白と黒

上野蜜子

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第5章

反省と宥恕 9

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時間の経過と、もらった水のおかげかふらつきも良くなり、白石さんの家に着く頃には酔いも大分落ち着いてきていた。

特に会話らしい会話をすることもなく、当然のように部屋に上げてもらいシャワーを借りることになった。

お酒回っちゃうのでシャワーでサッと体流して来てくださいと言われ、当然のように浴室に居るわけだが…

また部屋に来れた!という一瞬の喜びの後に、風呂出たら何と切り出したらいいかとか、どう謝罪するかとか、今日のことは何と言おうとか、吉川さんのことはどう話そうとか、今更心臓がバクバクと変な動きを始めていた。

会えたから、会話できたから解決って訳じゃなかった。顔見れてぬくぬくと安心していたけど、全然安心できない。むしろ戦いはもう始まっているじゃないか…

まずは、改めて今日のお礼から…そして調子に乗って空きっ腹でお酒を入れたので変な酔い方をしたと説明して…吉川さんのことは…詳細は省いた方がいいな。言わない方が良いこともある。その後で、先日のことを…

「黒原さん、大丈夫ですか?」

浴室の外から声がかけられる。この後の流れを考えるのに集中していたため、ビックーー!と体が飛び上がる。

「あ!す、すみません、今出ます!大丈夫です」

「急がなくて良いのですけど、お湯には当たりすぎないでくださいね。本当に危ないので」

「わ、分かりました、ありがとうございます」

ふうっと息を吐いて、両頬を軽く叩く。間違えのないように!誠実に…しっかり会話!大丈夫、ちゃんと話そう。白石さんのことを大切にするために。もう失敗しない。

シャワーを止め浴室の扉を開けると、当然のように用意されているタオルと、以前借りた寝巻きと新品の下着…

以前からこの風呂上がりセットをぴしっと用意してもらっていたが、これもすごいことだよな。新品の下着なんて俺の家ではさっと出てこない。来客用セットが常備されているのか?白石さんが完璧人間すぎて感覚が麻痺してたけど、こんなこと普通はできないだろ。

というか、いつものお泊まりコースだ…今の俺、おそらく相当酒臭い。ソファー借りるか?いや待て、明日土曜日ってことは、白石さん普通に仕事…?

え、俺普通に迷惑じゃない?30にもなって何やってんだ?仕入れ先の会社の営業さんと飲んで、酒に飲まれて、怒らせて音信不通だったはずの白石さん迎えに来させて、更に白石さんにとっては普通の平日の夜中に家に上がり込んで??

さ、最悪すぎる。時間巻き戻したい。欲を言えば、吉川さんに仕事終わりに声かけられるぐらいのところまで。いやもっと前、あと10分でも遅く退社していたらこんなことには…

いや、タラレバしても仕方ない。やってしまったことは元に戻らない。誠心誠意まずは謝って、今日のこの体臭はあまりにも迷惑すぎるので玄関で寝させてもら…いやものすごく気を遣わせるよな。タクシー呼んで今からでも帰宅する?ごく自然に泊まらせてもらう流れになってるけど、これが一番良くないだろ。

「……あの、白石さん」

「はい、しじみの味噌汁です。インスタントですみませんが、まずはこちらをお飲みください」

リビングに入り声をかけると、キッチンのカウンター越しにほこほこと湯気が立つスープカップと箸を渡される。

「あ、すみませんありがとうございます…あの、」

「はい、あちらに座りましょうね。飲み終えてからお話ししましょう、ゆっくりで大丈夫ですよ」

キッチンから移動して来た白石さんに背中を優しく押され、いつものL字ソファーに誘導される。

か、介護…

介抱じゃない、もはや介護されている…

「気分はいかがですか?吐き気や頭痛はありませんか?目眩は?胸がドキドキしたりします?」

今は違う意味で嫌なドキドキ感がありますけど…

「大丈夫です、すみません色々」

「もし気分が悪くなったら言ってください、そばにいますので」

真剣な眼差しで顔を覗き込まれる。う…すごく心配をかけている。この優しさが余計に申し訳なさを強くする。自分がアホすぎて…涙が出て来そう。消えてしまいたい…

少し熱いぐらいの、飲みやすい温度に淹れられた味噌汁が、五臓六腑に染み渡る。う、美味い。やさしい薄塩味。体が求めてる味がする。全身が喜んでいる気がする…ありがたすぎる。

