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【 旅と温泉グルメ しゃぶれどもしゃぶれども(近畿編) 】
32: 大阪 鶴橋 コリアンタウン
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夕食を済ませるつもりで、久しぶりに、鶴橋は韓国料理店の「まだん」に立ち寄った。
アンはまだ韓国に行った事がなくて、本場の味との比較は出来ないんだけど「まだん」で出される味は、日本で水準流通してる韓国味よりランクが一つ上のような気がする。
(もしかすると日本人向けの味に再調整がしてあるのかも知れないけど。)
それでもって、サンゲタンを半人前平らげてしまったので、これで暫くは、当面のタフなスケジュールを乗り切れる(笑)?
今日は、「鶴橋」の事を少し書いておきたい。
大阪では「在日」の事について、ズーッと色々な課題が、空気のようにあってそれが続いている。
ホントは、こういった事柄や問題は、歴史が積み重なるにつれて、希薄になっていくのが普通の筈なのに、何故か今の日本では、妙な揺り戻しがあったりねじれがあったりで、なかなかデリケートだ。
昨今は、「ヘイトスピーチ」なんて単語が、国内でクローズアップされる。
アンはその事自体に、気をつけた方が良いと思う。
差別なんて、昔から民族・性・身分etcで、露骨に何処にでも転がっているけど、それを、堂々と勢い付けて思い切り気持ちよさげに相手にぶつけて行くって風潮は、最近のものだ。
折角、日本人が少しだけど身に付けてきた「差別はいけない」という抑制力はどこにいっちゃったんだろう?
そこで一番問題なのは、「差別はいけない」って超単純なことを、怯んでしまって単純に普通に言えなくなっていく事だ。
JR鶴橋駅周辺に広がる市場や飲食店、そして、コリア文化濃度の高さがメディア一般に流布される「鶴橋」のイメージ像だろう。
そしてアンにとっては、オーサカ再発見の街が「鶴橋」になる。
日本で在日コリアンの密度が高いのは勿論、大阪だし、さらに細分化していけば、生野・勝山・鶴橋と濃くなっていく。
大阪市内で生まれ育った人間は、そういった心の土地鑑を空気のように吸って来たわけだ。
生活上、民族の違いやそこから生まれる差別という問題がよく取り上げられるけれど、これらの問題は「負」の課題だけでなく、本当は、民族としてのコアを消失しつつある日本人にとって、新しい意味と意義を発見できるチャンスを持っている筈なのに、今、この問題がそういった側面で語られる事はそう多くない。
自分の中の差別性を自覚することが、自分自身の人生のプラスになる。
「チョン帰れ!」なんて思考を、安易に自分の頭の中で走らせている人間は、そのパターンで知らないうちに自分の周りの人間に影響を与えている。
人は人との関わりを捨てられないから、知らないうちに相手にダメージを与えたり、逆に救ったりしているものだ。
殊更、善人になる必要はないけど、少なくとも自分の愛する人達には傷ついて欲しくないと思うのなら、自分をどう育てるべきか?そういう事だと思う。
日本人は、外国人が日本にやって来て「日本凄い」と言ってくれるのをことのほか喜ぶのに、日本人の方で「この国凄い」と、憧れ真似をしたい相手が限られてるのは、皮肉な話だ。
日本が超一流国になったから?そうじゃないだろう。
日本が憧れる国それはアメリカ?ファッションでフランス?福祉と教育でスウェーデン?
しかし現状、アジアの中での日本の位置づけは、ドンドン下落し続けている。
例えば、鶴橋商店街の迷路のような狭い路地の底に潜む濃密なエネルギーや家族の繋がりに触れ、現在の自分に「活」を入れられたように感じるのは、アンだけだろうか?
