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【 旅と温泉グルメ しゃぶれどもしゃぶれども(番外編) 】
03: 忘れじの香港 A Queer Story
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アンが今のお仕事を始めた若い頃に、初めて行った海外旅行が香港です。
とこがこの旅行、何だか記憶障害になったかのように、ポッカリ思い出が抜け落ちているんですね。
半分、ワケありの旅行だったからかも知れませんが。
飲茶を食べたり、夜、船上レストランに行ったり、山の上にある公園(ビクトリアピーク?)から湾を覗き下ろしたり、映画のワンシーンみたいに香港の人々が朝のラジオ体操みたく太極拳をやっている姿を見たというのを断片的に憶えているのですけど、後は総て霧の中という、、ちょっと不思議な忘却ぶりなんです。
断片の中で一番はっきり憶えているのは、走る送迎ボートの上で現地ガイドさんに上手く乗せられて個人両替をさせられたという事、結果、法外なレート換算でそれをやられたのか、そこそこだったのか、そこはよく憶えていないんだけど、「あーこれはのせられてるな」って感覚だけは、異様にはっきり憶えていて、それも逆に不思議なんですよね。
要するに総てが夢の中の出来事のよう。
なのにビクトリアピークらしき場所では、薄く霧が発生してて、薄ら寒かったのを覚えているという?
多分、コース的には「ショッピングとグルメ」が中心だったように思うんですけどね。
おしゃれなSOHO地区でのショッピングや、飲茶グルメ、マッサージに市場と、詰め込みすぎだったような気もしますが?
行ってるのは、その時撮って貰った古い写真(化粧下手、男の身体、未高須クリニック、若さだけ)が残っているので、いくら「夢見るアン」でも勘違いっていう事はないんだけど、、もしかして何かトラブルでもあって、主要な記憶が抹殺されているのかしらん(笑)。
確かに色々な事があった時期だったけれど、、。
って事で、今回は資料も記録も何も残っていないので、文章の方は、この旅行前後に、自分の気分を盛り上げる意味もあって、旅行ガイドブック代わりにビデオを漁って見てた香港映画の事をご紹介しておきます。
その時、鑑賞してた作品を簡単にリストアップすると、チェン・カイコー監督の「さらば、わが愛 覇王別姫」、ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」「恋する惑星」「天使の涙」とか、なんだか、それ系ばっかりですね(笑)。
この辺りの作品は、ビッグネームばかりなので、今更アン如きが、感想をかいても面白くないでしょうから、今回は「こんなんでましたけど」の香港映画を取り上げてみたいと思います。
映画のタイトルは『BE MY BOY』。
今これをネットで検索すると、アイドルマスターの『BE MY BOY』がずらーっと並び、スペースを入れて「映画」と打たないと映画の『BE MY BOY』は出てきません(笑)。
でも『BE MY BOY』の原題は、「A Queer Story」で、映画の内容そのまんまですから、『BE MY BOY』名前カブりの方は時代を超えた日本人のネーミングセンスのバッティングってことなのでしょうか。
あらすじ
ゲイのカップル、サニーとローは、愛し合いながらも、お互いのゲイとしての自覚の差に悩んだり周囲の無理解と戦う日々を送っていた。
そんな折り、ローの幼なじみの女性ライがカナダから戻ってきて、彼女はローがゲイと気づきながらも彼を黙って見守っていた。
何事にも開放的なサニーと違って、ローは自分がゲイであるプレッシャーに耐えられない。
ある日、エイズで亡くなった友人をめぐり、サニーとローは大喧嘩をする。
ローはカナダへ帰国するライに結婚を申し込む。
こうして別れを迎えたサニーとローだが、これは二人の関係が新たに始まるきっかけだった。
今でこそNHKドラマなどで、意識高い系ドラマ枠みたいな部分でLGBTを扱ったものがあったりするんですが、意外と日本の場合、メジャーでは、中々この分野は取り上げられないんですよね。
「おっさんずラブ」とか、あれはちょっと違う気がするし。
正面切ってやると、商業的なヒットが見込めないから作られないのか、人権後進国だからなのか?
