赤蝦夷風説・狼煙と飛鳥(歴史にうもれたロシアの脅威/時代にあがなう剣士列伝)

Kazu Nagasawa

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赤蝦夷風説・狼煙と飛鳥

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【はじめに】
 鎖国を行っていた江戸時代中期のこと、突如として見知らぬ国が交易を求めてきた。明治維新より100年も前のことである。その国の名は当時『赤蝦夷あかえぞ』と呼んでいた。いまの北海道を蝦夷地えぞちと呼んでいた頃のことで、その国が大国ロシアだということを知っている人はほとんどいなかった。
 このロシアと初めて交易の交渉に臨んだのがときの権力者、田沼意次たぬまおきつぐである。そのころロシアは大国の清国(中国)と30年以上も国境紛争をつづけ、その間に極東アジアを侵略して一方的に自国の領土とした。そのロシアが、いよいよ日本に圧力をかけてきたのが田沼意次の老中時代と重なるが、歴史に残された記録は少なく矛盾も多い。
 この作品は、その矛盾をひもとき、太平の世といわれた時代にロシアと初めて相対した幕府の混乱と、名だたる剣豪が時代の流れにほんろうされる物語である。


第一章 
●一.狼煙《のろし》の謂れ
 能登半島の和倉の先に狼煙という場所がある。この珍しい地名の謂れは狼煙をあげて沖をとおる船に位置をしらせたと言われている。しかし、季節によって強い風が吹き狼煙が見えない日がつづく。雪が降る冬や梅雨の時季には狼煙を見とおせる範囲は限られる。
 狼煙の港は小さな漁港で天気がいいと海をへだてて佐渡ヶ島が見える。そこから端《はな》の禄剛崎《ろっこうざき》にいくと東の海からのぼる朝日と西の海にしずむ夕日が同じ場所から見える。この珍しい地名と景色に惹かれ、おとずれる人もいると聞く。
 泊まった宿屋の入り口には魔除けと称して達磨の墨絵が張ってあり屋号は『だるま屋』といった。
 宿屋の主人に地名の謂れをたずねると『赤蝦夷風説《あかえぞふうせつ》』という江戸時代中期に書かれた書物の話になった。主人によれば、その書物には赤蝦夷と呼ばれる異国のことが書かれているが歴史の定説と違うという。そして狼煙の地名のことを静かに話しはじめた。

 『赤蝦夷風説』に書かれた地名の謂れは、もともと沖合に変わった船がみえると狼煙をあげる仕来りがあり、そのことによってこの地を狼煙と呼ぶようになったという。船が赤蝦夷のものか否かに限らず不審船の襲来をしらせる狼煙が地名の謂れだそうな。
    沖をとおる船に位置をしらせる狼煙と船の襲来をしらせる狼煙と地名の謂れが違っても狼煙を上げることにかわりはないと主人は言う。
 さらに『赤蝦夷風説』には古代からつたわる能登の地名の謂れが書かれていると聞いた。能登とは蝦夷地に住むアイヌの言葉からきているという説である。アイヌ語の『ノト』は半島を意味するものだが何故アイヌの言葉が遠く離れた能登の地名になったかは定かではない。

 江戸の中期、明和という時代のこと、世は太平と言われて久しい。
人々が太平の世であることをあからさまに口にする裏には何かがある。それを見逃さない者が国家存亡の危機を知った。
 時代《とき》は田沼意次が老中となり実権を手中にしたころで、まさに『飛ぶ鳥も落とす勢い』といわれる絶頂期に事件はおこる。ところが役どころは手をこまねいて対策は遅々として進まない。意次はそのことに気づきはじめた。
 田沼意次は、もとは三百石の幕臣であったが立身出世を絵に描いたように徳川家治《とくがわいえはる》につかえ将軍側近の側用人《そばようにん》となる。さらに側用人と老中を兼ねるという異例の人事がおこなわれた。すると徳川の血筋にあたる御三家などから風当りが強くなった。その内なる敵には商業を中心とする政策によって金品をあたえ黙らせようと考えた。
 このとき幕政の財政改革を推し進める意次には敵の逆風に耐え風をつかむ政策が求められた。

 その意次が正式に老中となり、商業を中心とする改革が軌道にのると『世はまさに田沼時代』などと話題をさらった。しかし内情は血筋や格式を重んじる旧体制派と意次のような叩き上げの実力者がいり乱れ、まるで猫をかぶった敵と一つ屋根の下で暮らす様相となる。そこで意次は政策重視と周りの老中に配慮して老中の最上位にあたる首座にはつかなかった。
 意次が老中首座の話を断ってはじめての冬をむかえると江戸では師走になっても木枯らしの気配すらない。すると内なる敵は飢饉や天変地異だと言って寺や神社で祈祷《きとう》をあげた。意次への期待の大きさに不安を感じた町人たちも敵におどらされて一緒に不安をあおった。
 こうして当時の幕府は覇権争いにあけくれ庶民は太平の世と言って時代を謳歌していた。
 そんな鎖国時代の世相を突くように驚きの噂が意次にはいる。その噂を聞いたのは日本橋の田沼家中屋敷において商家の組合と先々のことを話しているときのことであった。すぐに動くが配下の者も心当たりがないと口をそろえた。
 まさに敵の狼煙と思えなくはない噂の中身は、江戸の大番《おおばん》という要職が切腹を言い渡されたという一大事。意次に嫌な予感がよぎった。
 この大番とは江戸城をはじめとする幕府要所の警備のほか、監察職である大目付配下の役目や老中直々の特務もあり意次と関わりがないわけではない。もちろん役目をきけば何かの不正によるものだと分かるが詳細が伝わってこない。


●二.突然の沙汰《さた》 
 商家の組合と話した翌日のこと、
「総行《そうぎょう》にございます」
「入ってよい! これへ」
「はい! 気になる噂を耳にしました……」と言って守護役の総行が入って来た。
 その話とは、切腹を言いわたされた大番が珍重品などの不正交易を取り締まっていたという予想したような話であった。そして、その先が鎖国を無視したロシアとの密貿易につながるのだが意次の問いかけに関係筋は口を閉ざした。

 当時のロシアは、大航海時代が終息した十七世紀から急速に極東アジアに国土を拡大したため、シベリアのアムール川(黒竜江)周辺で清国(中国)と大規模な国境紛争が勃発《ぼっぱつ》する。ところがロシアはその戦いを30年以上も続けながら北太平洋沿岸からカムチャッカ半島へと国土を広げた。そして、そこから松前藩の領地である蝦夷地にむけて南下をはじめた。
 そのころの日本ではロシアの動向を知るのは松前藩や清国(中国)と交易が許された薩摩藩などに限られていた。そのため蝦夷地にロシア人が上陸してアイヌと交易していることは一部の者しか知らなかったとされている。

 このロシアの南下が田沼意次の時代と重なるのだが肝心かなめの情報は鎖国の日本に正式に伝わるはずもない。一部の者の噂話《うわさばなし》であると旧体制派は知らぬが仏を決めこんだ。そのため意次はロシアとの不正交易に便宜をはらった一人の大番が切腹を言いわたされたと誤解していた。
 一方、この切腹を言い渡された大番は多田野兵衛《ただのひょうべい》という二十五歳の若者であった。兵衛は、よくよく考えても切腹にあたるような失態がうかばなかった。それどころか珍重品の不正交易の現場を押さえたことにより功労を称えられていた。
 大番になるには、それ相応の家柄と才覚が必要である。それに加えて兵衛には江戸で一、二を争う無外流の剣士という肩書もある。いきなりの切腹に道理条理の沙汰ではないと悩んだ兵衛に知友の武智一刀《たけちいっとう》のことが思いうかんだ。無外流の同門である武智一刀から汚名を着せられたと聞いた翌日に、兵衛にも切腹の沙汰が下ったことが腑に落ちなかった。二人はいずれも年明けの田沼家中屋敷で行われる他流試合に出場が決まっていたが理由もなく外され再考を願い出ていた。

 こうして兵衛は急ぎ江戸を離れる支度をして知友である武智一刀を訪ねた。
「おい、武智! いるか?」
「いかがした?」
「先ほど使いの者がこれを置いていった」
「ほう! おぬしと結託して試合をするとでも?」と言って真に受けない一刀。
「いや、そうではない! いっしょに稽古をしただけで、この扱いでは納得がいかぬ」と感情が込み上げる兵衛。
「まあ、落ち着け兵衛! 二人とも切腹とは偶然ではなかろう!」
「して、おぬしはどうする?」
「とりあえず、おれは西に行く」と、徳利とっくりを持って話す武智一刀は酒も剣術もかなり強い。二人は夜な夜な酒をあおり朝になった。


 この武智一刀は流派や仕来りに拘ることを嫌った噂の剣客である。もとは無外流むがいりゅうの使い手で、その強さは群を抜き周りの剣士を圧倒した。そして年明けの田沼家中屋敷で行われる他流試合に出場が決まってからも手当たり次第に道場破りをしては金を無心し、その名は強さではなく愚かさの例えにあげられるようになった。
 普段は居候先いそうろうさきの商家で用心棒をしている一刀には他流試合にむけて、あえて悪名を着る理由がある。その理由とは、悪名を着た一刀が親のかたきとする剣豪と戦って勝利すればその剣豪は地位も名誉も失う。他流試合の出場者のなかにそのかたきがいたのである。
 当然、一刀は意次にも有力な剣士の一人として伝わっているなかで、この動きが耳にはり処分が検討された。しかし切腹を言いわたすほどの問題は伝わってこない。
 すなわち、多田野兵衛と武智一刀の二人に偽って切腹を言いわたした者が意次の家臣のなかにいたのである。


●三.未熟のさらに下
 武智一刀が先に江戸を発ち、遅れること二日目の日の出まえに多田野兵衛は上野下谷の借家を出た。一刀の家系が信州上田の出であることを思い出した兵衛は西に向かうと言いのこした知友のあとを追った。
 兵衛は生まれてこのかた府中宿より西に行ったことがなかった。北へは日光東照宮の警備で行ったことはあるが冬の時季の旅ははじめてである。
 その兵衛が上野の山をとおり内藤新宿にむけて甲州街道を西にむかっていると後ろに気配を感じて足をはやめた。そして夜どおし歩きつづけ内藤新宿をとおり越して府中宿にむかった。すると急に木枯らしが吹いたので兵衛はあわてて冬支度の品物を買い求めた。

 一方、そのころ武智一刀は東海道を南にむかっていた。後につづく兵衛が西に行くと予想して別の道を選んだようだ。一刀は切腹の沙汰が下りる直前に誰かに諮られたと思い身の危険を感じていた。そのことが確信に変わったのが兵衛が訪ねて来たときのことである。兵衛にも切腹の沙汰が下りたことを知った一刀は兵衛が帰るとすぐに支度をはじめた。
 こうして夜中に子伝馬町の居候先いそうろうさきを出た一刀は品川宿の手前で朝をむかえた。そこに田沼意次から一刀のあとを追うように指示を受けた男が待ち受けていた。その者の姿は托鉢の僧侶である。

 距離にしておよそ一丁(百メートル)。朝霧のなかから地を這うような経(きょう)が聞こえ一刀は殺気を感じながら歩いていた。
 すると「南無妙法蓮華経……!」と、呼吸を感じさせない不思議な経(きょう)に意識が向き一刀が僧侶の位置をたしかめた。
 距離にしておよそ十五間(二十五メートル)に近づくと僧侶は傘を背負っているので顔がみえる。右手は顔の前にかざし口から経(きょう)の発声によって白い息をはいていた。
 一刀があえて僧侶に視線をおくり警戒心を示した。対する僧侶は近づいてくる一刀に道を譲ろうとして位置を変えた。その道を譲ろうとする動きを一刀は編み笠をとおして追った。僧侶は左の脇に錫杖しゃくじょうをかかえ左手に鈴(リン)を持ち右手は顔の前にかざしている。強固な体格と野太い声の経(きょう)は托鉢の僧侶の特徴であるとも思えるが隙がみえない。


 ところが僧侶とすれ違うと霧のなかから日が差して見えなくなった。
 一刀は高まる警戒心を押さえながら「なにやつ?」と、つぶやくように探りを入れた。この一刀の探りにゆっくり振り向く僧侶。そして手に持った鈴(リン)の音で一刀に応えた。
 澄んだ鈴(リン)の音が霧のなかに吸い込まれるように消えていく。
 呼吸を感じさせない経(きょう)の理由が息継ぎの合間に鈴(リン)の音を入れたことによるとわかる。その瞬間、一刀は鈴(リン)の音にあわせ僧侶が攻撃にでることが気になった。しかし武器を持たず無防備を盾にする僧侶に刀が抜けない。
 そのとき一刀は僧侶の経(きょう)と鈴(リン)の余韻によって集中が途絶えていた。
 二人の距離はおよそ二間(三・五メートル)となり攻撃の間合いにはいっている。
 すると急に経(きょう)が聞こえなくなった。

 一刀は僧侶を田沼意次からの刺客であると思ったが、刀の柄(つか)に手を添えただけで立ち去ろうとした。その一瞬の空白を埋めるように、ふたたび鈴(リン)が響いた。この残心のような鈴(りん)の余韻によって僧侶の殺気が消え一刀がゆっくり歩きはじめた。
 すると僧侶は左手の鈴(リン)を胸にしまい手を合わせ「天上天下唯我独尊!」と釈迦の教えを発した。
 その声が耳についたまま間合いを切った一刀が刀の柄(つか)から手を離すと、ふたたび経(きょう)が響きわたり一刀の意識が僧侶に向いた。

 この一連の動きが僧侶の経(きょう)と鈴(リン)による心理的な攻撃であることを一刀は知らないのである。

 僧侶との距離はおよそ六間(十メートル)に広がり容易に攻撃をかわせる位置だと思った一刀。その迷いを置いたまま、そ知らぬふりをして立ち去ろうとした。
 ところが・・・
「おい、なにをする!」
「御仏のお導きにございます」
「バカな!」
 一刀は僧侶が投げた石をよけ切れなかった。
 憤慨ふんがいする一刀が構えたのを見透かすように、ふたたび経(きょう)が唱えられた。さらに、
「無礼者!」と言って一気に間合いを詰める一刀の右手に合掌を解いた僧侶の手が伸びた。
 両者の間は二尺(六十センチ)に満たない。呼吸がとまった。


 その瞬間に僧侶の左手が一刀の刀の柄先(つかさき)を押さえていた。一刀はその手によって柄(つか)を持つ手が動かせない。焦りによって鼓動を感じる一刀。
 その一刀が息を吐いて腕の力を抜いたとき鞘(さや)から出た五寸(十五センチ)の刀が僧侶の左手によって納め返された。
 この動きのなかでも鈴(リン)は僧侶の胸のなかで黙っていた。
 一刀は無理を避けて笑顔を見せ、
「名は何と申す?」と僧侶に問う。すると僧侶は、
「未熟! さらにその下に位置する者とでも!」と応じた。
 一刀はこれを自分の心の乱れを揶揄やゆしたものだと思った。そして、
「ほう! 未熟の下だと?」と返すが震えるほどの気迫を感じた。

 その直後、僧侶が下がりながら視線を外すと微かに鈴(リン)の音がした。その音を嫌い一刀がゆっくり下がって刀を抜いた。
「おもしろい! 田沼の手の者であろう」
「御手前の大願成就たいがんじょうじゅとなれば!」
「ふん! 成仏じょうぶつせよと言うのなら分る」
「まだ分らぬようだな。成仏じょうぶつしたいのなら悔い改めることが肝要!」
「問答無用!」と一刀が発した声に精彩がない。武器を持たない僧侶を斬り捨てることに迷いがある。一刀はさらに距離を取って気合を入れた。
 対する僧侶は片膝をつき錫杖しゃくじょうを置いて両手に石を持った。その動きに対し中段に構える一刀・・・
 そして静かな動きの中でゆっくり間合いを詰める両者・・・
 霧が晴れて二人の影が出来た。

 一刀が中段から右八相に構えなおし峰打ちに握り換えた瞬間にふたたび石が投げられた。
 その石の一つを刀でかわしたが、もう一つが顎にあたり痛みをこらえる一刀。
「武器は使わぬのか?」と、刀を納めながら笑った。
「使えません! 御仏につかえる身にて」
「では、なぜ?」
「殺されると思いましたゆえ!」
「おまえをか?」
「はい!」
「名は? ほんとうの名は何と申す」
「未熟! いや、知りたければ素手にて参られよ」と言いながら重心を下げる僧侶に対し、
「なにを小癪こしゃくな!」と言って殴りかかる一刀の顔面に風を感じた。そして鼻先に痛みを覚え息が出来ない。
 僧侶の寸止めにより鼻骨が折れた一刀が膝をついてうずくまった。
「ならば、約束どおりお伝え申す。名は総行! すべからく行う者にて」
「…………!」名を告げられても久々に負けを認めた一刀に返す言葉はない。
 しばらくして一刀が立ち上がると僧侶の姿はどこにもなかった。


●四.総行を追う
 その後、目的地である品川に着いた一刀は宿には向かわず知り合いの漁師のもとを訪ねた。彼の実家の奉公人であった岩次郎いわじろうの家である。
「おお! さあどうぞ。して、顔のおケガは?」と、岩次郎が出迎えた。
「急にすまぬ!」
「とんでもございません。何かご事情があるやに?」
「ああ! いろいろあってな」
 その言葉につづき、一刀は総行との一件を伝え岩次郎と酒をあおりながら切腹の沙汰の経緯を話した。すると岩次郎が、
「強すぎると、有ること無いことを言われますな! さきほどの僧侶はおそらく田沼様の守護役ではないかと!」と言うと一刀がおどろいた。
「うむ! 身なりは托僧たくそうであったぞ?」
「はい! 池上の本願寺におられるので、お目にかかったことがあります」
「坊主じゃぞ?」
「坊主ではありますが、拳法の使い手と聞いております」
「何とかならぬか?」
 一刀は追われる身でありながら再戦を工面するよう岩次郎に頼んだ。
「では、寺に海苔を献上する際にでも」
「ほうー、いつじゃ?」
「準備をいたしますので明後日にでも!」
「よし! 酒はもうよい」と言って、めずらしく酒をやめた一刀をみて岩次郎は女房のオサキを呼んで海苔の仕上げを急がせた。

 この岩次郎は腕利きの海苔漁師である。寺社の供物や献上品として各方面に海苔を納めていた。
 こうして急きょ二日後に池上にある日蓮宗本願寺に二人が向かうことになる。このとき一刀は途中で総行から石を投げられるような気がして行き方を考えていた。
 そして当日・・・
 この本願寺の正面には男坂と女坂の二つの急坂があるが、一刀は上から見下ろされることを避けて裏手の貴船きふねの坂を上っていた。すると坂を上り切ったところで大きな背籠を抱えた総行がみえた。
「お待ちしておりました」と総行。
「聞いていたのか?」
「いいえ! 貴船の坂には有利な場所がございませぬゆえ」
 この貴船の坂は勾配がゆるく、上りが終わると最後に下りに変わるのである。
「では、予想していたのか?」と一刀。
「はい! 先般、名前を聞いたような、聞かぬような……」
「総行とやら、武智一刀と申す」
 一刀は話しながら手まねで岩次郎を寺の厨口に向かわせた。
「では、場所は境内と言うわけにはいきませぬゆえ」と総行。
「どこにいたす?」
「これから修行にまいるところにて」
「分かった! どこだ?」
「信州を通り、能登にまいります」
「冗談を!」
「いいえ、その地の名は狼煙!」
 これを頓智とんちと思った一刀がニヤリと笑い、
「変わった名だな。こちらの目指す方向と概ね一緒だ!」と言って真にうけない。
「ほう! 何ゆえ能登に?」と総行。
「追手に追われる身だ!」と一刀が応えると総行が嘲笑した。その瞬間に刀の鯉口を切る一刀に手を合わせる総行。
「刀をお収めください! 寺で殺生はできません」
「ではどうする?」
「逃げまする。未熟にて、人を殺すことでしか身を守れませぬゆえ!」
「ふん、逃がさぬ!」
「逃げおおせます。しかし、追手に捕まりかけたら戦うのは貴殿きでんとて同じ!」と言いながら総行は背籠をかついで男坂を駆け下りた。その籠には一刀を揶揄やゆするような達磨の墨絵が張ってある。達磨は手も足も出ないという流行りの風刺であった。


 こうして追うことをあきらめた一刀の顔は苦虫をかみ潰したように勾配のきつい男坂をのぞき込んでいた。
 しばらくして岩次郎が海苔を納めて戻ると、
「あいつに逃げられた!」
「なんと! どうなされます?」
 一刀はその日のうちに早や駕籠かごを仕立てて総行に追いつきたいと頼み込んだ。これによって一刀は総行を追って甲州から信州、そして日本海に出て能登へと向かおうとする。
 すなわち一刀も知友の多田野兵衛と同じく西に向かうこととなった。

 じつは総行の役目は田沼意次の指示によって一刀のあとを追うことであった。ところが総行は逆にあとを追わせることに換えたのである。そこにはもう一つの理由があることを一刀はまだ知らない。東海道品川宿の先にはすでに一組目の追手が一刀を待ち伏せしていたのであった。
 こうして総行を追う一刀は、四谷から甲州街道に入り夕方には内藤新宿に到着した。すると、それを予想していたように達磨の絵が目にはいる。その絵を見た一刀は「おのれ! こんなところにも……」と言って人目をはばかることなく絵をはがして破りすてた。
 その後も総行は旅籠はたごや関所の目立つ場所に厄除けと称して達磨の絵を残していった。


●五.追手の影
 一方の多田野兵衛は、ひたすら富士を見ながら西に進み、六日目には甲州上野原に入った。武智一刀が後につづくなど思いもせずに彼を追うつもりで歩きつづけていた。
 兵衛が江戸を発って十日目のこと、雪をまとった山脈が見えた。江戸では晴れた日に富士を見ることがあるが間近で雪山を見るのは初めてである。そんな兵衛は朝に凍り昼になると雪がちらつく道を歩いていた。その身なりが役人の旅姿であることから百姓から労いの言葉が掛けられる。兵衛は鬱陶うっとうしいと感じることもあったが気軽に応じていた。

 江戸を発って十五日、甲府にはいる手前で茶屋に立ちより富士に連なる雪山をながめていた。
「今日でちょうど十五日。あれが松本あたりか」と、思いにふけるが兵衛に土地勘はない。
「いいえ、あれは駒ケ岳にございます。松本は右のほうかと!」と、茶屋の主人に言われてしまう。江戸とまったく異なる景色のなかで誰とも話さない日々がつづいていた兵衛が思わず苦笑した。

 二十日間歩きつづけ、後ろの旅芸人に追い抜かれたとき草鞋わらじの下に取りつける滑り止めがあることを知る。兵衛はようやく必要なものを買い足して雪用の支度をおそわった。
 うっすらと雪が積もる道で行商人にカンジキの紐の結び方を聞こうとしたが、行商人は兵衛の不自然な動きを警戒して足をはやめた。そのとき街道を歩く人の数が減ったことに気づく。
「すまぬが教えてくれぬか?」と言って行商人の後に着こうとしたが脚がしびれて追いつくことができない。すると行商人はさらに足をはやめ逃げ込むように国境の関所に入った。そのとき兵衛は大番役の通行手形を持っていたが関所に入ることを迷いながら身なりを直していた。

