一よさく華 -嵐の予兆-

八幡トカゲ

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十七.道場

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 道場の門をくぐるや否や、柚月は馬から飛び降りた。
 興奮気味の馬を、証が手綱を引き継ぎ落ち着かせる。

「父上を! 柚月様がいらっしゃいました!」

 証が道場に向かって叫ぶと、道場から道着を着た門下生たちが、わらわらと顔をのぞかせた。

「柚月様が?」
「どれだ、どれだ?」

 皆、中級以上の武士の子息たちだ。
 城での柚月の噂を耳にしている。
 噂の小姓様を一目見ようと、稽古どころではない。

 柚月が玄関に着くと、そこにも好奇の目を輝かせた顔がいくつも覗いていたが、柚月はそれをまるで気にせず、通りかかった道着姿の少年に名乗ると、清名への取次ぎを頼んだ。

 急に噂の小姓様に声をかけられ、しかも、切迫した表情の柚月は凛々しく、その目にまっすぐに見つめられた少年は、緊張と舞い上がる気持ちから、「は、はい!」と声が裏返る。

 そこに、騒ぎに気づいた清名が現れた。
 門下生たちが、そろいもそろって浮足立っている。

「稽古に戻れ!」

 清名の一喝が響いた。
 道場から覗いていた好奇の顔が、今度は我先にと慌てて引っ込んでいく。

 柚月が声をかけた少年も、慌てて道場に戻ろうとする。
 それを清名が呼び止め、どういうわけか、手ぬぐいを濡らしてくるよう言いつけた。
 少年は疑問に思ったが、聞けるわけもない。訳も分かわないまま、道場の奥へと走っていった。

「清名さん」
「お前はまず拭け」

 清名は柚月を遮ると、首元をさするしぐさをしてみせた。
 柚月は、清名の行動が何を意味するのか分からない。
 疑問に思いながらも、真似て自身の首を手の甲でこすると、赤い紅がついた。

「え! あれ⁉」

 慌ててさらにこすると、ますます甲が赤く染まる。

「いや、これは」

 柚月が言い訳するように言いかけたところに、女が現れた。
 どここか武家の娘なのだろう。
 凛とした雰囲気の女で、髪を一つに結い、門下生なのか、道着を着ている。

「これで、よろしいのですか?」

 そう言って、女は清名に濡れた手ぬぐいを差し出した。
 先ほどの少年が、女の背に隠れて清名の方をうかがい見ている。
 清名は手ぬぐいを受け取ると、柚月に渡した。

「拭いたら来い」

 清名は落ち着いた声でそう言うと、元来た廊下を戻っていく。
 柚月は、首の皮まではぐのかと思うほどの勢いで口紅を拭きとると、急いで清名の後を追った。
 清名は自室にまでは戻らず、来客用の部屋か、玄関からさほど離れていない部屋に入っていった。

「すみません」

 柚月は部屋に入るなり、詫びた。
 突然来たこと、というより、とんでもない姿で来てしまった方のことだ。

「構わん。急ぎか」

 清名は冷静だ。
 柚月の首の口紅のことなど、みじんも気にしていない。
 すでに座って柚月の要件を待っている。

 柚月の表情が、ぐっと引き締まった。
 何かあった、とそれだけで分かる。

「急ぎ、雪原様にお会いしたい」

 柚月は清名の前に座るなりそう切り出し、一旦言葉を止めると、声をさらに低くする。

「できれば、城の外で」

 清名は黙って頷くと、ある寺の名を告げた。
 都の西、比較的城の近くにある寺だ。

「そこで待て」

 それだけ言うと、清名は部屋を出て行った。
 柚月が部屋を出ると、玄関のところに先ほどの女がまだ立っていた。

「お預かりします」

 柚月は一瞬、何のことだろうと思ったが、女がちらりと柚月の手元を見る。
 手ぬぐいを握ったままだ。

「あ」

 素直に返そうとして、柚月は差し出しかけた手が止まった。
 手ぬぐいには口紅がついている。
 女子に渡していいものか。

 柚月は一瞬が躊躇った。
 だが、持っているわけにもいかない。
 そもそも、借りたものだ。

「ありがとうございました」

 柚月はやや気まずそうに、だが、丁寧に頭を下げた。
 変な人だな、と女は思った。首に口紅なんてつけて、遊び人なのだと思ったが、うらはらに、随分誠実な面を持っている。

「お帰りですか? 証に送らせましょうか。どうせまだ、うまやにいます」

 女の申し出を、柚月は微笑んで断った。
 その人のよさそうな笑みに、女はますます、変な人だ、と思う。

 柚月としては、これから行く先を人に知られたくはない。
 足早に道場を出た。

 その背を、女は玄関から見送った。

 この女が誰なのか。柚月がそれを知るのは、もう少し先のことになる。
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