でもこの映画が香港で製作されたのは、かれこれ30年前なんですよ。
保守的な中華圏にあっても、イギリスの統治下で自由な思想を育んで来た香港ならではの作品とはいうものの、日本だって、それなりの近代国家の筈なんだけど。
サニー役の陳小春みたいな役者さんがいるかという事と同時に、映画自身の時代に対する「真摯さ」とか「誠実さ」とかいう点で私たちの国はどうなのかと、、。
この映画で、ローが偽りの(寂しさ故の)結婚を決意した次のシーンで、いきなり「孝」という一文字の大アップが出て来ます。
おそらく当時の香港のゲイシーンは、まだ、そういった「孝」に表される旧の概念や枠組みと拮抗しながらあったんだろうと想像しています。
一方日本では薄汚れた「世間体」はあるけれど、良くも悪くも身体を張らなければ崩せないような「一般的倫理」、あるいは「孝」は、既に崩壊しているように思うんですよね。
だから拳で頭をぶん殴られるような差別はないと、言えばない。
息を殺して生きようと思えば生きられるみたいな。
故に、ある意味(反面的にということだけれど)、こういったテーマを扱う香港映画の表現には「真摯さ」とかが、まだ失われずにあるんだろうと思うんです。
反差別の対抗軸が違うと言うのかな、、。
日本の場合は、差別して来る者の姿が見えにくい。
だから反差別の運動から何かを勝ち取って、その結果の積み上げが、世の中を確実に変化させて行っているという手応えが凄く掴みにくい。
『一見それらしい体裁は整えるくせに、実は何も分かってないじゃん。』みたいな。
というか、凄く大きなヘイトに乗っかった揺り返しさえある。
そんな事を考えていたら、「この国には全てのものがあるけれど『希望』だけがない。」という村上龍氏の名文句を思い出しましたよ。
今は「足りないもの」が随分増えてきてますけど、基本的には村上龍氏の指摘は今も当たっていると思いますね。
まあこの辺りは書いていくと、きりがないのでこの辺りで置いておきます。
代わりに、当時のアンが書いていた映画レビューを、恥ずかしいですが、そのまま乗せておきます。
(やっぱり昔から、それなりに上から目線で尖ってたんだなぁ、、ヤな奴w)
ビー・マイ・ボーイ
監督・脚本: シュウ・ケイ
時々、私はこのコーナーを読んでいてくれる筈の「あなた」の事を考えます。
「あなた」はゲイ・ホモセクシュアルに対して偏見のない人だろうかと?
私の表現の対象のラインは、下限を「頭では理解できていても身体が拒否反応を起こす」程度に設定してある。
そう、よくみかけるでしょう。サイトのオープニングページに「ここはこういう世界だから興味のない人はおかえんなさい」という前置き。
だからこういったゲイムービーを紹介する時には、私はあなたが、「偏見を持たないマイノリティの立場に理解が示せる人」である事を前提として感想をかいているんです。
やけに「前置きが長い」って?
そう、この映画はこの「前置き」を日常的な視点で考えさせてくれる映画なんです。
自分がゲイであることを秘密にしたまま46歳になってしまったロー(ジョージ・ラム)と、明るくゲイであることを隠そうとしない美容師のサニー(陳小春)の二人の恋人達を軸に、彼らの周辺で起こる「結婚・葬式・卒業式」と言った人生のエポックを映画は描き込んでいきます。
映画の冒頭で若いサニーは、ローと自分との世界観の違いをこう独白します。
「ローは自分がゲイである事を悩んでいるみたいだけど、私からいわせば何の問題もないのよね。男を愛するか女を愛するかは、スポーツでホッケーかゴルフのどちらかを選ぶのかと一緒。どちらが少数派かってことだけ。」
このサニーの生き方のアンチテーゼみたいな形で、映画は「旦那の浮気相手が男と知って、どうどう敵地に乗り込んだものの、当の浮気相手の男と顔を会わせてショックのあまりゲロを吐く女房のシーン」を描いてみたり、様々な状況を我々に見せてくる訳です。
