血管が、自立して螺子のマスクに襲いかかる。
血管の先端は小さな瘤のようなもので閉じられている。
チャンピオンは『どうせ変態を晒すならば』とスピードのリアルチャクラを放棄して、この攻撃に出たのだ。
螺子は左足のロウキックを、チャンピオンの脚に打ち込みながら、自分の頭をくねくねとうねる血管から遠ざけた。
観客は熱い期待に燃えた。
女の顔を持つ挑戦者が、自らの向こう臑に皮膚を硬化させた刃を立てて、チャンピオンにローキックを放ったのだ。
スード達にとって、もっとも苦手な部分変態を、二人のファイターはやってのけていたのだ。
このファイター達は、自らの変態を制御する術を知っているのだ。
螺子とチャンピオンは、お互いの部分変態をきっかけとして、組み合っていた手を離し左右に別れた。
観客達の期待に答えるようにチャンピオンの作業ズボンの尻が破れた。
そこからは、明らかに大型の爬虫類の尻尾を連想させるものがはえだしている。
ただし肌の色は、人間の肌色であって、その分だけ異様さが強烈だった。
チャンピオンはもう、部分変態で留まっている事に我慢できないのだろうか。
螺子は、チャンピオンがその筋肉の塊のような筋肉の尻尾を使って、予測できない動きとスピードで攻撃を仕掛けて来る事を覚悟した。
チャンピオンは、巨大な尻尾とのバランスを取るためか、身体を少し前かがみにし、両腕をダラリとぶら下げている。
その両腕からは、大量の血管がうねくりながら、リングの上に降り注いでいる。
蜥蜴マスクの物言わぬ瞳は、螺子の次の変態を催促している様だった。
「止めさせて!」
VIP席でアンジェラが叫んだ。
「止めさせる?どういう積もりだね?試合はこれからなんだよ?」
エイブラハムは楽しそうに訊ねかえした。
「私、チャイナレディが欲しいの!どうせプレゼントしていただけるなら無傷でいただきたいの、お父様!」
エイブラハムは、アンジェラが予想していたような、チャンピオンではなく挑戦者を欲しいと言った娘の真意を訊ねはしなかった。
試合をずっと観戦していたエイブラハムの頭の中では、ある発見を元にした、もっと重要なアイデアが組み上げられつつあったからだ。
「いいかね?我々がこのゲームを観戦するのは本来非合法な事なんだよ。あくまでお忍びのお遊びなんだ。ゲーム自体には介入出来ない。あれが欲しければ買ってやってもいい。しかし、それはゲームが終わってからだ。」
娘の思い詰めた表情を見て取って、エイブラハムは珍しく父親らしい態度を装って言葉を続けた。
「私も初めは判らなかったが、試合ぶりからして、もしかするとあの挑戦者は、母星のオメガシャッフルで反動的に生まれたとされるキメラエイプの血筋なのかも知れない。だとすると、あれは傷つかずに勝利を納める可能性がある。」
ただしこの内容は、国立地球科学院に保存された”Call 119世界救済機構”が残したと言われる発掘文書からの受け売りで、エイブラハムがその言葉の真の意味を十分に理解できているとは言い難かった。
いやそれでも、二つの星を跨いでの記録と記憶、そして理解なのだから、むしろ実業家のエイブラハムが、この事を知っているだけでも驚くべき事だったかも知れない。
そしてそれは難解な内容だったが、現役大学生であるのに関わらず、畑違いの科学院にも一般生受講生として足繁く通う、この風変わりな娘の気持ちを収めるのには充分だったようだ。
モニターは、今や顔に被ったマスクに劣らぬ怪物と化してしまったチャンピオンの前に、チャイナレディが立ちすくんでいる姿を映していた。
スカジィをもう一度吸入したいと、アンジェラは切願したが、父への意地から辛うじてその衝動を押さえた。
もしこの時、アンジェラがスカジィを吸入していたなら、彼女の強化された視覚はチャイナレディの身体に起こっている新しい変化を見逃さなかったのだろう。
螺子は身体を燃やしていた。
それは比喩ではない。
彼自身、急速に体組織が強靭なものに入れ替わっていくのが手に取るように自覚できた。
螺子は最近、この完全変態を伴わない、細胞単位で身体を強化するリアルチャクラを自らの内に発見してから闇ファイトに出場する事を決意したのである。
家族の窮状を救うには金がいるが、勝算のない戦いの為に、高い参加料で生活費を使い果たすのは、今以上に家族に負担をかける事になるからだ。
チャンピオンは、挑戦者の皮膚が赤みを帯びたのを見て、相手の変態の兆候と読んだ。
しかしそれは兆候ではなく、螺子は既に深い階層のリアルチャクラを爆発させていた後だった。
それがチャンピオンの二度目の誤算だった。
チャンピオンは相手が完全な変態を終える前に一気に勝敗を決めるつもりで、撓めた尻尾をバネにして、空中に飛んだ。
チャンピオンの意表を突くそのジャンプの角度とスピードは、挑戦者の対応を遥かにしのぎ、頭上から振り下ろされる血管の鞭が、相手のマスクを易々とはぎ取る筈だった。
数秒後、チャンピオンはマットに着地した瞬間、自分の肌を晒した素顔を両手で覆っていた。
彼のマスクは挑戦者によって、はぎ取られていたのだ。
観客席から巻起こるどよめきを聞きながら、明日からの自分の生活の暗さを思って、元チャンピオンは歯ぎしりをした。
チャンプの跳躍と同時に、空中を浮遊したとしか思えぬ挑戦者のジャンプとスピードを認めてエイブラハムは、思わぬ見つけものをしたと、鼓踊りするような興奮を覚えた。
この奇妙なマスクを付けた挑戦者は、エイブラハムの直感通り、彼が見てきたどのヒューマンスードとも違う変態を起こしたのだ。
このヒューマンスードは、エイブラハムが抱いている計画を大幅に促進してくれる可能性があったのだ。
娘のプレゼントとして買い上げても、この生真面目な娘は、所詮は違法な存在であるヒューマンスードをやがて見向きもしなくなるだろう。
そうなれば、このスードはトレーシー家の所有物になり、それを一家の主であるエイブラハムがどう扱おうが自由ということになる。
この子は、自分自身が何を求めているかさえも良く分かっていないのだ。
・・・そうだ。数週間もすれば、このヒューマンスードを研究所に送り、自分の思い描いている計画に、彼が利用出来るかどうかを、調べてみる事が出来るだろう。
「よかったな、これであの挑戦者を、無傷で君に買って上げる事ができそうだ。」
端正な横顔を見せながら、エイブラハムは事更に慈悲深い声を作って娘にそう言った。
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