 無事に関所をとおり信州に入ると兵衛を突風がおそう。突如としてひょうが降り風にあおられながら街道ぞいの神社にむかった。
 古びた神社のなかに身をすくめ震えていると街道を五人の男が走り去るのが見えた。明らかに誰かを追っているとわかる。そして五人のうちの二人が戻ってきて神社のほうに歩いて来た。兵衛は足跡が残らないようにするため凍った踏み跡に沿って神社の床下にかくれた。
「おい、どっちに行った?」
「分からん!」
「雪ならまだしも雹《ひょう》では跡がつかぬ!」
「こうなっては先回りをして待つのも手だな!」
「ああ! 多田野という者もこの天気では動けまい!」の一言で兵衛は追われる身の現実に引き戻された。そして追手を警戒して神社の床下にかくれたまま一夜を明かすこととなる。
 そこには燃え草となるような朽木くちきき炭があり暖を取ることが出来たが、煙が出れば居場所が知られると思い夜になるまで火を着けなかった。

 翌朝、兵衛が神社を出て街道にはいると雪が降りはじめた。足もとは表面が凍っていてみ渡りができてカンジキの跡がほとんど残らない。それでも兵衛はときどき後ろを向いて追手のことを気にしていた。
 街道沿いの山や家が雪に覆われていて、どこを見ても同じように見える。兵衛が人目を避けながら街道を行くと周りに人がいなくなったことに気づいた。追手のことを考えて前後に人がいないことをたしかめながら歩いていたが人影がないと逆に不安がよぎった。
 こうして信州山口しんしゅうやまぐちの関所を抜けると急に山並みが途絶え白い平地がひろがった。足もとの雪が舞って前を向くと周りが見えなくなるので兵衛は後ろを向いた。すると、足跡が消え、どこも同じような白い景色に見える。その瞬間に道に迷ったことに気づいた。
 不安と焦りというより追手に気付かれないという安心感が脚を動かしたが一面の平地のなかに身を隠すような場所はない。
 そんな兵衛に追い打ちをかけるように吹雪がおそった。


 前に進もうとすると冷たい風が容赦なく体に雪をはりつけ頬の冷たさが痛さに変わった。あわてて胸にしまってある手拭いで顔を覆い頬に手を当てながら歩きはじめた。
「こういう時に赤蝦夷(ロシア)は、毛皮をまとうのか!」と言って兵衛が密貿易の現場で見つけたキツネの毛皮のことを思い出す。すると強い風が後ろから兵衛にふきつけた。
 愚直に不正を取り締まった兵衛に引き返せと言うように風が背中を押すが追手のことが気にかかる。このとき兵衛に突如として日が差した。
 凍えるような冷たさにわずかに出来た日の温もりが意識をつないだ。ところが日差しは一瞬で消えてしまった。
「最後にだれと話したのか思い出せぬ!」とつぶやくと兵衛に武智一刀の姿が浮かぶ。そして自分の声を聴こうとして顔を覆った手拭いを外そうとするが結び目が凍ってほどけなかった。息苦しさと動かない両脚に未知の恐怖がおそった。


●六.諏訪の飛鳥
 純白の平原のような場所で兵衛がうずくまった。体が思うように動かなくなって立っているより風を避けたほうが寒さを感じないと思った。これまで一度も経験したことのない身体の冷たさが『凍死』というものだと思うと、あわてて残った息で自分の声を聴こうとした。その声が風の音に消され、ふたたび兵衛に死の恐怖がおそう。意識が遠くなって股間から刺すような冷たさが立ちのぼり息苦しさが増した。
 一瞬で闇が兵衛を覆いつくす。
 冷たさも苦しさも感じなくなった兵衛に「キー、キー」という音が近づいて来る。
 突然、鳥の羽ばたくような音が聞こえたが意識がうすれた。兵衛は幻想のなかで聞こえたのか、死の淵を導く音かと疑いながら息苦しさのなかで呼吸をやめた。
「こーい!」
「どこへ?……」と言おうとした兵衛に人の雪踏みの音が聞こえる。
「こっち来て!」
「息はあるか?」
「いや! わかりません」
 聞き覚えのない男女の声に兵衛が薄目を開けると、その視界に鋭い目をした鳥が映った。しかし、まつ毛が凍り付いて鳥を乗せた人の姿が定まらない。兵衛はそのまま目を閉じて闇に落ちた。

 このときを境にして子供のころからの記憶が走馬灯のようによみがえる。これほどまでに死というものが急におとずれ、苦しさや痛さから解放されると思うと兵衛は無理に生きたいと思わなくなった。
 闇のなかでは時間が過ぎるほど暖かさを覚え、体と心の縛られるような辛さを和らげてくれた。
 熟睡した時のように時間の感覚が短く思えた瞬間に、兵衛はパチパチと薪が割れる音に恐怖をいだいた。だが身動き一つ出来ない。周りの音だけ聞こえるが目も開かず、そして息をしている感覚がない。兵衛はこれが死をむかえる直前の状態だと思った。

 しばらくすると静寂がつづき、せつなさのあまり涙があふれ思わず息を吐いた。このとき兵衛のなかに臨終をむかえた祖父が息を吹き返したときのことが思いうかんだ。いわゆる死の恐怖と極楽浄土への期待が交錯していたのである。
 こうして兵衛が闇に心を委ねようとすると・・・
「キイー、キイー」
「香丸《こうまる》、静かに!」
 兵衛はこの刺さるような指示を聞いてから急に時間がゆっくり過ぎる感覚におそわれた。その感覚が死の世界にむかうものだと思って聞き耳を立てたが遠ざかる意識のなかで漆黒《しっこく》の闇につつまれた。
 その直後・・・
「止むを得まい。命が大事じゃ!」
「はい!」と、聞こえた瞬間に右手に痛みが走った。しかし体は何一つとして反応しない。
 その後の痛さに飛び出るほど目だけが大きく開いたまま歯を食いしばった。嚙み合せがおかしいので猿轡《さるぐつわ》をされていていると分かる。痛さが強すぎて意識が朦朧もうろうとなってから、その痛さがしびれに変わり兵衛の意識が戻りはじめた。
 首は少し動かすことが出来るが動かすと顔が痛む。体の感覚から足は紐で縛られ左手は腰と一緒に戸板のようなものに括られていると分かる。右手は握ろうとすれば握れるのだが何を握っているか分からない。その右手の感覚をたしかめようとすればするほど痺れと痛みが強くなった。

 兵衛は痛さが増す右手を見ようとして頭を動かし横をむいた。すると、
香丸こうまる、静かに!」と聞こえた声に鳥が羽ばたきをやめた。よく見ると切り取られた手を鳥が獲物と間違えて飛びつこうとしていた。兵衛は見覚えのある自分の指をみて気を失いかけた。
「さあ、一気に焼いてこれを掛ける」
「そろそろです!」
「そうだな! 腕を押さえてくれ」
「はい!」
 凡そ、自分の状況が分ってふたたび痛さを感じはじめると右の手首に激痛がはしった。意識が飛んで白目を剥いたまま小刻みに震える兵衛の傷口に火箸のあとがみえる。その火箸が当てられた右手に消毒用の焼酎が掛けられた。人の体が焼ける独特の臭いだけが兵衛の記憶に残った。


●七.鷹匠の親子
 しばらくして兵衛の意識が戻ると股のあたりに冷たさを感じて目をあけた。家のなかの囲炉裏の火が落ちかけて失禁で濡れたふんどしと袴が体に張り付いていた。ことを頼みたいが息が吸えず声をだせない。兵衛は炉端の熾火おきびを集めて乾かそうとした。
 使い慣れない左手で火箸を手に取り灰を掻くと徐々に炎が上がった。燃え残った炭に火がうつり暗い家の中でと音を立てた。まだ右手を失った感覚はつかめないが兵衛はゆっくり向きを変えて暖を取れるまでに回復していた。

 そのあと囲炉裏の炎の明かりで周りで寝ている男と女の顔が見えたところで兵衛がふたたび眠りに就こうとした。すると朝日が戸板の隙間から糸の様にさし込んだ。鳥が羽ばたきを一つ。その足に紐が結んであるとわかる。
「おはよう!」と、知り合いと交わすような女の声に兵衛は寝ているふりをした。
 女は鳥に餌と思しき肉片を投げ、そのままかわやに消えた。そして戻ると小さな格子戸の隙間から外をながめ背伸びをした。
「起きて、父ちゃん!」と、女が起床をうながす。その一言で、父親が寝ていたとわかった。
「ああ、いま起きるぞ!」と言って初老の男が薄い布団をめくりあげ、兵衛の上に掛けてくれた。兵衛は失禁の汚れを気にして布団をよけようとしたが思うようによけ切れない。
「おう、これは! 起きておられましたか。いまから狩りに行きますんで」と言われたが兵衛はまだ声を出すことが出来ない。
「あっ! それで、喉が渇きなさったら鉄瓶てつびんの中の白湯をどうぞ」と言って、その男が朱色の器を置いた。漆塗りの見事な器におどろき兵衛が男と女の支度を目で追った。このとき兵衛は四肢に凍傷をおって右手を切除したことにくわえ呼吸にも支障をきたし声も出せず食事もできなかった。

 鷹匠の親子は藁沓わらぐつにカンジキをくくり付け、下から順に雪中で狩りをする準備をしている。そして最後に娘だけが左腕に厚皮の手袋のようなものを据えて鳥を呼んだ。兵衛はその流れに何一つとして無駄や気負いがないと感じた。
 支度が終わると日差しのなかに二人が消えた。久々の強い光に思わず目を閉じると兵衛は鷹匠の娘が外を見ていた格子戸までって行って外の様子を目で追った。すると白の台地に紺碧《こんぺき》の空が覆いかぶさるように二人を包み込んでいる。その姿が角度によって見えなくなっても兵衛は耳で動きをさぐろうとした。
「そーれ! そーれ!」と、鳥を操るときの声と腕に止まるときの羽の音が聞こえてくる。おぼつかない足取りで家の戸口から外を見ようとした瞬間に兵衛の意識が飛んだ。
 このとき、雪のなかで道に迷ってから四日が過ぎていた。

 しばらくして闇から抜けるときのパチパチという音が近づいてくる。兵衛はその音が囲炉裏の薪が燃えて割れる音だと知っていたのでゆっくり目を開けた。
 すると兵衛のふんどしと袴が囲炉裏の部屋と土間のあいだに干してあった。気を失っている間に失禁で濡れた服を着替えさせられたとわかる。
 兵衛が家のなかを見回すと二人の姿はなく鳥がいつもの場所にいないので親子が狩りに出かけたと思った。そこで寝ながら体を囲炉裏に向け落ちかけた火の上に薪を足して暖を取ろうとした。その横には気を失う前に見た漆塗りの器が置いてある。その器に使い慣れない左手で鉄瓶のお湯をそそいで口に含んだ。そのとき口からのどを伝うお湯の感覚が懐かしく思えた。

 お湯を飲んだあと兵衛は慎重に起き上がり、そして壁をつたって格子戸から外を見た。その瞬間に鳥と女の動きに目を奪われて体の動きが止まる。鳥は旋回から下降に移ると獲物に対して影を落とさない方向から雪面まで一気に下降して獲物をさらった。
 そのあと鳥は獲物をつかんで女の近くにとまり狩った獲物を置いてふたたび空に舞い上がった。すると女は獲物の捕獲を父親にまかせ肩の高さに腕をあげ、
「こーい! こーい!」と鳥の帰還を促した。その透きとおるような女の声が白い大地に響いて風の音とまざる。しばらくすると鳥が素直に女の腕にとまった。兵衛は死の淵から救われたときと同じ女の声に心が和んだ。
 外は晴れてはいるが風が吹くと雪が舞い、しばらくすると鷹匠の親子は雪にまみれていた。

 兵衛は親子が狩から戻る前に囲炉裏の火を強めようとして熾《お》き火を集め、その上に薪をのせた。すぐに鉄瓶が激しく湯気をあげはじめたので、あわてて周りの灰を薪にかけて火を弱めようとした。その兵衛の左手の動きが止まる。
「これは!」と言って灰のなかの芋をみていた。その数はちょうど三本。兵衛の目に涙があふれ灰のなかに芋を戻し入れた。
 兵衛が火加減をみながら囲炉裏の淵に置かれた漆器にお湯を入れると光の角度で描かれた絵が浮き出てみえた。その絵は鳥が獲物を狩るときの一連の動作のものだとわかる。その絵の巧みな色付けを見ながら兵衛の心に安堵の時間が流れていた。そして左手で漆器を持ってお湯を飲み干し、
「追手と戦って敗れるも死 自然の厳しさに敗れるも死」と兵衛がつぶやいた。その言葉に右手をうしない死の淵から生き返った無垢の兵衛がかいまみえた。
 だが、このあと追手に追われる身であることを鷹匠の親子に打ち明けられない日々がつづくのであった。


第二章
●一.番外編(試合)
 武智一刀と多田野兵衛が切腹を言いわたされ江戸を発って年が変わり、新年恒例の主要行事の〆を飾るように日本橋の田沼家中屋敷において他流試合が行われた。この他流試合は意次の政策の一つとして意味合いも深く江戸の庶民からも注目が集まっていた。
 意次は老中となってから太平の世における武士の気概が足りないと捉え、士気高揚の一環として自らの屋敷で試合を行わせた。しかし、試合への注目が高くなると負けを嫌うもの同士があたかも申し合わせたように鍔迫つばぜり合いをつづけ、打突を加減する行為が目立つようになった。このような試合内容に意次の不満がつのり見直しが考えられた。

 そこで意次は真に強いものを賞揚することを考え他流試合のまえに番外編(試合)を組むよう家臣に指示をした。すると試合の出場者が決定した翌日には多田野兵衛と武智一刀の名前が浮上し番外編(試合)の出場者として根回しが行われることとなる。このとき意次は流派の師範などという肩書ではなく実戦に近い試合を企画するように家臣に求めた。したがって兵衛と一刀に切腹を命じるようなことは一言も口にしてはいない。
 すなわち意次の指示は何者かによって変えられたのである。

 それどころか一刀の道場破りの話を聞いた意次が処分として例えたのが『江戸十里四方追放』であり、意次の領地の「遠江とおとうみ(静岡県)あたりで番外編(試合)があると!」と言っていた。兵衛と一刀に期待を寄せる意次の意向を逆手にとり二人を殺害すれば政策の妨げになる。敵はもともと他流試合に注目が集まることを嫌って妨害工作を行っていたのである。
 この番外編(試合)の話が浮上した際の人選について家臣から意次に伝えられた話は、武智一刀の実力は江戸で一、二を争うが勝負に手段をえらばず剣がいやしい。多田野兵衛は一刀と実力において肩を並べるがここ一番で力がだせないというもので、いずれも兵衛と一刀が圧倒的な強さを見せるという誤認情報であった。この情報によって意次は二人による試合を持ち越すために他流試合の出場者から外すことを了解したのである。
 すなわち兵衛と一刀を出場者から外し、偽って切腹が言いわたされたことにより意次の目の届かない場所で公然と二人の口を封じることができるのである。

 ところが、兵衛と一刀を外し敵の思惑どおりの組み合わせによって他流試合が行われると、その結果は負傷者が出たことにより急きょ決勝戦を取りやめるという思わぬ事態となった。こうしてますます番外編(試合)に期待を寄せる意次は他流試合の翌日に番外編(試合)について家臣を呼んだ。
「この度は決勝戦をあえて取りやめにして良かった!」と意次が家臣を労う。
「はい!」
「真田の家来は相変わらず強いのう!」
「試合で怪我を負い決勝を辞退しております」
「そうであったな! では、その真田の家臣と互角に戦った者をあの二人と戦わせてみるか!」と切腹の沙汰が出ている兵衛と一刀に意次から番外編(試合)の話がでた。このとき家臣は意次が二人に切腹を命じたと聞いていたので疑問を感じたが、しかし「御意!」と応じる。家臣はもしやと思ったが何も言い出せなかった。
「して、向かった先は?」
「甲州を通って諏訪に向かい、多田野と申すものは右手を失い、もう一人はさらに北に向かったとの知らせが!」
「何とそんなところまで! 一緒だったのか?」
「いいえ、別にございます」
「あい分かった。では、手はずどおりに!」
「かしこまりました」
 この意次の意向をうけ、右手を失った兵衛が外され一刀だけに番外編の試合相手が定められた。しかしこのとき意次は家臣の顔色を見て異変に気づいた。こうして総行の手紙によって兵衛と一刀に追手が差し向けられたような動きがあることを知っていた意次は家臣のぎこちなさを感じながら経緯をたどった。

 もともと守護役の総行は『江戸十里四方追放』の処分が出された経緯を武智一刀に伝えるために後を追うように意次から言われていた。そのため意次の領地の遠江(とおとうみ・静岡県)で番外編(試合)を行わせたいという意次の意向を伝えるつもりでいた。ところが一刀の追手が意次の領地に行く途中の品川を出たあたりで待ち伏せしていたことを知った。そこで、その手前で一刀の進路を能登の狼煙に変えさせたのである。
 こうして年末年始のあわただしさのなか総行からの手紙により追手の報告を受けた意次は誤って何らかの沙汰が出されたと思い事情を探らせていた。
 すると・・・
「申し上げます。紀州徳川様より急ぎの知らせがまいっております」と御三家の一人、徳川宗将とくがわむねのぶから知らせを受けた。その知らせとは兵衛と一刀に切腹の指示を出した者が紀州徳川の江戸藩邸に自首してきたというのである。これによって意次は誤って出された沙汰が切腹の沙汰であることを知った。

 切腹という重罪であることに加え、あまりに展開が良すぎると感じた意次がすぐに家臣を集めた。
「知ってのとおり、誤って切腹の沙汰を出した者がおった」と意次。
「まことに申し訳ございません」と家老の本多義道ほんだよしみちが頭を下げた。
「まあよい! 家臣の失態はわしの責任。わしが無理を言い過ぎた」と回顧の意次が家臣の様子をみて、
「この切腹の一件は不問に付す。だが、なにゆえ誤った沙汰を出したか教えてほしい」と意向を伝え、あとを家老の本多に任せ席を立った。このとき意次は実父の田沼意行たぬまおきゆきが家臣として仕えた紀州徳川に所縁ゆかりのある者が自首しただけのことだと思っていた。
 そして後日、兵衛と一刀に切腹の指示を出した者が詮議をうけると、切腹の沙汰の目的が誤りではなくロシアとの密貿易を隠蔽するために意図的に出されたことを知る。しかし、ロシアの本当のねらいが日本侵略であることに気づくのはさらに先のこととなった。


●二.刺客になった試合相手
 一方、武智一刀の番外編の試合相手となった者は元薩摩藩士で、いまは小野派一刀流の師範代をつとめる久保田佐奈江である。この試合相手の人選についても薩摩藩との関係を推しはかる意次の意図があった。
 久保田佐奈江は薩摩示現流の使い手で試合において相手を一撃で倒す剣豪である。しかし、その剣の強さによって試合中に繰り返し仲間を殺めてしまい藩の指導役を退いて江戸に出ていた。意次はこのとき薩摩藩がロシアの動きを知っていると思い、その糸口として久保田佐奈江を使おうと考えていた。
 まさに新春恒例の他流試合の番外編(試合)は当初の目的と違う意味を持つようになっていく。そして、この久保田佐奈江と他流試合において勝利をおさめたが試合で負傷したことにより決勝を辞退したのが森脇又十郎もりわきまたじゅうろうであった。又十郎は信州松代藩の指南役で決勝の相手を知らされずに負傷した右目の治療に専念していた。

 こうしてロシアとの関係に疑問をいだいた田沼意次は、そのまま武智一刀と久保田佐奈江の番外編(試合)の話を進めた。そして二日後には意次直々に佐奈江に試合のことが伝えられた。
「面を上げられよ!」
「はっ!」
「先の試合、見事であった。特別に褒美を与える。これへ!」と言って意次が五十両を佐奈江に渡すと思いもよらない評価に驚く佐奈江がひざまずいた。
「負けた者にこのような!」と、佐奈江が五十両を受けとる。
「あの一撃も見事! 真田の家来の返しも見事であった。で、人を殺めた経験はいかほど?」
「試合で七人にござります」
「では、それ以外には?」
「ございません」
「役目として、誰かの命を奪うように言われたことは?」
「ございません」
 詮議のような意次の問いに佐奈江は動揺した。それを見て意次は、
「折り入って頼みがある」と前置きした。
「なんなりとお申し付けください!」と佐奈江。

 このやり取りの後、久保田佐奈江は武智一刀との番外編(試合)を求められた。そして後日、意次の家臣という者から内々に二百両を受け取り一刀の後を追うこととなる。このとき佐奈江は、はじめて真剣による試合であることを聞いて二百両を受け取った。

 意次は中屋敷で行われた他流試合と同様に木刀による試合を前提として相応の金額である五十両を佐奈江に渡している。その一方で何者かが佐奈江に真剣による試合を求め一刀を殺害しようとして二百両を渡したのである。
 ところが、しばらくすると一刀を打ち破れば二百両が上乗せされるという噂が広まり次の追手となることを期待して剣客たちが武辺立ぶへんだてに流れていった。そのことを知った佐奈江は自身の試合が注目されていると思い薩摩藩士の仲間二名に支援を求めた。そして必勝を期して早々に江戸を発った。その順路は船便により江戸から大阪を経て日本海に至り越後直江津の港を目指していた。このことにより信州から越後にむかう一刀を久保田佐奈江は待ちうけることとなる。

 その後、信州から越後にむかう武智一刀の足取りは総行により定期的に佐奈江に入ることとなっていた。田沼意次は一刀と佐奈江の番外編(試合)に注目を集めることによってロシアと関わる不穏な動きを探ろうとしていた。その予想どおり佐奈江に同行した二名の薩摩藩士が一刀の足取りを敵に知らせていたことがわかった。
 まさに幕府の財政再建が軌道に乗ろうとするなか、背後でうごめくロシアの日本侵略の動きは意次にとって逆風となる。


●三.真田の兵法
 兵衛と一刀の二人が江戸を出てから二ヶ月が過ぎたころ、すでに一刀は兵衛が死にかけた酷寒の諏訪を抜けて総行の後を追っていた。このとき一刀は先に江戸を発った兵衛のことや久保田佐奈江に追われていることを知るすべもなく、ひたすら冬の信州北国街道を北にむかっていた。そのことがロシアの策略を探ろうとする意次の作戦の一つとなる。
 意次は、この一刀の足取りを久保田佐奈江に同行した薩摩藩士が一刀を殺害しようとする者に伝えて刺客を差し向けると予想していた。そこで、総行の後を追って能登に向かおうとする一刀と久保田佐奈江の試合を意次直々の命によって組むこととした。このことにより他の者が手出しをすると意次の指示にそむくことになる。こうして敵は追手を公然と差し向けられなくなった。

 一方の多田野兵衛は信州諏訪の人里離れた鷹匠の家に身を寄せ、刺客を差し向けると鳥の動きによってすぐに分かる。仮に刺客が捕らえられれば背後であやつる者が明らかになると意次は考え諏訪の周辺に見張りを立てた。この意次の作戦によって刺客が捕らえられたが、江戸に護送される間に何者かによって殺害されている。
 
