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最終章 終焉、あるいは再生への道筋
77: 煙猿の思惑
しおりを挟む正午前、煙猿の姿が京都のオイスターバー・バルKYOTOにあった。
皿の上で滑りやすくなった牡蠣殻を左手で押さえ、煙猿はカキ専用のフォークを貝柱の下部分に差し込んだ。
優雅に貝柱を切り、レモン汁をかけて手に持った殻を直接唇に運び、ツルンとその中身を口の中に流し込む。
その様子を、隣席の有閑マダムらしき女性が恥じらいも忘れて、うっとりと見つめている。
この時の煙猿のスタイルは、ピッタリ身体にフィットした黒のデニム生地のパンツとGジャンで、到底、都内の有名オイスターバーにふさわしいものとは言えなかったが、それでも群を抜いてスタイリッシュだった。
その上、額の輪を隠すために、前髪を異様に長く下に下ろしているのに、それが洗練されたヘヤースタイルに見えるのだ。
この調子だと、黒と黄色の段だらチャンチャンコを羽織って、空色の短パンを穿き、足元を下駄で固めても格好良く見える筈だった。
海のミルクと言われる牡蠣を、煙猿が咀嚼する様を、有閑マダムは自分が食べられているような気になって紅潮した顔で見つめている。
当の煙猿は、そんな有閑マダムの事も、自分が食べている生牡蠣の味もほとんど気にしていない。
煙猿の味覚は、彼が今の身体を手に入れてから、ほとんど死にかけているし、食欲自体が起こらない。
それでも煙猿が、生牡蠣などを食べるのは、彼の身体が極端に亜鉛を欲しがるからだった。
煙猿は次の仕事の為に、拉致していた目川を自分のアジトに置いてきていた。
一応、目川を監禁している地下展示階の出入り口には、施錠はしてあったが、それは外からの侵入を防ぐためのもので、内部からは簡単に脱出は可能だったし、目川の身体には何の拘束もしていない。
監禁といっても、その実態は、いわばザルのようなものだった。
この状況の背景には、煙猿自らが目川に施した精神制御薬とセットにした深層催眠術への自信もあるが、何よりも煙猿自身が、目川の拉致や剥製化の仕事にあまり乗り気でなかった事がある。
それより、同じ十蔵からの依頼であっても、今やろうとしている仕事の方に、煙猿はより大きな魅力を感じていた。
裏十龍の壊滅を願う政治勢力の旗頭であるムラヤマの暗殺には、多額の報酬が用意されていた。
目川拉致の仕事は報酬が少なく、この仕事には十蔵からの依頼という側面以上に、煙猿の裏十龍の住人としての責務が7割以上含まれていた。
暴力団組織員とやり合う程、派手な仕事であるのに、その労力が報酬に繋がらない割の悪い義理仕事だった。
それに煙猿には、裏十龍に対する愛着が全くなかった。
今の煙猿には、裏十龍などという大仰なシェルターなど必要なかったからだ。
確かに今、自分が潜んでいる隠れ家も裏十龍が用意をしてくれたし、人体の加工や解体もそれなりのバックアップがないと、スムースには運ばない。
だが決して一人では出来ないという事はないし、今の煙猿はそれを一人でやれる積み重ねがあった。
裏十龍とは、ただそれが良い金蔓になるから関わっているだけの話だ。
が、今回の仕事は、それとは関係なく、十分な金額が手に入る。
依頼者が同じ十蔵であっても、目川のケースの場合は裏十龍を代表しての依頼であり、今回の依頼は十蔵個人のものだったからだ。
この辺りの事情は、複雑だった。
神代組傘下の蛇喰ファミリーの防御網を粉砕して目川を奪取する事は、目川を裏テンロンに潜り込ませて来た神代組に対する裏十龍の意志表示そのものになる。
いわば組織としての報復措置だ。
そして目川の剥製化は、十蔵の復讐心を満足させるおまけのようなものだった。
それに対して、今回、十蔵が依頼してきたムラヤマ会長の暗殺は、たとえその目的が、崩壊し始めている裏十龍の起死回生の為の秘策であるとしても、それはあくまで十蔵個人が企てたものであり、何よりもその事は当の十蔵自身が、煙猿を動かす際に、裏十龍の威光を頼らず、一般的な仕事の相場額を提示した事で証明されていた。
