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第9章
遺恨と外泊 4
しおりを挟む「ねえ三芳、顔色悪いよ。大丈夫?」
店を出てしばらくしたところで、肩に手を置かれる。ぎらぎらと光る爪が刃物にすら見える。
命の危険を感じてか、心臓が変な動き方をしている。振り払えない。怖い…
あの後、トイレから席に戻るとなぜか「体調悪そうだし今日は帰ろっか~」と桃華は既に帰り支度を済ませており…
働かない頭の中で解散までの数パターンのやりとりをシミュレーションしていただけに、少し拍子抜けをした。
とりあえず変な借りを作られてまた呼び出されるよりは少しでも借りを作っておきたい気持ちで会計を全部持ち…
特に何を話すでもなく、なぜかなんとなく気まずい空気の中で歩いていたところで唐突に声を掛けられた。
肩に伝わる手の重みと電灯に光る爪に、息が詰まる。
「…大丈夫だから」
手を払おうとするが、余計に力が込められて離れない。
見上げるように顔を覗き込まれる。
「ねえ、ちょっと酔っちゃった。久しぶりに家行きたいな~」
「は!?」
素っ頓狂なセリフにここ最近で1番のでかい声が出た。
何もおかしなことを言っていないかのような顔で平然と言ってのける。
こいつ本当に30か?俺自身も年相応の精神年齢まで成長してるとは全く思わないけど、こいつやばくないか。
不用心とか言う前に、非常識すぎないか?体調悪そうだから帰ろうと思ったんだよな?そうでなくても、普段からこういうことしてるのかこの女は?常識的に考えて酒飲んだ後に男の家に上がり込もうとするか??
「家引っ越してないんでしょ?三芳の家懐かしいな~」
「いや、どう考えても無理だから…」
「なに?変なことしないでしょ?わたし三芳にそういう心配してないし。こんな夜道に女一人で外出歩かせないでよ」
今日合流してからずっと意味のわからない事しか言われていない気がするが、本当に全く理解ができない。
嫌悪感がすごい。夜道に出歩かせるなって言うならそもそも家から出て来んなよ…おかしいだろどう考えても…
「変なこととか心配とか…そういう問題じゃないだろ」
「何?じゃあどういう問題?」
目つきが鋭くなる。この目…なんでも言う通りにならないと気が済まない顔。過去の色々なことが思い出される。
怯んだら相手の思うツボだ…落ち着け黒原三芳。震える手をぐっと握って息を吐く。
「…付き合ってる人がいるから、家には上げられない。1人で帰って欲しい」
そう言うと、ぴくっと眉間に皺が寄った。
「…へえ!?彼女いるんだ!?三芳に!?」
威圧するような声。ダメだ怯むな黒原三芳、負けるな黒原三芳!相手の思う通りに事を運ばせたら絶対にこれから先も関わりを持たれる。今日これで全くの他人になるためにも!頑張れ黒原三芳!!
「だから…今日限りで連絡も会うのも辞めてほしい…!今日は脅されたから来ただけで、そっちも特に用があったわけでもないんだろ…」
「…へえ。ふう~ん。…そういうこと…」
桃華の含みを持たせた言い方が妙に気味悪い。
「…な、何…?」
「…ねえ、それじゃあ今の彼女とはできてるってこと?」
「はぁ…?」
できてるって、どういうことだ?
「だって三芳って…あれじゃん。できるの?今はそういうこと」
そういうことが…できるって…
もしかしなくても、アレのこと…だよな…!?
なんでそんなこと聞いてくるんだ…?というかよく聞けるな?
普通聞くか!?そんなこと!!
「いや、答える必要ないから…」
「カバンの中にゴム入ってたよね」
…は!?
「お、おま…俺のカバン漁った!?」
この間、備えあれば憂いなし、念には念をと思って買っておいたやつ…!
人目につかない奥の奥の方にしまっておいたはずなのに…
カバン漁るか!?普通!?底の方まで!?犯罪だよなこれ!?