 ところが兵衛と一刀に対する不穏な動きを封じて敵の正体を知ろうとする意次に思わぬ知らせが届く。その不意を突くような知らせとは、加賀藩主,前田吉徳まえだよしのりからロシアの交易船が前触れもなく能登の千里浜ちりはま沖に出没し上陸したという至急の知らせであった。そのことを受け田沼意次は越中、越前の海岸警護と佐渡の金の輸送路にあたる越後、信州の諸大名に警戒を呼びかけた。
「いよいよ来る時が来ましたな!」と意次。
「内と外の敵が手を結んだと申されますか?」
「ああ! だが、内なる敵はかの国(ロシア)の怖さを知っているのだろうか?」
「では、仙台藩の工藤という医師の話は信じる部分があると?」
「そう考えるのが妥当だが、いまの体制ではことが進まぬ」
 このとき意次と話していたのは信州松代藩主の真田信安さなだのぶやすであった。意次はロシアの蝦夷地への南下を警戒する仙台藩の医師、工藤平助の申し立てを聞いて真田信安に内々に実態を調べさせていた。松代藩と仙台藩は古くから続く名門であり関係も深い。
 その調査の結果が真田信安から意次に説明される前日に、ロシアの交易船が前触れもなく能登沖に出没し千里浜(ちりはま)に上陸したという知らせが届いていた。このロシアの動きに対し意次は事態の切迫性を感じつつ真田信安からロシアの脅威について説明を受けた。
 その脅威とは・・・
 はじめに領土や国家という概念をもたない先住民に対してロシアの商人が渡来し交易を持ちかけることから侵略が開始される。そして交易をやりながら先住民の産物や兵力を調べ武装したロシア人の商人が徐々に実効支配を強めていく。その動きに合わせ隣接する国の有力者や商人を囲い込みロシアとの密貿易によって内部分裂を企て、そして政権転覆をねらう。ここまで聴いて意次の顔つきが険しさを増した。
「なるほど、我が国のあり様を絵にかいたようだな!」
「はい! 赤蝦夷(ロシア)という国は謀略に長け、国土を何十倍にもしていると聞いております」
「では、相手がどこを狙って、いつ攻めて来るかということか……」
「そのことにつきましては清国(中国)の動き次第であると!」と真田信安が言った背景には、シベリアのアムール川(黒竜江)周辺で長期化していた清国(中国)とロシアの国境紛争が終息したことを受けて早々に侵略をしかけてくるという考えであった。
「うむ! 清国(中国)を味方に付けねばならんのか」
「はい! 大国には武器ではなく知恵により策を推し進めるべきかと」
「たしかに! 真田の兵法を見習うことといたそう!」
 こうして意次と真田信安との会談によって幕府の内部分裂を避けつつロシアに国内の一体感を示して動きをけん制することが決まった。そのため、先ずロシアの強圧な侵攻政策について各藩主に知らしめ危機感を高めさせることとなる。このとき意次に年はじめの他流試合の番外編(試合)を格上げして模範試合とし将軍徳川家治の臨席により諸大名を集める策がうかんだ。そこで急きょ出場者の選定が内々に進められることとなる。
 また真田信安は意次の命令として薩摩、仙台、松前の各藩主に使者を送りロシア対策の協力を求めた。


●四.命を食する
 急変するロシア情勢に意次が対策の舵をきり始めたころ、多田野兵衛は諏訪湖のほとりにある鷹匠の親子の家に身を寄せていた。兵衛は切腹を言いわたされたことに納得がいかず江戸を発って追手から逃げていた。その途中、冬の諏訪湖で死にかけ鷹匠の親子に命を救われたが凍傷によって利き腕の右手をうしなった。兵衛はまだ親子に名前も追手に追われる身であることを明かしていない。
 このとき兵衛と一刀に切腹の沙汰が出て二人が江戸を発って二ヶ月が過ぎていた。
 その兵衛が家のなかの囲炉裏の横で休んでいると雪を踏む音が近づいてきた。兵衛はあわてて薪を足して鷹匠の親子に暖を取ってもらおうとした。ところが、
「あー、待って!」と言って雪まみれの娘が兵衛から薪を受け取った。その瞬間に鳥が渡り木に飛びうつった。
「すまぬ! どうすればいい?」と兵衛。
「これを持ってくれ!」と、娘が囲炉裏に掛けてある鉄瓶を持って差し出した。
 冷たい娘の手には熱さは感じず、左手で強く取っ手を握る兵衛の我慢の顔に熱さがわかる。兵衛は右手を切除したばかりで右手の感覚が残っていて左手から右手に持ち替えようとした。その不自然な動きに娘は笑いながら鉄瓶を受けとり囲炉裏の淵に置いた。そして、
「ここに鍋を掛け直すから、掛けたらそのお湯さ、ぜんぶ入れて!」と言った。
「ああ、分かった」と、うなずく兵衛を見て娘が土間に下り鍋に水を入れた。兵衛は囲炉裏を食事の煮炊きに使うために鍋を掛けてから鉄瓶のお湯を足し入れると理解した。

 思ったとおり娘は土間に下りると鍋に半分ほど水を入れてきて囲炉裏の吊るしに掛けた。水滴が落ち、火のなかで蒸発して音を出す。その鍋に左腕一本で兵衛がお湯を足し入れると娘が空になった鉄瓶を兵衛から受けとり、ゆっくり土間に下りた。そして樽に張った氷をどかし菜箸を持って振り向いた。
「お湯さ沸いて、肉を入れたら菜っ葉を入れるんだ!」と言って樽の中から二尺(六十センチ)ほどの漬け菜を出して切り分けていく。その独特の香りに兵衛の喉が鳴ると鳥が反応して鳴き声を上げた。
「香丸(こうまる)、静かに!」という娘の声に兵衛もいっしょに動きを止めた。それを見て娘が笑いをこらえると兵衛もつられて笑ってしまう。すると娘の表情が急にこわばり目線を外した。兵衛はこのとき鷹匠の親子に素性を明かしていないことによって警戒されていると思った。

 しばらく沈黙がつづき鍋のお湯が沸きはじめたころに家のなかに光が差し、冷気とともに父親が入って来た。
「戻ったぞ! お湯は?」と言った父親の手に獲物が見える。
「いま沸いたよ!」と娘。
「ほれ!」と、父親がかざした獲物は首と手羽が切り取られ羽が付いたまま卵巣らんそうが垂れさがっている。その姿に兵衛は息をのんだ。父親は卵巣の横から笹身と思しき肉片を切り取って鳥に与えると娘が獲物を受けとり鍋のお湯に浸した。
 娘はお湯に浸した獲物の羽を鍋のなかでむしりながら皮をはいでいく。すると嗅いだことのない独特の臭いに兵衛がむせた。兵衛はその獲物の肉の処理の見た目と臭いに顔をそむけた。そのとき『追手と戦って敗れるも死 自然の厳しさに敗れるも死』という言葉がひらめいて獲物の姿と自分のことを重ねていた。

 彼は人を斬ったことがある。そして命を奪ったこともあるが食すための肉の処理を見たことがなかった。『生命(いのち)をいただく』という感謝の言葉を知ってはいたが自分の命をつなぐために殺された獲物に感謝する余裕はなかったのである。
 その日、兵衛は二十六歳の誕生日をむかえた。

 兵衛の目の前で皮を剥がれた獲物は父親が足を切り落とし竹串に刺されて遠火に掛けられた。それ以外の肉は部位ごとに捌かれて水で洗われ無駄な血が落とされていく。兵衛はいつしか父親の手際の良さに見入っていた。そのあと娘は使った鍋を洗い、父親が捌いた獲物の肉をその鍋に受けいれて水をくわえた。
「火を強く! 早くして」と娘。
「わかった!」と言って兵衛は薪を足した。
 こうして家に広がる獲物の臭いにたえながら兵衛がじっと朝餉《あさげ》を待っていた。囲炉裏のなかで薪に火が着きパチパチと音がする。娘は鍋をふたたび吊るしに掛け、まな板の上の漬け菜を入れて、その一片を兵衛の口に近づけた。
「食うか?」
「……ああ!」
「ほれ!」
 突然の勧めに兵衛が失った右手を出そうとする動きを見て娘が漬け菜を兵衛の口に押し込んだ。よだれが口元から落ちる。ふたたび右腕を動かして拭こうとする姿に娘は笑いをこらえた。
 冷たい菜っ葉が兵衛の口の中で旨味を出し、その瞬間に腹が鳴った。娘が声を出して笑うと鳥が羽を広げて首を傾けた。
「リン! 芋を見てくれ」という父親の言葉に名前がわかり、
「おリンさん! 芋はわたしが……」と初めて娘の名を呼んだ。兵衛はなぜか心が和んだ。

 使い慣れない左手で火箸を持った兵衛が慎重に芋をつまみ囲炉裏の木縁きぶちに移した。すると芋の焼けた匂いと遠火の鳥ももの脂の匂いに鍋から上がる漬け菜の香りがする。その出来上がりの順に父親が三対の漆器に取り分けていくと兵衛が喉をならした。
「卵をお食べになって下さいまし。精が付きますぞ!」と父親。
 このとき父と娘の言葉づかいの違いに兵衛が気づいた。父は奉公人のようであり、娘は百姓のようであるという違いである。
 兵衛は左手に自分の箸を持ち、囲炉裏の木縁に置いた器に口を近づけて卵を食した。
「これは!」と言って、初めての食感と味におどろく兵衛。
「お口に合いますでしょうか?」
「うまい! 卵は何度か食べたことがあるが、一番うまい」
「それは良かった!」
 兵衛は生まれてこのかた肉を美味しいと思ったことがなかった。そしてリンと呼ばれた娘は兵衛の不慣れな箸づかいをまめまめしく補いながら、
「父ちゃん、食べていいか?」と言った。
「ああ! 命をいただく。諏訪の神様に感謝してな」と父親が応じた。
 そのあと親子は神事にならい静かに食事をはじめた。兵衛はそのときの娘の清楚な食事の作法についても百姓のような言葉づかいとの違和感を覚えた。
 こうして兵衛が鷹匠の親子と食事をしながら武智一刀のことを思い出していた。。


●五.総行の足跡
 そのころ武智一刀は雪がちらつく道を善光寺へと向かっていた。
 善光寺への案内表示がみえたころから積もった雪で足が埋まるようになり総行の絵は達磨から雪ダルマにかわった。そして墨絵に次の行き先が書かれるようになる。その雪ダルマの絵を見て、まるで見下されて諦めることを諭すように思った一刀の奮起が絶えない。
 一刀は墨が滲んでいる具合で総行がどのあたりにいるか考えるようになった。また、絵が容易にはがれると時間が経過したと思って先を急ぎ、着きが良いと周りの気配をうかがう日々がつづいていた。

 雪のちらつく善光寺の門前で一刀が旅籠はたごを探していると、すぐに雪ダルマの絵を見つけ、
「粘り気がある。よし!」と絵をはがす。
「お待ちください! ひとの家に貼ってあるものを取ってはなりません」と旅籠の主人が止めにはいった。
「なにを言う! これはおれに宛てた目じるしだ」
「いいえ、厄除けでございます! 大師様の厄除けです」
「この絵がか? そんなバカな!」
「間違いございません! 毎年こうして貼ってくださいます」と言って旅籠の主人が絵をもとの位置に貼りなおした。
 主人に聞けば、この絵は節分のころに毎年托鉢の僧侶が貼りに来ると言うのである。総行と思しき僧侶が二日前に立ち寄り主人が相手をしたと聞き一刀はその旅籠を宿に決めた。

 おなじ旅籠に居合わせた越中の薬売りから聞いた話によると、善行寺から能登に至る経路は二つ。一つは、妙高を抜け高田から直江津に抜ける北国街道と。そしてもう一つは、白馬から糸魚川に至る塩の道と言われるもので、いずれも冬の時季は特に険しい。
 さらに風雪の日本海に出てからの海岸線を行く道には荒波によって多くの人が命を落とす地獄のような場所がある。その先が越中、能登へとつづくと聞いて一刀は行き方が気になった。
 こうして一刀は悩んだすえに越中の薬売りとその仲間といっしょに妙高を抜ける道をえらんだ。

 翌日、一刀は夜明けとともに宿泊客が次々に宿を出る声に気づき早々に支度をすませて街道に出た。そして雪が踏まれて歩きやすくなった道に沿って一番後ろを歩いていた。
 前をいく五人の男が申し合わせたように先頭を入れ替わりながら一刀の前を進んでいた。その進み方で三日と半日。そのころになると同じ宿に泊まり同じ時刻に起きていっしょに宿を出る顔なじみができた。
 五日目になると前を行く旅人が途中で二人に減り一刀も先頭に立って雪踏みに加わるようになった。しかし雪の深さが急に増して道がみえなくなる。
「すまぬが道を知らぬ! 先に行ってくれ」と言って一刀が最後尾を歩いていた。
 はじめのうちは二人の男が道案内をしているように思っていたが急に大粒の雪が降りだして二人の姿が見づらくなった。一刀は二人を見失う気がして間に入ろうとしたが断られた。そんな一刀をみて二人の男がときどき振りむいてくれた。

 ところが不慣れな雪道に疲れた一刀が昼を過ぎたころから遅れはじめた。
「すまぬが、この辺りに宿屋はあるか?」と一刀がたずねると中年の男が一番前の若い男の肩をたたいた。その若い男が振り向くと一刀が『やどや』と口を動かした。一刀は耳が不自由な若い男と身振り手振りで意思を伝えていた。
「宿屋でごぜえますか?」と中年の男が聞きかえす。
「そうだ。寒くて死にそうだ。何とかならぬか?」
「寒いのは何ともなりませんけんど、ぼろ屋でよかったら泊まって下せえ!」
「少し暗くなってきたが、どのあたりだ?」
「もうすぐ野尻でごぜえます。あの黒姫山の右っかしに村がありますんで」と中年の男が指をさす。その山を左手にして平地のなかを歩きだすと雪踏みが要らないことに気づき一刀が先頭に立った。
 風が吹きつけて積もった雪が平地を洗うように流れ、むき出しになったくぼみが所々に顔を出している。そこに気泡がうつると道ではなく大きな湖の上だとわかり一刀はあわてて二人の踏み跡に沿って進んだ。


 ほどなくして村のなかをとおる道にさしかかると風がおさまり足元が暗くなった。
「あそこでごぜえます!」と言って中年の男が指さした家は、ぼろ屋ではなく門構えのある立派な屋敷である。いっしょに歩いて来た若い男が屋敷の前で雪をはらい家の奥に到着を告げた。一刀も雪をはらいながら後につづく。
 中に入ると広い石敷きの土間に薬と書かれた荷籠にかごが並べてあり和漢薬を煎じたときの匂いがした。土間のわきの提灯に火がはいると雪ダルマの絵が張られているとわかる。一刀は無言のまま雪支度を解き中年の男の招きに応じて火鉢で暖をとった。

 中年の男といっしょに一刀が家に上がり足袋のすべりを気にしながら廊下を進むと煮炊きの匂いに気づく。広い間口の部屋の入り口の先に大小二つの囲炉裏が見えた。その囲炉裏の一方には鍋が掛けられ湯気があがり、そしてもう一方には金網細工の縁取りに『清酒』と書かれた土瓶どびんが置いてあった。
 その土瓶を見て、おもわず喉が鳴る一刀。
「さあ、どうぞ入っておくんなさい」と中年の男が一刀を先にとおし戸を閉めた。
「おー、暖かい!」と言って部屋にはいると奉公人と思しき女が炭をたす。
 一刀は煙が立ちのぼる高天井の吹き抜けを見ながら濡れた袴のまま腰を下ろした。すると炭をくべていた女が囲炉裏の近くに行けば行くほど温かくなると言った。その話を聞いて袴をたくし上げ素足になる一刀の足にしもやけが見える。一刀は大小の囲炉裏の間に席を移して尻の下に両手を敷いて温めていた。

 頃合いを見て、女が土瓶の中に癇付けの酒があると言うと一刀は茶碗になみなみとそそぎ一気に飲みほし、
「うーんーしみるぞ! 生き返る」と言いながら二杯目をつぐ。
「たんと飲んで、暖まってくんなさい」と奉公人の女が三杯目をついだ。
 土瓶の酒を飲み切ったところで、いっしょに道を歩いてきた二人の男がいっしょに囲炉裏を囲んだ。
「すまぬが、先に始めた」
「いえいえ、遠慮なさらずに。道中ご一緒させていただき助かりました」
「こちらも同じこと。名は何と申す?」
「はい! この辺で薬を扱っております佐平治さへいじと申します。これは息子の総太そうた。すべからく太くということで命の恩人に付けていただきました」
「もしや、総行という僧侶では?」
「えっ! お知り合いでごぜえますか?」
「ああ! その総行を追っている」
「では、あなた様は武智様でごぜえますか?」と、おどろく佐平治をみて総太が笑った。
 一刀と総行が知り合いであると知り佐平治が酒を追加するように言った。すると急に屋根の雪が落ち、その音におどろく一刀を見て総太が不思議そうにしている。
 そのあと耳の不自由な総太と総行の関係について佐平治が話しはじめた。

 佐平治の話は十五年ほど前にさかのぼる。そのとき総太を産んだ母親は難産のすえに亡くなり生まれた総太は息をしていなかった。そこに偶然居合わせた総行が施術によって総太の一命をとりとめたと言った。総行が薬を求めに佐平治の家に来ていたときは信州松代藩の真田家をはなれ出家をして仏門に入り北国街道を中心に托鉢をしていたという。その托鉢にあわせ越中の薬や妙高から黒姫一帯に自生する薬草を広めていたと佐平治が言った。
「ほうー、そうであったか! 総行は拳法の使い手であると聞いたが?」
「くわしくは知りませんが、足腰が丈夫で、雪道でも平気でごぜーます」
「ということは、ここに来たのか?」
「はい! 二日前だと聞いております。善行寺でお会いしたときに武智様のことを!」
「なるほど! では、妙高を抜けたころか?」
「そうでごぜーますな! 高田の辺りにいるころかと」と言って酒に手を付けない一刀に佐平治が酒をすすめた。その酒を飲みながら、
「わたしの先祖は隣の上田の出でな!」と一刀。
「では真田様のご家来であられたと?」
「うむ! そこは知らん。父母は江戸の松平の屋敷で知り合い夫婦《めおと》になった」
「それでは、お役目でこちらに?」と言って古びた過去帳を取り出す佐平治。
「いや、おれは三男で家を出た。総行を追っているが、おれも追われている」
「ちょっとお待ちくだされ! 武智様のお父上は松平様のご指南役だったのでは?」
「おう。よく分かったな!」
「総行様は、お父上が戦われた森脇様との試合をお断りになって出家なさったと!」
「真田との御前試合のことか?!」
 佐平治から父親のかたきとする森脇又十郎のことを聞き一刀の顔つきが変わった。

 一刀の父は信州上田藩松平家の指南役として江戸の藩邸で御前試合に出場し下位の者に敗れ自害して果てたのである。そのときの相手が先の田沼家中屋敷の他流試合に出場した真田家指南役、森脇又十郎だった。一刀はその又十郎を父親のかたきととらえ他流試合への出場を嘆願していた。ところが理由もなく出場を外されたのである。そのため佐平治から総行と又十郎の関係を聞いて二人との因縁を感じていた。
「すまぬ! 明日のために早く床に入りたい」と言って一刀がめずらしく酒をのこした。
「はい! ちょうど総太が妙高に薬をもらいに行きます。朝はご一緒に!」と佐平治が寝床の支度をたしかめ総太に一刀がいっしょに妙高村に行くことを伝えた。
 このあと一刀は布団が敷かれた別の部屋へとむかうがとこには入らず刀を抜いて柄紐つかひもをとき切羽せっぱの詰めをあらためていた。そして刀の抜き具合を幾度となくたしかめてから床に就いたのである。
 佐平治から聞いた因縁めいた話により一刀は総行に勝利すれば森脇又十郎との試合の道が開かれると期待した。そのため品川宿の手前で総行と遭ったときから刀を抜いていないことに気づき刀の抜き具合のもととなる切羽せっぱの詰めを検めたのであった。


●六.届けられた果し状
 野尻を早朝に出発した一刀は総太の道案内によって昼過ぎに妙高村に入った。その道には身の丈を超えるような雪の壁があり、それが風除けになることを知る。雲の間からときどき太陽が顔をだす陽気のなかを雪の壁を見ながら二人が歩いていた。
 妙高村の家並をとり囲む山の斜面には所々に雪崩の跡がみえ、振り返れば一人では到底越えることのできない雪の山道に点々と足跡が残っている。案内役の総太は耳が不自由で言葉が聞きとれないが一刀を気づかう動きに心が和んだ。

 善行寺からいっしょに雪道を歩きとおして六日がすぎ、その間まったく一刀と会話をすることのない総太である。それでも心がかようと思うと一刀は総太の命の恩人である総行に様々な思いを馳せてしまう。このとき一刀は総行と初めて会ってからのことを振り返っていた。
 こうして昼過ぎに妙高村に入ると村人総出で屋根の雪下ろしをしていた。その雪を積みあげた空き地の先に目指す百姓家がみえると総太が指をさし先に立った。見上げるような雪の壁の上に冬の間だけ出入りするための二階の戸口が見えた。家に近づくと豪雪に耐える重厚な造りであるとわかる。一刀は母屋のわきにある雪で作られた階段をのぼる総太の後につづいた。

 二階の戸口から家に入ると総太が大声を出したが何を言ったかは聞き取れない。家の主人が佐平治の手紙を読んで一刀の宿泊に応じたことが解ると総太がうれしそうに笑った。
「あのー、武智一刀様でごぜえますか? お番所に来るようにと聞いております」と主人。
「わかった! どのあたりだ?」と言いながら一刀が荷物を下ろす。
「村の外れです。総太に案内させますんで!」と言って主人は総太にゆっくり口を動かし『ばんしょ(番所)』と伝え、総太が首を縦にふった。一刀はいきなり家を飛び出す総太のあとにつづいた。

 番所に入ると役人は総太を知っていて口の動きで一刀の名前がわかったらしい。そして、すぐに油紙に包んだ封紙ふうしを渡した。そのまま外に出て封紙を開けて見るなり一刀が周りをうかがった。封紙のなかには『果し状』としか書かれていない。
 しばらくすると番所の軒下と雪の壁の間に人影がみえた。
「武智一刀殿とお見受けするが?」
「いかにも!」
「久保田佐奈江と申す! 問答無用にて真剣により勝負されよ」
「わざわざこんなところに! だれに金を積まれた?」
「どうでもよい!」
「場所は?」
「ここに決まっておる! 番所立ち合いがかなう」と言って佐奈江が刀の鯉口を切った。対する一刀は構える様子はない。

「しばし待たれよ! これにいる者は道案内。家に戻るように伝える」と、総太の肩をたたき微笑みながら『戻って待て』と一刀が口を動かした。そして戻る総太を見送りながら佐奈江に近づくと、さらに二人が現れた。
 すかさず、
「そちらのお二人は?」と一刀が問う。
「立会人を兼ねる!」と佐奈江。一刀は肩にたすきをしている二人を見てニヤリと笑い、
「なるほど。助太刀ではないと?!」と返す。
 対する佐奈江は先に刀を抜き、下段に構えて切っ先で雪面をたしかめるようにはらった。その動きに合わせ一刀は三歩下がって間合いを切った。
 ほかの二人がこの一刀の間合いを切る動きを嫌がるように三歩前に出た。その二人は間合いを切ろうとしないのである。その動きをみて一刀はふたたび下がり無垢の雪の上に位置をかえた。

 するとその様子を庇の下でうかがっていた番所の役人が後ろを向いていなくなった。そのあと一刀と相対する三人がすかさず間合いに入ると一刀はゆっくり番所のほうに動きながら刀を抜き中段に構えた。この一刀の攻撃の間合いを切ろうとする動きに立ち合いを兼ねると言った二人がついてくる。
 さらに間合いを切ろうとする一刀の影が佐奈江の位置に重なると佐奈江はその影をよけながら下段から中段に構えなおした。

 新雪の上に日が差して四人の影が同時に雪面にのびた。すると、いきなり右前方から居合の抜き身がはしる。
「抜きが遅い!!」と一刀。最初に間合いに入った薩摩藩士の刀が光ると同時にその刀と手首が宙に浮き雪面が赤く染まった。一刀の剣先は雪のうえに赤い滴りの弧をえがき中段に戻った。新雪では足もとがわるく瞬発力の居合に不利なのである。
 このことによって雪道を歩きつづけ雪上の感覚を体で覚えた一刀の動きが勝るとわかる。すると佐奈江ともう一人の薩摩藩士が除雪された場所に位置を変えた。
 一方、一刀に斬られた者は新雪のなかに落ちた自分の手首と刀を求めて這いつくばっている。
「手当てをしてやれ! 勝負はそれからでよかろう」と言って一刀が刀をおさめた。
 この一刀の指示により番所の役人が戻り、佐奈江ともう一人の侍とともに男を引きずって番所にはいっていった。一刀は雪中に落ちた手首と刀を拾い番所の戸口に運んだ。

