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四.気まずい昼食
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柚月が邸に着くと、玄関に雪原の草履があった。
だからだろう。
「おかえりなさい」
いつものように玄関に迎えに出てきた鏡子が、いつになく嬉しそうだ。顔が明るく笑っている。
だがその笑みは、柚月の姿を見た瞬間、すっと消えた。
なんだか様子がおかしい。
女の勘だ。
だが、その勘はもちろん外れていない。
「ただいま」
柚月はぼそりとそう言うと、鏡子の方をちらりとも見ず、横をすり抜けた。
怒っているのだろうか。
鏡子はそう思ったが、あまりに珍しく、一瞬では信じられない。
そこへ、一緒に出掛けて行ったはずの椿が、息を切らせて帰ってきた。
椿の様子もまた、おかしい。
「おかえりなさい」
鏡子がいつも通りそう言うと、椿もいつも通り、少し微笑み「ただいま」と返した。だがその笑みが、ややぎこちない。しかし、雪原の草履には気が付いたようだ。
「雪原様、お見えなのね」
そう聞きながら、見つめているのは雪原のではなく、柚月の草履だ。
しかも、その目が悲しそうである。
喧嘩でもしたのだろうか。
鏡子は、不思議な気持ちで椿を見つめた。
そもそも、柚月が一緒に出掛けた人間を置き去りにして先に帰ってくるなど。
それも椿を。
だが鏡子は「何かあったの?」などと、野暮なことを聞いたりはしない。むしろ、ほほえましく思って見守ることにした。
切り込んでしまったのは雪原の方だ。
いや雪原も、本来そんなことはしない。
むしろこの男、柚月と椿の関係、正確に言えば、柚月の気持ちを娯楽の一つに加えている。
だが、今日は間が悪かった。
久しぶりに別宅に来て、皆揃って食事をできることに少々浮かれていたのだ。
そのせいで、勘が鈍っていたのだろう。
「街はどうでした?」
食事の席につくなり、楽し気に聞いた。
「街」と言ったが、その口調は、「デート」はどうだったか、と言っている。
上座の雪原の右手に、鏡子、柚月と並び、柚月と向かい合う形で椿が席についている。
雪原としては、柚月と椿、二人に聞いたつもりだ。
だが、二人とも応えない。
柚月は黙々と飯を口に運び、椿はそんな柚月をちらりと見ただけ。
静寂の中に、食器が出す微かな音だけが響いている。
妙な空気だ。
「ん?」
さすがに雪原も異変に気付いた。
ちらりと鏡子の方を見ると、鏡子は茶碗を手にしたまま、顔だけを雪原の方に向け、静かに首を振る。
――おやおや。
雪原は改めて二人を見た。
どうも、柚月の方が不機嫌らしい。
――珍しいな。
雪原もやはりそう思ったが、それだけに、なんと声をかければよいか。
いい答えが浮かばない。
会話のない静かな部屋に、ただただ食事の音だけが響いている。
それがまた、静けさを際立たせる。
雪原が諦めて箸を動かそうとすると、ふいに、柚月が箸を止めた。
「特に問題はありません。活気も戻っていました」
まるで業務報告だ。
しかも、言うだけ言って、また飯を口に放り込み始めている。
まるで会話を受け付ける様子がない。
柚月がこんな態度をとることなど、未だかつてあっただろうか。
町は平穏でも、この部屋の中は今、異常事態だ。
ますます変な空気になっている。
気まずい。
「椿はどうでした? 街に出たのも、久しぶりだったでしょう」
雪原は気を取り直して、今度は椿の方に笑みを向けた。
が、これがまたまずかった。
ぱっと笑顔を見せた椿は、見事に禁断の話題に触れた。
「はい、それが、薬屋の前で証に会いまして…」
言いかけた、その瞬間。
パシッ!