何か盗まれた?何のためにカバン見た?そのためにトイレ誘導された!?サイフは現金はそんなに入ってないけど…やばい、カードがある!!
迂闊だった、まさかカバンを漁られるとは思っていなかった…!せめて貴重品は持って席を立つんだった!!
ていうか漁ったなら漁ったで自己申告するか!?本当に何考えてんだよ!!理解の範疇をゆうに超えすぎている!思考回路どうなってんだよ!!
「ねえ…私って本当に魅力なかったってこと!?ほんとやだな~そういうの…傷付くわ…」
「あ、あのさぁ…!勝手にカバン漁っておいてその言い草…!」
「今の彼女とはできるのに、私とは一度もできなかったよね?なんで!?」
「な、なんでって…」
桃華のボルテージが上がっていくのがわかる。
ぎりっと肩を掴む手に力が入ってくる。
やばい、手が付けられなくなる。いつもいつも、頭に血が上るとどうにもならなくなるんだよ。
明らかに冷静な顔じゃない。鼻息が荒くなっている。声質も鋭い。この声で何度も何度も罵倒されて、物投げて壊して家の中をめちゃくちゃにされた。
どうしてこうなる?なんで今更責められてるんだ俺は?
「私に魅力がなかったからなんでしょ?そうなんでしょ!?結局三芳は私のことそこまで好きじゃなかったんだよ!!」
「そ、そういうことじゃなくて…」
「なに、じゃあ今ならできるの?」
「はぁ…?」
「そういうことじゃないんでしょ?私だからできなかったってわけじゃないんでしょ!?」
「ど、どうした…?落ち着いて…」
「2年間、わたし本当に傷付けられてきたんだよ。何をどうしても三芳はどうにもならないし!私に価値がないって態度が言ってたでしょ!!」
「いや、ちょっと…何言って…」
「なんで私が今婚活してると思ってるの。三芳がちゃんとしてくれなかったからでしょ!?三芳のせいで今私こんななんだよ!?」
「あ、あのさぁ…!意味が分からない、それ俺のせいだって言ってる…!?」
「三芳のせいじゃなかったら誰のせいって言うの!?なんでのんきに彼女なんて作ってるの!?三芳さえちゃんとしてくれてたら婚活なんてしてなかったのに!!」
耳を裂くような甲高い怒鳴り声に、足がすくむ。
な、何…?どういうこと…!?俺に傷付けられて、俺のせいで今婚活してる…!?
何を言ってるか全くわからない…なんでそうなる!?
「三芳ばっかり被害者面するのが本当にしんどかった!あれから私ずっと散々だよ!!どうしてくれんの!?責任とってよ!!」
ひとしきり叫ぶと、肩から手を離してしゃがみ込み、わぁっと泣き出されてしまった。
…人通りが全くない訳ではない。部活帰りのような学生や、スーツ姿の通行人の視線を感じる。目が合うと、さっと視線を逸らして足早に去っていく…
これ、俺が完全に加害者みたいになってない…?
被害者面って何…!?
責任取れってどういうこと…!?
全くできなかった俺が完全に悪くて、あのあとしてきたことは全部無かったことにされてる…!?
俺が…俺が全部悪いのか…?