サニーとローが喧嘩別れをしてしまう原因となった、ゲイの著名人カップルの死別のエピソードは、恐ろしく現実味のある話で、このカップルの周囲の人間達が「承知と対処では別だ。」と漏らした言葉は、現在の日本でもそこら中で囁かれている言葉ではないかと思います。
映画では、葬儀に参列するなと親族に釘をさされたK.K(呉鎮宇)がサングラスを掛けキムの葬儀場の前で佇む姿が秀逸でしたが、、これが現実なら「秀逸」等とはいっておれないでしょう。
この映画『BE MY BOY』は同じ香港映画という事もあって「ブエノスアイレス」とよく比較されるそうですが、映画として志向する所が違いすぎるので難しい所です。
しかし問題提起力というか、ジェンダーの課題に関する我々への訴求力は『BE MY BOY』が遙かに上です。
『BE MY BOY』には「肉弾戦」が描かれていない(暗示するものがあるけれど)だからそちらの部分がライトになって「言葉」や「意味」の部分が強くなるんでしょうね。
それは賢明な方法だと思うけれど、生のSEXの部分も、もう少し織り交ぜておいて欲しかったと思います。
ジェンダーの問題は、決して社会や政治だけの事ではなく「肉欲」の側面もあるんだから、、。
(でも肉欲ってちょっと引いて見ると、滑稽な行為なんだよね。ハマっているときは宇宙も見えたりするけど、)
あと、サニーの「アーロン・クォック。あのひと生白くって嫌い」」という台詞には笑いました。それに全編リアル香港の生活がよくでてるし(国内ロケしてるのに「ここは何処」ってロケーションを必死になって探している映画もあるよね。)映画としてのおまけも沢山あります。
『BE MY BOY』は、見終わった人に「言いたいことが一杯ある」って気分にさせてくれる映画だけど、私の場合一番心に残ったのは、ローをゲイではないかと思いながらも彼を想い続ける幼馴染みの女性ライ(クリスティーヌ・ン)が、ローとの結婚を破棄してくれるシーン。
二人の最後のキスシーンは思わず泣きそうになりました。
頼りない子どもみたいなローの「感謝」のキスと、成熟した大人の女性としてのライの「哀惜」のキス。
このキスの切なさは、ローが自分の父親にカミングアウトした後、一旦は決別したかのように別れた彼の父親が再び彼の元に引き返して来るシーンと同じ感情を抱かせてくれます。
結局はすべての事柄が、これらの「人が人に寄せる情」に戻ってくるのではないのかと思うんです。、、私って甘ちゃんかなぁ。
とこがこの旅行、何だか記憶障害になったかのように、ポッカリ思い出が抜け落ちているんですね。
半分、ワケありの旅行だったからかも知れませんが。
飲茶を食べたり、夜、船上レストランに行ったり、山の上にある公園(ビクトリアピーク?)から湾を覗き下ろしたり、映画のワンシーンみたいに香港の人々が朝のラジオ体操みたく太極拳をやっている姿を見たというのを断片的に憶えているのですけど、後は総て霧の中という、、ちょっと不思議な忘却ぶりなんです。
断片の中で一番はっきり憶えているのは、走る送迎ボートの上で現地ガイドさんに上手く乗せられて個人両替をさせられたという事、結果、法外なレート換算でそれをやられたのか、そこそこだったのか、そこはよく憶えていないんだけど、「あーこれはのせられてるな」って感覚だけは、異様にはっきり憶えていて、それも逆に不思議なんですよね。
要するに総てが夢の中の出来事のよう。
なのにビクトリアピークらしき場所では、薄く霧が発生してて、薄ら寒かったのを覚えているという?
多分、コース的には「ショッピングとグルメ」が中心だったように思うんですけどね。
おしゃれなSOHO地区でのショッピングや、飲茶グルメ、マッサージに市場と、詰め込みすぎだったような気もしますが?