そして、このエネルギーは、現在でも東南アジアの国々の様々な市場に共通するものだ。
そして彼らはそのエネルギーを上手く進化させようとしている。
かって日本人も、生きることに貪欲であり、なおかつ、家族を思う強烈さを維持できていた筈なのだ。
日本の場合、戦後の復興期、いくつかの「街」はいわゆるガード下に生まれた。
神戸もしかり、鶴橋もしかりである。
いまでもそこに訪れて丹念に街歩きをすれば、その事が判る。
街の遺伝子みたいなものだ。
過去そこで展開された「経済」は、貨幣が介在するものの、基本的には物々交換であり、抽象の極みの「株取引」のようなものはなかった。
「目に見える」物が総てだったのだ。
人の息吹がある生々しいエネルギーは、いつも、そんな場所に発生していたのではないだろうか?
(今、それを肌感覚で伝えられる日本の小説と言えば阿佐田哲也氏の麻雀放浪記くらいか、、)
別に近代経済を否定してるわけではない、要はその根っ子の話だ。
「欲」という存在が一人歩きする必要はない、「欲」は人の中にあってこそ「欲」だ、、とアンは思う。
鶴橋商店街は、焼き肉やチジミ・キムチばかりが有名だけど、偽ブランド品が置いてあったり、目が覚める色彩配置のチョゴリがあったりと面白い。
それとキムチとかチヂミとかの味、これは何故、味が一段違うのか、未だにその秘密が判らない(笑)。
商店街付近の焼き肉店の数々、これも有名。
そして評判だけじゃなく、実際に美味しいのが、「焼き肉」だ。
服に匂いが付かない設備のあるお店が少ないのが、玉に瑕だけど、そういう発想こそ、上にブチブチと書いた諸々の近代経済の課題の一つかも知れない(笑)。
焼き肉を七輪で食べさせるお店が有名だ。
脂が大量に出る肉を、自然火力の七輪で焼くのは超合理的、で匂い移りを防ぐ為にある荷物を入れるビニール袋とか、果ては水中眼鏡からコートの貸し出しまであって、、、そういうのがバイタリティなのかな。
そういう展開力がなくて、直ぐにローターだとか、極端に走ると「匂いの出ない焼き肉」みたいな開発をするから、日本は世界市場の中、家電で負け続けるのかなと思ったりする。
虚飾を渡り歩く生活に疲れたら、再び鶴橋の空気を吸いに行こうと思ってる。
アンはまだ韓国に行った事がなくて、本場の味との比較は出来ないんだけど「まだん」で出される味は、日本で水準流通してる韓国味よりランクが一つ上のような気がする。
(もしかすると日本人向けの味に再調整がしてあるのかも知れないけど。)
それでもって、サンゲタンを半人前平らげてしまったので、これで暫くは、当面のタフなスケジュールを乗り切れる(笑)?
今日は、「鶴橋」の事を少し書いておきたい。
大阪では「在日」の事について、ズーッと色々な課題が、空気のようにあってそれが続いている。
ホントは、こういった事柄や問題は、歴史が積み重なるにつれて、希薄になっていくのが普通の筈なのに、何故か今の日本では、妙な揺り戻しがあったりねじれがあったりで、なかなかデリケートだ。
昨今は、「ヘイトスピーチ」なんて単語が、国内でクローズアップされる。
アンはその事自体に、気をつけた方が良いと思う。
差別なんて、昔から民族・性・身分etcで、露骨に何処にでも転がっているけど、それを、堂々と勢い付けて思い切り気持ちよさげに相手にぶつけて行くって風潮は、最近のものだ。
折角、日本人が少しだけど身に付けてきた「差別はいけない」という抑制力はどこにいっちゃったんだろう?
