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第1章 ホムンクルス刑事と人造精霊

06: 娼婦館ライジングサン

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 三人目の娼婦と話す頃には、漆黒にも、おおよそこの世界の仕組みというものが見え始めてきた。
 ここには、漆黒の生きてきたウエストアンダーワールドより、少しは秩序らしきものがある。
 ライジングサンは、売春館であると同時に、違法処置者などの避難場所でもあるようだった。
 その事から来る張果の悩みどころは、事故や病気の治療目的以外に施術された過度なバイオアップ処置者や関係者は、法律によって厳しく罰せられるということだった。
 ライジングサンの従業員達は、ほぼ全員、それに該当する。

 この社会の罰則の種類や軽重には様々なものがあるが、最も厳しい処遇の中に、『全てのID情報の抹殺・剥奪』があった。
 この時代にあってID情報を根こそぎ抹消される事は、その人間の社会的生存権を奪われることと等しくなる。
 電気・ガス・水道といった最低限の公共サービスも、IDを対象に行われるから、人との接触のない孤絶したサバイバル生活がID喪失者に可能なら話は別だが、ID喪失は物理的な生存権も奪う事にもなるのだ。

「自ら人間である事を放棄した存在に人権は必要とされない。」というのが、この刑罰を成立させる基本原理だ。
 現在、この基本原理に意義を唱える者はいない。
 理想主義者や人権擁護に立つ人間が、この世界からまったくいなくなった訳ではない。

 この時代では、スピリットに限らず、外見上人間と寸分違わぬ生命体、つまり亜人類が製造可能であり、同時に人間の外観は自身の嗜好によって自由に変えられるまでに至っている。
 人々には、自らのアイデンティティを生物学的に確立する為の「線引き」が必要になっていたのだ。
 それがIDだった。
 もちろん漆黒のようなクローン人間も、人間とは認められず亜人類の範疇に入る。
 準亜人類といったところか。

 今世紀最大の倫理上の課題は、人工生命・人工知性勢力の台頭が充分に考えられる社会背景の中で「なにをもって人間とするか?」だった。
 哲学的にも宗教的にも、この問題の答えは出ていない。
 ただ一つだけ明確な対処方法があった。

「人間として生まれた者は、最後まで人間として留まり、その他の存在として生まれた者は、その世界に留まらなければならない。いかなる理由があろうとも、その境界を越える事はあってはならない。」という鉄の規範である。
 その為のIDだった。

 しかし、ID抹消は社会から逃亡を望む者にとっては、逆に福音となる場合もある。
 「罪と罰」のアンバランスや複雑さは、この「境目問題」が生まれる前から世界には星の数ほど存在するのだ。
 ある種の犯罪者たちは、原型をとどめぬまでのバイオアップを己に施す。
 そうなれば誰もその人間を、見た目上で、誰と特定する事は出来ない。
 ただし定期的に行われるIDの更新交付は、本人が正式な手続きをとらない限り出来ないことになっている。
 つまりその時点で、その人物のIDは抹消されるのだ。

 しかしそこからの問題は、彼らを受け入れる先の世界さえあれば解決する。
 例えばライジングサンのような娼館がそれに当たる。
 警察機構がこれほどまでに弱体化した原因の一つには、バイオアップ処置技術の発展と民間への普及があったと言われているのは、そのような犯罪の隠匿構造が含まれていたからだ。

 IDを持たない野良クローン人間である漆黒は、自分自身が警察機構の一歯車となる事を自ら政府に宣誓して、仮准IDを取得している。
 正規登録のクローン人間は、彼らの身元を保証する人間のIDに紐付けされた准IDを与えられるが、准IDと正式IDに見た目上の差異はなく、多くのクローン人間たちは、死ぬまで自分がクローンであることを知らない場合が多い。
 又、そうでなければクローン人間を生み出す理由もないのだ。
 不慮の事故で死んだ人間をクローンで再生する。
 本人は自分が誰の身代わりであるか等と、自覚する必要は全くないのだ。



