白と黒

上野蜜子

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第4章

進展と後退 8

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沈黙が重い。

『お疲れ様です、白石さんは今日定時上がりですか?」

『ええ』

『あー…そうだったんですね、俺はいつも通り残業でしたよ、あはは…』

『そうでしたか』

『えっと…白石さんはさっきまでご自宅に居られたんですか?』

『ええ、何か?』

『あ…えっと…いえ…何でも…』

など、車に乗り込んですぐに当たり障りのない話題を振ってみてはみたものの返ってくる返事は全てドライなものばかりだったので、

あ、これ話しかけない方が良いやつだ…と途中で悟り、重い沈黙に耐え続けながらただ白石さんの運転する車に黙って揺られている状態が続いている。

方向的に俺の家に向かっているのは分かるが、もしかして家まで送ってくれるんですか?ナハハ!みたいなことを言えるだけの度胸はもう既にないし、何か話しかけなくては、と思っても返ってくる返事を想像するだけでメンタルがどんどん削られていく。

これは間違いなく怒ってるよなぁ…

先に謝ってしまうべきか?いやけど何を謝る?誘い断っちゃってすみません?違うか。違うよな。

車に乗ってからそんなに時間は経っていないはずなのに、もう数時間も沈黙に耐え続けている気分だ。

うう…上司に怒られてる時よりも堪える…

ちらっと横目で白石さんを見ると、もうすごい真顔。

駄目だ時間を巻き戻したい…しかし巻き戻すってどこまで…

そう、メッセージを送信する前…もっと前だ。

青木さんの要求を飲む前…残業せずに会社を出ていれば青木さんに会わずに済んだかもしれない…

いや、逆にもっと残業していたら…帰りが遅くなっていたら…

今頃普通にメッセージのやり取りして、エスニックなら前行った店が美味しかったですよなんて次行く店決めたりして…

タラレバなんて考えても全く無駄なのに、頭の中ではぐるぐるとどうすればこんな事態にならなかったかを延々と考えてしまっている。

そのうち心なしか胃まで痛くなってきて、白石さんに分からないようにそっとみぞおちを押さえた。

どうしてこうなってしまった、どうして…

「…黒原さん」

突然の白石さんの声にビクッ!と全身が跳ねる。

そーっと白石さんの方を見る。相変わらず表情を変えずに真顔で運転している。

「は、はい…」

「青木ですか?」

俺の返事に間髪入れず核心を突かれ、頭が真っ白にな…

ってる場合じゃない。フルスロットルで脳が思考を開始する。

なぜ?なぜここで青木さんの名前を出された?

青木さんが白石さんに何か言った?もしくは白石さんの当てずっぽう?

青木さんが何かヘマしたのか?まさか俺の名前を出したとか?

ああもう青木!!

しっかりしろ青木ーーーー!!

頼むからもう状況をこれ以上悪化させないでくれ!!

いや今から何をしようがこの状況が最悪なことには変わりないけど!!

青木さんを責めるよりも黒原三芳!!しっかり思考しろ!!少しでもこの状況を…

「青木ですね?」

頭の中がまとまらないうちに、白石さんの追撃。

「あっ、えっ、えっと…いや…」

何を言ったら良いか考えあぐねいていると、横から大きな溜息が聞こえた。

「あの時、青木と黒原さんを会わせてしまった僕に非がありますね」

「あ、いや、あの…」

「けどまさか青木を理由に僕と距離を置こうとするとは思いもよらなかったですよ」

「あ、あの…」

「黒原さんが本当に断りたかったのなら別に良いのですけど、そうではないんでしょう?」

「えっと、その…」

「僕何か間違えていますか?」

「い、いえ…」

…何も間違ってないです。

本当におっしゃる通りです。

「…その、白石さん、すみません…」

「すみませんって何がですか?」

「そ、の…青木さんに…」

青木さんに言われるがままに白石さんとの連絡を控えることになってしまって、と言おうとしたところで、

青木さんの話をここで出しても良いのか?

と、うっかり白石さんに対する青木さんの好意を漏らしてしまいそうになったことに気が付いた。

もしここで青木さんとの話をしようものなら、2人の関係ばかりでなく白石さんの職場の人間関係にも影響が及びそうだ。

俺のせいで、白石さんに迷惑をかけることだけは絶対に避けたい…

そもそも青木さんもかなり勇気を出して俺に白石さんへの想いを打ち明けたわけだし、知り合ったばかりとはいえその気持ちを無碍にするなんて非人道的なことはできない…

しかし、そうするとなると俺は何と答えれば良い?

白石さんは青木さんが何かしら俺に関わっていることを知っているとは言え、どこまで知っているか分からない状況で無闇に青木さんの話題を出すのは危険だ。

かといって青木さんの話に触れないことにはちゃんとした謝罪はできそうにない…

これは、四面楚歌!まさに五里霧中!

孤立無縁にして、万事休す!!