頭が全くまとまらない。完全にオーバーヒートしている。今日ずっと、理解が追いつかない。分からない。どうしてこんなことに…どうして…
「…ねえ、家に上げてよ!それが嫌ならホテルでもいいよ」
袖で涙を拭いながらふらっと立ち上がる桃華。
涙で滲んだ目が鋭くぎらぎらしている。
条件反射で体が強張る…だめだ。絶対に言う通りにしてはいけない…
「…いや、無理…」
自分でも驚くぐらいか細い声が出た。
完全に萎縮している。
逆らうと酷い目に遭うということが、体に染み付いている。
気を抜くと、すぐに息苦しくなる。とにかく呼吸を落ち着かせることに神経を使う。
「引っ越してないんでしょ、家分かってるんだよ、いつでも家行けるんだからね!」
脅迫…これが脅迫じゃなかったら、何だと言うんだ…
泣いている時特有の喉が震えた声。しかし芯が鋭いというか…女性の泣き姿と言うのはか弱いイメージがあるものなのに、迫力がすごい。
「…ちょっと、落ち着いて…そんなことする必要ないだろ」
「私の人生めちゃくちゃにしたんだからそのぐらいの償いはしてよ!!彼女を不安にさせたくないとか関係ないから!!こっちは10年間ずっとしんどかったんだよ!!」
何言ってんだ…?しんどかったのはこっちだろうが…!
恐怖と動揺の中から、怒りがじわじわと湧いてくる。
頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。思考があっちに行ったりこっちに飛んだりと、感情をコントロールできない。
「…う、浮気しておいて散々なじってきて、よく言うよ…!被害者面とか言うけど、散々だったのは俺の方だからな…!!」
「はぁ!?信じらんない、浮気なんてしてない!!そんなことも分からないの!?」
…は?
はぁあぁぁ???
浮気してない、そんなことも分からないのかって、
何言ってんだ本当に??
理解が全く追いつかない。
何?どういうこと?俺の記憶が改竄されてるのか?俺が都合よく記憶を勝手に変えてたりする?いやそんなわけない、全部本当だったはずだ…と、俺が勘違いしているだけ…?
「三芳、私の言うこと聞けないなら全部紺野くんに話してやる。撮った写真も動画も全部とっておいてあるんだからね!」
カバンからスマホを取り出しちらつかされる。
ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。
正座させられて、カメラを向けられて言わされた言葉の数々…
あれを、まだ取っておいてある?紺野に全部話される?なんのために?どうして…
喉が痛いぐらいにぐっと狭くなって、息が苦しい。いくら吐く事を意識しても、勝手に息が上がる。心臓が変な動きをしている。暑くないのに汗が酷い。手先が痺れる…視界が狭くなっている気がする。やばい、白石さん…白石さん…!
『今息吸わなくて良いですよ。苦しいと思うんですけど、肺の空気をゆっくり最後まで吐き切ってください』
ゆっくりと落ち着いた白石さんの声が脳裏に思い出される。
ぶるぶる震える手で、胸に手を当て息を吐き切る。
『そしたら、ゆっくり息吸って。慌てなくて良いですよ』
あの時、なんで苦しいのに息吐くんだって思ったけど、白石さんの言うことなら全部信用できるから…言う通りにしたら本当に息が整ったんだよ。
周りの話し声が全部聞こえなくなって、白石さんの声だけが頭に響く感覚があった。
今もそうだ…
とにかく呼吸を落ち着けないと、声が出ない。時間もない。
「三芳は酔ってたってことにしていいよ!!そしたら全部消してあげるから!!」
返事ができないでいると、がっと手首を掴まれる。長い爪が食い込む。
ぐっと女のものと思えない強い力で引っ張られる。やばい、拉致される。
どうしたら良い、どうしたら…
「……ふ…ふざけんな!!」
ばっと腕を回して手を振り解き、全力で進行方向と真逆に走り出す。
後ろで何か叫んでいるのが聞こえる。
でも、絶対に振り返らない。
絶対に立ち止まらない!
全力で走る。何年振りの全力疾走。
電灯の残像が線のように後ろに流れていく。
風が冷たくて、全身を湿らす汗をキンキンに冷やしていく。
やばい、逃げてしまった。
写真と動画って、普段の様子じゃなくて間違いなく反省させられてる時のことを言ってるんだよな。
それを紺野に全部見せるつもりでいるんだよな。
何のために…分からない…
でもとにかく逃げなければと本能が言っている…
とにかく走る。下手な走り方で、革靴の靴底がゴリゴリ削られていくのを感じる。
全力で走って住宅街のブロックを何度か曲がり、いよいよ肺に酸素が入らなくなり足が笑い始めた頃に路肩に座り込んだ。
転ぶ前に座ろうと思い急に止まったからか、本当に死ぬんじゃないかと言うぐらい息が苦しくて生理的な涙さえ出てくる。
ぜえぜえと胸から変な音がする。苦しい。死ぬ…とにかく息を落ち着けないと本当に死ぬ…!!
