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第7章
波乱と頓挫 6
しおりを挟む耳から何も情報がまともに脳に運ばれないまま、ぼんやりと乗っていたタクシーから降りたことはなんとなく覚えている。
バタンとドアが閉まった音で我に帰ると、見覚えのある室内。白石さんの家。
「…あの、」
あれから初めて声が出た。
靴を脱いで玄関に上がった白石さんを見上げようとすると、ふわっと優しく抱きしめられた。
「…っ、し、しらいしさ…」
「黒原さん、もう大丈夫ですよ。とりあえず靴脱いじゃいましょう。脱げそうですか?」
コクコクと頷いて、白石さんの腕の中に収まったまま足を靴から抜き取る。
「ジャケットも脱いじゃいましょう、重たいですからね」
まだ頭が混乱したまま、襟に指をかけられてするっとジャケットが腕から抜けた。
「大丈夫ですよ、ここには僕と黒原さんしかいません。他に誰もいないですよ。ここは安全ですからね」
背中をやさしくさすられる。
シャツ越しだと、白石さんの手のぬくもりがじんわりと伝わってくる。
繰り返すように大丈夫だと諭されると、気持ちが少しずつ落ち着いてくるのを感じる。
…あ、やばい。
じわっと目頭が熱くなる。
いい歳して泣きそうだ…
恐怖と怒りと混乱の中で、白石さんはいつもと変わらない、穏やかなままでそばにいてくれた。安堵で全身が弛緩したような、固まった筋肉が溶けていくような脱力感がある。
体に溜まっていた悪い空気が抜けるように、深く息を吐く。体が少しずつ、元の状態に戻ろうとしているのを感じた。
すっと体が離れると、穏やかで優しそうな白石さんの顔。
「頑張りましたね黒原さん、もう大丈夫ですよ。ここがどこだか分かりますか?」
いつもよりゆっくりと落ち着いた口調が、うまく働かない頭に染み込むように入ってくる。
「…白石さんの家…」
「そうです、2人きりですよ。他に誰もいませんから。怖いこと何もないですからね。向こうで座りましょう、お水飲めますか?」
頷くと背中を優しく押され、いつものソファーに誘導される。
ソファーに座ると、ちょっと待ってて下さいねとキッチンに入り、いつも用意してくれるネズミ柄のコップを持ってすぐに戻ってきた。
「お待たせしました。部屋ちょっと冷えますね、暖房入れて良いですか?」
「…あ、はい、お願いします…」
用意してもらった水を飲むと、喉と胸に冷たさが伝わってすっと気持ちが少し楽になった。
リモコンを操作し、隣に座る白石さん。目が合うと優しく微笑まれる。
謝らなきゃ。それで、お礼を言わなきゃ。どうやって謝れば良いんだ。そもそも、何を謝れば良いんだっけ…
「あの、白石さん…本当にすみません、俺…俺が…」
口から言葉が出るようになったのに、何と言ったら良いのか分からず口籠る。
何から話せば良いのか分からない。どこから謝れば良いのかが分からない。
「あの方は…昔お付き合いされてた彼女さんですかね」
俺の言葉を少し待った後で、白石さんが口を開く。
「…そうです、本当にすみません…」
「黒原さんが謝ることなんて何ひとつないでしょう、何も悪いことしてないじゃないですか。気分は少しずつでも落ち着いて来ましたか?」
「あの、今日せっかく白石さんと過ごせて楽しかったのに…あんなことで取り乱してしまいました。俺がダメだから…」
「黒原さんはご自身をダメだと思われてるんですか?」
「だって…何も上手くいかないじゃないですか。昔から…今日だって全部そうです」
「そうなんですか?今日、全部上手くいってないですか?」
「…分からないです、そうだと思います」
「そうなんですね。僕は、黒原さんのおかげで今日とても楽しかったですよ。黒原さんと一緒だから楽しかったんです」
「……、」
そんなこと思ってないでしょ?社交辞令じゃないですか?
