一よさく華 -嵐の予兆-

八幡トカゲ

文字の大きさ
上 下
9 / 22

八.魔

しおりを挟む
 白峯はちらりと時計を見た。いつか、雪原が贈ってくれた海外製の置時計。海外の建物を想起させる美しい形。奏でられる秒針の音まで美しい。
 だが今日は、その音が冷たく聞こえる。

 柚月が来ない。

 いつもなら、食事を終え、帰る時刻になっている。
 だが、いっこうに現れる気配がない。
 
 白峯の脳裏に、柚月の顔が浮かんだ。
 仕事の顔。
 あの青年が、仕事を放棄するとは思えない。

 なら、何かあったのだろうか。
 不安がよぎり、白峯はきゅっと手を握りしめた。

 禿かむろ一期いちご一会いちえは、すでに眠気と闘っている。二人並んでうつらうつら、今にも倒れてしまいそうだ。

 その時。
 バタバタと、廊下を足音が近づいて来た。

「花魁、お越しです」

 若い衆の声に、一期と一会はぱっと目を覚まし、白峯の表情は緩んだ。

「あい」

 一期が障子戸を開ける。するっと入ってきた柚月を見て、白峯の顔が再び不安に染まった。

「遅くなり、申し訳ありません」

 入ってきた柚月は、仕事の顔をしている。
 声も、感情を宿していない。
 いつもの、仕事の声。
 
 いや、違う。
 
 無表情なだけで、青ざめている。
 まるで、この世の終わりでも見てきたかのようだ。

「どうか、なさったのですか?」

 白峯は思わず聞いた。
 顔色のことだ。
 だが。

「すみません、仕事で」

 柚月は遅れた理由を答え、じっと畳を見たまま一度も白峯の方を見ない。
 見ようともしない。
 畳さえ、見えてはいない。
 心が、半分ここにない。

 それでも、白峯が報告書を渡すと、いつものように目を通し、懐にしまった。その間に、いつものように食事が用意されたが、柚月は二口ほど小さく飯を口にすると、箸を置いた。
 飯の味など、感じてもいないだろう。ぼんやりと、焦点の合わない目をしている。

「では」

 立ち上がる柚月を、白峯は止めた。

「少し、飲んでいかれてはどうです?」

 柚月はピタリと止まり、少し間となった。迷っている、というわけではない。声を出す気力がない。そんな感じだ。

「いえ、今日は」

 柚月の微かに漏れるような声に、白峯の顔が曇る。
 だが、静かに柚月を見つめ、譲らない。

「不思議なもので、お酒はほんの一時、嫌なことを忘れさせてくれますよ?」

 白峯の声は、柚月へのいたわりと、優しさが混ざっている。それが、柚月の傷ついた心に、沁みた。
 手が、震える。
 止めようと、柚月はぎゅっと拳を握りしめた。
 微かに肩も震え、つぐんだ口は、唇が震えている。

 そうしている間に、若い衆が酒の用意をしてきた。盆に、杯と徳利が乗っている。
 白峯が杯を差し出すと、柚月はすとんと座り、白峯が注いだ酒をグイッといっきにあおった。