そもそも、こうやってちんたら考え込む時間は俺に与えられてはいない。とりあえず何か言わなければ。

「え、っと…青木さんの話を優先して白石さんを蔑ろに…」

「僕が言ったまんまですね」

「うっ…」

本当にその通りですね。

はぁ…と横でため息を漏らす音が聞こえ、走らせていた車が除速し路肩に停められた。

AT限定の俺には出せない男の色気が白石さんの左手からムンムン…じゃなくて。こんな時に余計なことを考えるな黒原三芳。そんな余裕ないだろ。本当に。しっかりしろ。

ちらっと外を見ると、見覚えのある景色。もう家のすぐそばだった。

「あ、あの…」

「黒原さんが何を考えているのか、話をしてくれなければ分かりませんよ」

白石さんは窓の外に目をやって一切こちらを見ようとしない。

今気付いたが、今日は一度も白石さんと目が合っていない。

運転しているから仕方がないかとも思っていたが、今分かった。こちらを見るつもりがないんだ。

「あの、白石さん…」

「何ですか?」

「…本当に失礼なことをしてしまって、すみませんでした」

「失礼なことって何なんです?」

うっ、謝罪に質問返し。

とりあえず漠然と謝らなければと甘い考えをしている俺にザクッと切れ込みを入れる、鋭い返しである。

「その…白石さんを避けるようなことをしてしまって」

「何のためにですか?」

「えっ…」

何のために?

青木さんが白石さんのことを好きで、俺が白石さんと親密になるのは困るので、これから白石さんからの誘いを断って欲しいと言っていて…

勘違いしていたとはいえ俺は青木さんの要求を承諾してしまったから…

何のためだ、青木さんのため?いや違うよな、自分の体裁を守るため…?

「僕と青木をくっつけるためですか?」

白石さんがそっぽを向いたまま続ける。

白石さんと青木さんをくっつける?

そんな、まさか。有り得ない。だって白石さんは青木さんじゃなくて俺を…

…いや、それなら何で、何のために…

というより、誰のために…

「僕が青木と付き合えば黒原さんは満足ですか?」

「ち、違います!!」

想像もしなかった言葉が白石さんの口から発せられて、思わずばっと体を起こす。

「何が違うんですか?」

「俺は…白石さんと青木さんを付き合わせたいとかそんな風に思ったことなんて一度も…」

「なら何故こんなことになっているんです?」

「そ、それは…」

ああ駄目だ、青木さんの名前を出さずにうまい説明なんて出来るわけがない。

仮にうまい嘘を思いついて説明できたとしても、白石さんには全く通用しないことと思う。

「黒原さんはどうしたかったんですか?」

「お、俺…俺はその、どうしたかったかと言うと…」

何も話せない。何も思い付かない。

「では質問を変えます、黒原さんは僕にどうして欲しいんですか?」

「俺…俺は…」

頭が働いているのか働いていないのか、よく分からない感覚だ。

必死で考えているのに、全く考えがまとまらない。

そう、これはまさしくキャパオーバーというやつだ…

「…先日、黒原さんは僕の本心を聞こうとしましたよね」

本心。この間会った時の事だ。

自分の気持ちもよく分からないのに、なぜか白石さんの気持ちを聞き出そうとしたあの時の…

「黒原さんこそ本心は何なんですか?」

「…俺の…本心は…」

青木さんなんて放っておいて、一緒に食事に行きたかった…

なんて言えたら、俺はラクになるだろうか。

俺のその一言でギクシャクするであろう白石さんの職場を想像しても、ラクになれるだろうか。

結果的に白石さんに迷惑をかけることになっても、ラクになるだろうか…

考え込むだけでなかなか話し出さない俺に痺れを切らしたのか、白石さんが大きなため息をついてもたれていた座席から体を起こした。

そして俺の方を見ることもなくこちらのキャッチに手を掛けてシートベルトを外すと「降りてください」と諦めたように小さく言い放った。

「あ、の…白石さん」

「降りてください」

俺の話を遮るような、強い口調になった。

駄目だ、今降りたら駄目だ…

心では分かっているのに、白石さんの言葉に体が逆らうことができない。

いや、この場から逃げたいという本能に勝てていないだけかもしれない。

腕に引っかかったシートベルトから震える手を抜くと、取手にゆっくり手を掛ける。

白石さんはこちらを見ない。

俺は、声を掛けられない…

どうしてこうなってしまった…

無言の白石さんの圧に勝てないまま、俺の左手がついにドアを開けてしまった。

後戻りするなら今しかないのに…

「黒原さん、もう会うのやめましょう」

「えっ…」

車を降りるために体勢を変えたところで、白石さんから告げられた。

「知り合ったばかりの青木に何か言われたぐらいでこうなるような関係なら、もう会わない方が良いです」

頭が弾け飛ぶかと思うぐらいの衝撃だった。

会うのやめましょう、会わない方が良いですって、そんな…

「違います!白石さん、俺は…」

「違わないのでもう良いです、降りてください。お話しすることはもうないですよね」

「あの、俺…」

「話されるつもりがないんでしょう?仕事終わりにお時間取らせてすみませんでした、おやすみなさい黒原さん」

「白石さん…」

「降りてドアを閉めてください。今すぐに」

「あの、白石さ…」

すっとこちらに向けられた白石さんの目があまりにも冷たくて鋭くて、

何かを言おうとしていた口は開いたまま言葉にならず、

はっと我に返った時には既に車は家の後方に走り去っており、

後に残ったのは白石さんに最後に送られた目線の記憶と、頭の中から足のつま先までキンキンに冷えた感覚でいつまでも家への一歩を踏み出せずに立ちすくむ情けない一人の男だけだった。
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