こんなに走ったのなんて何年振り…!喉の奥のあたりがへんに拡張されているような感じがして非常に痛い。ミシミシと裂けてきそうだ。
喉の違和感に思わず咳き込むが、拡がった喉が咳にならない唸り声を上げるだけで異物感が取れない。喉の形がおかしくなっている感覚がある。
肺が潰れたような、小さくなったような苦しさの中、少しでも全身に酸素を行き渡らせようと心臓がバクンバクンと大きく動く。
手首を見ると血が滲んでいる。無理に振り解いたから、あのとがった爪で引っかけたか。無理に動かしたふくらはぎも太腿も腹筋も、とにかく全身痛い…
怖い、逃げてしまった。どうなってしまうのか分からない。
全身から汗が止まらない。その汗で身体が冷やされていく。全身がぶるぶるも震えている。けどこれは寒さのせいだけじゃない。
これからどうしたら良いか分からない…
家には帰れない。あいつが先回りしていたり鉢合わせたらもう終わりだ。
どこも安心できない。帰る場所がない。どうしたら良い…どうしたら…
「大丈夫ですか…?」
はっと顔を上げる。
自分の親ぐらいの年齢のサラリーマンに声を掛けられた。帰宅途中だろうか、住宅街で汗だくでうずくまってる男なんて、完全に不審者だよな…
「…す…すみません…立ちくらみで…」
呼気に混ぜてなんとか声を絞り出す。
「救急車呼びましょうか。ひどい顔色ですよ」
「いえ…帰れます、ご心配…ありがとうございます…」
震える足にぐっと力を入れ、立ち上がり会釈をして声の主と逆の方に歩き出す。
足がガクガクする…筋肉が普通に動かない。やばい。絶対筋肉痛になるこれ…
タクシー呼ぶか…?でもどこに行く…?会社に泊まるとか…いや、無理だ…この時間は流石に警備会社が来てしまう…
でもこの気温で外に一晩っていうのは…防寒具もなく着込んでいるわけでもないのに、確実に帰らぬ人になる…
そして俺はこの汗でひどい状態のシャツで、明日出勤すんの…?
いや無理だろ…普通に無理…
職場の隣駅のカプセルホテルなら…たしか近くにランドリーもあるし、明日なんとかなるか…?
正直出勤できるような精神状態じゃない。けど明日休むと来週山下にも皺寄せが行く…
だめだ、絶対休めない…
休みたいけど…。
とにかくタクシーを呼ばないと…
スマホを取り出すと、既に何件も着信が入っている。
絶対に出ない…今度こそ、絶対に出ない。
でも出ないままで…どうなってしまうんだろうか…
次の着信が来る前に、タクシー呼んでとにかく早くこの場から離れたい。
さすがにあのハイヒールでここまで追いかけられる訳がない。でも万が一追いつかれたら…
背筋がぶるっと震える。急いで近くのタクシー会社を調べ、電話をかける。
付き合ってたのは学生の頃だし、もし仮に紺野に行き先を聞かれたとしても、紺野も俺の職場の場所までは知らないし答えようがないはずだ。
だから、職場だけは絶対に特定されないはず。
紺野に何言われるか分からないし、家にはしばらくは帰れないと思うけど…。
これからどうしたら良いか…とりあえず落ち着いてゆっくり考えたい…。
今年、厄年か…?違うよな…青木さんを差し置いて白石さんと付き合ったバチが当たってる?しんどい…しんどすぎる…
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