 杯が柚月の顔を隠す。
 再び顔が見えた時、柚月の目から、一粒の涙が流れ、空の杯に落ちた。

 柚月は、黙って、ただ唇をかみしめている。

 また、一粒、柚月の目から涙がこぼれ落ちた。
 肩が、微かに震えている。

 だがそれ以上、柚月は涙を流さなかった。
 唇を噛みしめ、じっと畳を見つめている。

 いったい、何があったというのか。ひどく落ち込み、弱っている。柚月のその姿が、白峯の中の花魁の心に、小さく毒のをともした。

 白峯の脳裏に、楽しそうに「ツレ」の話をする柚月の姿が浮かぶ。
 仕事の顔の下にあるあの笑顔。
 屈託のないあの笑顔。

 ――この手に、としてみようか。

「柚月様」

 白峯の声の色が変わった。
 つややかで、相手の心を惑わすような響きがある。
 花魁の声だ。

「ここ、遊郭には、秘め事しかありません。今、柚月様が心の内を見せたところで、それをほかの誰かに知られることは、ありませんよ?」

 柚月はゆっくりと、目だけを白峯の方に動かした。

「禿たちも、もう眠っております。私以外、聞く者もおりません」

 柚月の後ろで、一期も一会も眠ってしまっている。小さな体を寄せ合って。

 柚月は羽織を脱ぐと、二人に掛けてやった。
 その様子を見守る白峯は、優しくも妖艶な微笑みを浮かべている。

 花魁の微笑みだ。
 客を、誘っている。

「今宵は、お泊りになってはいかがです?」

 白峯はちらりと時計に目をやった。

「そろそろ、大門も閉まります」

 柚月もちらりと時計を見た。
 確かに、今から出ては間に合わない。
 柚月がそう思っている間に、白峯は静かにもう一杯、酒を注いだ。

 白峯の、花魁の目が、じっと柚月を見つめている。

 手練手管てれんてくだだな、と柚月は思った。
 今自分は、この遊女の手の内にある。白峯の意のままに、操られそうになっている。

 分かっている。

 分かっているのに。
 
 あらがええない。
 
 柚月は、じっと杯の酒を見た。透明の酒に、朱色の杯が透けて見える。
 もし、この酒が鏡のように柚月の顔を映していたら、思いとどまっただろうか。

 柚月は、ちらりと奥の部屋を見た。
 すでに布団が敷かれている。
 また杯の酒を見つめると、その酒を、くっとあおった。

「そうですね」

 そう言うと、柚月はすっと立ち上がり、奥の部屋に入った。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

一よさく華 -幕開け-

八幡トカゲ
ライト文芸
ソレは、さながら、妖――。 偶然を装った必然の出逢い。 細い月が浮かぶ夜、出逢ったその人は人斬りでした。 立派なのは肩書だけ。中身なんて空っぽだ。 この国は、そんな奴らがのさばっている。 将軍の死の疑惑。 そこから、200年続いたうわべだけの太平の世の終焉が始まった。 「この国をいい国にしたい。弱い人が、安心して暮らせる国に」 動乱の中、その一心で「月」になったひとりの少年がいた。 少年はやがて青年になり、ある夜、ひとりの娘に出会う。 それは、偶然を装った、必然の出会い。 そこから、青年の運命が大きく動き出す。 都の闇夜を駆け抜ける影。 一つよに咲く華となれ。

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

赤い目の猫 情けは人の為ならず

ティムん
ライト文芸
 路地裏に住む、一匹の野良猫のお話。  色んな人と関わりながら、強くたくましく、楽しく生きる物語。  どうにも人間臭い彼の目は、赤く怪しく輝いている。

屋上でポテチ

ノコギリマン
ライト文芸
中学校の屋上で、カップル下校をカウントしている帰宅部の三人、誕生日に次々に告白されて疲れて果てたままバス停で雨宿りする野球部員、失恋するたびに家に帰るとトイレから出て来る父親にウンザリしている女子―― ――中学生の何気ない日常を切り取った連作短編。 ひとつひとつは独立していて短いので読みやすいと思います。 順番に読むと、より面白いと思います。 よろしくお願いします。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

一よさく華 -渡り-

八幡トカゲ
ライト文芸
自分を狙った人斬りを小姓にするとか、実力主義が過ぎませんか? 人斬り 柚月一華(ゆづき いちげ)。 動乱の時代を生きぬいた彼が、消えることのない罪と傷を抱えながらも、新たな一歩を踏み出す。 すべてはこの国を、「弱い人が安心して暮らせる、いい国」にするために。 新たな役目は、お小姓様。 陸軍二十一番隊所属宰相付小姓隊士。宰相 雪原麟太郎(ゆきはら りんたろう)は、敵方の人斬りだった柚月を、自身の小姓に据えた。 「学びなさい。自分で判断し、決断し、行動するために」 道を失い、迷う柚月に雪原は力強く言う。 「道は切り開きなさい。自分自身の力で」 小姓としての初仕事は、新調した紋付きの立派な着物を着ての登城。 そこで柚月は、思わぬ人物と再会する。 一つよに咲く華となれ。 ※「一よさく華 -幕開け- 」(同作者)のダイジェストを含みます。  長編の「幕開け」編、読むのめんどくせぇなぁって方は、ぜひこちらからお楽しみ下さい。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...