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しおりを挟む車窓からの眺めは、都会では見られない青く澄んだ空と鬱蒼と生い茂る草木ばかり。
そして、耳にするのは悲しい旋律だ。
幼少期に聞き飽きたクラシックが、アリスの鼓膜に響く。
運転席でハンドルを握るケイトは、ピアノでも奏でるように指を弾いた。
「ドライブはいつもショパンですの?」
「お、さすがもと悪役令嬢、この曲を知っているのかい?」
「幻想ポロネーズ っていうか悪役令嬢って言い方は失礼ですわね」
「あはは、すまない、アリスの瞳はクールだからさ」
「それ褒めてるのかしら?」
ああ、とケイトはうなずく。
返す言葉が見当たらず、アリスはまた車窓を眺めた。
「緑、青、緑、青……」
本当に山と森しかない。
都会から離れれば、離れるほど、心細くなる。
何が悲しくてクラシック音楽を?
ドライブは楽しい音楽を聴きたい。
彼氏とのミュージックセンスは、どうも相性が悪そうだ。
アリスは手荷物ポーチから、そっとイヤホンケースを出す。ノイズキャンセリング機能つきのワイヤレス。雑音を解消するには丁度良い。
「おい、まさかイヤホンするつもりか?」
「ええ、まだ1時間はかかる、とおっしゃったから仮眠しようと……それにクラシックは昔を思い出してしまうから……」
「そうか、それはすまない。音楽を変えるよ……何がいい?」
「そうね、邦楽を流してくださる」
「わかった」
JPOPを流して、とケイトは声でオーディオを操作する。
軽快で何も考えなくていい音楽が流れ出す。
こうでなくちゃ。
アリスはイヤホンケースをポケットにしまい、リズムに乗って首を振った。
まったく、敵わないな、とケイトは苦笑している。
信号のない車道が、どこまでも伸びていた。
他に走る車は、一台も見かけない。
虚しいほどの孤独。ここは完全に人里を離れた、田舎だ。
ブブブブブッ
まだ携帯の電波はあるようだ。
アリスの手荷物ポーチの中で、スマホが踊っている。画面には、『クソ上司』とあった。
「げ……」
「出なくていいのか?」
ケイトにうながされ、通話ボタンを押す。
「もしもし、ですわ」
電話の向こうは、わんわん騒がしいペットショップ。
ハサミをちょきちょき、トリマーをしているアリスの上司ヒロが、「ですわ、じゃねぇよぉ!」と声を張り上げる。
「お嬢っ! 柴犬ちゃんの餌どこにやった?」
「あら……あの餌ならまとめて保管庫に置きましたわ」
「バカヤロウ! 柴犬ちゃんの餌は匂いが強いから俺が用意した箱にしまえって言っただろうが!」
「すみませんわ」
「ったく……おお~あったあった、だがまぁ、ちゃんとジップロックしてあるじゃねぇか、やるなぁ、お嬢」
おーほほほ、とアリスは笑う。
なんちゅう通話をしとるんだ、とケイトは苦笑していた。
「で、いつ帰る? まさか本当に二連休するつもりじゃねぇだろうな、あ?」
「それパワハラですわ。部下のプライベートに口出ししないでください」
「はっ、どうせ彼氏と旅行だろう?」
「……な、なぜ分かるのですか?」
「わははは、イケメンだったらやめておけよ! どうせ騙されるのがオチだ。彼氏にするなら俺みたいなブサイクにしておけ。お嬢は綺麗だからプラマイゼロになる」
「無理ですわ」
「ところでブラジャーは新しいのを買ったか? お嬢のデカデカおっぱいは、すぐに下着をダメにするだろうからな」
「それはセクハラですわ。本社に訴えますわよ?」
「おお、訴えてくれ! トリマーショップを開業するきっかけになる」
「し、信じられませんわ……ヒロさんのようなクソ野郎が開業なんて……」
「うるせぇ、とにかく今すぐ帰ってこい! 彼氏の玉しゃぶってないでよぉ、わははは」
「……」
ペットショップで、「わははは」と笑いまくるヒロ。
通話はもう切れているのに、まだ話しを続けていた。ただのスケベおやじである。
「お嬢のフェラはうまそうだな、こんど俺のもやって……て、こいつ切りやがった、クソっ」
わんわん、と犬たちが吠えまくっていた。
可愛い柴犬が、くーん『餌をくれ』と鳴いている。
「ほんっと、クソ上司ですわ」
通話を切っていたアリスは、ふぅ、とため息をつく。
隣でハンドルを握るケイトは、クスッと笑った。
整った顔が、くしゃっと笑顔になる。
絵に描いたようなイケメンだ。
私が騙される?
まさか、それはない、とアリスは首を振った。
だって、こんなに優しい瞳で私を見つめてくれるから……。
ギィィィ!!
突然の急ブレーキ。
鹿だ。立派なツノの生えた野生の鹿が、車の前に現れた。
鹿は微動だにせず。黒目がちな両目が、じっとアリスを見つめていた。
吸い込まれる……。
何かを訴えているような鹿の瞳に目を奪われたまま、ごくりと息を飲む。
ケイトは、ほっと安堵した。事故らなくてよかった、と。
「アリス、大丈夫か?」
「ええ、でもびっくりしたわ……」
自然は危険と隣り合わせ。
しばらくすると、ぴょんと鹿は森の中に消えていった。
ゆっくりと車は走り出す。
鹿のつぶらな瞳。
漆黒の視線が、アリスの脳裏に焼きついていた。
心臓が破裂しそうなほど、ドキドキしている。
「危なかったな~」
「本当ですわ~」
「あはははは」
「おーほほほ」
このドキドキは、恋に落ちた心境と似ている。
予期せぬアクシデントによって、二人の距離が親密になっているような、そんな感覚がアリスにはあった。
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