ぐいーっと夢中で飲み干すと、

「…25度です」

「…へ?えっと、室温…ですか?」

唐突に出て来た数字の意味が全くわからず、頭の上にハテナが浮かぶ。

「違います、おそらく黒原さんが飲まれていたカクテルです。ロングアイランドアイスティーですよね?少なくともアルコール度数は25度あります」

「に、にじゅうご…?」

「飲みやすかったでしょう?レディキラーカクテルって言って、女性を酔わせる時によく勧められるお酒です。その前に飲んでたマルガリータは、30度あります」

「さんじゅ、え、ちょっとあの、酔わせるって…あの、」

「食前酒は?覚えてますか?」

「え?えと…炭酸の…キースロイヤル?みたいな…」

「キールロワイヤルかな、それもビールよりよっぽど度数高いですよ。先ほどの…吉川さんと言いましたか、同じものを頼まれてましたか?」

「い、いえ…?別のものを…」

「黒原さん、最初からずっと勧められたカクテルを飲まれてたんじゃないですか?飲まれたお酒の中で、メニュー表から自分で選んで決めたものはありますか?」

…な、無いかも…しれない。

けどこれだとあまりにも吉川さんの心象が悪すぎる…

「あの、勧められはしたんですけど…決めたのは俺なんです、なので…」

「ええ、そうでしょうね。まぁ…もし次にああいったお店で飲まれる時があれば、お連れの方ではなくお店の方にどんなカクテルなのか聞くか、面倒でしょうけどいちいち調べてみてください。検索したらすぐ出て来ますから」

「は、はい…すみません…」

年下にお酒の飲み方講座を開かれる30歳…なんならあと少しで31歳。う、情けない…これは情けないぞ黒原三芳…

「今後は…あまり人を簡単に信じないで。皆が皆、黒原さんみたいな善人じゃないんです。黒原さんにはそれが一番難しいでしょうけど…言うだけ言っておきます」

ふぅ、と短く息を吐くと足を組み、ソファにもたれて片手で前髪をかき上げる。こんな状況なのに、あまり見ない白石さんのこの仕草にキュンと…してる暇ない。あほ三芳。しっかりしろ。

「…ご迷惑をおかけしました、すみません白石さん」

「黒原さんの言う迷惑って?どのことを仰ってるんですか?」

き、来た。白石試験だ…流し目が、味噌汁でほぐれていた身体にぴりっと緊張を走らせる。

「ま、まずは…白石さんのこと避けて、しかも家まで送ってくれたのに…ちゃんと話せなかったところからで…えっと…」

ちら、と白石さんを見る。

「…続けてください」

「そ、その後…すごい自己中心的なメッセージを送った…し、返事もないのに今日突然電話するし、明日お仕事なのに、こんな時間に迎えに来させてしまったし…しかも今日も仕事終わって、風呂入った後ですよね…?吉川さんだって、初対面なのに…あんな…しかも、えと…介抱までして頂いて、あの…せっかくの来客用の着替えとか俺ばかり使っちゃって。味噌汁とかも含めて全部、本当に…本当に申し訳ございませんでした」

白石さんは俺がしどろもどろになりながら喋るのをじっと待ってから、深い溜め息を吐いた。

「あのね」

…終わった。完全に間違えたらしい。間違えたつもりはなかったんだけど…

「僕、迷惑なんて思ってないです。黒原さんに対して迷惑だって思ったこと、一度もないです。分からないですか」

「…え?あの」

「以前言ったような気もしますけど、誰も泊めたことないので、着替えは来客用じゃなくて黒原さん用です。今日はさすがに驚きましたけど、迎えに行くに決まってるじゃないですか。何もかも、嫌々してることだと思ってるんですか?」

「え、えっと」

完全に赤くなるタイミングじゃないのに、顔がどんどん熱くなっていく。お、俺用の着替えが常にあるんですか?迎えに行くに決まってるんですか?嫌々してないんですか??なんてとても言える雰囲気ではなく、ぐっと言葉を飲み込む。

「で、でも…返事も寄越してくれなかったじゃないですか、俺が完全に悪いんですけど…もう会えないんじゃないかって思うじゃないですか」

「だって、青木が僕に好意を持っていると知った上で、あのネパール人の謎のうんちくでしょう?さすがにあれはどうかと思いましたよ。あの返事はないでしょう。黒原さんはどう思われます?」

謎のうんちく…!!