 こうして佐奈江は手当てを指示し戻ってから一刀の構えなおしを待った。
「いざ!」と佐奈江。
「待て! もう一人が戻ってからでよかろう」と、一刀は刀を抜こうとしない。
「かまわぬ。いざ!」
「待てと言うに! 番所の役人が来てからじゃ」と言って一刀が佐奈江の一撃目をかわす場所をさがした。その一刀が番所の軒下にゆっくりうごいた。佐奈江の構えと足さばきによって示現流の使い手であると見切ったのである。すなわち佐奈江の打ち太刀をまともに受ければ一刀の刀は折れる。その一刀に佐奈江が付いてきた。


 番所の軒につり下がる氷柱の長さは三尺(一メートル)をこえ、真下に立った一刀の背中と番所の壁の間は一尺(三十センチ)に満たない。一刀の位置は佐奈江が打ち込むと勢い余って番所の壁にぶつかり、そして氷柱のかたまりが落ちる。
 すかさず一刀の位置をみて佐奈江が間合いを計りなおした。
「考えたな! 氷柱を落とさぬように打ち込めと?」
「そのとおり!」
「では、いま落ちたら?」
「それは、それ! 氷柱があたる痛さをあじわってみても楽しかろう!」
「バカな、さっさと味わえ! 氷柱はいずれ落ちる」と言って佐奈江が下がった。

「そんなに下がれば示現流の太刀はとどかぬ!」
「うむ!? 意味がわからん。であれば氷柱ごと切るだけのこと!」
うそをつくな! おぬしは氷柱を斬ったことはない」と一刀が返す。佐奈江は構えなおすと見せて突如として突きをくりだした。対する一刀は佐奈江が氷柱を気にして突きをみせるとよんで番所の壁に体をぶつけた。
 佐奈江の突きの一線はわずかに届かず。氷柱は落ちずに番所の軒先で揺れている。
 佐奈江は雪中における一刀の抜きのはやさを見て裏をかくつもりで突きを出したのであった。
「なんと、落ちてこぬな! 笑わせるつもりか?」と佐奈江。
「氷柱を怖がったように見えたが?!」と中段のままの一刀。
「おぬしの動きは見切った!」と言って佐奈江が氷柱に目をやると音を立てて落ちはじめた。二人の姿は雪煙のなかに消えた。

 ふたたび姿を現すと一刀の切っ先が佐奈江の喉を突き貫いていた。
 このとき、佐奈江と同じ間合い、同じ技の突きを氷柱が落ちる前にくりだした一刀に状況に応じるという格の差がみえた。
 一刀はすぐに刀をおさめ、氷柱で挫創した佐奈江を掘り出して手当てをほどこした。そして番所の役人に怪我を負った二人のことを頼んでいると、この試合が田沼意次直々の指示による試合であることを知った。
 この試合の状況を見ていた番所の役人は一刀と佐奈江の一対一の果し合いが命じられたにもかかわらず二人の薩摩藩士が加わったことを報告し後日意次の耳にはいる。これによって薩摩藩は謝罪の使者をたてることとなり意次に薩摩からロシアの実態が伝えられた。


第三章
●一.巣立ちのとき
 一方、諏訪で凍傷の右手を切除した多田野兵衛は、右腕にそえる義手の代わりになるものを試行錯誤していた。鷹匠の親子と暮らしはじめて三ヶ月が過ぎ、傷も癒えて左手で器用に身の回りのことが出来るようになっていた。晴れた日には親子といっしょに狩りに出かけ、狩が出来ない雪の日には大きな竹の籠を編んでいた。
 兵衛の姿は髪を浪人風にいわき顔の髭がのびていたので一見すると誰だかわからない。そろそろ素性をあかすべきと思ったが親子が名前すら聞かないので兵衛は狩と竹籠づくりの日々を過ごしていた。しかし・・・
「すまぬが、話があります」と神妙な兵衛に対し囲炉裏をはさんでリンの父親が、
「どこか痛みますでしょうか?」と心配する。
「いや、そうではない! 長居をしているが素性を言っていなかった」
「そのお体では、何をお話しくださっても出て行けとは言えません」
「では、言わぬほうが良いと?」
「もし、差しさわりがあれば、いつでもお話しくださいまし!」
 兵衛にとって、この父親の一言が過去の経緯を話す切っ掛けとなったのである。
 武士の身形をした者の右手を切除した親子の思いと、切除された兵衛の思いは過去を語ることのない日々となっていた。しかし兵衛は追手のことが気になり見つかる前に素性をあかそうと考えたのである。

 このとき親子の誠意を感じて兵衛が切腹にかかわる経緯をあかした。
 その話を受けリンの父は鷹匠として十年前まで真田家に仕えていたと言い、諏訪乃香風すわのかふうと名乗った。
 この香風と兵衛の話を聞きながらリンが香風に目配せをした。
 その後、兵衛は追手が来ても何も知らなかったと言うように香風に願うと香風は無言でうなずき話を変えた。そして神棚の下の行李の中から大小の刀と袱紗ふくさに入った五十両を取り出した。
「これは、あなた様のものではありませんか?」
「たしかに、わたしのものですが」
 香風は雪のなかで兵衛を見つけたときには無かったものだが、その後の狩りで鳥が見つけたと言った。兵衛を見て外見から侍であると分かったが腰に大小の刀が無く不思議に思っていたと言った。
「すまぬが、雪解けの前にここを離れる。これ以上世話にはなれません!」と兵衛。
「おら、なんも世話しておらんし香丸も慣れているよ!」とリンが割ってはいった。
「これ、リン!」
「いや、気持ちはありがたいが……」
「では、承知いたしました。どちらに向かわれるかは聞きませんが、よろしければ冬支度は今のもので。使い慣れたほうが動きやすいでしょう!」
「はい! その折は借りてゆきます」
 兵衛は大小の刀と一緒に袱紗にくるんだ五十両を香風から受けとると、二対の切り餅の片方を差し出した。
「めっそうもございません。リンがこのように楽しく出来るのは多田野様が初めてでございます」
「いや、しかし! 命を救っていただき、わたしも……」
「お気持ちだけで十分にございます。それより御身をお守りください。わたしどもは多田野様に生き抜いていただきとうございます。これはそのために!」と言って香風が二十五両の切り餅を返す。
「父ちゃん! あの人みたいに小さい刀をもらう」とリン。
「これ、リン! お命と同じものをほしいと言ってはならぬ」
「いや、命の恩人に対し礼として当然!」と言って兵衛は脇差を二十五両と入れ替えた。父の香風は断ることなく丁寧に脇差を受け取ると神棚の供物の中央にそなえた。
 兵衛はその日から左手一本で真剣を握り鍛錬にあけくれた。そして右手の義手はリンが作った鷹匠のエガケが着けられたのである。

 別れの前の日・・・
 兵衛はリンに悟られないように身支度をしていた。香風もそのことを察して翌日の天気を晴れると言った。しばらくしてリンの寝息をたしかめた香風が竹籠の仕上げをしながら・・・
「おそらく気付いております」
「やはり」
「香丸もリンも! 多田野様のお気持ちを……」
「わたしも何と言ってよいか!」
「何もいりません。この子も実の父と別れたときのことを思い出します」
「そうでしたか。差し支えなければお聞かせ願えませんでしょうか」
「はい! 父は総行と申します。母はわたくしの妹でございますが、ここに来る二年前に他界しております」と香風が総行のことに触れた。
「では、真田様にお仕えしておられたときに?」と兵衛。
「はい! リンが六歳でございました。そのとき御前試合が組まれ森脇又十郎様と……」
 兵衛は香風の話に聞き覚えのある名前があることに驚いた。リンの実の父である総行のことは知らなかったが、先の田沼家中屋敷で行われた他流試合の出場者のなかに森脇又十郎がいたことを覚えていたのである。
 この話を聞いた兵衛は年はじめに行われた田沼家中屋敷の他流試合の結果が気になった。そして諏訪乃香風からリンの実の父である総行と真田家指南役の森脇又十郎のことを聞き真田の剣への思いが一層深まることとなる。
 話を終えると、香風はふたたびリンの寝息をたしかめ眠りに就いたが兵衛は眠ることが出来ずにいた。

 明るくなるころに兵衛は炉端の炭を集めようとして左手で火箸を握り囲炉裏の灰を掻いた。薄暗い家のなかで火が上がると囲炉裏の横で寝ているリンの顔がうかび頬に涙のあとが映し出された。その顔を見て兵衛が動きをとめた。
 炭が燃えてと音を立て朝日が戸板の隙間から糸の様にさし込んだ。
 鳥が目を覚まし羽ばたきを一つ。
「おはよう!」と、リンの声に兵衛は目を閉じた。
 リンはあの時と同じように鳥に肉片を投げ厠(かわや)に消え、戻ると格子戸の隙間からいつもの様に外を眺め背伸びをした。兵衛は何一つ変わらない狩の支度に初めて会ったころを思い出していた。
「起きて、父ちゃん!」
「ああ、いま起きる!」
 このいつもの声掛けが心にしみる。
「おう、これは! 起きておられましたか。いまから狩りに行きますんで」と言われ、眠ったふりをする兵衛の上に掛けられた布団が温かい。兵衛は目を閉じたままうなずいた。そして香風とリンが狩りに出かけたことを格子戸からたしかめてから荷物を背負った。すると囲炉裏の脇の鳥の絵の漆器が二対しか置かれていないことに気づく。兵衛は一対の器が荷物のなかに入っていることを予見しながら開けてみた。中を見た兵衛は涙があふれ左手で目頭を押さえた。

 そのあと兵衛は思いを断ち切るように早足で家を離れたが湖水の茂みのなかに人の気配を感じて立ちどまった。追手であると疑いつつ街道までの道を急ぐ。そして街道に出る二又の道で待ちかまえ追手が北と南のどちらに向かうか様子を見ていた。すると見知らぬ男が馬に乗って南に去ったので兵衛は迷うことなく北にむかい中仙道から北国街道にはいった。彼は真田の剣の地元、松代城下を目指した。


●二.片腕の強剣
 松代城下に向かう途中で兵衛は着物を買い求めたが、髪と髭をそのままにしていたので彼の姿は着慣れた冬支度によって地侍のようにみえた。
 兵衛が城下に入ると武士と町人が笑いながら言葉をかけあう光景が所々で目にとまる。江戸とはまったく異なる暮らしぶりに兵衛は香風とリンのことを思い返していた。
 ところが、信州松代藩は真田家を中心とする結束の強い土地柄である。兵衛の髭面ひげづらの風貌と右手首から先が欠損している姿は明らかに城下の人たちに不信を抱かせた。
 しばらくすると警備の侍に行く手を阻まれ兵衛に声がかかる。
「ちょっと待たれよ! どちらに向かわれる?」
「江戸からこの地にまいった。雪の中で道に迷い、この手を失った」
「だから、どこに行くと聞いているのだ!」
「ご城下にて宿を取り、しばらくいるつもりだ。怪しいものではない」
「身を検める。神妙にしろ!」と言って縄を打たれるが兵衛には縛る右手がない。そのうえ兵衛の姿は左の腰に大刀一つを差し入れている。左手だけで刀を抜くには右の腰に付けるが、いずれにしても刀を抜くことはままならないのである。それに気づいた警備の侍が縄を解き兵衛を奉行所に連れて行くと言った。

 その侍に伴われ道を歩いていると松代城の天守閣が見えた。兵衛は歩きながら大手門の先の城の構えに見入っていた。けして大きくはない門構えと飾り気のない城壁が松代城の歴史を物語っている。兵衛には武田信玄によって居城されて以来、実戦を経て何代にもわたり城主を換えてきた城の構えが楚々として隙が無いと映った。
 五人の侍にともなわれ兵衛が裏口から奉行所にはいった。そのあと肩に縄が打たれて詮議がはじめられたが縄の締め具合がほどけるほどに緩い。不思議に思った兵衛にその理由がみえた。
おもてを上げられよ! 縄を解き、人払いを」
 兵衛は目の前にいる男に見覚えがあった。
「やはり、そなたは真田の御家中であったか!?」
「いかにも! 諏訪から後をつけていた。しかし御手前のことはよく知らぬ」
「南に向かわれたようだが?」
「たしかに! 追手がいたので南に行くと見せかけ斬り捨てた。その身なりでは放ってはおけぬ。いや! 隙だらけで打ち込めぬというのが正直なところだ」
 この言葉のやり取りで、二人はすでにお互いを試合相手として意識しているように見えた。そのことを感じた兵衛が江戸で切腹を命じられてからの経緯を話し、そして諏訪で香風とリンに命を救われたことを話すと男は素性をあかした。兵衛はその男の名前を予見し、男もまた兵衛の思いに気づいたように姿勢を正し、森脇又十郎と名乗った。

 素性をあかした又十郎は、そのまま兵衛の取り調べを継続すると言って奉行所に留め置いた。その扱いは客人同様。そして又十郎は兵衛に対する追手のことを考え「実戦のための稽古をおやりいただく!」と言った。
 このときすでに松代藩主、真田信治には老中田沼意次から内々に番外編(試合)の話が来ていた。そのことを踏まえ実戦のための稽古の意味合いは番外編(試合)を想定した真田信治からの指示でもあった。しかしその番外編(試合)の目的がロシアとの関係に変わろうとすることを兵衛も又十郎もまだ知らなかった。

 数日後、又十郎を師事するという者から兵衛が稽古の相手を頼まれた。その話を受けるとき兵衛はその者の顔立ちが又十郎に似ていたので親戚であると思い稽古の求めに快く応じた。
 まだ初々しさの残る相手の青年の手には無数のマメの跡がみえる。体の線に比べて腕が太く肩が盛り上がっているので激しい稽古をしているとわかった。
 支度を整え、奉行所の中庭に出て久々に木刀を握る兵衛は真剣の重さに比べて極端に軽いと感じた。そして、打ち込みと掛かり稽古を終えてから汗を拭き、初めて追われる身であることを想定するような実戦を意識した。

 若者は兵衛の心の動きを見切ったように鋭い太刀裁きを見せ猛然と体をぶつけてきた。左手だけで応じる兵衛が若者に押された。
「多田野様! そろそろ試合稽古をお願いいたします」
「そうであった! わたしは右手を失くして初の稽古。どう応じてよいか解らぬゆえ、よろしく頼みます!」
「はい! 父は胸を借りるつもりで思う存分戦ってこいと申しました」
「そうであったか。森脇殿の御子息とは!」
「あっ、失礼つかまつりました。名前を申し上げておりませんでした」と言って片膝をついた青年の目が鋭さを増した。そして、森脇又十郎の嫡男、蔵人(くらんど)と名乗った。
 対する兵衛は右手の傷の保護のためにリンが作ったエガケを付け、あらためて左手に木刀をにぎって鋭く振り下ろした。そのとき嫡男を稽古の相手に差し出した又十郎の思いに一切の迷いが消えた。
「では!」
「よし!」
「……いざ!」
「おう……!!」と応じ両腕をだらりと下げた兵衛が一歩下がって間合いを計った。兵衛の左手の木刀の先は地面に着いている。この独特の構えに蔵人は中段から上段に構え直し右に動いた。力強い蔵人の上段に兵衛は飛び込んでくると感じ、さらに一歩下がる。
 幅三間(五メートル)の間合いを詰めようとする蔵人の気迫をかわそうとする兵衛。その兵衛が左に動きながら構えを変えた。
 兵衛の構えは失った右手の位置を中段に上げ、その位置に左手で握った木刀を乗せている。兵衛の影が蔵人に向かって伸びるとエガケをつけた兵衛の腕に鳥が止まっているように映っていた。
 蔵人は初めて見る構えに迷いなく飛び込んだ。その鋭い袈裟斬りは兵衛の受け太刀によってはじき飛ばされ蔵人が倒れかかる。そのあと手をついた蔵人が、
「参りました!」と言って、ふたたび構えなおした。
「こちらも気迫に押されたぞ!」と言って受けた木刀をたしかめる兵衛。
「いまの構えは?」
「そなたの打ち込みを防ごうとした。初めての構え!」
「では、二本目をお願いいたします」
「よし。いざ!」
「いざ!」
 二人の稽古は日が暮れても続いていた。

 その後、兵衛は松代藩の剣士たちと日々鍛錬をかさね、その腕前は城下に知れ渡ることとなる。それをみて森脇又十郎は兵衛の回復ぶりを『片腕の強剣』と称し藩主真田信安に報告していた。
 この兵衛の回復について真田信治が意次に伝えると他流試合の番外編(試合)への出場が伝えられた。
 森脇又十郎は、その年の田沼家中屋敷で行われた他流試合で相手の久保田佐奈江の木刀が折れて目に当たり負傷していた。その試合では又十郎の打突がまさり佐奈江の肩を又十郎の木刀が直撃して勝利を収めたものの右目負傷により視力が低下した。
 意次は他流試合の結果をみて、又十郎の怪我の回復を条件に番外編(試合)の候補者とすることを家臣に打診していた。そのことを知った又十郎が早々に決勝戦を辞退して怪我の養生に専念することを申し出た。すなわち又十郎にとっては番外編(試合)が他流試合の決勝戦に代わるものなのである。


●三.命の修行
 一方の武智一刀は、久保田佐奈江を越後妙高の番所にて打ち破り、拳法の使い手である総行をひたすら追っていた。目指す先は総行が指定した能登の狼煙という地であるが、何故その地を総行が指定したかは聞いていない。一刀は、深雪の妙高から越後高田を抜け荒波の日本海を見ながら越中へと向かっていた。
 冬から春にむかう日本海の天気は雪もあればみぞれと雨が混じり時には日が差すこともある。強い風とともに一刀の顔に波しぶきが当たり、いつしか風が当たる右の耳に霜焼けができていた。
 糸魚川の宿を出て崖下にある道を進んでいると海の色が濃いみどりから翡翠ひすいのような明るい青に変わった。それと同時に頭の上にせり出た岩のかたまりが落ちてくるような道がつづく。一日のなかで冬から春に向かう自然の移り変わりを風情と言いながら、一刀は同じ景色の海岸沿いを歩いていた。

 その一刀の足を突然波がさらった。行き交う人の数が増えたことに気づき一刀が先を急ぐと目の前に人垣が見えた。
「すまぬが、ここはどこだ?」と一刀が渡世人にたずねた。
「地獄みてえなところだ。知らぬが仏でござんす」
「知らぬから聞いておる。教えてくれ!」
「親知らず子知らず。そのうち悲鳴が聞こえますぜ!」と、渡世人は一刀に先をゆずった。人をかき分け人垣の先頭に立った一刀の目に飛び込んだのは人が波にのまれるまさにそのとき。そして断崖を上から下にまじまじと見てその険しさに息をのんだ。見とおせる範囲の道が途中で石と砂利に変わり波がよせると褐色のしぶきがあがる。打ち寄せる波は大波であることが音で伝わるが実際の高さは分からない。

 一刀は目を凝らして波間に浮かぶ人の姿を目で追っていた。すると隣の男が、
「あれが四人目。三人目は途中で子供と父親が(波に)のまれちまった」と言った。見ると波しぶきのなかに流木と男が浮かんでいる。その男の体を基準におよそ六間(十メートル)の波だと分かると、三十間(五十メートル)ほど先の岩のくぼ地に身を寄せあう人影に一刀の目が釘付けになった。
 急に人垣のなかから経(きょう)が響き、あたりをうかがう一刀に、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや!」と、聞き覚えのある低い声が波音にまざる。
「総行?!」
 一人の托鉢姿の僧侶が引き波のなかを飛び跳ねながら走り出した。その僧侶が途中で波打ち際に横たわる子どもを抱きかかえた。すると波が寄せて、その波の力に耐える僧侶はまさしく総行であった。悲鳴が聞こえ母親と思しき女が僧侶にむかって走り出した。

「来るな! 戻れ!!」と、引き波と寄せ波の間に刺さるような声が響く。女は岩のくぼ地をめがけて戻り、波のなかでもがく僧侶に手を合わせた。
「やはり、いたのか!」と、一刀が総行に気づく。しかし後を追うことが出来ない。その一刀が目線を外し悔しさと刺し違えるように「まさに天下の険」とつぶやいた。

 つぎの瞬間、周りから拍手と歓喜の声がしたが一刀は総行の姿を追うことはなかった。彼は荒れ狂う日本海をながめながら剥き身の流木が浮かんでいると人のように見ええることに怖さを感じていた。
 しばらくすると・・・
「あれ? 赤子が残っていますよ!」と言って隣にいた男が一刀の顔をのぞき込んだ。波に打ち上げられた赤子を助けてほしいと言わんばかりの声掛けではあるが一刀はその姿を追おうとしない。泣き声が途絶えると死を意味する凄まじさに助けにいく者がいないと分かると一刀は人垣の後ろに位置を変えた。
 そして迷うことなく馬を買おうとした。
「一番いい馬はいくらだ?」
「十両!」
「なんと! 安くはならんのか?」
「まあ、待て! 波の高さに応じて値段が変わる」と言われ一刀は待つことにした。
 しばらくして波が収まりはじめたころに、一刀は人が波打ち際を走り出すのを見てふたたび馬の値段を聞いた。当初十両と言われた馬の値段は三両となったが、一刀は二両に負けさせ馬に乗って親知らず子知らずの海岸を渡り切った。

 後ろに残る馬の足跡をすぐに波がかき消すと思っても一刀は振り向いて足跡を目で追った。そこに総行と同じ道を進むがゆえの人としての優劣が明らかにされている。見ず知らずの子どもを救った総行が善人であれば赤子を救おうとせずに命をおしんだ一刀に善を語ることはできない。彼が後ろを振り向いた姿に過去に対する迷いが見えた。
 総行が残した『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という親鸞の教えは、善人と悪人の両者が信仰によって救われるという意味である。一刀が善とするものは彼が父のかたきとする森脇又十郎を打ち破ることである。そのために彼はあえて悪名を着て又十郎との試合を待ち望んでいた。もし悪名高き一刀に敗れることがあれば試合相手はすべてを失う。その一刀に立ちはだかる者がいるとすれば剣の真田を誇る森脇又十郎以外には考えられなかったのである。

 ところが総行の存在が日に日に大きくなると一刀は是が非でも総行と戦いたいと願うようなった。そのためには追手を打ち破り総行の目的地である能登の狼煙の地にたどり着く必要があった。
 この『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という一節によって一刀の遺恨は荒波のなかに消えていった。そして一刀は総行が残した達磨の墨絵や数々の言動に意味が含まれていたことに気づきはじめたのである。


●四.赤子の声
 その後、日をまたいで越中氷見に入った一刀は体力を温存しようとして馬に乗ることにした。総行に追いついて戦うために二両で買った馬である。ところが騎乗馬すると冷たいみぞれが体を濡らした。
 太陽が出ているのに雪と霙が交互に降り水平線の雲のあいだに虹が架かっている。この地は冬を終えようとすることを拒むようだと一刀が荒れた海と虹を見ていた。
 氷見から能登に入った一刀は足跡を残さないように波打ちぎわを馬に乗って北に向かった。そのころから総行の達磨の墨絵が見当たらなくなり一刀は追手のことを考えるようになった。
 広い砂浜には追手が待ち伏せしても隠れるような場所はない。馬のひづめ蹄の上まで波が寄せて足音もなければ蹄の跡も残らない。それでも一刀は時おり振り向いて人の気配をさぐっていた。