煙猿自身の状況分析では、裏テンロンが以前のように独立した裏の小世界として生き残る道は、既に失われている筈で、今回のムラヤマ会長暗殺という十蔵の動きは、焼け石に水の様な行為にしか思えず、実際それは、裏十龍の総意ではなかったようだった。
つまり今回の依頼は、裏十龍崩壊の引き金を引いてしまった十蔵個人の意地とメンツをかけた最後の悪あがきに過ぎないのだが、煙猿には報酬さえあれば、その背景はどうでも良いことだった。
煙猿個人の状況からすると、半島から仕入れている「薬」のストックが不足し始めており、半島の仕事を受けてその見返りとして「薬」を補充するか、自分の金で買い付けるか、そのどちらかを迫られていた時期の仕事として、今回のムラヤマ暗殺は、ありがたい仕事だった。
だからといって煙猿が常に「薬」で、半島に縛り付けられている訳ではない。
最初の頃は、半島の思惑もあって、そういう従属関係になりかけていたが、ある時期を境に、煙猿は完全に半島からのフリーハンドを確保することを可能にしていた。
日本国内で半島の工作を手伝うことで、逆に半島の弱みを握ることが多々発生し、煙猿にはそれを上手く利用する才覚があったのだ。
それ以上に重要だったのが、煙猿の「薬」に対する特異体質の発現だった。
半島が煙猿に投薬した薬の本質は、いわば「麻薬」にしか過ぎなく、それ故、半島は麻薬の習慣性や禁断症状を利用して、煙猿を完全に支配下における筈だったのだが、どうした事か、煙猿には薬を断っても、本来万人に起こるべき禁断症状が起こらなかったのだ。
どうやら煙猿の脳は、薬の供給を絶つと、自らが薬と同等の性質を持つ代替えの脳内麻薬物資を生成するように変質したらしい。
煙猿の脳が作り出す物質は、半島の薬のように煙猿の運動能力をブーストするほどの力はなかったが、少なくとも、煙猿は薬をたたれても禁断症状にのたうち回り苦しむことはなかったのだ。
それでも煙猿がいまだに「薬」を求めるのは、「薬」が与えてくる幻の万能感ではなく、実際に運動能力を加速し彼を超人化するその効果を手に入れるためだった。
半島の科学者達も、薬を使った自国の特殊兵たちの「有効期限」の短さに反する煙猿の特異性の秘密を知り、その特異体質を研究したがったが、効率優先の半島軍部は、金と薬の為なら平然と自国を裏切り続ける煙猿の「使いで」の方を取ったようだった。
莫大な研究費を投じて、煙猿を研究材料にするより、「有効期限」が短くても、使い捨ての効く兵力が既に国内に充分あるのだから「今のままで良い」という判断である。
さらに、煙猿は自分が国内で稼いだ自由になる金で、半島軍部の有力者の何人かを手なずける事にも成功していた。
つまり煙猿は、半島内で自由に薬を手に入れる事が出来る立場を、既に確保していたのである。
更に煙猿は、半島の仕事を減らし、国内の仕事の利益によってのみ薬を買い付ける事で、半島における彼の立場がより優位になる好循環を作り上げて行こうとしていた。
『この仕事の報酬で、薬を何グラム購入するか、、?』
薬を大量に買い付ければ、薬に枯渇していると思われ、こちらの足下を見る判断材料に使われるだろうし、かと言って、少量の購入では半島からの影響を下げる為にストックを増やすという目的が達成出来ない。
煙猿はそういった諸々の懸案事項を、ある人物を待つ間に、一人考えていた。
これから、人一人を殺すというのに、その事に付いては、何の緊張感も不安もない。
待ち人とは、煙猿が数日前に深層催眠を仕掛けておいたクラブアポロンの男娼・陰間純生だった。
その陰間が、クラブアポロンの建物のある街路の曲がり角で、煙猿の顔を認めたとき、煙猿は十蔵から得られる任務完了後の報酬の三分の二ほどを「薬」に注ぎ込むことを決めた。
もちろん、仕事はまだ終わっていないし、報酬も手にしていないが、煙猿には自分が仕事に失敗するのではないかという不安は、一切なかった。
煙猿は、そういう男なのである。
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