俺なんかといて楽しいわけないじゃないですか。良いところ何もないんだし。
白石さんもどうせ俺のことどうでも奴だって思ってますよね。好きでもなんでもないんでしょう。一緒にいる価値なんてないって思ってるんじゃないですか。なんて、本当は思ってもないことが頭の中に次々と浮かぶ。
卑屈だ。卑屈になっている。それは分かっているのに悪い考えが頭から離れない。何も言えない…
「僕は…黒原さんが大切だから、2人で過ごすのがとても幸せなんです。今もそうですよ。黒原さんだから一緒にいたいんです」
「…なんでですか?なんで俺なんかを大切って思えるんですか」
「俺なんかって。黒原さんを大切に思うのに、何か特別な理由が必要ですか?」
「…だって、大切にする価値なんかないじゃないですか。いつになっても俺はずっとこんななのに」
「黒原さんは…ご自身に価値がないと思われている?」
「当たり前じゃないですか。分からないですよ、俺なんかになんでここまでしてくれるのか」
口からどんどん白石さんを困らせるであろう言葉が出てくる。
でも今は素直に白石さんの言葉を受け取れそうにもない。白石さんは元カノとは違う。そう分かっているはずなのに…
「…口で言っても分かってもらえないかな」
コップをすっと手から抜き取られてテーブルに置かれる。
「…あ」
怒らせてしまったかと思って白石さんの方を向くと、後頭部にするっと手が回ってきた。
あ、キスだ…!
けど今?このタイミングで!?
ギュッと目を瞑ると、額にチュッと温かくて柔らかい感触…
「デ…」
デコチュー…!?
呆気に取られた顔で白石さんを見上げると、ふっと優しそうに笑って今度は口元に唇が近付いてくる。
ついひゅっと息が止まる。触れるだけのキスかと思ったら、しっとりとした唇が触れた後にぬるっと舌が唇を割って入ってきた。
「ッん!」
驚いて変な声が出る。
「口開けられます?黒原さん」
口を?開ける?今?
口開けたら、だって…
「開けて」
その声に逆らえなくて、ゆっくり口を開く。
歯列をなぞって、舌が口腔内に押し入ってくる。
あたたかくてぬるっとしていて柔らかくて、まるで生きているみたいに舌に触れてくる。
息が持たない。どうやって息をしたら良いのか全く分からない…
「…息して、黒原さん」
くちの中に白石さんの囁き声が響く。
はぁっと一呼吸すると、また舌が絡みついてくる。
なるべく静かに呼吸しようとするが、粘膜の刺激で頭がいっぱいになり、水音と自分の荒い呼吸だけが変に耳に響く。
ミントの香り。いつタブレット食べてたんだ。口の中がすっとするのに、白石さんの熱がくちから全身に伝う。
力が入らなくなってきて、片手をソファーについて体を支える。
もう片方の手が勝手に動いて、白石さんの背中に腕を回していた。
そんなに長い時間ではなかったと思う。唇が離れるとぎゅっと強く抱きしめられた。
「…白石さ…」
久しぶり…というか2回目のディープキスで、元カノとの再会で生じた頭の混乱が、現在進行形の混乱で打ち消され逆にリセットされた感覚がある。
もはや白石さんのことしか考えられてない。なんだこれ、体が火照って、多幸感が全身を襲ってくる。
「仮に…全く思わないですけど、もし黒原さんがダメなんだとしても僕はそんな黒原さんのことが大切です。どんな黒原さんも大好きですよ」
ぎゅうっと体全体が密着する。
胸に、白石さんの鼓動が伝ってくる。白石さんの脈が早い。ダイレクトに振動と熱が伝わってくる。
存在を全肯定されながら抱き締められるって…こんな幸せなことがあるのか?
体のこわばりが弛緩していくのが分かる。ものすごく安心する。白石さんの体温で、悪く固まったからだが融かされていく。
すっと腕の力が緩んで、頬をさらっと撫でられる…
「僕がどれだけ黒原さんのことを大切に思ってるのか…どうやったら上手に伝わるのかな」
ジオードを見つめるよりも、何倍も真剣な表情。
真っ直ぐ貫いてくる眼差し。俺だけのことを考えて俺だけのために言葉を選んでくれているのが伝わってくる。
「…あの…お…俺も、俺も白石さんのこと大切です」
「知ってます、ちゃんと知ってますよ。ずっと黒原さんのこと見てきたんですから」
まっすぐに言葉が心の中に入ってくる。あんな卑屈になってたのに、白石さんは呆れることもなくしっかり向き合ってくれるんだな…
むず…と胸の辺りが落ち着かない。
白石さんを好きだという気持ちが止まらない。
背中に回した手でさりげなく引き寄せると、意図に気付いた表情を見せてもう一度顔を近付けてくる。
開いた唇が重なり合って、生き物みたいに舌がぬるっと口の中に入ってくる。
やわらかくてあたたかい。白石さん、なんでこんなキスが上手いんだ。俺とは経験人数が桁違いなのか?