 とつぜん赤子の泣き声が聞こえたと思い一刀が周りを見回した。その景色のなかに誰もいないことを願うと不安が増した。一刀の視界には砂浜に点々と続く足跡が残っていた。海は荒れているが潮が引きはじめたことで足跡が消えなかったのである。馬の足跡が残っている不安とともに赤子の泣き声が海から聞こえてくる。その声がウミネコだと分かると一刀は馬の首にもたれて体を温めた。
 そして一刀が馬の足跡を消すために波のなかに馬の向きを変えても馬は水が欲しいと、かってに向きを変えて足元の雪を食んでいる。それを真似て一刀が雪を口に入れると苦みと塩辛さで顔をしかめた。馬の目は優しく狼煙の地に向かう一刀のことを解っているように大人しく言うことを聞く。しかし、いつも馬に乗って追手のことを考えているので一刀に馬の表情は伝わらなかった。

 日が傾きはじめると潮位が増して馬の足跡を消すことに気づき一刀は後ろを振りむかなくなった。潮が満ちて波の音が急に強まったので視線を海側に変えると、うっすらと山並みが浮んだ。まるで別の国が海の向こうにあるような高さの稜線がみえる。その稜線が佐渡ヶ島であると思ったが別の国であることを願いながら見つめていた。そして、
「あいつ(総行)もこの景色を見たのか!」とつぶやいた。
 その島は古来より流人の島と言われるが黄金の採れる宝の島だと伝え聞く。荒れた海のなかに浮かぶ島をみながら無駄な感傷だと思いつつ、ひたすら隙(すき)を消すためだけに振り向いた。ところが、どこを見ても人影はない。
 一刀に疲労と孤独に耐えながら追手と戦って勝たなければ死を意味するという恐怖が重なった。

 ふたたび海の方を見回すと、荒涼とした碧の海に流木の剥き身が浮んでいて人のように見える。その流木の上にウミネコがとまっていたが突風にあおられて飛び去った。
「赤子でなくてよかった!」と言いながら薄目にすると蚊柱のようにウミネコが群れていた。その群れに夕日が重なるところに小さな神社が見えた。
 一刀は迷わず神社をめざした。その神社は異国より鬼が人をさらいに来るという伝説があると総行の最後の達磨の絵に書かれていた。神社はその鬼の怨念おんねんを消すために建てられたものであると。

 馬から下りた一刀は社につづく石段で喉を潤すために鳥居に付いた氷柱を口に入れた。その氷柱が融けて口のなかに砂を感じると人の気配に気づく。神前の心得を知らないわけではないが一刀は思わずつばを吐いた。そして馬の手綱を鳥居に結んで辺りをうかがった。
「なにやつ!」と、一刀が探りを入れる。すると、
「迎えにまいった」と、錦の飾り半纏はんてんをまとった男が石段の上にあらわれた。
「名を名のれ!」
「追手とでも!」
「おれを知ってのことか?!」
「知らぬ! 二両で請け負った。地獄に行きそびれたと馬が笑っていたぞ」
「二両だと!」
「わるいか? 殺せとは言われていない」と言って、その男が一刀をしりめに石段を上っていった。
「追手とやら! どこに行くつもりだ?」と、男のあとを追う一刀。
「地獄見物! 赤子を殺めた罪だ。つぐなえば消える」
「証拠は?」
「水と飯! 狼煙に行くと聞いている」
「知っていたのか?」
「もちろん! ……受け取れ」と言って男が風呂敷包みを投げた。だが、受け取る動きがままならず一刀が石段の上に包みを落とした。漬物の匂いを感じてすぐに風呂敷をあけようとする一刀は追手と名のった男に無防備である。

「毒見をしろ!」と一刀。
「ふん! では捨てるが良い」
「いやー、捨てろという物に毒は無いはず」
「勝手にせい!」と言って、その男は石段を下り馬に芋を与えて去っていった。

 一刀は男がいなくなるのを見てから石段を上がり社の錠をこわして崩れるようになかに入った。そして床に倒れ込んで風呂敷を開け竹筒の水を飲みほして握り飯をむさぼった。するとウミネコの声がして一刀が咽返むせかえす。その声による思いを打ち消すように「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや!……」と歎異抄の一節をくり返していた。
 神社の裏手の断崖にはウミネコの巣があったが一刀はそれを知らなかったのである。

 寒さと空腹によって死を覚悟しても追手の恐怖にさいなまれる一刀に、わずかに生きる理由がのこっていた。それは総行の哀れみによって追手と名乗る男が救いの手を差し伸べたと思うと、総行と戦って命を失いたいという願いである。そんな一刀が親知らず子知らずの地で波にのまれた赤子を救おうとしなかったことを後悔し、赤子の声に似たウミネコの鳴き声に苦しんでいた。
 やがて夜が深まるとウミネコの声がしなくなり一刀は寒さをこらえながら鬼の伝説を祀る社で眠りに就いた。

 夜が明け、一刀が神社の石段を下りると馬と目が合った。馬の体にまとわりついた霜が馬の震える動きによって落ちると鞍を外し忘れたことに気づく。荷物を背負ってあぶみに足をかけたが一刀の足が上がらずまたぐまでには至らない。すると馬はその動きを嫌って横に首を振った。
 一刀が馬をなだめてから足を手でつかみ鞍の高さまであげて騎乗すると馬はゆっくり進みはじめた。手綱は緩めたままでも馬は砂浜に出ると北にむいて動きを止めた。後ろには昨日の足跡が残っている。一刀は思い立ったように刀の位置をたしかめ、そして、
「追手などというものを誰が考えた!……」と言いながら気を失って馬から落ちた。馬は彼が落ちても騒ぐことはなかった。

 ふり返れば年明けの田沼家中屋敷で行われた他流試合への出場の知らせを受け、あえて汚名を着るために道場破りをして金を無心し、切腹を言いわたされた一刀が江戸を出て三ヶ月が経っていた。そして品川宿にむかう途中で総行と出会い『未熟のさらに下』と揶揄され憤った。その一刀が総行の後を追い能登の狼煙にむかい打ち負かそうとした。しかし結果として総行に追いつくことが出来ずに力尽きたのである。
 その強さゆえ人を殺め、その鋭さゆえに誰もが恐れ、その正しさを自らの善ととらえた一人の剣士の修行は完遂しなかったかに見えた。この時点で一刀に総行の後を追わせ修行をつませるという指示を出した田沼意次に総行が結果を伝えることとなる。
 総行は最初に一刀と相対したとき一刀の力量をみて『未熟のさらに下』と揶揄して奮起を促した。その時点では一刀の実力を過小評価して酷寒の北国街道を越えて日本海に至るとは思っていなかった。一刀の行った修行の成果は総行の当初の予想を超えていたのである。馬はその後、砂の上に横たわる一刀を気づかうように止まっていた。



●五.修行の終わり
 その一刀が気を失って最初に気付いたのは、パチパチと薪が割れる音だった。耳だけは確かなようだが目も開かず身動き一つ出来ない。一刀は追手に殺されると思い自らの命のはかなさを振り返って息を吐いた。
「……?! うーうー」
「聞こえたら小さくうなずけ! 少し口を開けろ」
 その低い声の特徴に小さくうなずき一刀が口を開けた。
「白湯だ! が割れている。しみるかもしれん」
 総行の声と知っていても一刀は返す言葉がまとまらない。少量の白湯がゆっくり喉を濡らし痛さとともに甘さを感じた。
「約束のものを!」と鬼の伝説を祀る神社で追手と名乗った男の声がする。
「これだ! 生きていなかったら渡せなかったな」と総行の声。
「かたじけない。で、この者は?」
「回復を待って江戸に連れて帰る。田沼様のご指示だ!」
「して、どの様に江戸へ?」
「和倉から北前船だ。一月はかからんであろう」
「狼煙は?」
「とっくにあげた。これで修行は終わる!」
 一刀は鬼の伝説の社で聴いた男の声と総行の声に聞き耳を立てたが何を言っているのか理解できない。ただ、田沼と狼煙という聞き覚えのある言葉が記憶にのこった。しばらくすると親知らず子知らずの地から鬼の伝説を祀る神社までのことを思い出した。
 一刀は総行の話があえて田沼意次との関係を伝えているように感じて薪の燃える匂いのなかに身を委ねることにした。

 ふたたび一刀に聞こえたのは船の櫓を操る音だった。潮の香りで海の上にいるとわかるが能登の荒海のように揺れないので不思議に思っていた。そして総行と追手と名乗った男の話に聞き耳を立てると薄っすらと周りが見えるようになった。
「湾のなかは波一つ立たぬとはな!」と総行の声がする。
「ああ! あの先が和倉だ」と男の話で能登の和倉の近くにいるとわかる。
「船は薩摩が用立てた。この者の相手が薩摩とつながっていた」
「相手は負けたのか?」
「その様だな! 沙汰を受けたものは首を突き抜かれ、もう一人は腕をうしない自害した。そして、それを知らせたものが切腹を言い渡された」
「なるほど、かなりの腕前か?」
「いや! はじめは性根のない剣だと思った。そして腕を取って倒した」
「なんと、おぬしらしいな! 田沼様の試合を断ると、こやつと戦えと言われたそうだな!?」と、無双が言ったとは中屋敷で行われた他流試合のことである。
「ああ! そのとき、それほどの腕前ではないと伝えたら修行をさせろと言われた」
「それで狼煙のを思い出したとはな!」
「そういうことだ! いざというときの目印となる場所を見せて、ついでに目印の絵も見せてじゃ」
「あのダルマの絵か! 絵が達者でよかったではないか」
 当初、総行は『江戸十里四方追放』となった武智一刀の動きを探っていた。そのなかで一刀と多田野兵衛がロシアとの密貿易にかかわったという噂を聞き、年はじめの他流試合への出場者からはずれて調べていた。もともと総行はロシアの密貿易の噂を耳にしており、その実態を調べるときに使ったのが狼煙の港にあるという宿屋だった。

 こうして櫓をこいでいた男は和倉に着くと一刀を背負って船をおりた。そして一刀に馬を借りると言ってすぐに船に乗って戻っていった。
 当初の予定では、目指す狼煙の地において狼煙があがれば無事に一刀の修行が完遂し江戸の意次に伝わる運びであった。しかし瀕死の状態で一刀が見つかり、総行の配慮によって途中で狼煙が揚げられたのである。このことにより田沼意次が考えている番外編(試合)への一刀の出場は彼の身体の回復を待ってからとなる。
 月日は弥生から卯月に変わった。


第四章 
●一.深まる因縁
 総行と武智一刀が和倉に着いて二日後、二人は薩摩藩が用立てた北前船に乗って能登半島を折り返すように加賀前田の金沢を経て江戸にむかった。北前船に乗るとき一刀の姿を見た薩摩藩士たちが病気を疑うほど一刀は衰弱していた。
 一方、多田野兵衛は松代藩指南役の森脇又十郎のもとで松代藩士を相手に稽古を続けていた。多田野兵衛は冬の諏訪で道に迷い凍傷によって利き腕の右手を失ったが残った左手で追手と戦うことを想定して鍛錬していた。
 その兵衛を全面的に支援して再起を促したのが森脇又十郎だったのである。
 又十郎は年はじめの田沼家中屋敷で行われた他流試合において試合相手の久保田佐奈江の木刀が折れて目に当たり視力が一時的に低下していた。そして自身の回復をはかりながら兵衛と剣を交えることを待ち望んでいた。

 こうして又十郎は機が熟したとみて藩主真田信安に兵衛との試合を願い出た。ところが、
「その話はわかった。田沼様から至急の話がきておる!」と藩主信安は、その場で意次に許可を得ると言って使いを出した。その信安にはすでに意次からロシアの動きに関わる相談が寄せられていた。そして諸大名を江戸に集める表向きの理由として将軍臨席による模範試合を行うことを聞いていたのである。
 一方の意次は、当初はロシアとの密貿易を取り締まる立場の兵衛に何らかの行き違いによって誤って切腹の沙汰が下りたと思っていた。そのため守護役の総行に対する指示は多田野兵衛と武智一刀の後を追うことであった。ところが、その二人に偽って切腹を言いわたした者がロシアと密接につながっていると考え方針を変えた。

 すなわち意次は、兵衛と一刀がロシアの脅威を知らしめる何らかのカギを握っていて敵が二人の口を封じるために切腹を言いわたしたと考えた。そのため両名を江戸に呼び戻しロシアとの密貿易の実態を説明させようと考えたのである。
 このとき意次は幕府内部にロシアの内通者がいると思っていた。
「申し上げます」
「……! いかがした?」
「真田信安様から手紙が参っております」
「ほう! 真田も総行の狼煙を見たかな?」
「では! お読みにならなくとも多田野兵衛を捕らえた際のご指示のままで?」
「そうだな! その四人により真剣にて勝負をさせてみるか。日時は(徳川)家治侯のご意向をくんで決めるとする」
 こうして意次は真剣をつかった模範試合のことを臭わせながら敵がどのような出方をするか警戒していた。この真剣による試合を意次が公言したのは他にまねのできない試合を企画して注目をあつめるためである。

 するとそこに蝦夷地のアイヌとロシアが無断で交易を開始したという知らせが入った。その話のもとが大番であった兵衛の上役に当たる佐久間虎之介さくまとらのすけからの密書だった。
「申し上げます。ご指示により佐久間虎之介なる者をむかえに行きましたが家を引き払っておりました」
「なんと! 命を惜しんで逃げたか、あるいは消されたか?……」
 佐久間虎之介は意次に出頭を命じられた直後に忽然こつぜんと消息を絶ったのである。
「おそれながら、かの国(ロシア)に関わると命を失うという噂がたっております」
「そうか! では、(徳川)家治侯のご指定で出場者が決まったことを示すといたす」
 こうして意次は布石を置くように模範試合に多田野兵衛と武智一刀が出場することを前面に押し出した。このことによって敵が二人に手出しができないよう将軍臨席の公儀の役付けとしのである。意次はロシアの脅威を伝えるための名目として模範試合を行うことを敵が知った時点で兵衛と一刀に巧妙な手段により危害が加えられると考えて常に見張りを立てていた。
 まさに、この意次の策によってロシアとの内通者が解き明かされようとしていた。後日、その内通者は意次をあからさまに敵と呼び、なにかにつけて批判する者であることがわかった。しかし徳川家の血筋であるため表立った処分が下されなかったのである。

 その後、田沼意次から正式に模範試合の知らせが松代藩主の真田信安を介して多田野兵衛と森脇又十郎に伝えられた。そこに補佐役として又十郎の嫡男、森脇蔵人を加えた三人が江戸にむかうこととなる。その三人を無事に江戸まで到着させるための護衛が内々に付けられたのは言うまでもない。藩主真田信安は一月遅れの出発となる。
 また総行に対しての模範試合の知らせは能登の和倉に瀕死の状態となった武智一刀を運んだときに意次からロシア情勢とともに伝えられた。そのときすでに能登の狼煙の地まで一刀が行き付いた時点であげられるはずの狼煙は総行の判断によってあげられていた。その折り返しの指示が模範試合のことだったのである。しかし総行は、この模範試合のことを一刀になかなか伝えることが出来なかった。

 意次は狼煙によって総行から武智一刀の修行の終わりを知らされると修行の成果を見たいと言って能登の和倉から北前船で早々に江戸に戻るよう伝えた。これはもちろん二人を無事に江戸に連れ戻すための意次の配慮の指示である。
 こうして意次が将軍臨席による模範試合の話を持ち出すと松平定信を中心とする旧体制派から前例がないといって異議があがった。その異議をまっていたように意次が御三家や御三卿に模範試合の本当の目的であるロシアの脅威の説明に動く。するとその噂がたちまち広まり旧体制派は慌てはじめた。
 そして数日が経ち・・・
 旧体制派が薩摩藩と松前藩にロシア情勢の実態を口外しないように求めたことが意次の耳に入る。それを見込んで意次はロシアの歴史を取りまとめた資料を関係筋に配布した。これが『赤蝦夷風説』という書物であった。こうしてロシアの脅威と総行をはじめとする四人の模範試合の話は深く関わることとなる。
 このとき配布された『赤蝦夷風説』は長崎奉行の久世広民くぜひろたみと仙台藩の医師、工藤平助くどうへいすけから直接聞き取ってまとめられたものであった。この意次が配布した資料には清国(中国)との国境紛争のほか極東アジアに急速に侵攻するロシアのことが生々しく取りまとめられていた。特に、先住民の強制移住や日本の士農工商制度と異なり農民を奴隷として位置づけ、その農民を開拓に従事させるだけでなく武装させる占領政策に一同はおどろきを隠せなかった。

 このとき意次は旧体制派がロシアとすでに一定の条件によって通商をおこなう話が進められていることを耳にしていた。仮に通商の話を途中で断ればロシアに武力攻撃の口実を与えることとなる。しかし、ロシアと通商を開始すればロシアと国境紛争を行った清国(中国)に不信を抱かせ清国(中国) との関係に水を差す。すなわちロシアと通商条約を安易に結べばロシアと敵対する清国(中国)を敵にまわすことになりかねない。
 こうして意次に思案のときがつづき長崎奉行の久世広民にロシアと清国(中国)の情勢を逐一報告させていた。

 一方、田沼意次から真剣勝負の知らせを受けた多田野兵衛と森脇又十郎は補佐役の森脇蔵人とともに江戸にむかっていた。その道中、多田野兵衛は模範試合が真剣勝負であることに加え出場者としてリンの実の父である総行がいることを聞くこととなった。兵衛はその話のなかで田沼意次が真田家の家臣であった総行をあえて守護役に据えた経緯と鷹匠の香風とリンの関係を伝えられ顔色が変わった。
 このとき兵衛にとって命の恩人であるリンの実の父の総行と真剣勝負をするという重圧がのしかかった。
 また田沼意次が総行を守護役に据えた経緯は、総行が伊賀、甲賀とおなじく真田家歴代の忍びの家系を継承する者であり、一昨年の総行の他流試合での結果をふまえてのことであった。これはもちろん表向きの理由であり幕政における松代藩主真田信安との関係を深めたいという意次の意図があった。そのため意次は真田信安に直々に守護役として総行を借り受けたいと言ったので総行に対して出家を装い離藩する指示がだされた。
 総行は特務を受ける際に度々出家を装い離藩しており、その一つが松代藩指南役の森脇又十郎との御前試合を辞退したことにもつながるのである。


●二.思いを断ち切るために
 多田野兵衛は森脇又十郎と補佐役の森脇蔵人とともに江戸に向う途中で総行のことを聞き香風とリンに会わずに江戸にむかうつもりでいた。しかし諏訪の手前で思い直し又十郎と蔵人と分かれて別の道に入り香風とリンのもとを訪ねた。兵衛は香風とリンに救われてからのことを考えると二人に会わないまま試合に臨むことができなかったのである。その兵衛の右腕にはリンの作った鷹匠のエガケが着けられていた。

 諏訪湖の周りはススキやかやに覆われて兵衛が知っている雪の時季とちがう趣をみせている。その景色のなかに記憶にのこる屋根が見えると鳥の鳴き声が聞こえた。
 兵衛がいつものように鳥に指示を伝えるリンの声に足を止めた。
 すると家の戸口が開き、
「兵衛さま? 兵衛さま!……」
「おリンさん!」
「父は魚を取りに行っております」
「はい! どうしてもお会いしたくて参りました」
「昨日から香丸がお出でになられると言っておりました」と言ってリンは家に戻り鳥を腕に乗せて来た。鳥はいつもと違って興奮したように羽ばたきを繰り返している。このとき兵衛は香風とリンに会ってから江戸に向かうことが運命づけられていたと感じた。

 その兵衛の思いを察したように鳥は「飛んでいいよ!」というリンの指示より一瞬早く飛びたち家の周りを旋回しはじめた。その鳥を見ている兵衛に、
「どちらにお出でになられますのですか?」とリンが聞いた。リンの目にうっすらと涙が見える。
「江戸にまいります」
「もう、戻られませぬのか?」
「……わかりません」
「……!? では、エガケを肩の高さに!」
「何か?」
「香丸に別れのお言葉をお掛け下さい」
「わたしの腕に香丸が?」
 鳥はリンの指示に応じて高度を下げ兵衛の腕に止まった。その爪の強さに驚く兵衛にリンが微笑んだ。これがはじめて兵衛の腕に鳥を乗せた瞬間だったのである。兵衛が鳥を乗せたままリンに渡そうとすると鳥はこれを嫌い兵衛の肩に止まり直した。肩に止まった鳥の爪はさほど痛さを感じず兵衛が顔を鳥に向けようとすると耳をつつかれ動きを止めた。

「兵衛さま! つかむ場所が揺れますとつつかれます」
「なるほど、そうであったか!」
「香丸! おいで」とリンが呼んだ。
 鳥はリンが手で触った方の肩に止まり向きを変えた。

 ほどなくして、父の香風が大きな竹籠と串に刺した魚を持って現れた。香風は鳥が空を舞っていたのを見て漁を途中で切り上げたと言った。そして兵衛を家に迎え入れ、串に刺さった魚を遠火に掛けながら森脇又十郎から兵衛の回復ぶりを手紙によって伝えられたと言った。
「ところで香丸はわたしが来ることを知っていたのでしょうか?」と兵衛。
「はい! リンがそう申しておりました。それも三日も前になります」
「ということは、松代(城下)を出たときに!?」
「はい! 前にも同じようなことをリンが言ったことがあります。どなたが来られるか分かるようです」と香風が言うと兵衛にリンの実の父である総行のことが浮かんだ。
 こうして様々な話は尽きることがなく、兵衛は江戸に向かう目的と総行と真剣勝負を行うことを香風とリンに包み隠さず話したのである。すると香風とリンはそのことを予見して諏訪の四社に無事を祈願したと言った。

 そのあと徐々に三人の会話が減り・・・
「香風殿! おリンさんの話し方が変わったかに思いますが?」と兵衛。
「はい! 気付かれましたか。この子はわざと百姓言葉を使っておりました。もとは武家の言葉づかいでございます」
「父上様! 脇差をお返しいたしとうございます」
「おう、そうでありました。存分にお力を発揮してくださいまし!」と言って香風が神棚に置かれた脇差を神事に倣い手に取った。この脇差しは兵衛が命を救ってくれたお礼に香風とリンに残していったものである。兵衛も正座になおり神妙にこれを受け取った。
 こうして兵衛が出発の準備をして最後に腰に大小の刀を据えると鳥が羽ばたきを繰り返した。リンは諏訪の四社の御守りを兵衛に渡したが言葉に詰まり涙をこらえていた。


●三.船上の実戦
 そのころ、総行と武智一刀は薩摩藩が用立てた二千石の北前船で能登の和倉から日本海を南下し、わずか五日で瀬戸内海に入った。船の積み荷は佐渡の米と酒と聞いていたが護衛の侍が十五人もいることから積み荷のなかに金が含まれていると思われた。
 船は瀬戸内海の潮の流れに乗って速度を速め、立ち寄る港は食料と水の補給だけで積み荷の追加は無かった。そして下関から三日で阿波の鳴門の渦潮を見ることとなる。

 日が傾きかけたころ、北前船が鳴門海峡の手前に近づくと紀州沖の熊野灘に向かうために風と潮の流れをよんでいた。そのとき鳴門の海は風もなく凪ぎをむかえていたので北前船は速度を落とした。
「気分はどうだ?」と総行の問いに一刀が細くなった腕を見せた。
「聞くまでもない。見てのとおり」と一刀が返す。
「まあ、ちゃんと食べられるではないか」
「瀬戸内に入ってからだ」
 総行と一刀は多くを語らないが確実にお互いの実力を感じながら距離を縮めていた。