柚月が勢いよく箸を置き、部屋に乾いた音が響いた。
その音と気迫。
一同ビクリと肩が跳ね、視線が一斉に柚月に向いていた。
部屋が一瞬にして、シーンと静まり返り、空気が凍り付いている。
「ごちそうさまでした」
柚月は不機嫌丸出しにそう言い残すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
いつもはお代わりするほどの飯を、まだ半分も食べていない。おかずも残ったままだ。
椿の、しょんぼりとした様子。
雪原と鏡子は顔を見合わせた。
この二人に何があったのか、おおよそ検討がつく。
雪原は思わず、ふふっと笑いそうになったが、鏡子に目で制され、止めた。
だが、ニヤニヤが止まらない。
――私としたことが。
そう思いながらこの男、余計なことをしてしまった、などと思っているわけではない。
――こんなおもしろいことを、見落としてしまうなんて。
雪原は、ニヤける口元を椿から見えないように片手で隠した。
が、鏡子からは見えている。
――もう、この人は。
鏡子はあきれるように、ふうっと一息漏らした。
だからだろう。
「おかえりなさい」
いつものように玄関に迎えに出てきた鏡子が、いつになく嬉しそうだ。顔が明るく笑っている。
だがその笑みは、柚月の姿を見た瞬間、すっと消えた。
なんだか様子がおかしい。
女の勘だ。
だが、その勘はもちろん外れていない。
「ただいま」
柚月はぼそりとそう言うと、鏡子の方をちらりとも見ず、横をすり抜けた。
怒っているのだろうか。
鏡子はそう思ったが、あまりに珍しく、一瞬では信じられない。
そこへ、一緒に出掛けて行ったはずの椿が、息を切らせて帰ってきた。
椿の様子もまた、おかしい。
「おかえりなさい」
鏡子がいつも通りそう言うと、椿もいつも通り、少し微笑み「ただいま」と返した。だがその笑みが、ややぎこちない。しかし、雪原の草履には気が付いたようだ。
「雪原様、お見えなのね」
そう聞きながら、見つめているのは雪原のではなく、柚月の草履だ。
しかも、その目が悲しそうである。
喧嘩でもしたのだろうか。
鏡子は、不思議な気持ちで椿を見つめた。
そもそも、柚月が一緒に出掛けた人間を置き去りにして先に帰ってくるなど。
それも椿を。
だが鏡子は「何かあったの?」などと、野暮なことを聞いたりはしない。むしろ、ほほえましく思って見守ることにした。
切り込んでしまったのは雪原の方だ。
いや雪原も、本来そんなことはしない。
むしろこの男、柚月と椿の関係、正確に言えば、柚月の気持ちを娯楽の一つに加えている。
だが、今日は間が悪かった。
久しぶりに別宅に来て、皆揃って食事をできることに少々浮かれていたのだ。
そのせいで、勘が鈍っていたのだろう。
「街はどうでした?」
食事の席につくなり、楽し気に聞いた。
「街」と言ったが、その口調は、「デート」はどうだったか、と言っている。
上座の雪原の右手に、鏡子、柚月と並び、柚月と向かい合う形で椿が席についている。
雪原としては、柚月と椿、二人に聞いたつもりだ。
だが、二人とも応えない。
柚月は黙々と飯を口に運び、椿はそんな柚月をちらりと見ただけ。
静寂の中に、食器が出す微かな音だけが響いている。
妙な空気だ。
「ん?」
さすがに雪原も異変に気付いた。
ちらりと鏡子の方を見ると、鏡子は茶碗を手にしたまま、顔だけを雪原の方に向け、静かに首を振る。
――おやおや。
雪原は改めて二人を見た。
どうも、柚月の方が不機嫌らしい。
――珍しいな。
雪原もやはりそう思ったが、それだけに、なんと声をかければよいか。
いい答えが浮かばない。
会話のない静かな部屋に、ただただ食事の音だけが響いている。
それがまた、静けさを際立たせる。
雪原が諦めて箸を動かそうとすると、ふいに、柚月が箸を止めた。
「特に問題はありません。活気も戻っていました」
まるで業務報告だ。
しかも、言うだけ言って、また飯を口に放り込み始めている。
まるで会話を受け付ける様子がない。
柚月がこんな態度をとることなど、未だかつてあっただろうか。
町は平穏でも、この部屋の中は今、異常事態だ。
ますます変な空気になっている。
気まずい。
「椿はどうでした? 街に出たのも、久しぶりだったでしょう」
雪原は気を取り直して、今度は椿の方に笑みを向けた。
が、これがまたまずかった。
ぱっと笑顔を見せた椿は、見事に禁断の話題に触れた。
「はい、それが、薬屋の前で証に会いまして…」
言いかけた、その瞬間。
パシッ!
柚月が勢いよく箸を置き、部屋に乾いた音が響いた。
その音と気迫。
一同ビクリと肩が跳ね、視線が一斉に柚月に向いていた。
部屋が一瞬にして、シーンと静まり返り、空気が凍り付いている。
「ごちそうさまでした」
柚月は不機嫌丸出しにそう言い残すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
いつもはお代わりするほどの飯を、まだ半分も食べていない。おかずも残ったままだ。
椿の、しょんぼりとした様子。
雪原と鏡子は顔を見合わせた。
この二人に何があったのか、おおよそ検討がつく。
雪原は思わず、ふふっと笑いそうになったが、鏡子に目で制され、止めた。
だが、ニヤニヤが止まらない。
――私としたことが。
そう思いながらこの男、余計なことをしてしまった、などと思っているわけではない。
――こんなおもしろいことを、見落としてしまうなんて。
雪原は、ニヤける口元を椿から見えないように片手で隠した。
が、鏡子からは見えている。
――もう、この人は。
鏡子はあきれるように、ふうっと一息漏らした。
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