一よさく華 -嵐の予兆-

八幡トカゲ

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十六.口紅

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 昼見世を開けたばかりの白玉屋に、思いがけない客が飛び込んできた。

「どうかなすったのですか?」 

 突然現れた柚月に、出迎えた若い衆は驚いた顔をしている。
 その様子から、あしからの手紙は来ていないことは分かった。
 だが、柚月の胸騒ぎは収まらない。

「待たせてもらってもいいですか?」

 柚月が無理やりに刀を渡すと、若い衆は驚きの顔のまま、「へえ」と受け取った。
 楼主も驚いた様子で顔を出し、柚月が予定にない突然の訪問を詫びると、「いえいえ、何をおっしゃいます」と、いつもの揉み手で白峯の部屋へと案内した。

 柚月は部屋に着くと、障子戸が開くなり、「どうぞ」と下がっていく楼主の横をすり抜けて部屋に入った。
 足が、焦っている。

 入ってすぐの部屋には、障子戸の脇に禿かむろ一期いちご一会いちえがいるだけで、白峯は奥の部屋で窓辺の文机に向かっていた。

 何か書き物をしているのか、筆を手にしているが、顔だけは柚月の方に向けている。
 その顔が、驚いている。

 当然だ。

 柚月が来るなど、思ってもみない。
 今日は、蘆からの手紙、いや、報告書が届く日ではない。
 柚月が来るはずのない日だ。

 だが、さすがは花魁。
 白峯はすぐにすっと冷静な顔に戻り、ゆるりと口を開いた。

「まだ、何も届いておりませんが」

 そう言いながら、そっと筆をおき、柚月の方に向き直る。

「そう…、ですよね」

 柚月は落ち着かない様子で白峯の前まで歩み寄ると、ストンと座った。
 奥の部屋にまで入っている。

 柚月が自ら奥の部屋に入るなど。
 ますます珍しい。

「すみません、ちょっと、待たせてください」

 そう言いながら、柚月は顔を覆った。
 その様子が、尋常ではない。
 随分急いできたのだろう。
 額に汗をかいている。

「少し、横になられてはいかがです?」

 柚月が顔を上げると、白峯の涼やかな目と合った。

「ああ、いや、でも」
「どうせ、すぐには届きませんよ」

 届くかどうかも分からない。
 届いたところで、手紙はいつも昼見世のうちにくる。
 今はまだ、昼見世が開いてすぐ。
 この時間帯に届いたことはない。

「そう気持ちが高ぶっておいででは、しかるべき判断も、誤られますよ」

 白峯の落ち着いた声に、柚月も徐々に冷静さが戻ってくる。
 一息吐くと微笑んだ。

「そう…、ですね」

 そう言って柚月が足を崩すと、白峯がすっとすり寄り、柚月の肩に手を添えてそのまま横にならせた。
 柚月はされるまま、白峯に膝枕される形になっている。
 「え⁉」と慌てて起き上がろうとするが、白峯に肩を抑えられ、起きられない。

「え、あの…。足、しびれますよ?」

 頬が、白峯の腿にぴったりとくっついている。
 柚月は顔を動かすのもはばかられ、白峯を見上げることもできない。
 畳を見たまま、声だけが慌てている。
 白峯はふふっと笑った。

「しびれたら、どきますよ」
「いや、でも。…かえって落ち着きません」

 抵抗する柚月の髪を、白峯がそっと撫でる。
 すると、柚月は魔法にでもかかったように体から力が抜け、とろんと眠くなってきた。

「柚月様」
「……はい」
「誰か、心に決めた方がおられるのですね」

 白峯に根拠はない。
 しいて言うなら、花魁の勘。いや、女の勘だ。
 柚月はまどろみながら、ふっと自嘲交じりの笑みを浮かべた。

「俺、分かりやすいですかね?」

 白峯は答えず、ゆっくり柚月の髪をなで続ける。

「そんな、大したものじゃないです。俺の、…ただの…片思い……です…よ」

 そう言いながら、柚月はもう半分眠りかかっている。

 羨ましい。
 白峯はそう思った。

 誰が、何が。

 いや、何もかもか。

 白峯は、ふうっとため息のような息を漏らした。
 柚月の髪をなで続ける。
 柚月はそのまま、静かに眠りに落ちた。
 その横顔は、子供のようなあどけなさがある。

 いつもの仕事の顔、友人の話をする時のあの笑顔、そして、さきほどの鬼気迫った顔。
 凛々しくさえあった。
 そうかと思えば、今度はこの寝顔。

 白峯はじっと、柚月の顔を覗き込んだ。

「ずるい人」

 いたずら心が湧いている。

 白峯は自身の唇を親指でくっとぬぐうと、その指で柚月の首筋なでた。
 柚月はくすぐったそうにわずかに肩をすぼめたが、起きない。
 その首筋に、くっきりと、白峯の口紅が塗りつけられた。

「花魁」

 一会の声に、柚月はすっと目が覚めた。
 ちょこんと座っている一会の姿が、ぼんやりと見える。
 次の瞬間、はっと飛び起きた。

 どれほど時間が経ったのか。
 障子を照らす日の光が、少し弱まっている。

 白峯はすっと立ち上がり、手紙を受け取ると、柚月に差し出した。

「お待ちのものではないでしょうか」

 やはり来たか。
 柚月はすぐに手紙を開いた。その顔が、みるみる険しくなっていく。

「帰ります」

 柚月は読み終えるや否や、手紙を懐に突っ込み、立ち上がった。
 白峯と一期一会が見世の入り口で見送ったが、柚月はその見送りに振り返ることもなく、見世を後にした。
 その背中が、切迫している。

「いちげ、どうなすったの?」

 一会が白峯の袖を引き、不安げに聞く。
 白峯は何も答えず、一会の手をそっと握ってやった。
 だがその目は、ただただ、柚月の背中を心配そうに見つめていた。

 柚月の足は自然、速くなる。あっという間に大門を出た。

 早く、一刻も早く。雪原に伝えなければ。
 だが、城にこの知らせを持ち込むのは危険だ。何かいい方法はないか。
 そう考えていた、ちょうどその時。

「あれ、柚月さん?」

 後ろからの声にぱっと振り向くと、証だ。馬に乗り、不思議そうな顔で柚月を見ている。
 柚月はひらめき、駆け寄った。

「今からお城ですか?」

 馬上から聞く証を、柚月は遮る。

「清名さんは今どこに?」
「え? 父上ですか?」

 証は柚月の食いつくような様子に少し驚いたが、すぐに苦笑いになった。

「朝からず~っと道場にいますよぉ。だから、こうして逃げて…」

 そこまで聞いて、柚月は証の後ろにバッと飛び乗った。

「えっ?…ええ?」

 証は驚いているうちに、すっぽり柚月の腕の中に納まっている。

「ごめん。悪いけど、引き返してくれ」

 そう言うなり、柚月は馬を走らせた。
 二人を乗せた馬は、勢いよく駆け出し、みるみる景色が後ろに流れていく。

 ――カ、カッコイイ。

 証は憧れの目で柚月を見上げた。
 すると、柚月の首筋に口紅がついている。

 ――大人だぁ。

 証の目は、さらにキラキラと羨望せんぼうに輝いた。
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