行ってるのは、その時撮って貰った古い写真(化粧下手、男の身体、未高須クリニック、若さだけ)が残っているので、いくら「夢見るアン」でも勘違いっていう事はないんだけど、、もしかして何かトラブルでもあって、主要な記憶が抹殺されているのかしらん(笑)。
確かに色々な事があった時期だったけれど、、。
って事で、今回は資料も記録も何も残っていないので、文章の方は、この旅行前後に、自分の気分を盛り上げる意味もあって、旅行ガイドブック代わりにビデオを漁って見てた香港映画の事をご紹介しておきます。
その時、鑑賞してた作品を簡単にリストアップすると、チェン・カイコー監督の「さらば、わが愛 覇王別姫」、ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」「恋する惑星」「天使の涙」とか、なんだか、それ系ばっかりですね(笑)。
この辺りの作品は、ビッグネームばかりなので、今更アン如きが、感想をかいても面白くないでしょうから、今回は「こんなんでましたけど」の香港映画を取り上げてみたいと思います。
映画のタイトルは『BE MY BOY』。
今これをネットで検索すると、アイドルマスターの『BE MY BOY』がずらーっと並び、スペースを入れて「映画」と打たないと映画の『BE MY BOY』は出てきません(笑)。
でも『BE MY BOY』の原題は、「A Queer Story」で、映画の内容そのまんまですから、『BE MY BOY』名前カブりの方は時代を超えた日本人のネーミングセンスのバッティングってことなのでしょうか。
あらすじ
ゲイのカップル、サニーとローは、愛し合いながらも、お互いのゲイとしての自覚の差に悩んだり周囲の無理解と戦う日々を送っていた。
そんな折り、ローの幼なじみの女性ライがカナダから戻ってきて、彼女はローがゲイと気づきながらも彼を黙って見守っていた。
何事にも開放的なサニーと違って、ローは自分がゲイであるプレッシャーに耐えられない。
ある日、エイズで亡くなった友人をめぐり、サニーとローは大喧嘩をする。
ローはカナダへ帰国するライに結婚を申し込む。
こうして別れを迎えたサニーとローだが、これは二人の関係が新たに始まるきっかけだった。
今でこそNHKドラマなどで、意識高い系ドラマ枠みたいな部分でLGBTを扱ったものがあったりするんですが、意外と日本の場合、メジャーでは、中々この分野は取り上げられないんですよね。
「おっさんずラブ」とか、あれはちょっと違う気がするし。
正面切ってやると、商業的なヒットが見込めないから作られないのか、人権後進国だからなのか?
でもこの映画が香港で製作されたのは、かれこれ30年前なんですよ。
保守的な中華圏にあっても、イギリスの統治下で自由な思想を育んで来た香港ならではの作品とはいうものの、日本だって、それなりの近代国家の筈なんだけど。
サニー役の陳小春みたいな役者さんがいるかという事と同時に、映画自身の時代に対する「真摯さ」とか「誠実さ」とかいう点で私たちの国はどうなのかと、、。
この映画で、ローが偽りの(寂しさ故の)結婚を決意した次のシーンで、いきなり「孝」という一文字の大アップが出て来ます。
おそらく当時の香港のゲイシーンは、まだ、そういった「孝」に表される旧の概念や枠組みと拮抗しながらあったんだろうと想像しています。
一方日本では薄汚れた「世間体」はあるけれど、良くも悪くも身体を張らなければ崩せないような「一般的倫理」、あるいは「孝」は、既に崩壊しているように思うんですよね。
だから拳で頭をぶん殴られるような差別はないと、言えばない。
息を殺して生きようと思えば生きられるみたいな。
故に、ある意味(反面的にということだけれど)、こういったテーマを扱う香港映画の表現には「真摯さ」とかが、まだ失われずにあるんだろうと思うんです。
反差別の対抗軸が違うと言うのかな、、。
日本の場合は、差別して来る者の姿が見えにくい。
だから反差別の運動から何かを勝ち取って、その結果の積み上げが、世の中を確実に変化させて行っているという手応えが凄く掴みにくい。
『一見それらしい体裁は整えるくせに、実は何も分かってないじゃん。』みたいな。
というか、凄く大きなヘイトに乗っかった揺り返しさえある。
そんな事を考えていたら、「この国には全てのものがあるけれど『希望』だけがない。」という村上龍氏の名文句を思い出しましたよ。
今は「足りないもの」が随分増えてきてますけど、基本的には村上龍氏の指摘は今も当たっていると思いますね。
まあこの辺りは書いていくと、きりがないのでこの辺りで置いておきます。
代わりに、当時のアンが書いていた映画レビューを、恥ずかしいですが、そのまま乗せておきます。
(やっぱり昔から、それなりに上から目線で尖ってたんだなぁ、、ヤな奴w)
ビー・マイ・ボーイ
監督・脚本: シュウ・ケイ
時々、私はこのコーナーを読んでいてくれる筈の「あなた」の事を考えます。
「あなた」はゲイ・ホモセクシュアルに対して偏見のない人だろうかと?
