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八.魔
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白峯はちらりと時計を見た。いつか、雪原が贈ってくれた海外製の置時計。海外の建物を想起させる美しい形。奏でられる秒針の音まで美しい。
だが今日は、その音が冷たく聞こえる。
柚月が来ない。
いつもなら、食事を終え、帰る時刻になっている。
だが、いっこうに現れる気配がない。
白峯の脳裏に、柚月の顔が浮かんだ。
仕事の顔。
あの青年が、仕事を放棄するとは思えない。
なら、何かあったのだろうか。
不安がよぎり、白峯はきゅっと手を握りしめた。
禿の一期と一会は、すでに眠気と闘っている。二人並んでうつらうつら、今にも倒れてしまいそうだ。
その時。
バタバタと、廊下を足音が近づいて来た。
「花魁、お越しです」
若い衆の声に、一期と一会はぱっと目を覚まし、白峯の表情は緩んだ。
「あい」
一期が障子戸を開ける。するっと入ってきた柚月を見て、白峯の顔が再び不安に染まった。
「遅くなり、申し訳ありません」
入ってきた柚月は、仕事の顔をしている。
声も、感情を宿していない。
いつもの、仕事の声。
いや、違う。
無表情なだけで、青ざめている。
まるで、この世の終わりでも見てきたかのようだ。
「どうか、なさったのですか?」
白峯は思わず聞いた。
顔色のことだ。
だが。
「すみません、仕事で」
柚月は遅れた理由を答え、じっと畳を見たまま一度も白峯の方を見ない。
見ようともしない。
畳さえ、見えてはいない。
心が、半分ここにない。
それでも、白峯が報告書を渡すと、いつものように目を通し、懐にしまった。その間に、いつものように食事が用意されたが、柚月は二口ほど小さく飯を口にすると、箸を置いた。
飯の味など、感じてもいないだろう。ぼんやりと、焦点の合わない目をしている。
「では」
立ち上がる柚月を、白峯は止めた。
「少し、飲んでいかれてはどうです?」
柚月はピタリと止まり、少し間となった。迷っている、というわけではない。声を出す気力がない。そんな感じだ。
「いえ、今日は」
柚月の微かに漏れるような声に、白峯の顔が曇る。
だが、静かに柚月を見つめ、譲らない。
「不思議なもので、お酒はほんの一時、嫌なことを忘れさせてくれますよ?」
白峯の声は、柚月への労りと、優しさが混ざっている。それが、柚月の傷ついた心に、沁みた。
手が、震える。
止めようと、柚月はぎゅっと拳を握りしめた。
微かに肩も震え、噤んだ口は、唇が震えている。
そうしている間に、若い衆が酒の用意をしてきた。盆に、杯と徳利が乗っている。
白峯が杯を差し出すと、柚月はすとんと座り、白峯が注いだ酒をグイッといっきにあおった。
杯が柚月の顔を隠す。
再び顔が見えた時、柚月の目から、一粒の涙が流れ、空の杯に落ちた。
柚月は、黙って、ただ唇をかみしめている。
また、一粒、柚月の目から涙がこぼれ落ちた。
肩が、微かに震えている。
だがそれ以上、柚月は涙を流さなかった。
唇を噛みしめ、じっと畳を見つめている。
いったい、何があったというのか。ひどく落ち込み、弱っている。柚月のその姿が、白峯の中の花魁の心に、小さく毒の灯をともした。
白峯の脳裏に、楽しそうに「ツレ」の話をする柚月の姿が浮かぶ。
仕事の顔の下にあるあの笑顔。
屈託のないあの笑顔。
――この手に、堕としてみようか。
「柚月様」
白峯の声の色が変わった。
艶やかで、相手の心を惑わすような響きがある。
花魁の声だ。
「ここ、遊郭には、秘め事しかありません。今、柚月様が心の内を見せたところで、それをほかの誰かに知られることは、ありませんよ?」
柚月はゆっくりと、目だけを白峯の方に動かした。
「禿たちも、もう眠っております。私以外、聞く者もおりません」
柚月の後ろで、一期も一会も眠ってしまっている。小さな体を寄せ合って。
柚月は羽織を脱ぐと、二人に掛けてやった。
その様子を見守る白峯は、優しくも妖艶な微笑みを浮かべている。
花魁の微笑みだ。
客を、誘っている。
「今宵は、お泊りになってはいかがです?」
白峯はちらりと時計に目をやった。
「そろそろ、大門も閉まります」
柚月もちらりと時計を見た。
確かに、今から出ては間に合わない。
柚月がそう思っている間に、白峯は静かにもう一杯、酒を注いだ。
白峯の、花魁の目が、じっと柚月を見つめている。
手練手管だな、と柚月は思った。
今自分は、この遊女の手の内にある。白峯の意のままに、操られそうになっている。
分かっている。
分かっているのに。
抗えない。
柚月は、じっと杯の酒を見た。透明の酒に、朱色の杯が透けて見える。
もし、この酒が鏡のように柚月の顔を映していたら、思いとどまっただろうか。
柚月は、ちらりと奥の部屋を見た。
すでに布団が敷かれている。