『で?あんたの場合は、前世で何をやらかしたんだい?』
 もちろん前世とは、IDを剥奪される前の人間の人生を指している。
 思わずそう口にしたくなるのをぐっと堪えて漆黒は、相手の異常にキュートな顔だちを見つめ続けていた。
 漆黒は「俺はこいつを愛している」と思いこむと、自分の視線に刑事ではない別の蠱惑的な力が宿ることを知っていた。
 原体である漆黒賢治は、この視線の力で、何度も女や男との関係を成立させている。

 彼女の名前に意味があるなら、彼女の名前は「MM」。
 金髪でほうれい線近くに「ホクロ」がある。
 『男性と平等でありたいと求めるような女性は、野心が足りていないのよ。』などと、その唇で囁けばサマになりそうだった。
 大昔、そのエロチックさで一世を風靡した女優そっくりの顔とボディを持った処置者は、自分の思い出話から、いよいよ自分とジェシカ・ラビィとの繋がりに、話を移行し始めたばかりだった。

 漆黒は、彼らの前でなんと「張果の甥っ子」と紹介されていた。
 この甥っ子は、ゆくゆくは伯父の商売の本格的な手伝いをする予定であり、現在はその見習い期間なのだと紹介されていたのだ。
 で今は、その叔父から従業員殺しの犯人捜しを頼まれているという設定だった。
 もちろん、探し当てた後は張果ファミリーとして「落とし前をつける」、そういうことだった。
 この裏世界での男の渾名は、ジェット、ジェットブラック、「漆黒」から取ったものだ。

 ウエストアンダーワールドで、漆黒は子どもの頃、ジェットではなく、ブラックパールと呼ばれていた。
 少年漆黒の輝くような可愛らしさが人目を惹いたからだ。
 少し後は、それに悪魔がついて「悪魔の黒真珠」、、。
 漆黒にとって、このジェットの響きは、まんざらでもなかったが、『噴射のJETではなく黒光りするJetBlackの方だ』と、一々、説明するのは面倒に思えた。

 名前はともかく、漆黒は始めこの設定に違和感を持っていたのだが、今は張果に先見の明があったと感じ始めている。
 警官という身分を明かしてでは、いくら弱体化しているとは言え、過去を引きずる処置者相手に尋問形式で聞き出せる内容には、限界が多々あったに違いない。

「とにかく、ジェット。人間は、過去の自分がどんなだったかよりも、今の姿の方が心に及ぼす影響が大きいんだって事を覚えておく事ね。勿論、お客の中には、私たちの過去と今の姿の落差を楽しむ人もいるけど、、。ねぇ、ジェット?あんたならそんなお客に、私をどんな風に紹介する?」
 エロチックな大女優は、ジェットに対して面倒見の良い姉御を気取っているようだった。

「俺なら、こう言うね。、、お客さん、この子は今こんな風に見えるけれるけど、2年ほど前には筋骨隆々の大男だったんですよ。ついでに言っちゃえば、人を五人ほど殺している。あんた幸せ者だ。そんな男を自分の下に組み敷いてやっちゃえるんだから。」
 「MM」の目が奇妙に煌めいた。
 漆黒はそれを不思議に感じた。
 その煌めきは、漆黒が見てきた数多くの人間たち、それは主に犯罪者だったが、彼らには決してなかったものだ。
 だが目の前のこの女の前世が、犯罪者以外のものであるはずがなかった。
 しかし完全な虚無や泥沼には、こんな煌めきは宿らない。

 ・・・こいつらは一度墜ちて、再び何かにすがって、この世に這い上がって来たんだ。
 この煌めきは、その『何か』のエネルギーの残滓に違いなかった。
 勿論それは、普通の人間にとっては、直ぐに忘れ去るガラクタに等しいモノ、例えば痩せた男がマッチョマンになりたい等の、ものごとへの異様な迄の執着に過ぎないのだろうが、、、。
 そしてその、捨てられない「ガラクタ」は、人によって違うのだろうと、漆黒は思った。
 昔からその手のジョークがある、「健康の為には、死んでもいい」といった類のものだ。
 時々、人は他人から見れば取るに足りない事に命をかける事もあるものだ。




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