そこで一番問題なのは、「差別はいけない」って超単純なことを、怯んでしまって単純に普通に言えなくなっていく事だ。
JR鶴橋駅周辺に広がる市場や飲食店、そして、コリア文化濃度の高さがメディア一般に流布される「鶴橋」のイメージ像だろう。
そしてアンにとっては、オーサカ再発見の街が「鶴橋」になる。
日本で在日コリアンの密度が高いのは勿論、大阪だし、さらに細分化していけば、生野・勝山・鶴橋と濃くなっていく。
大阪市内で生まれ育った人間は、そういった心の土地鑑を空気のように吸って来たわけだ。
生活上、民族の違いやそこから生まれる差別という問題がよく取り上げられるけれど、これらの問題は「負」の課題だけでなく、本当は、民族としてのコアを消失しつつある日本人にとって、新しい意味と意義を発見できるチャンスを持っている筈なのに、今、この問題がそういった側面で語られる事はそう多くない。
自分の中の差別性を自覚することが、自分自身の人生のプラスになる。
「チョン帰れ!」なんて思考を、安易に自分の頭の中で走らせている人間は、そのパターンで知らないうちに自分の周りの人間に影響を与えている。
人は人との関わりを捨てられないから、知らないうちに相手にダメージを与えたり、逆に救ったりしているものだ。
殊更、善人になる必要はないけど、少なくとも自分の愛する人達には傷ついて欲しくないと思うのなら、自分をどう育てるべきか?そういう事だと思う。
日本人は、外国人が日本にやって来て「日本凄い」と言ってくれるのをことのほか喜ぶのに、日本人の方で「この国凄い」と、憧れ真似をしたい相手が限られてるのは、皮肉な話だ。
日本が超一流国になったから?そうじゃないだろう。
日本が憧れる国それはアメリカ?ファッションでフランス?福祉と教育でスウェーデン?
しかし現状、アジアの中での日本の位置づけは、ドンドン下落し続けている。
例えば、鶴橋商店街の迷路のような狭い路地の底に潜む濃密なエネルギーや家族の繋がりに触れ、現在の自分に「活」を入れられたように感じるのは、アンだけだろうか?
そして、このエネルギーは、現在でも東南アジアの国々の様々な市場に共通するものだ。
そして彼らはそのエネルギーを上手く進化させようとしている。
かって日本人も、生きることに貪欲であり、なおかつ、家族を思う強烈さを維持できていた筈なのだ。
日本の場合、戦後の復興期、いくつかの「街」はいわゆるガード下に生まれた。
神戸もしかり、鶴橋もしかりである。
いまでもそこに訪れて丹念に街歩きをすれば、その事が判る。
街の遺伝子みたいなものだ。
過去そこで展開された「経済」は、貨幣が介在するものの、基本的には物々交換であり、抽象の極みの「株取引」のようなものはなかった。
「目に見える」物が総てだったのだ。
人の息吹がある生々しいエネルギーは、いつも、そんな場所に発生していたのではないだろうか?
(今、それを肌感覚で伝えられる日本の小説と言えば阿佐田哲也氏の麻雀放浪記くらいか、、)
別に近代経済を否定してるわけではない、要はその根っ子の話だ。
「欲」という存在が一人歩きする必要はない、「欲」は人の中にあってこそ「欲」だ、、とアンは思う。
鶴橋商店街は、焼き肉やチジミ・キムチばかりが有名だけど、偽ブランド品が置いてあったり、目が覚める色彩配置のチョゴリがあったりと面白い。
それとキムチとかチヂミとかの味、これは何故、味が一段違うのか、未だにその秘密が判らない(笑)。
商店街付近の焼き肉店の数々、これも有名。
そして評判だけじゃなく、実際に美味しいのが、「焼き肉」だ。
服に匂いが付かない設備のあるお店が少ないのが、玉に瑕だけど、そういう発想こそ、上にブチブチと書いた諸々の近代経済の課題の一つかも知れない(笑)。
焼き肉を七輪で食べさせるお店が有名だ。
脂が大量に出る肉を、自然火力の七輪で焼くのは超合理的、で匂い移りを防ぐ為にある荷物を入れるビニール袋とか、果ては水中眼鏡からコートの貸し出しまであって、、、そういうのがバイタリティなのかな。
そういう展開力がなくて、直ぐにローターだとか、極端に走ると「匂いの出ない焼き肉」みたいな開発をするから、日本は世界市場の中、家電で負け続けるのかなと思ったりする。
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