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第7章 The GORKと大女と透明な探偵

71: 大女との交渉

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 アーテック社にいる江夏由香里に、正式な面談を申し込む手間を俺は省いた。
 だからと言って、江夏を調査する為にアーテックの患者を装う気にも、一旦、透明になって彼女の居場所へ侵入するつもりにもなれなかった。

 俺は今までの探偵家業上の経験から、各事業所の安全管理に大変なばらつきがあることを知っていたからだ。
 俺の経験では、こういった医療関係の事業所は、中でも患者からの依存度の高い所では、自分たちへの訪問者に対しての緊張感というものがまったくなかった。
 それは警備に関する無関心と言うより、ここにやって来る多くの人々は自分達に助けを求めているのだという思い込み感覚が常に強く働いているからだろう。

 だから侵入の方法は実に簡単だ。
 自然に、さも当たり前のような顔をして、建物の中に入っていくだけでよいのだ。
 その際は決してビクビクしてはならない。
 もし他人と目があったら軽く会釈をする余裕を持つことだ。
 後は相手が勝手にこちらの身元を健全なものに勘違いしてくれる。

 アーテック社は、こじんまりしているので、隔離された江夏由香里専用の特別室がある訳でもなく、彼女がいる場所は直ぐに見つかった。
 そこで江夏由香里は、大柄な体を白衣に包み、作業台の上にある義手に屈み込んで、拡大鏡越しに、今は色素の定着期間にある義手の肌の色合いを確かめていた。

 「大女」という渾名は江夏の体格から来ている。
 だが特別、彼女の身体が人並み外れて大きいわけではない。
 確かに、多少は大柄ではあるが、彼女の身体から来る圧迫感は、もっと違うところから発生しているのだ。
 前に突き出た大きな乳房を始め、極端に括れた腰回りや長い脚など、江夏の日本人離れして西洋人じみたプロポーションは、見るものを、はにかませる異質性を持っていたが、それでも他人に彼女を「大女」と呼ばせる程のものではなかった。

 問題は、古い価値観が、根強く残る田舎に住んでいた江夏が、幼くして今のような体格を得てしまったという事にあったのだ。
 もし彼女が平均的な成長を示し、人間関係の密度が低い都市部に生まれていたなら、状況はガラリと変わっていたかも知れない。
 彼女の異例とも言える「早熟」が、周囲の子ども達の口汚い「大女」という渾名の命名と、いじめにとどまらない、もっと陰惨な数々の出来事を引き起こして来たのだが、、。
 その事について多くは語るまい、俺はあまり同情が得意ではないのだ。


 江夏は、そうとう作業に没頭していたようで、彼女の間際に近づくまで俺の存在に気づかなかったようだ。

「えっ、、?、今日は特別診察は入っていませんが、、それに此処は、たとえ患者さんでも入室禁止の筈、、、。」
 江夏は、吃驚するほど漫画チックな両端のとがった黒いファッション眼鏡を手術用ゴム手袋で覆われた人差し指で持ち上げながら、そう言った。
 固くて拒絶的な声だ。

 江夏は病院でも「診察」以外の場面では、普段からこんな声を出す。
 「診察」時でも、自分の心情を交えない事務的なトーンから、その声がはみ出すことは決してない。
 例外があるのは、相手を籠絡しようとする時だけだ。
 余りにその落差が大きいので、「丸い江夏」に声を掛けられた人間は、自分が江夏に好意を抱かれていると直ぐに勘違いしてしまう。

 だが俺から言わせると、本気で江夏が甘い声を出すのは、彼女の「ミニチュア」を愛玩する時と、ゴォークで遊んでいる時だけだ。
 江夏の眼鏡の黒いセルロイドの光沢と彼女の爪を覆ったアメ色のゴムの光沢のコントラストが印象的だった。
 彼女の言葉が最後まで続かなかったのは、俺という訪問者が患者ではなさそうだと気づいたからだ。

「あなた、どなた?」
 俺の顔が、透明素体の上にコンシーラで作った偽物でなければ、江夏は自分自身がゴォークに送り込んだ男の幽霊がそこにいるのが判った筈だが、この時の俺は中身さえも分裂した存在だったから、江夏にはますます俺が判らなかった筈だ。
 警察を呼びますよ、と続けなかったのは、俺の風体があまりにも犯罪の臭いからかけ離れていたせいだろう。
 彼女の感覚では、「一目で判る変人」は、気持ち悪い存在であっても、自分にとっては危険な存在ではないようだった。

 しかし自分が透明になって観察し続けた人間から、今初めて出会ったような顔をされるのは結構優越感を感じるものだ。
 しかも俺は、昔、彼女が受け持った患者だったのだ。
 この世界での「患者」としての俺の身体?
 この世界では、それは存在しないという可能性もあった。
 つまり俺という人間は、ずっと前に死んでいなくなっている可能性もあった、と言うか、俺は最近、ゴォークのルールは、一人の人間の分裂した同時存在を許さないのではないかと考え始めていたのだ。
 いくら世界が変容しても、辻褄だけは合うようになっているような気がしてならなかった。