思い切って舌を白石さんの動きに沿わせるように伸ばし口腔内に侵入させると、
「…んっ…」
…?あれ、これ俺の声じゃない。
ぴくっと体を震わせた白石さんから聞いたことのない声が発せられた。
え?まって、何?今の…可愛い声…
白石さんの?え?今確かに聞こえたけど。え?
回した腕をするすると移動させて背中から脇腹あたりを撫であげると、白石さんが身を捩って唇を離した。
「はっ…ぁ、黒原さん、ちょっと待って…」
吐いた息に混じって確かに白石さんの甘い声が頭に響いた。
頭の中で何度もリピート再生されて、煩悩に頭がとりつかれる。
やばい。これやばい。なんだ今の声。
白石さんがさっと口元を隠して俯く。
恥ずかしそうにこちらを見上げる白石さんの上目がちな視線に、思わず生唾を飲み込んだ。
え、もしかして白石さん、俺にはわりと一方的にイロんなことして来てるのに自分はそういうことされ慣れてない?
脇腹の手を少し動かすだけでも、こんな風になってしまうほどに?
え、じゃあこれ以上のことをしたらどうなってしまうんですか?
いや待て黒原三芳。ダメだ考えるな。イケナイ方向に思考が進んでいっている。
何より物事には順序があるんだって。順序が。順序のために今日のデートがあったわけだけど…てことはこれもう良くない?順序通り順調にことが進んでいるのでは?
もっと白石さんの色んな顔が見たいですけど?色んな声も聞きたいですけど?順序なんて誰が決めたんだ?今はそういう流れだろ。白石さんも気持ち良さそうだしこのまま…
と頭の中で悪魔の俺が囁き続けていることにはっと気付き、我に帰った。
「あの!白石さん…俺、そろそろ帰ります…!明日仕事ですよねお互い…」
がっと白石さんの肩を掴んで、断腸の思いで絞り出した言葉…
目から血が出て来そうだ。でも、このまま止まらないと後で絶対後悔する。やっぱり付き合う前にこういうことは良くない。散々今まで色んなことされてきて今更何だというところではあるけども、今の俺にとって白石さんと接触するということはもう煩悩という感情しか出てこない行為になってしまったのだから…
「…このまま帰したくないな。今日は1人にさせたくないです、心配だからそばにいてくださるとすごく嬉しいんですけど」
「か、帰したくないなんて…」
人が腸をちぎらんばかりの気持ちで決断してるのに、そんな簡単に人をときめかせるようなことを言わないでくださいよ…
「今日はお酒を飲んでしまったから、車も出せないし…」
「いや普通に電車で帰りますよ、白石さんのおかげですごく落ち着いたので…もう大丈夫です、あの、今日は本当にありがとうございました」
「…スーツなら明日、僕のをお貸ししますよ。無理に帰らなくて良いじゃないですか」
「絶対サイズ合わないですしどうせ高いやつでしょ…とても着れませんよ」
「そんなことないですけど…スーツ一式もこの間私服と一緒に買っておくんでしたね…」
ぼすっと俺の肩に額を落とす白石さん。
「心配です、黒原さん。本当に心配なんですよ。家にいて下さい」
珍しくごねてる…すごい心配してくれてる。当たり前だよな、目の前でパニックになってうじうじネガティブになってたのを見てるわけだから。
でも正直、白石さんとのキスとあのあまーい吐息でびっくりするぐらいもう元カノのこと頭から飛んでる。むしろもう白石さんのことしか考えられない。もはや自分が怖い。
「あの…また会ってくれますか。帰ったら連絡します」
「…もちろんですけど。帰られるなら、駅まで送ります」
「え、いやいいです。暗いので家にいて欲しいです」
「だめです、僕が心配なので」
「いや俺だって心配ですよ、夜道は危ないんだから」
「黒原さん。怒りますよ」
じろりと大蛇の目線が垣間見える。
「ハイ…駅までお願いシマス…」
な、なんで俺がすごまれるんだよ…
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