 夕凪に合わせ船が帆を巻いて碇《いかり》を下ろすと何艘かの小舟が近付いて来た。どの船にも四人の男が乗っていて一番先にいた船が水と野菜があると言って茣蓙ござをめくった。ほかの小舟は北前船の進路をふさぐように近づいて碇の綱に次々ともやいを掛けた。
「おい、海賊だ!」
「なに!」
「海賊だー、碇を上げろ!」と聞こえた声に応じて周りを見ると無数の鉤縄かぎなわが掛けられていく。その鉤縄につかまってよじ登る海賊をみて縄を切ろうとした水主(かこ)が矢で射抜かれた。船に続々と海賊が上がってきて船首の人だかりから刀を打ち合う音がきこえた。そこに一刀が加勢に入ろうとした。
「待て、武智! こっちも来るぞ」と、総行の制止に振り向く一刀。その後ろから海賊が襲いかかった。それを逆手に持ち替えた刀で刺しぬいたが一刀の顔を矢がかすめた。

 船尾にいた総行と一刀は十人の海賊に囲まれ背中合わせになっている。一刀は刺しぬいたばかりの海賊を抱きかかえ盾の代わりにした。
「弓を警戒しろ! 縁(へり)に近づくと狙われる」と言って総行が射抜かれた水主(かこ)から鉈(なた)をもぎ取り海賊を盾にしながら鉤縄を切っていく。
「なるほど、縁(へり)に近づいたら体を入れ替えるつもりか!」
「ああ! (船べりに)近づくと小舟から狙われる」
「では、どうする?」
「自分で考えろ!」と言って総行は甲板に転がる鉤縄を手に取った。正面の海賊はその動きを警戒して総行との間合いを広くする。すかさず、
「見たとおり、この鉤縄で敵が場所を変える。あとはおぬしが斬り捨てろ!」と言って総行が鉤(かぎ)を投げて引き回した。一刀は鉤(かぎ)の動きに気を取られる海賊を斬り倒すと片膝をついた。残りは五人。その一刀の頭上を矢が風を切って通りぬけ海賊の首を射抜いた。
「脇差を貸せ!」と総行。
「ようやく殺生する気になったようだな」
「違う! 脇差しで鉤縄(かぎなわ)を切る。見ろ、周りを!」
 総行が手に持った鉈(なた)が折れていた。
「うむ! では受け取れ」と言って一刀が総行に脇差しを投げた。
 総行が脇差しで鉤縄(かぎなわ)を切ると縄を上ろうとする海賊が海に落ちていく。その隙に一刀が海賊を盾に周りを見ると小舟が数を増していた。その小船からら北前船の帆の巻き綱を解いている水主(かこ)が弓でねらわれている。咄嗟に一刀が海賊の刀を帆柱の上にいる水主(かご)に投げた。
「これで巻き綱を切れ!!」
 水主(かこ)が刀を受けとり巻き縄を切ると帆が一気に風をつかんだ。その帆が矢の死角になって北前船が動きはじめるといかりもやいもやいを掛けた小舟が引きずられていく。そして北前船の船底に小舟ごと巻き込まれ海賊たちが次々に海に飛び込んでいった。

 しばらくすると海賊と戦った一刀と総行を見ていた侍たちが薩摩弁で無事をたしかめてきた。このとき一刀は越後の妙高村で久保田佐奈江を打ち破ったことを思い出した。
 こうして船が徐々に速度を上げると水主(かこ)と護衛の侍が亡骸を海に投げ捨てた。海の仕来りによれば海賊は見せしめのために即刻斬首されるのだが、息のある海賊に縄がうたれ腹ばいに寝かせられた。人質として残した方が得策であるという総行の考えによって熊野灘にむかう風をつかむまで生かしておくこととなった。
 陽が沈みはじめると護衛の侍は無傷のまま刀の血を拭き取りながら刃こぼれを検めていた。その横で北前船の船頭が仲間の亡骸と息のある海賊を海に投げるよう指示し総行が経(きょう)を唱えた。
 日が落ちるとすぐに風向きが変わり熊野灘にむけて風が吹き潮目が変わった。総行と一刀を乗せた北前船は月明かりのなかを瀬戸内海から太平洋に流れる潮流に乗って一日で熊野灘に至り、その後、黒潮を見つけて江戸にむかう風をつかんだ。


●四.富士を見ながら
 こうして薩摩藩が手配した二千石の北前船は、主要な港を避けるように江戸を目指していた。ところが富士が間近に見えるようになると急に速度を落として陸地に近づき別の船に荷物を積みかえたのである。このとき薩摩弁を話していた侍は北前船に残り、駿河なまりと江戸弁の侍たちが荷物を数え別の船に乗った。総行は一刀にそのまま薩摩弁の侍が乗っている北前船に残るように言うと、
「総行! 積み荷のことは知らぬが、いったいここはどこだ?」と一刀が陸の方を見ていた。
「相良藩の手前! あれが伊豆半島だ」
「なるほど、田沼の領地か! 池上の寺からここに通ったのか?」
「ああ! これで薩摩の侍も役目が終わる」
「ほう、護衛の侍が稽古相手とは、おもしろい!」
「実力は知ってのとおり!」
「たしかに!」
 荷下ろしが済み北前船から相手の船が離れると残った薩摩弁の侍たちが酒盛りをはじめた。

 一刀も酒を勧められ大樽一つがすぐに底をついた。すると一刀は丸に十の字がついたビン詰めの焼酎をつがれ口に入れると思わず顔をしかめた。初めての泡盛であった。
「口に合わないでごあんか?」
「いや、初めて飲む! 美味いが……」
「では、もう一つ!」
 一刀もかなりの酒豪であるが泡盛をつがれて足元がおぼつかなくなる。それを総行が見てニヤリと笑い木箱を開けた。総行は酒をたしなまないのである。
「このなかに木刀がある」と言って総行が箱から木刀を取りだし一刀に投げ渡した。
「うむ! この太さはかなりのもの」と一刀。
「そうだ! 示現流の鍛錬に使うと聞いた」と総行。
 一刀が手に取った木刀は真剣より重く感じて見つめるように柄(つか)を握って振り下ろした。すると周りの侍の顔つきが変わり徳利とっくりをおいて腰の大小を総行に預けはじめた。そして次々に木箱から木刀を手に取っていく。
「では、準備はいか?」と総行。
「これから稽古をするとはおもしろい!」と一刀が口から泡盛を木刀にふきかけた。
「もちろん!」と言って総行が一刀の相手を選ぶ。
「なんと、これが示現流じげんりゅうか!」と一刀が下段に構えた。すると、
「そうでごあんど。酒も鍛錬のうち! 受けてみるか?」と相手も構えた。
「おう、……いざ!」と言って一刀が八相に構えなおしたが船の揺れとともに帆柱にもたれて気を失ったのである。

 それから五日後、船は江戸の大川(隅田川)を上るため大森沖で大潮の上げ時を待っていた。その間、武智一刀が揺れる船のうえで示現流の使い手たちと激しい稽古を行ったことは言うまでもない。しかし、真剣による模範試合が予定されていることを総行は一刀に切り出せなかった。
 こうして総行は一刀を無事に江戸に連れ戻すという自らの役目に感慨を深めながら着実に剣の鋭さを増す一刀に口数が減っていった。その代わりに日々の経(きょう)の時間が増えていたことを一刀も気づいていた。


●五.振り出しの縁
 総行と武智一刀を乗せた二千石の北前船は、大潮の満潮にあわせて品川沖から江戸湾の芝浦にある薩摩藩の蔵屋敷に向かうことになっていた。そのとき武智一刀は稽古の合間に品川の海をながめながら実家の奉公人であった岩次郎と子供のころに遊んだことを思い出していた。
 その岩次郎は一刀の父が信州上田藩の指南役であったときに御前試合で下位の者に負けて自害したことを受け暇を願い出た。そして品川の生家に戻り漁師の仕事を継いだのであった。
 また、信州上田藩の指南役であった武智家の三男として生まれた一刀は子供のころは稽古嫌いをとおしたが、剣の筋は父も認める才能の持ち主であった。ところが父の自害を契機に一刀は稽古に精励するようになり、そして他を圧倒するまでに成長した。その一刀を子供のころから支えたのが岩次郎だったのである。

 一刀が海を眺めていると一艘の釣り船が近付いて来た。江戸前の漁に際し北前船の上で気合の入った稽古の声が漁の妨げになると言ってきたが、それが本物の侍だと分かるとお詫びのしるしと言って魚を差し出したのである。
「いや、すまんな。遠慮なくいただくぞ」と一刀。
「まさか、本物のお侍様とは知りませんでした。これでご堪忍くだせぇ!」と漁師。
「ところで岩次郎を知っているか?」
「えっ! 海苔の岩次郎のことで?」
「そうだ」
「なんだ、さっき会ったばっかりでごぜえますが、何か失礼でも?」
「そうではない。わるいが、そちらの船で岩次郎のところに連れて行ってはくれぬか?」
「へい! お安い御用で」と言って釣り船が北前船に横付けするのを一刀が待っていた。

 こうして前触れもなく一刀は薩摩藩が用立てた北前船から漁師の船に乗り換えると総行に伝えた。すると総行も迷わずいっしょに行くと言って荷物をまとめた。総行はこのとき真剣による模範試合のことを一刀に伝えることを決めたのである。
 二人は北前船の船頭と薩摩藩の侍たちに別れを告げ、釣り船に乗り換えて岩次郎のいる海苔の漁場にむかった。すると岩次郎は戦うはずの二人が目の前に現れたことに驚き、
「どうしてお二人が一緒に?」と言って手を止めて見ていた。
「いろいろあって五ヶ月後にこうなった。成り行きを話すので泊めてくれ」と一刀。
「すまぬが、愚僧も一緒に頼む!」と総行がつづく。
「勿論でございます。さあー、船をこちらに!」と言って岩次郎が釣り船のもやいを受けとった。こうして一刀と総行は岩次郎の台船に乗りうつり道具の片づけを待った。

 池上の本願寺で一刀が刀を抜き総行に戦いを挑んでから五ヶ月が過ぎ、二人が和やかに目の前に立っていることがにわかに信じがたい岩次郎である。海苔はほとんど取り終えて漁場の補修をしていた岩次郎がわずかに採れた海苔が醤油樽にあると言った。すると総行は信州の川海苔との違いを確かめると言いながら樽の中に指を入れて味見をした。
「なんと美味!」と言って二口目を取ろうとする総行に、
「そうだ! これに味醂を足し入れて煮物にするが、そのままだと腹を下すぞ」と一刀。
「ああ! 分かった。やめておく」
「で! おぬしの腹にあるものを早く出してはどうだ?」と一刀が核心に触れた。
「気付いていたのか! 済まなかった」と総行が詫びを入れ、江戸に着くと早々に真剣による模範試合が待っていると言った。その出場者が一刀と多田野兵衛、総行と森脇又十郎であると伝え、あえて最後に又十郎の名前を出したのである。

 こうして一刀は総行から父の敵とする又十郎の名前を聞いても表情を変えることはなかった。一刀の不満はその模範試合に出場することによって切腹を免れるという条件に憤りをみせた。そして、その話の続きは岩次郎の家に持ち越されることとなる。
 岩次郎の作業が終わると潮は上げに変わり涼しい海風が吹いた。総行と一刀は岩次郎が櫓をこぐ船の上で一言も口をきくことはなく真剣勝負のことを考えているように見えた。二人の間にはすでに苦楽をともにした旧友のような雰囲気が感じられた。

 岩次郎の家に着くと女房のオサキが知り合いの漁師から届いた鯛を捌いていた。そして一刀のために先に酒の準備をしたと言った。総行は遠慮がちに酒より海苔が食べたいと言い、オサキがよそった麦飯に山盛りの海苔の煮物をかけて食べながら一刀の話を聞いていた。
「総行! おれも思っていることを吐き出す。田沼意次という男を信じてよいか?」
「ああ! 田沼様は役目に尽力すれば認めて下さる」
「それで、何ゆえ切腹と試合を天秤にかけるのだ?」
「わしも聞いてはおらん。だが、諸藩に列席を求めたようだ」
「ほう! おぬしとおれは戦わぬと見た。この五ヶ月で情がわく。人であればな!」
「では誰と戦うというのだ?」
「決まっている。森脇であろう!」
「情で考えれば、そうだが! この手料理をいただくのが先だ。……いや、美味い!」と言って総行は一刀の探りを嫌った。田沼意次が一刀の処分を切腹ではなく『江戸十里四方追放』とした時点で一刀と又十郎の組み合わせが予定されていたことを総行は耳にしていた。そんな二人のやり取りを見て・・・
「さあ、さあ、お召し上がりになって。鯛とイサキとウニですよ!」と、オサキの勧めに総行が麦飯に山盛りの刺身を乗せると一刀がようやく箸を取った。

 酒がすすみ途中で岩次郎が作業を終えて席に加わると、五ヵ月前に池上の本願寺で起こったことを話しはじめた。総行との勝負を袖にされた一刀が総行のあとを追って能登に向かった起点の日のことである。その話の流れで一刀は総行に目印となった達磨の絵をかいてほしいと言った。
「良かろう! これが今年の最後。この家に残してもらう」と総行。
「それでだ。おぬしはいつからあのように墨絵を家々に貼っておる?」と酔ったいきおいで一刀が総行にからんだ。
「もう忘れた!」と総行。それでも収まらない一刀が、
「あの雪道はまさに命がけ! 魔除けと言うより誰かの供養と見た」
「それも忘れた!」
「お前ほどであれば妻子はおってもよかろう」と一刀の一言に総行の顔つきが変わる。それを見て岩次郎が池上の本願寺に海苔の煮物を献上するという話に変えた。
 こうして話の収まり具合をみてからオサキが一刀を床に就かせた。そのあとで一刀の振る舞いを詫びる岩次郎に総行が機嫌をなおし達磨の絵を描きはじめた。



●六.因縁の紐解き
 翌朝、一刀が岩次郎の家で目を覚ますと枕元に総行が描いた達磨の絵が置いてあった。行き先は渋谷の田沼家下屋敷と書かれている。一刀は途中で深川の実家で着替えてから向かうつもりでいたが、馴染みの呉服商が四谷にあったので途中で道を変えた。
 その一刀が江戸城を右手に見ながら四谷に向かう途中で、坂の上に編み笠をかぶった三人の侍が見えた。そのうちの一人は右手が無いことがわかる。一刀も編み笠を付けていて互いに顔は見えないが三人に近づくと右手が無い侍だけが足を速めて近づいて来た。
「失礼だが、武智一刀殿とお見受けいたす」
「いかにも…… おぬし?!」
「なんと、こんなところで!」
「で、どこに行く?」
「待て! こちらのお方はだな……」と、一刀の耳に入った声は兵衛のものではあるが編み笠を取った顔は色黒で体つきは野武士のようになっていた。だが、その兵衛の声によって発せられた人の名前をきいて一刀に虫唾むしずが走った。
 にわかに信じがたい遭遇であると同時に、行先の名前と同行を勧められたことに体裁よく断る理由が見つからず一刀が後につづいた。向かった先の真田家下屋敷には父のかたきとする森脇又十郎の後をつけたことがあり一刀は歩きながら記憶をたどった。

 屋敷に入った四人は客間にとおされ改めて名前を名乗った。年始めに行われた田沼家中屋敷の他流試合に係る経緯については、それぞれに期するものがある。このとき一刀は、はじめて森脇又十郎の人柄に触れ思わず話がはずんだ。そのなかでも一刀の話は江戸から冬の甲州、信州、越後、越中を経由して能登に至り、和倉から北前船に乗って江戸に帰って来たという前代未聞の話しであり、総行の達磨の墨絵のことと相まって話題の中心となった。

 昼食を終えたとき、おもむろに森脇又十郎が話しはじめた。
「武智殿のお父上と剣を交えたことがございます。わたくしが、この蔵人と同じくらいのときに深川の松平様のお屋敷でございました」と言ったとたんに一刀の表情がかわる。
「覚えておられたのか?」と返す一刀に又十郎が姿勢を正した。
「はい! まさに死に物ぐるいで応じておりました」
「いや、父は下位の者に負けて自害したと聞いた」
「いいえ! わたくしは技を出した記憶がありません。鍔迫つばぜり合いから一緒に倒れた折、武智殿がわたくしをかばい喉に柄(つか)が当たりました」
「……!? 初めて聞きました。いや、しかし負けは負け!」
 一刀の顔つきが変わったことを受け兵衛が総行との関係に話を戻した。
「そなたが品川に向かうとき、総行殿と初めて会って負けたことは聞いた。それで、後を追って一度も追いつかなかったのか?」と兵衛。
「いや、一度だけ追いついたが何も出来なかった。親知らず子知らずとはまさにあのこと! 小さな子供が波にのまれ、それを総行が救った。だが、赤子がまだいたが俺は助けに行くことが出来なかった! それからウミネコの声が赤子の声に聞こえるようになった」と一刀が神妙に応えた。
「では、その赤子は?」
「分らぬ! 生きてはおるまい。それから急に足が重たくなって馬を買った。生き物がそばにいると気持ちが和んだのじゃ……」
 しばらく沈黙が続いたあとで、
「そうか! じつは総行殿に御息女がおられて、わたしは雪のなかで命をすくわれた」と兵衛。
「ほう、それはまた! 名は何と言われる?」
「リンと申される」と兵衛の一言に一刀は総行の鈴(リン)の音を思い出した。そして、
「リン? 僧侶の鈴(リン)と一緒か!」と言った。
 その話のあとにつづく総行と鷹匠の諏訪之香風との関係は森脇又十郎によって話された。

 こうして武智一刀、多田野兵衛、森脇又十郎はそれぞれの経緯を知ることとなる。そのときは未だ模範試合の組み合わせや場所、日時などの詳細について知らされてはいなかった。
 そして武智一刀は、森脇又十郎の計らいにより真田家下屋敷において着替えを済ませ渋谷の田沼家下屋敷に総行の後を追った。

 一方、赤坂の真田家下屋敷に残った多田野兵衛は、一連の話のあとで森脇又十郎に人払いを願いでた。そして江戸を発つときに一つだけ気になっていたと前置きをして話しはじめた。
「それで、田沼様のお屋敷で他流試合があると聞いたとき無外流では一刀の名がうかびました。しかし、同じ流派でわたくしまで推挙されたことに驚いたのです」と言って二人が切腹を言いわたされた話となる。二人がほぼ同時に切腹を言いわたされたことも気になるが兵衛は自分が密貿易に加担したと言われ切腹を言い渡されたことに納得がいかないのである。
「なるほど! で、武智殿の汚名とは?」と又十郎。
「他の流派に金をもらって負けてやると言ったと噂が流れました」
「そう言えば、江戸の流派は他流試合を禁じていたので素人にも負けると聞いた」
「いまの流派は試合に出ることが決まれば門弟が増え、勝ち上がれば、さらに増えます」
「話は変わるが、ここに来る前にわが殿(との)から松前藩のことを聞いた」
「蝦夷地の松前ですか?」
「ああ! かの地で赤蝦夷(ロシア)と言う大国と交易を行っているそうだ。すでに人が船で訪れ猟をして毛皮を持ち帰っていると言われた」
「そのことは大番であったときに知りました」
「そうであったか! 大国の脅威ではあるが、わたしも殿(との)から聞くまでは知らなかった」と又十郎が話すように当時の松前藩は樺太から南下してきたロシアと先住民のアイヌの交易を黙認していた。多田野兵衛はそのことを知っていたが深入りを避けた。そして、
「森脇殿! この太平の世には大国の脅威はわからないのでしょうか?」と言った。
「そのとおり! 北よりも肥沃な南は攻めるに値する。そして相手の兵が強くて勝ち目がないと見れば戦わずして交易の道を探ろうとする」
「たいへん貴重なお話し、かたじけのうございます」と言って兵衛が頭を下げた。兵衛は人払いまでして又十郎に相談したかったことが言い出せなかった。このとき密貿易に心当たりがない兵衛は自分に対する切腹の沙汰が何を目的に下されたのか又十郎に意見を聞きたかったのである。
 そんな兵衛の迷いを打ち消すように、
「さて、重たい話はさておき、お相手願おうか!」と又十郎が稽古の支度をうながす。
 このあと森脇又十郎と多田野兵衛の稽古は深夜までつづいた。


第五章
●一.ふたたび変わる風向き
 一刀が真田家下屋敷で兵衛と森脇親子と会談した翌日、試合の日時と場所の知らせが正式に江戸市中の各藩邸に届けられた。日時は明和八年文月二日巳の刻 (西暦一七七一年七月二日午前十時)開始。場所は江戸城百人番所前とある。そして同じ日に出場者である四人にも知らせが届いた。
 これによって江戸城内で試合が行われることとなり真剣勝負は木刀によるものに変更された。この模範試合の詳細が意次に知らされたとき、将軍家治の了解を得ていると伝えられた。したがって当初の意次の考えと異なる内容に変更されたことをあえて伝えてきたとわかる。

 この模範試合の場所となった百人番所とは、江戸城を警護するために置かれた用人の詰め所のことで、伊賀、甲賀などの忍びの血筋に当たる同心が常に百人ごとに交代で詰めている警護の要所である。この場所に決められた経緯のなかに松平定信などの旧体制派が動いたことが意次の耳に入った。
 その動きとは、将軍臨席による模範試合に対して四天王による試合という愚俗の呼び方が広まり、これを嫌った幕府の意向があったとされた。また、真剣勝負ということが独り歩きをして、果たし合いの見方に傾くと思われたことから異例の江戸城内での実施とされたという。裏を返せば江戸城内での模範試合は従来の仕来りに則るという名目で旧体制派の意向が容易にとおすことができ妨害がし易いのである。

 さらに下世話な話が巷に広まった。
 武智一刀と多田野兵衛は知友であり戦ったとしても真剣勝負のように本気は出さない。また、総行も真田家に仕えていたことから旧友の森脇又十郎は本気を出さない。
 武智一刀は森脇又十郎を父の敵としているので事実上の果し合いである。
 多田野兵衛は総行の娘を寝取ったので総行は本気で打ちのめす。
 これらの噂が模範試合の品位を下げたかに見えたが、逆に江戸の庶民からも注目が集まり思わぬ話題となる。
 こうして旧体制派の模範試合をめぐる妨害工作は多岐にわたった。

 試合の前日、日本橋浜町の田沼家中屋敷に武智一刀、多田野兵衛、森脇又十郎、そして総行の四人が呼ばれ試合の流れと当日の所作について示達された。その際の組み合わせはすでに決められており公平を期すために試合直前に各自に伝えられることとなっていた。この説明以降の出場者四人の接触は特別に許された場合を除き厳禁となる。

 一方、時を同じくして田沼意次は江戸神田橋の上屋敷に松代藩主真田信安を呼び出し内々に試合の組み合わせを話し、それぞれの技や太刀裁きを説明させていた。
「おそれながら、公平を期すというのであれば組み合わせは明日でもよろしいと存じますが!」と信安が切りだす。
「そのとおり! だが、そなたにいろいろ世話になったので先に話した」
「なにか、ご心配でも?」
「相変わらず勘がいいのう! 模範という言葉が重い」
「やはり!」
「上様のご意向と聞くが、城の百人番所でやるという話も急に決まった」
「では、諸藩を集め赤蝦夷(ロシア)の話をするということも危ぶまれると?」
「ああ、そのとおり! 最悪の場合をそなたに頼むつもりで来てもらった」
「かしこまりました。責めはわたくしが!」
 田沼意次は明和六年(一七六九年)、十代将軍徳川家治の側用人と老中格を兼ねることとなってから、まさに将軍直結の権力者となった。その意次に対し旧体制派から様々な反発を受け批判が上がっていた。