私の表現の対象のラインは、下限を「頭では理解できていても身体が拒否反応を起こす」程度に設定してある。
そう、よくみかけるでしょう。サイトのオープニングページに「ここはこういう世界だから興味のない人はおかえんなさい」という前置き。
だからこういったゲイムービーを紹介する時には、私はあなたが、「偏見を持たないマイノリティの立場に理解が示せる人」である事を前提として感想をかいているんです。
やけに「前置きが長い」って?
そう、この映画はこの「前置き」を日常的な視点で考えさせてくれる映画なんです。
自分がゲイであることを秘密にしたまま46歳になってしまったロー(ジョージ・ラム)と、明るくゲイであることを隠そうとしない美容師のサニー(陳小春)の二人の恋人達を軸に、彼らの周辺で起こる「結婚・葬式・卒業式」と言った人生のエポックを映画は描き込んでいきます。
映画の冒頭で若いサニーは、ローと自分との世界観の違いをこう独白します。
「ローは自分がゲイである事を悩んでいるみたいだけど、私からいわせば何の問題もないのよね。男を愛するか女を愛するかは、スポーツでホッケーかゴルフのどちらかを選ぶのかと一緒。どちらが少数派かってことだけ。」
このサニーの生き方のアンチテーゼみたいな形で、映画は「旦那の浮気相手が男と知って、どうどう敵地に乗り込んだものの、当の浮気相手の男と顔を会わせてショックのあまりゲロを吐く女房のシーン」を描いてみたり、様々な状況を我々に見せてくる訳です。
サニーとローが喧嘩別れをしてしまう原因となった、ゲイの著名人カップルの死別のエピソードは、恐ろしく現実味のある話で、このカップルの周囲の人間達が「承知と対処では別だ。」と漏らした言葉は、現在の日本でもそこら中で囁かれている言葉ではないかと思います。
映画では、葬儀に参列するなと親族に釘をさされたK.K(呉鎮宇)がサングラスを掛けキムの葬儀場の前で佇む姿が秀逸でしたが、、これが現実なら「秀逸」等とはいっておれないでしょう。
この映画『BE MY BOY』は同じ香港映画という事もあって「ブエノスアイレス」とよく比較されるそうですが、映画として志向する所が違いすぎるので難しい所です。
しかし問題提起力というか、ジェンダーの課題に関する我々への訴求力は『BE MY BOY』が遙かに上です。
『BE MY BOY』には「肉弾戦」が描かれていない(暗示するものがあるけれど)だからそちらの部分がライトになって「言葉」や「意味」の部分が強くなるんでしょうね。
それは賢明な方法だと思うけれど、生のSEXの部分も、もう少し織り交ぜておいて欲しかったと思います。
ジェンダーの問題は、決して社会や政治だけの事ではなく「肉欲」の側面もあるんだから、、。
(でも肉欲ってちょっと引いて見ると、滑稽な行為なんだよね。ハマっているときは宇宙も見えたりするけど、)
あと、サニーの「アーロン・クォック。あのひと生白くって嫌い」」という台詞には笑いました。それに全編リアル香港の生活がよくでてるし(国内ロケしてるのに「ここは何処」ってロケーションを必死になって探している映画もあるよね。)映画としてのおまけも沢山あります。
『BE MY BOY』は、見終わった人に「言いたいことが一杯ある」って気分にさせてくれる映画だけど、私の場合一番心に残ったのは、ローをゲイではないかと思いながらも彼を想い続ける幼馴染みの女性ライ(クリスティーヌ・ン)が、ローとの結婚を破棄してくれるシーン。
二人の最後のキスシーンは思わず泣きそうになりました。
頼りない子どもみたいなローの「感謝」のキスと、成熟した大人の女性としてのライの「哀惜」のキス。
このキスの切なさは、ローが自分の父親にカミングアウトした後、一旦は決別したかのように別れた彼の父親が再び彼の元に引き返して来るシーンと同じ感情を抱かせてくれます。
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