また杯の酒を見つめると、その酒を、くっとあおった。
「そうですね」
そう言うと、柚月はすっと立ち上がり、奥の部屋に入った。
だが今日は、その音が冷たく聞こえる。
柚月が来ない。
いつもなら、食事を終え、帰る時刻になっている。
だが、いっこうに現れる気配がない。
白峯の脳裏に、柚月の顔が浮かんだ。
仕事の顔。
あの青年が、仕事を放棄するとは思えない。
なら、何かあったのだろうか。
不安がよぎり、白峯はきゅっと手を握りしめた。
禿の一期と一会は、すでに眠気と闘っている。二人並んでうつらうつら、今にも倒れてしまいそうだ。
その時。
バタバタと、廊下を足音が近づいて来た。
「花魁、お越しです」
若い衆の声に、一期と一会はぱっと目を覚まし、白峯の表情は緩んだ。
「あい」
一期が障子戸を開ける。するっと入ってきた柚月を見て、白峯の顔が再び不安に染まった。
「遅くなり、申し訳ありません」
入ってきた柚月は、仕事の顔をしている。
声も、感情を宿していない。
いつもの、仕事の声。
いや、違う。
無表情なだけで、青ざめている。
まるで、この世の終わりでも見てきたかのようだ。
「どうか、なさったのですか?」
白峯は思わず聞いた。
顔色のことだ。
だが。
「すみません、仕事で」
柚月は遅れた理由を答え、じっと畳を見たまま一度も白峯の方を見ない。
見ようともしない。
畳さえ、見えてはいない。
心が、半分ここにない。
それでも、白峯が報告書を渡すと、いつものように目を通し、懐にしまった。その間に、いつものように食事が用意されたが、柚月は二口ほど小さく飯を口にすると、箸を置いた。
飯の味など、感じてもいないだろう。ぼんやりと、焦点の合わない目をしている。
「では」
立ち上がる柚月を、白峯は止めた。
「少し、飲んでいかれてはどうです?」
柚月はピタリと止まり、少し間となった。迷っている、というわけではない。声を出す気力がない。そんな感じだ。
「いえ、今日は」
柚月の微かに漏れるような声に、白峯の顔が曇る。
だが、静かに柚月を見つめ、譲らない。
「不思議なもので、お酒はほんの一時、嫌なことを忘れさせてくれますよ?」
白峯の声は、柚月への労りと、優しさが混ざっている。それが、柚月の傷ついた心に、沁みた。
手が、震える。
止めようと、柚月はぎゅっと拳を握りしめた。
微かに肩も震え、噤んだ口は、唇が震えている。
そうしている間に、若い衆が酒の用意をしてきた。盆に、杯と徳利が乗っている。
白峯が杯を差し出すと、柚月はすとんと座り、白峯が注いだ酒をグイッといっきにあおった。
杯が柚月の顔を隠す。
再び顔が見えた時、柚月の目から、一粒の涙が流れ、空の杯に落ちた。
柚月は、黙って、ただ唇をかみしめている。
また、一粒、柚月の目から涙がこぼれ落ちた。
肩が、微かに震えている。
だがそれ以上、柚月は涙を流さなかった。
唇を噛みしめ、じっと畳を見つめている。
いったい、何があったというのか。ひどく落ち込み、弱っている。柚月のその姿が、白峯の中の花魁の心に、小さく毒の灯をともした。
白峯の脳裏に、楽しそうに「ツレ」の話をする柚月の姿が浮かぶ。
仕事の顔の下にあるあの笑顔。
屈託のないあの笑顔。
――この手に、堕としてみようか。
「柚月様」
白峯の声の色が変わった。
艶やかで、相手の心を惑わすような響きがある。
花魁の声だ。
「ここ、遊郭には、秘め事しかありません。今、柚月様が心の内を見せたところで、それをほかの誰かに知られることは、ありませんよ?」
柚月はゆっくりと、目だけを白峯の方に動かした。
「禿たちも、もう眠っております。私以外、聞く者もおりません」
柚月の後ろで、一期も一会も眠ってしまっている。小さな体を寄せ合って。
柚月は羽織を脱ぐと、二人に掛けてやった。
その様子を見守る白峯は、優しくも妖艶な微笑みを浮かべている。
花魁の微笑みだ。
客を、誘っている。
「今宵は、お泊りになってはいかがです?」
白峯はちらりと時計に目をやった。
「そろそろ、大門も閉まります」
柚月もちらりと時計を見た。
確かに、今から出ては間に合わない。
柚月がそう思っている間に、白峯は静かにもう一杯、酒を注いだ。
白峯の、花魁の目が、じっと柚月を見つめている。
手練手管だな、と柚月は思った。
今自分は、この遊女の手の内にある。白峯の意のままに、操られそうになっている。
分かっている。
分かっているのに。
抗えない。
柚月は、じっと杯の酒を見た。透明の酒に、朱色の杯が透けて見える。
もし、この酒が鏡のように柚月の顔を映していたら、思いとどまっただろうか。
柚月は、ちらりと奥の部屋を見た。
すでに布団が敷かれている。
また杯の酒を見つめると、その酒を、くっとあおった。
「そうですね」
そう言うと、柚月はすっと立ち上がり、奥の部屋に入った。
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