 まさに幕政改革とロシア対策を同時に推し進める意次に模範試合の失敗が失脚への道筋であることは覚悟の上であった。その批判をうけたあと意次はこの模範試合がロシアの脅威を伝えるための名目であることを明かすつもりでいた。すなわち模範試合の開催に反対する者や妨害を企てる者がロシアと関係している可能性があるとして意次はその動きを警戒した。
 また、真剣による試合は出場者が正式に決まった段階で木刀に変更することを徳川家治に事前に説明していた。この真剣による模範試合の本当のねらいは試合について前例がないなどと意見した者は観戦せざるを得なくなり、そのあとのロシア情勢の説明にも出席すると見込んだものである。
 このとき意次は敵が模範試合の本当の目的を知った時点で、さらに強く妨害にでると思っていた。これは、まさに肉を切らせて骨を切るという緊急の策であり緻密な意次にしては珍しい。
 こうして試合を翌日に控え、森脇又十郎と多田野兵衛は松代藩上屋敷に宿を取り、総行と武智一刀は田沼家上屋敷に宿を取った。双方、試合場所である江戸城内百人番所前に最寄りの場所ではあるが出場者が上屋敷に泊まることは異例である。このことからも田沼意次が敵の出方を警戒し、模範試合に出場する四人の身の安全に配慮したことが推察できる。
 この四人の動きについては公平を期すという理由で試合当日までの動きの一部始終が公開されることとなっていた。


●二.当日の刺客
 試合当日、四人はそれぞれ別々の順路で江戸城内に入るよう指定を受けた。真田家上屋敷は江戸城の南に位置し、田沼家中屋敷は北東に位置していたので四人にそれぞれ入城の門が指定され、そこで案内人が待っている手はずとなっていた。
 神田橋御門内の田沼家上屋敷から試合会場にむかう総行は、同じ田沼家上屋敷から一ツ橋門に向かった武智一刀を見送りながら目と鼻の先にある神田橋門で案内人を待った。
 すると、城内の用人姿の侍が一人、総行に近づいてきた。
「定刻でござる」と、その侍が言った。
「早くはないか?」
「先に来ておりましたが気付かれぬようにしておりました」
「なるほど、油断していた」
「失礼ながら、案内つかまつる」
「どこに?」
「……!」
「なぜわしを狙う?」
「田沼の守護役を勝たせぬように! 模範になどに、させるわけにはいかぬ」
「ふん! 勝手にしろ」と言って総行はその場からいきなり走り出した。一瞬の隙を突かれた相手は途中で追うのをやめて城の濠の中に消えた。
 そのあと総行は一ツ橋門で一刀に追いつき事情を説明していっしょに城内に入ることとなる。

 その後二人は別々に案内され、言葉を交わすことなく試合会場の百人番所前に到着した。しかし、その場所の両側にある控え処の陣幕には徳川の葵の御紋はなく、七曜紋(しちようもん)と結び雁金(むすびかりがね)だった。この七曜紋(しちようもん)は田沼家の家紋、そして結び雁金(むすびかりがね)は六文銭と同じく真田家の家紋である。これも江戸城内での開催としては異例のことであった。
 事前の所作説明において、明和八年文月二日巳の刻 (西暦一七七一年七月二日午前十時)の開始より一刻(二時間)前に控え処にて身形改みなりあらためとあり、四人の出場者は江戸城内において、いかなる場合も関係者以外とは話が出来ないとされた。そして各々が着物を脱ぎ指定の藍染の袴と白の稽古着に着替え床几しょうぎに腰を掛けて呼び出しを待った。

 定刻の半刻(一時間)前に古式にのっとり大太鼓の連打に続き呼び出しがあり、審判を幕府指南役の柳生新陰流と小野派一刀流の二名が勤めると読み上げられた。
 そして・・・
 案内役が四人同時に試合場中央の太刀置きの前に出るようにうながし、武智一刀と総行は田沼家家紋の陣幕より、多田野兵衛と森脇又十郎は真田家家紋の陣幕よりそれぞれ中央に向かった。
 すでに諸大名や各藩の指南役が席に着こうとするなか、ふたたび太鼓がならされた。このとき、田沼意次と真田信安は将軍徳川家治の着座を待ってすでに席についていた。
 出場者の四人が動きをとめると・・・
「これより太刀分けをいたす。公平を期すため、太刀と組み合わせはくじ引きによるものとする!」
 この、くじ引きの読み上げを聞いた田沼意次と真田信安は顔を見合わせた。試合の組み合わせは総行と多田野兵衛、森脇又十郎と武智一刀とあらかじめ定めてあると聞いていたからである。また総行も意次から内々に組み合わせを聞いていたので疑問に感じていた。そして江戸城に入るときの刺客のことを伝えるつもりでいた。そのため総行は読み上げの後、呼び出し役が総行の前に立ってくじを差し出すと、
「おっと、落としてしまった!」と言って、わざとくじを落とし、それを拾う間に隣に並んでいた一刀が、
「来るときに総行が襲われた。何があるかわからん!」と、ひとり言のようにつぶやいた。
「こちらも着けられたようだ」と、兵衛がつぶやき返す。
 そして四人にくじが配られ順番について読み上げられた。
「一のくじと二のくじの者が第一の組。木刀は太刀掛の上から順に納められよ! 以下、三と四のくじの者が第二の組。それぞれ木刀を受け取った後、手に持ったくじを前に!」
 この指示に四人はゆっくりと従い、くじの順に動きはじめた。
 一番はじめは総行、次に多田野兵衛、そして森脇又十郎と武智一刀が後につづく。偶然にもこの順番は田沼意次があらかじめ定めた組み合わせと同じだったのである。この結果を知っても四人に変わりはなく、そのまま控え処に戻っていった。


●三.死闘
 試合開始まえ、江戸城警護の百人番所の用人による技の披露が行われた。これも田沼億次には知らされていなかったことである。甲賀や伊賀など忍びの家系にあたる用人の組手くみて組手やかたに参列者から称賛の声が上がった。
 この技の披露がおわり会場の人の動きが収まったころに太鼓が響いた。すると席に座っていた諸大名が一斉に立ち上がり中央の玉座に向きを変えた。
「上様の、おなり―!!」
 将軍、徳川家治が壇上の席に着いた。
 家治の両脇には警護の用人と小姓がつき諸大名が一礼したあとで第一組の出場者として総行と多田野兵衛の名前が呼ばれた。このとき、第二組の森脇又十郎と武智一刀は会場の左右にある控え処にいることとされ試合を見ることが出来ない。又十郎と一刀は床几しょうぎに腰を下ろし陣幕越しに総行と兵衛の試合の様子をうかがっていた。

 静寂のなかで二人の足音が聞こえ両者の動きを感じる又十郎と一刀・・・
「はじめ!」
 試合が始まると一方的に総行の技の音と声が聞こえ、打ちと受けの弾むような木刀の音がつづいた。
 一瞬の間をおいて、砂利じゃりの地面をゆっくり払うような足音が聞こえた。
「片腕の強剣とはその構えのことか!」と総行の声。
「いかにも! さあ、ぞんぶんに打ち込みを」と兵衛の声が聞こえたと同時に、いきなり木刀を弾き飛ばすような音が響く。その木刀の音が突然、鈍い音に変わると悶絶を吐き出すような声がした。
 つづいて地面に人が転がる音と木刀が落ちる音が重なり、とどよめきがおこる。
「待て! 双方相打ち」
 審判の双方相打ちの声とともに体が崩れ落ちる音がした。

 こうして控え処に運ばれて来た総行は右のわき腹を押さえ口から血を流していた。一方の多田野兵衛は右腕の肘が腫れあがり白の稽古着が赤く染まっていた。
 どよめきが続き場内が騒然とするなか森脇又十郎と武智一刀が呼び出された。しかし、二人はまるで申し合わせたように控え処から出ようとしない。第一の組による激闘の余韻が消え、第二の組への期待が高まったころに二人が控え処の床几しょうぎから腰を上げた。
 又十郎と一刀が時間を取っても徳川家治をはじめ誰一人として開始を急がせるものはいなかった。

 一刀と又十郎は、ほぼ同時に陣幕から出て、ゆっくり歩み寄り指定の位置に止まり正面の玉座に向かって一礼をした。そして静かに向かい合う・・・
 又十郎はすぐに一刀に礼をして中段に構えたが、その流れを嫌った一刀が少し遅れて礼をした。一刀は構えずにそのまま三歩下がったが審判は一刀の気が満ちたと見て試合の開始を示唆した。
「……はじめ!」

 すると一刀は又十郎に向かって走り出した。距離にして六間半(十メートル)を下段に構えて走る一刀が中段にかえて突きにかかる。
 対する又十郎は右斜め前に流れるように体をさばいた。その瞬間に又十郎の喉を狙った一刀の突きがさばかれた。その突きの一線が又十郎の右肩をかすめたかに見えたが両者が振りかえり微動だにしない。
 一刀は剣先を下げながらおよそ四間(八メートル)に間合いを取りなおし又十郎と同じ中段に構えた。そして、
「なぜ太刀で応じぬ?」と問う。
「無用の問い!」
「真剣であれば肩の肉が切れているぞ!」
「問答無用!」
 一刀はふたたび大きく下がり、およそ八間(十五メートル)の距離を取って下段に構え右に動いた。しかし又十郎の構えは中段を保ちながら切っ先を一刀の喉に合わせたまま動かない。又十郎は一刀の突きを予想し相打ちをねらっているかに見える。
 体重を前に掛ける一刀に対し又十郎は左右に弧を描くように動いている。両者が打ち込みの隙をうかがいながら時間が過ぎていった。

 又十郎が一瞬目線を右に向けた。気づくと又十郎の右肩にわずかに血のにじんだ跡が見える。
 しばらくすると又十郎の右手に肩から伝った血がみえた。その又十郎が木刀の手元をたしかめ八相に構えなおした瞬間に、ふたたび一刀が突きに走る。

 両者の一線が交差して木刀の切っ先が乱れた。
 一刀の突きを払った又十郎の木刀がはじかれ切っ先が一刀の左袖ひだりそでに食い込んだ。その又十郎の木刀は一刀の袖下そでしたを突き抜け切っ先が見える。一方の一刀の木刀は又十郎の左肩の上にある。
「……待て!」と、審判が二人を分けた。
 両者が別れ指定の位置にもどると一刀の手首から左腕にかけて血腫がみえた。
 その後、審判の指示により双方の木刀が改められると一刀は左腕をと下げた。
 一方、突きをかわした又十郎の左耳から血がながれえりを赤く染めていた。一刀の突きをかわした際に剣先が耳に当たったのである。

 この打ち合いがもし真剣であれば木刀より弾みが少ないため双方相打ちによって又十郎の耳ではなく顔面が、そして一刀の袖ではなく左胸がえぐられていたはずである。
 そのあと二人は間をおかず、審判と目線を合わせゆっくり構えはじめた。
「はじめ!」
 今度は又十郎が下がり下段に構えた。耳の血が白の稽古着に付いて汗と一緒に滲んでいる。対する一刀は左手に持った木刀を下げたまま重心を前にかけた。そして、
「いざ勝負!」
「おう!」
 気が満ちて両者が同じ右八相に構えなおし距離をつめた。しかし一刀の左手は柄(つか)を強く握ることが出来ない。その状態から一刀が先に斬り下ろそうとしたが又十郎は一刀に体をあずけた。

「なぜ打ち込まぬ?! なぜ!」と言って鍔迫つばぜり合いを嫌い離れようとする一刀。
「腕が折れていよう!」と又十郎。
「右がある。いざ!」と言って一刀は右手だけで中段に構えた。
「おう!」と気合を入れる又十郎をみて一刀が近間から右手一本により又十郎の喉を突きにかかる。その突きの一線がわずかに届かず払われた。しかし、その払われた流れを使って一刀の切っ先が右上段にあがると又十郎の面の位置に瞬時に振り下ろされた。この面に対し刀の柄(つか)をあげ頭上紙一重《ずじょうかみひとえ》の位置で応じた又十郎。その柄(つか)を握る手の指がつぶれた。
「うっ! 握りがよくなるというもの」と又十郎。
「そのようだな! だが、ひたいの血は見えぬか?」
 又十郎は紙一重で一刀の面をかわしたかに見えたが頭から額にかけて血が流れている。対する一刀の目には又十郎の返り血が入り、まばたきを繰り返している。そのまばたきの間に「骨には至らず!」と言いながら又十郎が後ろに下がり手で額を拭くと顔面に血の筋がのこった。

 対する一刀は折れた左腕を下げたまま態勢を整えようとして後ろに下がり顔の返り血を拭いた。そして打ち込みに入ろうとした瞬間に又十郎の姿が消えた。又十郎は崩れるように膝からうつ伏せに倒れた。
 沈黙のなかで又十郎の体を一刀が抱きかかえると勝者の名が発せられた。だが沈黙の後の会場のざわめきによってその名を一刀が聞くことが出来ない。これが死闘であることは観衆の拍手がまったく起こらない騒然とした状態によって疑う余地はなかった。

 そのあと血で粘り付く又十郎の指を木刀から外し一刀がゆっくり又十郎を寝かせた。そして血の付いた木刀と自分の木刀を右手に持ち玉座に頭を下げた。倒れている又十郎には医師がついて手当てが施されている。
 すると将軍徳川家治は一刀に軽く目線を送り、そのまま席を立ち奥に消えた。
 頃合いを見て、観戦席の田沼意次と真田信安が立とうとすると一刀が右手に持った木刀を審判の前に放り投げた。その異常な行為に場内の動きがとまる。

「何をいたす?!」
「無礼は承知! この二つをお改めください」
 呼び出し役の指示で小姓が木刀を拾いにかかると審判が止めに入り、木刀を手に取って見比べていた。その様子を見た田沼意次と真田信安が使いの者を差しむけると、あわてて審判がひざまずき、
「小野派一刀流の名にかけて、この試合の真偽不詳についてお伝え申す。使われた木刀に相違あり!」と言った。小野派は柳生新陰流とともにこの試合の審判を勤めていたのである。
 これによって一刀の木刀が軽いという不正が明らかとなり模範試合の公平性をさまたげる策略が明らかとなった。そして審判の説明に諸大名が足を止めたが田沼意次と真田信安はそのまま江戸城のなかに入っていった。
 このあと総行が意次の使いの者に試合直前に刺客に襲われたことを伝え、後日、木刀の相違とともに監察職の大目付預かりによって捜査が行われた。すると関係したと思われる者が次々に自害し真相は明らかにならなかったのである。


●四.苦渋の選択
 こうして模範試合が終わると何事もなかったように江戸城大広間に諸大名が集められた。明らかに何者かによってロシア情勢の説明を妨害しようとする動きがあるなか、事態が切迫していたため説明の実施が決められた。その説明の要旨は事前に伝えられており内容を知った多くの者から旧体制派に批判があがった。また鎖国をやぶりロシアと交易を行ったとされる大名は病気を理由に欠席する者もあった。

 各老中出席のもと、はじめに意次から経緯の説明があると伝えられた。
「すでにお伝えいたしたとおり、ロシアという大国が蝦夷地に到来してアイヌと無断で交易を開始したと聞いております」と意次が口火を切る。その一言に会場が騒然となったが次の話で静まりかえった。
「かの国(ロシア)は清国と互角に戦い、国を広げていると聞いております。その手口は実に巧妙!……」と言って意次は松前藩主、松前道広(まつまえひろみち)に詳細を説明させると言った。
 これを受け松前道広がロシア侵略の実態を話しはじめた。
 その実態とは、はじめにロシア人の商人が無断で上陸して領土や国家という概念をもたない先住民(アイヌ)に交易を持ちかける。そして交易をやりながら地域の産物や兵力を調べ武装したロシアの商人らが拠点をつくり徐々に実効支配を強めていく。そして最終的に軍隊が駐留し武力統治するというものであった。その話は、仙台藩の医師、工藤平助が取りまとめた『赤蝦夷風説考あかえぞふうせつこう』をもとにしていた。この内容はロシアと戦ったカムチャッカ半島の先住民族やロシアからの脱走兵から聞き取ったものいであった。
 さらに松前道広が交易の対象をテンやキツネの毛皮と日本でとれる米のほか金や翡翠ひすいなどの宝飾品だと言うと心当たりのある大名が顔色を変えた。

 松前弘道の話につづき田沼意次は能登の千里浜ちりはまにロシアの船が停泊して地元の住民を拉致したと言った。同様の拉致は能登のほか翡翠がとれる越後や金の鉱山がある佐渡でも確認されたと加えると会場はふたたび騒然となった。まさに金や翡翠の情報を入手するため地元の住民を囲い込むロシアのねらいが明らかになると会場は静まる様子がない。
「これにて休憩といたす!」と意次が発声し休憩にはいった。再開は一刻(二時間)後の申の刻(午後三時)となる。

 休憩にはいると江戸城大広間の諸大名は残って話し込むものや家来に指示を出すものなどで落ち着く気配がない。そのなかで薩摩、仙台、松前の各藩主が意次の控えの間に呼ばれた。
 当時の薩摩藩は琉球(沖縄)を属国とし清国(中国)やヨーロッパと琉球を抜け道にして交易を行っていた。従って鎖国時代ではあるが様々な情報を知っていたのである。
 また仙台藩主、伊達重村だてしげむらは江戸詰めの藩医である工藤平助がロシア情勢に造詣がふかいことを知り、工藤平助のことを事前に意次に報告していた。これが最終的に『赤蝦夷風説考』として後に幕府に提出されることとなる。しかし、当初のロシアに対する批判的な内容は大幅に修正され、蝦夷地(北海道)の肥沃な土地や金の採掘をほのめかす内容に変えられていた。

 この薩摩、仙台、松前の各藩主はすでにロシアの脅威を知っていると思って意次が協力を求めたのである。このとき意次は国家存亡の危機に際し薩摩と松前の両藩に『おとがめ無し』と伝えていた。そして、
「急な願いにもかかわらず、準備が進んでいると聞いております!」と言って頭を下げた。その意次の言葉を受け薩摩藩主、島津重豪しまずしげひでが話しはじめた。
「わが薩摩は、清国(中国)の軍人より赤蝦夷の軍備と戦い方について聞いております」
「なるほど! 清国(中国)と対等に戦ができる兵力があると?」と意次。
「はい、およそ十万! さらに銃を持つ商人などが常にいるとのこと」
「で、いつごろ攻めて来るとお考えか?」
「おそらくは、その時期と場所をさぐっていると思われます」
「うむ! それで、清国(中国)の意向は?」と言って意次が島津重豪に意見を求めた。島津重豪はロシアと清(中国)が停戦した以降の動きを探っていたのである。
「いまの時点で、こちらに味方に付くような意向を示せば開戦の口実となると」
「たしかに」
 このときすでに清国(中国)とロシアは国境を定めるネルチンスク条約を締結していたのだが、清国(中国)はロシアに有利に締結された条約に不満を持っていた。そのためロシアは清国(中国)の動きを警戒しつつ蝦夷地(北海道)に上陸して日本と清国(中国)の出方をみていると思われた。

 さらに・・・
「おそれながら、アイヌの話によりますとロシア人にまじって和人(日本人)が交渉の場にいたと聞いております」と松前道広が蝦夷地の状況を話した。
「そのようだな! 能登に上陸したときに流ちょうに通訳していたと聞く。そして何も知らぬ五人が船に乗せたられ、つれていかれた!」と意次が言うと仙台藩主伊達重村が藩医である工藤平助からロシアに日本語を教える場所があると聞いたことを伝えた。
 これらのことからに、すでに日本の実態がロシアに知られているとわかる。この工藤平助にロシアの脅威をつたえた日本人のなかに、日本侵略の危機を知ってロシアから逃げ帰った者がいると言うのである。
 事態の切迫性が認められるなか、意次が兵衛と一刀について話しはじめた。
「年始の他流試合に出場が決まっていた二人のことであるが、二転三転してロシアの動きと関わることとなりました。一人は幕府の大番役で理由がわからず切腹となり、もう一人も同じく切腹を言いわたされた。その二人が先ほど模範試合を戦いました」と二人のことに触れ国家の一大事に内政を混乱させる動きがあることを訴えた。意次は兵衛と一刀に切腹を言いわたした者から自主的に蟄居ちっきょの申し出があったことを伝えた。

 この意次の話をうけ島津重豪が、
「では、意次侯はロシアが能登と佐渡をねらうとお考えですか?」と、ロシア侵攻の核心にふれた。島津重豪は越後の妙高で元薩摩藩士の久保田佐奈江が一刀に敗れ、二人の薩摩藩士がその試合に手出しをした一件から一刀と総行の動向を知っていた。
「いかにも! そのように考える。理由は三つ!」と言って意次がロシアの戦略について話しはじめた。

 まず初めに、佐渡と能登は江戸と手ごろな距離にありロシア軍の上陸地となる可能性が高い。その根拠は船が能登沖に幾度となく出没していることに加え、北陸から信州の冬の間の戦闘において日本の装備では進軍がままならない。一方のロシアは冬季の進軍を容易にできる装備がある。例えば日本で珍重される毛皮はロシアの軍人に防寒用として支給され軍船は冬季の運行ができるほど大型であると言った。
 次に佐渡と北陸の産物や鉱物について話があった。これについては各藩主ともに了知のことで佐渡の金山や加賀百万石といわれる肥沃な土地が狙われるというのである。
 そして最後に、清国(中国)の内情が明かされた。まさに太平の世を謳歌する清国(中国)が内部の裏切りや逃亡によって崩壊の様相を呈していると意次が言った。ロシアは清国(中国)が領土とするアムール川流域に侵攻する前から密偵をおくり、あえて三十年の長きにわたり有利に戦いを継続して領土を拡大したと言うのである。その説明に対し同席した者は日本の実態に類似すると言って危機感をつのらせた。
 その話のあとで、
「おそれながら、百聞は一見に如かずと……」と言って薩摩、仙台、松前の各藩主はこの意次の話が事実であっても幕府が正式に蝦夷地(北海道)以北を調査することを表明し、結果を包みかくさず諸藩に知らせる必要があると意次に進言した。
 この進言に対し意次は了解し、
「では、この三人に加え加賀前田、松代真田をふくめ当座をしのぎます。両藩にはすでに内諾を得ております」と対ロシア政策の体制について踏み込んだ。これによって加賀前田と信州松代真田は能登と佐渡にロシアが進軍したときの備えの中核を担うこととなる。そして薩摩、伊達、松前の各藩はロシアの注目を蝦夷地(北海道)に引くための情報戦略をおこなうことが言いわたされた。すると、
「もしや、我が藩の工藤平助にお聴きになられたことをお使いになられると!」と伊達重村。
「そのとおり! あえて蝦夷地を捨てがたいとすることに意味がござる」と意次が手の内を明かす。意次の考えは『赤蝦夷風説考』を使って蝦夷地(北海道)以北の調査の結果を作為的に変えるものだった。その考えは、実際には寒冷地の原野を開拓する厳しさや金などの資源がなくても蝦夷地(北海道)の価値を前面に押し出しロシアの本州侵攻の気勢をそぐという策だったのである。こうして意次の考えにより蝦夷地(北海道)にロシアの注目を集めるという情報戦が開始された。
 このあと休憩の終わりにあわせ意次が江戸城大広間にもどると旧体制派は急用を理由としてもどることはなかった。

 それから一月余り、予想どおりロシアは交易対象を蝦夷地(北海道)として日本に通商の意向を打診してきた。もしこの要求を断ればロシアが武力により圧力をかけてくることは必至。意次はあえて通商に前向きな姿勢を示し交渉を引き延ばした。ところが、ロシアは通商の意向を伝えておいても無断で蝦夷地に上陸してアイヌと交易をつづけ日本に圧力をかけた。その脅威を知っても旧体制派の妨害によって内政全般にわたり混乱がつづいていた。
 一方で、この通商開始を臭わす意次のうごきによってロシアと不正に交易を行っていた大名や商人たちが実態を幕府に知られると思い一気に市場が縮小された。さらに、この大名や商人たちの動きと刺し違えるようにロシアの脅威が各方面に知らされることとなる。
 意次はこうして苦渋の選択にせまられるなか一点の光を感じていた。それは外交という未知の領域にたずさわる実務方や家臣が立場の垣根を越えて協力する姿だった。意次は、その一点の光をたやさないことが外交の根幹であると受けとめたのである。