「ゔ…いや、どうかと思いますよ…本当に…」

「青木と付き合わせたいわけでもない、僕にどうして欲しいかも分からない。僕からばかり本心聞き出そうとして、黒原さんが何を考えてるのかは言おうとしないし。もう会わない方が良いって思ったんでしょう?青木はしつこいし、黒原さんはとんちんかんな謝罪メッセージ送ってくるし。と思ったら連絡取ってない間に明らかに場慣れしてそうな男に潰されかけてるし。女子大生じゃあるまいし、強い酒飲まされて持ち帰られそうになってどうするんですか。僕が来なかったらどうなってたと思うんですか?あのまま飲まされてたら急性アルコール中毒だって有り得たのに。僕だって黒原さんにたくさん飲ませてしまったことはあったし申し訳なかったと思いますけど、黒原さんお酒そんなに強くないんですから、自衛はちゃんとして欲しいです。たくさん飲むのがかっこいいとかいう段階じゃないですからもう。自分の限度ぐらいは知っていてください。ヘロヘロな声でいきなり電話かけて来て、しかもずっと謝ってるし。酔った勢いじゃなかったら連絡もできないんですか?もう僕に会わなくても良いと思ってたんでしょう。あんな状況の中で連絡してくれたのは良かったと思いますけど、黒原さんは僕のこと便利屋とでも思ってるんですか?僕なら絶対迎えに来るって心のどこかで確信があったんでしょう。もちろんどこだって行きますけど、ダイニングバーだって何軒あったと思ってるんですか。お店の名前ぐらい覚えておかないと本当に危ないですよ。吉川さんとか言いましたっけ、あんなにくっついて、黒原さんの腰抱いてるし…」

堰を切ったように白石さんから俺への不満が溢れ出てくる。

全く口を挟む隙がない。

青木さんと最後に会った時に説教の再現をしてくれていたけど、これか…

けど、あの時の再現の…恐ろしさは今の白石さんからは全く感じない。

というよりも…

「…あの、白石さ」

「何ですか」

まだ話の途中なんですけど、という無言の圧を感じる。が、

「傷付けて、心配させて、不安にさせて…本当にすみません」

白石さんの手にてのひらを重ねる。冷たい…

いつも冷静な白石さんが、怒っていると言うよりも、なんだか泣きそうな顔をしているような気がして…そしてそのことに気付いていないような気がして、思い切って口を挟んでみた。

「……黒原さんはずるいです」

ずるいって何だ…

「す…すみません」

「いいですよ…これからだって、いつでも駆け付けてあげますよ。どこにも行かないって約束もしちゃったし…」

あ、あの夜言ってたこと…

「…後悔してますか?」

「するわけないでしょう、黒原さんだけですよ…こんなに甘やかすのは」

ふ、と優しく微笑まれる。

「白石さ…」

「縛り上げて青木も真っ青になるぐらいの反省会を開いてやろうかと思ってましたが、十分反省しているようなのでやめました。残念でしたね、黒原さん」

そ、その顔は本気マジなの冗談なの…

重ねた手をすっと引いて、そのまま指を絡められる。

全然そんな雰囲気じゃないのに…そんな雰囲気にする資格も全くないのに、指先からトキメキが止まらない。やばい。

「前使われた歯ブラシ、洗面台にありますので。歯磨きしちゃってきてください、疲れもあるでしょうし、遅くならないうちに寝ましょう」

「あっ…それなんですけど…俺今日臭いし、タクシー呼んで帰…」

「着替えを…」

「へ?」

「着替えを申し訳ないと思っていらっしゃるなら、今から帰るなんていう発想に…なるわけがないですよね。聞き間違いかもしれないので、もう一度仰って頂いても良いですか?」

顔は笑っているが、確かに見える。背後の大蛇が。そしてもちろん俺は、睨まれた蛙です。

「あ、いえ、えっと…歯磨きさせて頂きますね」

「はい、寝る前に白湯飲んでから寝室に行きましょうね。夜中でもお手洗いは何度でもご自由にどうぞ。なるべく早くアルコール抜きましょうね」

するっと絡められた指がほどける。

白石さん主導の会話のこの感じ…なんだかすごく久しぶりに感じるし、またこういうやりとりができることが本当に嬉しいと思う…この有無を言わせない感じも、なんだか懐かしい。

ほどけた指が、名残惜しい。もっと触れていたかったな。

もう、自分を下手に誤魔化さないし悩まない…

俺、白石さんのことが好きなんだ。

今なら青木さんにもちゃんと言える。吉川さんのことも、きっぱり断れる…と思う。

白石さんと、ずっと一緒に居られたら良いなと思うんだ。

白石さんのことが、好きだ。

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