「名乗る程の者ではありませんよ。それに俺とあなたの出会いはこれ一回にしたいですし、、その方がお互いの為だ。」
 江夏は無意識にゴム手袋をした指先で、作業台の上に置いてある義手の表面をなぞっている。
 それが彼女なりの緊張の緩和方法だったのかも知れない。

「話は簡単です。ゴォークを停止してください。あるいはゴォークを本来の医療目的で運用してください。」
 俺は単刀直入に切り出した。
 前置きなど必要ない。
 大女の表情を含め、彼女のすべてが凍り付く。
 江夏由香里の最も知られてはいけない秘密の一つが、まったく会ったこともない見知らぬ男に、それも唐突に暴露されたのだ。
 彼女の思考能力が停止するのも無理はなかった。

 もちろんこの出会いは、彼女には唐突な出来事であっても、俺にとっては周到な事前調査の末に成し遂げられたものだ。
 江夏由香里がこのアーテック社の特別顧問をしているのを突き止めるのに丸二日。
 更に、彼女の過去を調べ上げ、その実態を観察し、ある結論に達するまでに一週間かかった。
 江夏につけられた「大女」という妖怪じみた渾名を知っているのは、この大都会では俺一人だけだろう。

『日本から逃げ出すようなアメリカへの留学。ワイン貯蔵庫のある叔父の豪邸を含む、不自然な遺産相続。そして現在の仕事と慈善活動。』
 ・・・俺は江夏由香里について、いかに多くの情報を掴んでいるかを、彼女に示して見せた。
 大女の白衣のせり上がった胸の部分が大きく上下している。

 大きくて形のよい胸だ。
 だが俺の好みではない。
 俺は貧乳でもオーケーだ。

「ゴォークは別だが、何もあなたに、あのミニチュア作りを止めろと言ってるわけじゃない。そっちはいいんだ。俺は正義の味方をやりたいわけじゃない。それで、わかるだろう?あなたの悪事を暴くのが目的なら、ここにやって来ないで直接、警察に通報した方がいいんだ。」
 そう言ってから後悔した。
 俺が警察に通報しないのは、こちらも叩けば埃の出る身体だからだ。

 俺は大女のミニチュア作りが止められるものなら、止めたいと思っていた。
 あれは立派なというか、トンでもない犯罪行為だからだ。
 だがこの世界の俺は、一般市民の義務さえ果たせない日陰の人間だった。

 それに少なからず、この女に対しては、どこかで自分と「同類」だという思いもあった。
 もちろんそれは、同じ悪人という意味ではない。
 江夏はれっきとした殺人鬼で、俺はそうじやない。
 ただ彼女と俺が同類なのは、間違いない。
 例えば、別の次元の俺は、たぶん何時も巫山戯た事を言っている軽いオッサンだったが、あの姿だって本当は、透明化した俺が皮膚にコンシーラを塗って世間から目に見えるようにしてるのと同じ擬態なのだ。
 そう、俺は歪んでいる。
 そうでなければ、こんな「警告」等という婉曲な手段を執る必要はなかったのだ。

 勘のいい相手なら、今の俺の失言から、こちらの事情を察し、そこにつけ込む事もできるはずだった。
 大女は「ミニチュア」の数から考えて、最低四人は殺している。
 それが未だに捕まっていないのだ。
 犯行が大胆すぎて今に至っているのか、それとも余程、慎重で頭がいいのか。
 江夏は中学時代から目立つのを恐れて、学年トップの実力を誇る自分自身の偏差値さえ、コントロールしてきた女だ、、、おそらく後者だろう。

 大女が眼鏡を外して、その強過ぎる力を秘めた目を、正面から俺に向けて来た。
 やや角張った顎のエラや、揃えられていない太い眉を割り引いたとしても、野性的な美女と言ってよい顔立ちだった。
 江夏が素顔を見せた。
 つまりそれは江夏がこの問題に対して、正面から受け止めるという姿勢の現れだった。

「・・あなたも今、気づいた筈だ。俺は普通の世界に住む人間じゃない。だからあなたのやっている事に干渉する気はない。正義のヒーローぶってあんたの非道を糾弾するつもりもない。」
 大女は一言も喋らないが、それは当初のように気が動転しているせいではない。
 沈黙によって俺から引き出せるだけの情報を得ようとしているのだ。
 俺は喋りすぎている。
 そろそろ潮時だろう。

「あのミニチュア作りを今後も楽しみたいのなら、ゴォークをなんとかすること、、ただ、それだけですよ。」
 俺は江夏に向かって真正面から、そう告げた。




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