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第1章 望郷
02: 祈願山稲荷
しおりを挟むその日、僕はあまり学校に行きたくなかった。
夏休みの登校日なんて、なんであるんだろう?
それに島の外から来た転校生が言うには、お盆のまっただ中に、登校日があったり、先生の替わりに島から出ていった若い衆が教室に来るなんて、都会じゃ考えられない、とっても変な事らしい。
母ちゃんにその事を聞くと「盆ったって、わたしらは、出ってた方を迎え入れるんだし、どこへも行かんしょ。勇は、このまま島がじっちゃんや、ばっちゃんばっかになっていいんか?島の偉れぇ人は、出てった若い衆を引き戻すのに必死なんよ。ちっせぇ頃に育った学校で一日せんせえしたら、心が懐かしさで島につながるきにね。それに最近じゃ、普通の観光客も随分、一日せんせえに、なりたがっとるようだよ。」
その転校生は、観光客まで巻き込んで、そんなのをするのは無茶苦茶だって怒ってたけど、僕は若い衆が、にこにこ顔で一日先生をしながら、島の外の話をしてくれるのは嫌いじゃなかった。
でも夏休みが減るのは、とてもいやだ。
それに登校日は、今日一日なんだけど、明日も学校で村の集まりがあって、これには子どもも参加しなくちゃならない。
やってる内容は一緒なんだけど、若い衆の一日先生が、今日だけでは足りないし、ついでに同窓会みたいな事を村を上げてやってしまうみたいだった。
これを言い出したのは、島で外に出なかった数少ない若い衆の内の一人、鶴丸本家の健太郎さんらしい。
去年この集まりに出た転校生の顔が不満の固まりで、夜店で売っているアンパンマンみたいになっていたのを覚えている。
たぶん親に無理矢理、参加させれていたのだろう。
僕だって、その気持ちはよくわかる。
自由に出来る夏休みは、一日でも多い方が良い。
でも一旦、学校に来てしまうと楽しい。
若い衆の一日先生の話も面白かった。
そしてその日は、もう一つ、楽しい事があった。
それは僕が友達と別れて、家に帰る途中、あのお姉さんに又、会えた事だ。
お姉さんは岩魚川のほとりの木陰に座り込みながら、誰かを待っているようだった。
声をかけてくれたのは、お姉さんの方だった。
「昨日は自転車ありがとね。今日の一日先生、面白かった?」
僕たちは並んで座って川を眺めた。
最近、雨が降らないので、岩魚川は所々岩が突き出しているけど、水自体の流れは相変わらず早い。
真夏の川の煌めきは、眩しすぎて、見つめていられない程だ。
「うん。」
「勇太も島を出たい?」
「うん。」
「どうして?」
「なんだか、良いことがありそうだから。」
「さあ、それはどうだろね。」
「でも今日の一日先生の都会の話は、みんな面白かったよ。」
「そう言うのよ。勇太たちの前で、苦しい事、話したって仕方ないもの。」
「お姉さんは、島の人?」
僕が一番聞きたかった事を聞いた。
「さあ、どうだろ?」
お姉さんは川の遠くを見た。
とっても綺麗な横顔で、まるでテレビタレントみたいだった。
「待ったかい。」
何時の間にか、僕らの後ろに、鶴丸本家の健太郎さんが立っていた。
盆の祭りの時に、花火が上がり出したのは、最近の事なんだという。
昔は藁束で作った大きな船を、盆送りの最後の日に火を付けて沖に送り返してやるだけだったらしい。
でもそれだけじゃ、最近増え始めた観光客が寂しがるだろうと、花火も含めて年々派手になってきたんだという。
僕ら子ども達は、この花火大会の時には、祈願山稲荷の境内が特等席だというのを知っていた。
けれど最近じゃ、観光客目当てに、祭りに香具師が大勢やってきて、年々派手になる夜店の誘惑に皆が負けるのか、寂れた祈願山には、誰も来なくなっていた。
その日、僕がたまたま山に登ったのは、いつも一緒に遊んでいる親友の勘君が、夏風邪で寝込んでいたからだ。
それにお小遣いを、好きなCDを買うのに使ってしまっていたから、お祭りに行ったって、なにも良いことがなかったのだ。
ウチの家には、誰も帰ってこないから、僕にお盆だからと言ってお小遣いをくれるような親戚もいないし、勿論、母ちゃんは、余分な小遣いをくれない。
花火の光の玉が、僕のほぼ目の前で膨らんではしぼんでいく。
夜風に乗って、割れたスピーカから流れ出しているシャンシャ節が、ここまで伝わってくる。
それにかすかに、イカの焼いたのや、トウモロコシの焼いた匂いがした。
そんな夜風の中に、獣が低く呻くような笑うような音が混じっているのを発見したのは、僕が見晴らしに座り込んで、しばらくたってからだった。
耳を澄ますと、その音は僕の後ろ、つまりお稲荷さんの境内から聞こえてくるのが判った。
僕はおそるおそる境内の方に歩いていった。
境内には裸電球が三つしかない。
祈願山のお稲荷さんは、歴史が浅いから御利益がないのだそうだ。
だから境内もそれに見合ってみすぼらしい。
ご本尊が祭ってある祠の裏の背の高い草むらから、その奇妙な声が聞こえていた。
僕はかがみ込んで、葉っぱの隙間からそっとその声の主を捜した。
闇の中で、ぼぅと浮かんでいるものが見えて、僕は最初、それが白い狐の尻尾かと思った。
狐は一匹じゃないみたいで、その白いしっぽには、細いのや太いのがあって、ゆらゆらと揺れたり跳ね上がったりしていた。
呻くような、笑うような声は、その中心から聞こえてくる。
僕は白狐と赤狐が群れて、祭りの夜にじゃれ合って遊んでいる姿を想像した。
沢山のしっぽの中には、赤茶けたしっぽもあったからだ。
でも目が慣れてくる頃には、それが一組の男女の身体だってことが判った。
何だか見てはいけないものを盗み見してるみたいで、胸がドキドキした。
その時、今まで横たわっていた影が、素早く起きあがってこちらを見た。
「誰?」
僕はビックリしてその場を逃げ出した。
その時、白地に島の真っ赤な花の模様を染め抜いた浴衣の前を会わせながら、こちらを睨んだ女の人の顔には、見覚えがあった。
それは昼間会った、あのお姉さんの顔だった。
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