●五.残心を解く
 江戸城大番所前の模範試合から二ヶ月が過ぎたころ、田沼家上屋敷に改めて四人が呼び出された。そのとき総行は肋骨にひびが入り田沼家下屋敷にて養生し、武智一刀は左手首を骨折して肘に切創を負って深川の実家で養生していた。
 また、森脇又十郎は右手小指を失い、合わせて薬指を挫滅して切除したが、さいわい頭部の傷は軽傷で済んだ。そして多田野兵衛は右上腕からひじに掛けて裂創を負い、又十郎とともに赤坂の真田家下屋敷で養生していた。
 このように四人はいずれも負傷して多田野兵衛をのぞき剣士として再起が危ぶまれた。
 模範試合に出場した四人は田沼家上屋敷において意次から直々に礼賛され、くわえて総行から模範試合までの一連の経緯と今後の扱いについて話を聞くように伝えられた。そこで場所を日本橋浜町の田沼家中屋敷に移し労いの膳を囲むことになった。

 各々が席に着くと・・・
「田沼様から我らに御見舞いを頂いている。改めて礼を申すと!」と総行が労いの話をするが、しばらく沈黙がつづく。
「……!」すると森脇又十郎が総行に、
「おぬしこそ怪我はどうだ?」と、切りだした。
「うむ! 森脇に心配されては早く治すしかあるまい」
「ところで、我が殿(との)から内々に話を聞いたが一体どういうことだ?」と又十郎が模範試合とロシアとの関係をたずねた。
「全容は分らぬ。それが答えだと意次侯が言っておられた」
 この総行と又十郎の話に兵衛が、
「武智とわたくしは、この屋敷で試合をするつもりでおりました!」と割って入る。ところが一刀はこの三人の話を聞くこともなく手酌で飲みはじめた。
「兵衛! 食べながらでよかろう」と一刀。

 こうして四人は食事をはじめたたが一堂に会すのは模範試合のとき以来であった。そして食事をしながら総行によって兵衛と一刀が切腹を言い渡されたときの経緯が話された。
 その話とは・・・
 当初、年初めの他流試合には武智一刀と多田野兵衛の二人の名前があり同門の無外流であることが分かっていたが、総行の推挙によって参加が決まり一回戦を勝ち上がれば二回戦で同門の二人が戦うこととなっていた。さらに勝ち上がれば準決勝で森脇又十郎と戦う組みに入っていたが、そのことについて別の組に参加が決まっていた小野派一刀流から不満が上がり辞退の意向を伝えられたという。
 いわゆる知り合いである対戦相手が事前にどちらが勝つかを決めて手をぬくという疑念であった。
「なるほど! 総行は元々真田でわしと旧友。そして総行が推挙したお二人も関係があると疑われたのか」と又十郎。すると一刀が、
「まあ、試合の前に小野派の道場破りをしたおれが切腹と言うのなら分る。しかし大番勤めの兵衛も切腹とはおかしいではないか!」と言って兵衛の切腹の裏にあるロシアの関係を突こうとした。
 すると総行が、
「武智の言うとおりだ。小野派から不満が上がったとき田沼様のご意向は江戸所払いと聞いていた」と言った。その話を聞いた一刀が首をかしげたが、当初から何者かに諮られたと思っている一刀は江戸払について興味がない。
 内々にロシアとの関係を聞いていた一刀は、
「総行! ところで、この毛皮の敷物を何と申すか知っているか?」と言って毛皮のことから話を変えようとした。
「ああ! 薩摩からの献上品と聞く。もとは蝦夷地(北海道)で採れたものだ」と、総行が客座に敷かれた敷物を見ながら一刀と話しはじめた。するとその話を聞いて兵衛の顔つきが変わった。
 この一刀の毛皮の話で兵衛は昨年の暮れに毛皮の密貿易を調べるために田町の薩摩藩蔵屋敷に入ったことを思い出した。そのとき、屋敷には何も問題は無かったが艀《はしけ》に横付けされた北前船から海産物と一緒に少量の毛皮が見付かったのである。
 この捜査により鎖国政策のなかで動物の毛皮が珍重され、米を毛皮に替えて、その米が蝦夷地(北海道)のアイヌを経由してロシアに流れていることを兵衛の大番組がつきとめたのである。
「これは赤蝦夷から入って来たもの。キツネとテンの毛皮かと!」と兵衛。
「なるほど! おぬしの真面目さが仇《あだ》となったようだな」と言った一刀に対し、
「いや、だからと言って切腹とは腑に落ちぬではないか!」と兵衛が不満を口にした。兵衛には未だ切腹の沙汰が下りたままなのである。
 すると総行が、
「やはり知らなかったか! おぬしの同僚が薩摩と通じていて金をもらったと聞いた。そして、この前の一件で自害した」と言った。この総行の話に兵衛は心当たりがある。記憶をたどった兵衛が顔色を変えた。そして、
「まさか! それでわたくしも一緒に?……あの金が!」と江戸を発つときに工面した五十両が薩摩と内通したことによる不正金だったことに気づいた。諏訪で命を救われたお礼に鷹匠の香風に渡そうとした金はロシアとの密貿易に便宜を払った見返りだったのである。
 その兵衛に、
「兵衛! おぬし江戸を出る際に金を借りたであろう」と一刀が追い打ちを掛けた。
「ああ! 幾らでもいいから頼むと言ったら五十両を目の前に出された。あわてて借用書を書いたが、江戸に戻って返しに行ったら行方知れず。金はここにある!」と言って兵衛が五十両を差し出すと一刀が酒と膳の追加を求めた。

 そして・・・
「総行! そろそろ隣にいる客人を呼んではくれぬか」と仕切りはじめる一刀。
「ほう! 気付いていたのか……」と言って総行が襖を開けると能登で衰弱した一刀を助けた男が座っていた。総行はその男の名を富田無双とみたむそうと伝え、そして無双は加賀藩前田家の指南役を勤める富田家の三男で二年前に田沼家中屋敷で総行と戦った剣友であると言った。一刀は屋敷に入る際、聞き覚えのある馬の鳴き声に気づき富田無双の気配を感じていたのである。
「先般、武智殿には馬をお借りすると申したが、じつはわたしの馬でござる」と無双が越後の親知らず子知らずの海岸で一刀に馬を二両で譲ったことを明かした。
「うむ! どおりで賢いと思った。江戸に連れてまいられたのか?」
「そのとおり! 馬の二両をお返しするか、能登の狼煙まで乗って行かれるか聞くために参った」
「ほう、おもしろい! 馬は大事にいたす。で、本当の目的はいかに?」
「決勝戦でござる! おそらく他流試合で勝ち抜かれるのは四人のうちのいずれか。是非ともお相手願いたい!」
 富田無双は昨年につづき田沼家中屋敷で行われた他流試合に出場し、準決勝で小野派一刀流の小野義三を打ち破っていた。ところが、決勝の相手の森脇又十郎が怪我で辞退したと聞いて又十郎との試合を待ち望んでいたのである。

 急きょ決まった試合の相手は怪我の回復具合から多田野兵衛が受けることとなる。そして立ち合いと審判を森脇又十郎が勤めることになった。
 このとき試合の準備を見ていた一刀は能登で瀕死の状態で救われた富田無双との記憶のなかで気になる話があった。そこで一刀は、
「ところで和倉に船で行くとき、そこの富田に拙者せっしゃが生きていなかったら渡せなかったものがあると言ったであろう。いったい何のことだ?」と総行にたずねた。
「うむ!? あっ、大事なことを忘れていた。おぬしの士官の話し。そのために加賀より呼んだのじゃ!」と総行。
「うむ? ますます解らん!」と一刀が首をかしげた。
「そうだ! 加賀藩におぬしを推薦した結果だ! すまぬ。わしが忘れておった」と言って総行が胸から推薦の返事を取りだした。一刀が総行の後を追って修行を終えた段階で田沼意次の配慮によって加賀藩に仕官を推進することとなっていたのである。 
 すると富田無双が素振りをしながら、
「武智殿! 我が藩に仕官が決まりました。馬に乗って来ていただくことをお願いに参りました」と言うと馬の鳴き声がした。
「まあよい。馬と一緒なら行ってみる! そのことより、兵衛は大番に戻れるのか?」と一刀が兵衛のことを心配する。
「いや、罪は晴れてはいない! 当事者が自害して金の経緯が分からん」と総行。
「それはそうと、我らに切腹を命じた者がいる! 事はそこに尽きるであろう」と一刀が降り出しに戻した。一刀の酒を飲んでからの話はロシアとの密貿易から加賀藩への士官の話で終わることはなかった。
 一刀は、兵衛と一刀に切腹を言いわたした者がロシアと関わっていたことが分かっていても自害や蟄居ちっきょによって真相が不問とされたことに気づいていた。

 その一刀の不満を察して総行が話をまとめにはいる。
「そうだが! いろんな動きがありすぎて分らんのだ」と話したところに、いきなり田沼意次が現れた。居合わせた富田無双ほか四人は突然のことに驚いて姿勢を正した。
 すると意次が・・・
「そのままでよい! この度の一件で話があってまいった。多田野兵衛、これへ!」
「はっ!」
 兵衛が田沼意次の前に位置を変えた。片膝をついて頭を垂れる兵衛に思い当たる節はない。ほかの四人は神妙にこの流れをうかがっていた。
「兵衛! これはそなたが書いたものか?」
「はい! わたくしが書いたものに相違ございません」
「あい分かった! その失った手は戻らぬが願いをかなえる。なんなりと申せ!」と言って意次が差し出した書面にはロシアとの密貿易に関して取りまとめた内容が記されていた。そこには佐渡の金、奥羽と北陸の米、越中の薬などが交易の対象となりロシアが進軍するときの軍用品になると記されていた。そして兵衛だけでなく一刀まで切腹を言いわたされた理由として一刀が兵衛からロシアとの密貿易のことを聞いたと思われたと言うのである。
 意次は、この兵衛の書面がロシアの脅威をいたずらに知らしめ、一部の者から兵衛と一刀が箝口かんこうの対象となったため虚偽の切腹の沙汰が出されたと言った。そして兵衛の手元の五十両を証拠として召し上げ無罪を言い渡した。

 こうしてロシアとの密貿易に端を発した兵衛と一刀の切腹の件は形の上では解決したかに見えた。しかしロシアの脅威は依然としてつづいていた。
 兵衛と一刀の運命を大きく変えたロシアとの通商交渉は日本国内における対策が浸透して最悪の事態がまぬがれたかにみえた。しかし、密貿易に関わったと思われる者の自害や処分は各方面に大きな影響を与えることとなる。意次は清国(中国)の国内情勢が同様の状況におちいり相互不信によって弱体化したことを踏まえ、内政の動揺を最小限におさえ、あわせて外交にも尽力しようとしていた。


●六.飛鳥の行くすえ
 この兵衛の無罪から一年が過ぎたころ、ふたたび諸藩、流派の枠をこえた剣術の試合が田沼家中屋敷において行われた。そこには五人の名前はなく又十郎の嫡男、森脇蔵人が名を連ねていた。
 そのころ武智一刀は加賀藩に仕官して富田無双とともに加賀前田の富田流剣技を高めるために後進の指導にあたり、総行は蝦夷地の調査に加わりロシアの実態を意次に逐一報告していた。

 そして多田野兵衛は信州諏訪で森脇又十郎の支援によって道場を構えることとなる。そのことを知った意次は松代藩主の真田信安をつうじて内々に支援を行っていた。
 それは兵衛の道場開きを前に森脇又十郎が激励に訪れたときのことであった。
「ようやく出来上がりましたな!」と言って又十郎がお神酒おみきを渡した。
「はい! わざわざお越しいただき恐縮です」
「して、門弟は?」
「おかげさまで、五十を超えました」と言って兵衛が門弟の帳面を又十郎に見せた。
「ほう、まだ増えるな! それで、これは総行からそなたに渡すように言われたものだ」
「これをわたくしに?」
「そう! 蔵人と江戸に行った際に渡された。武智殿が欲しがったが、総行がそなたに渡すと言って断ったらしい」と又十郎が言った。その手には総行がいつも持ち歩いていた鈴(リン)があった。
「いや、これは総行殿の御守りではなかったのですか?」
「そのとおり! 鈴(リン)を渡すということは?!……まだわからぬようだな」
「はい! 心してちょうだいつかまつります」
「良かろう! これがほんとうの意味で残心を解くこと。リン殿も待っておる!」
「おおせの通りでございます。あのときリン殿のエガケで命が救われました」と言って兵衛は模範試合で負った傷のあとを見ていた。

 一方、田沼意次はロシアの圧力による内政の動揺をおさえ財政改革を推し進めていくかにみえた。ところが、その後に起こる浅間山の大噴火や関東一円に広がった火山灰によって天明の大飢饉がおこる。意次の改革は自然災害によって軌道に乗ることはなかった。
 意次失脚の引き金となった上州(群馬県)との境にある浅間山の噴火を諏訪から見ていた兵衛とリンは噴火が収まるころに狩りに出かけた。諏訪湖の湖面には死んだ魚が浮かび湖畔の草木に灰が付着して風が吹くと息苦しさをおぼえた。以前は水草が見えるところに浮島のように火山灰が広がっている。二人は冬になると純白にそまる台地を想像することができなかった。
 このとき兵衛にリンと初めて出会ったときに口にした『追手と戦って敗れるも死 自然の厳しさに敗れるも死』という言葉が思い出された。目の前に見える自然の驚異は兵衛の予想をはるかに超えていたのである。
「リン殿! 噴火は収まるのでしょうか」
「わたくしには判りませんが香丸が狩りをしたいと申しました」
「つまらぬことを聞いてしまった。この灰で動物や魚が死んでおる!」
「兵衛様! わたくしはあなた様と父上(総行)が生きておられるだけで十分です」と言ってリンが香丸に狩りの指示をした。

 いきなり飛びたった香丸を見て、兵衛は灰でおおわれた大地のなかから香丸が獲物を見つけるとは思わなかった。そのため香丸が空中で羽を広げた状態から下降にうつる動きを見失ってしまう。ところが香丸はあえて兵衛の視界にはいり下降したかに見えた。
「いやー、みごとな狩じゃ!」
「兵衛様! 香丸がテンを捕まえました」と言って獲物をとらえた香丸のところにリンが向かい、兵衛があとを追った。リンは獲物の腹部をためらうことなく短刀で切り裂き内臓を取りだしてから兵衛に見せた。
「これがテンか! 肉は食べずに毛皮を取るのですか?」と兵衛が問うとリンは、
「いいえ! 肉は美味でございます。毛皮は兵衛様の半纏《はんてん》にいたします」と応えた。
 そのあと兵衛がリンからテンを受け取ると香丸が兵衛のエガケにとまった。


【むすびに】
●一.歴史のひも解き
 いま残された文献などによるとロシアが正式に通商を求めて来た時期は田沼意次を失脚させた松平定信のときだと言われている。おそらくその前段でロシアは開国を求める非公式な交渉をおこなったことは当然である。特筆すべき点は、幕府の鎖国政策からおよそ150年、江戸時代中期に突如として見知らぬ国が通商を打診してきたときの経緯がほとんど残っていないのである。この驚愕な出来事に対し当時の権力者の田沼意次が前向きだったことが残されている。しかし普通に考えると、いきなりの開国要求に激震がはしると思いきや意次は財政逼迫の改善策として捉えたとある。

 その意次が仙台藩の医師、工藤平助の書いた『赤蝦夷風説考』を意次の用人であった三浦庄司みうらしょうじを介して上申させている。この『赤蝦夷風説考』はロシアの脅威を記したもので開国とは真逆の話である。
 また意次は当時の長崎奉行、久世広民からロシアなどの諸外国の情勢を逐一報告させたことが残されている。この意次のロシア外交に前向きな姿勢とロシアを警戒する動きが歴史上の矛盾点となっている。

 当時は大国ロシアの脅威を知る者はごくわずかで意次は熟慮の末にロシアとの平和外交の道を探っていたとみえる。おそらく意次は蝦夷地がロシアに一定程度支配されたとしても大規模な武力衝突を回避するという苦渋の選択をしたのではないかと思われる。しかし、その筋道を示したところで松平定信によって失脚させられ対ロシア政策の流れは頓挫してしまった。
 ところが意次の意志はその後も幕府の実務方によって受け継がれ、意次の失脚以降もロシア外交は慎重かつ巧妙に推し進められたと考えられる。なかでもロシア情勢の把握や戦闘に備えた備蓄、江戸城などにある御金蔵おかねぐらの莫大な蓄えは田沼意次の時代から急速に始められた。そして、この備えを結果として後の飢饉や近代化などに使うことが出来たと見ることが出来る。
 さらに実権が田沼意次から松平定信にかわった以降も対ロシア政策はつねに重要課題として受け継がれ、およそ100年後のペリー来航による開国の教訓とされた。

 一方、ロシアの動きをみると田沼意次から松平定信に実権がうつっても蝦夷地の周辺でアイヌや商人などと交易をつづけ日本の動きを探っていた。そしてついに、1792年にロシアの軍人ラスクマンが漂流民の大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうをつれて根室にあらわれた。このときのロシアの要求は通商という自国に有利な開国と、その先にある日本侵略であることは当時の実務方によって明らかとなった。おそらく田沼意次から受け継がれた対ロシア政策の根幹は交易開始の引き延ばしと鎖国政策の大幅な見直しだったと思われる。
 すなわち時代を先取りする意次はロシアに匹敵するイギリスなどの複数の大国と同時に通商を開始し、いわゆるバランス外交を考えたと思われる。これがのちのペリー来航に端を発した開国政策に活かされアメリカのほかにオランダ、イギリス、フランス、ロシアとも順次条約を締結していくこととなる。

 こうしてロシアが正式に日本に対して交易を求めたとき、当時の権力者である松平定信にロシアの脅威を理解させた立役者がいたことは容易に想像できる。そして、その立役者が田沼意次の下でロシアと交易の交渉を行っていた者だとすると意次を失脚させた松平定信は容易に既存の方針を継承することが出来ない。これがまさに松平定信が打ち出した長崎において交易を認めるという無謀な政策だったのである。そしてロシアに対して『通行証発行』という松平定信のいきなりの話は軌道に乗らず、およそ10年で中止されてしまう。このとき松平定信は事実上失脚していたという極めてちぐはぐな話が残されている。
 すなわち二転三転を余儀なくされたロシア政策の危機をの対応によって回避させた立役者が幕府内にいたということが容易に想像できる。
 しかしロシアの脅威は松平定信の失脚以降も日本の拠点の焼き討ちなど、交易中止の影響によって増すこととなった。

 この脅威の動きにあわせロシアは蝦夷地のアイヌに対して不当な交易や武力による支配を一方的に行ったため度々アイヌとの衝突がおこる。このロシアの強圧な動きに日本が巻き込まれ親日アイヌと親露アイヌの対立によって武力衝突が起こる。この動きを止めるため十八世紀のはじめになると、ようやく奥羽諸藩に幕府が北方警備を命じた。この警備のために会津や津軽などの東北諸藩が蝦夷地などの拠点に出兵することとなった。
 そのころになるとロシアは徐々に蝦夷地から手を引き、その動きと入れ替わるように極東ハバロフスクから日本海沿いを南下して朝鮮半島に迫っていった。いわゆる満州人と朝鮮人が暮らす膨大な場所をロシアが領土として支配しょうとしていた。その間、清国(中国)と小競り合いを続けたがアヘン戦争で弱体化が進む清国(中国)に領土を守る力はなく1860年に日本海の対岸である沿海州をロシアが領土に含めた。これを脅威に感じた明治政府は軍事強化を進め、そして、ついに1904年に日露戦争が勃発する。

 もし日本が日露戦争に勝利していなければ、ほかの国で行われたような土地や財産の没収、強制移住、強制労働が課せられたことは明らかである。そして、そのことが現実としてシベリア抑留や満州での民間人虐殺、北方領土問題につながるのだが、これらの問題は極めて穏便に処理されている。すなわち、このロシアの不当行為は日本の反露感情をおさえるために政策的に真実を語り継がれないような形で残されている。そのことによって多くの日本人は対ロシア政策の経緯や現在の脅威についてほとんど知ることができない。

 ロシアはモスクワ周辺の小国から周辺国との戦いに勝利して、わずか200年の間に世界最大の帝国となった。だがロシアの行った侵略や統治政策は卑劣で残忍なものだったため今なお敵対する国が多い。彼らの歴史認識は血と汗でうばった領土は死んでも手放さないという揺るがない信念で成り立っている。また隣国で戦闘が起こると敗戦国に対しては漁夫の利をねらい無抵抗の状態で領土を拡大しようとする。その思想は現代においても隣国と紛争を繰り返す彼らにとって周知の事実である。
 彼らの祖先の多くは、あらたに領土として占領した場所に強制的に移住させられ農奴として命がけの開拓に従事した過去がある。そのため先住民から不当に武力によって奪った土地であっても手放すことは彼らの犠牲にかなうものではない。そこには、ほかの国に対して譲れないロシアの国家存立における経緯や、つねに優位な存在であることを求める国民性がある。そのためロシア人の多くは自国の歴史を侵略と周辺国の犠牲によって成り立っていると捉えることが出来ない。そのため自由主義がなかなか浸透せず権力による支配を安全で心地よく思うのがいまのロシアなのである。


●二.風説になった真実
 一般に通商を求めるには相手の国にそれ相応の資源や産物があるか、あるいは地理的に押さえるに足りる利点があるなど、平和的な交渉が表向きとなる。しかし江戸時代においてロシアは植民地化の糸口として武力をちらつかせながら日本と通商を有利に進めようとした。もちろん理由もなく断ればロシアに侵略の糸口を与え武力行使されることは当時の日本(幕府)も容易に予想できた。

 ロシアの視点では江戸時代の日本の鎖国政策は弱小国が一方的に国を閉ざしていると見えていた。そのため特別な使節団で交渉するというよりは武力により圧力をかけて容易に開国できると踏んだとみえる。そして無断で北海道(蝦夷地)のアイヌと交易を開始するなど戦略的に実効支配を強め日本の出方をみていた。
 さらに珍重品であるテンやキツネの毛皮などの不正交易で大名や幕閣に揺さぶりをかけ日本の内情を探ろうとしていた。その仲介役となった商人などは、樺太などに足をのばし独占的に海産物を清国(中国)に輸出して莫大な利益を得ていた。ロシアもそれらの商人と関わっていたことは蝦夷地と呼ばれたロシア領に日本人の居留地があったことからも明らかである。そのことに気づいた田沼意次がどの様に動いたかは諸説ある。しかし結果としてロシアとの通商に前向きな姿勢を示したことが歴史上の事実として残されている。

 その後、松平定信の失脚から明治に至るまでのおよそ100年間、ロシアと大規模な武力衝突が回避された。しかし、そのことを偶然と捉えることは不自然であり、この平穏に見える空白期をなしとげるための巧妙な政策が日本にあったことは否定できない。
 一説には、このときの立役者として大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛《たかだやかへい》などの名前があがるが商船の船頭や商人の身分で対ロシア政策を一手に担ったと考えることに無理がある。おそらく彼らをしたがえてロシアの圧力を巧みにかわした立役者がいたと考えるのが自然である。しかし残念ながら、その間の対ロシア政策の本当の立役者や彼らが継承したロシア政策は歴史のなかに埋もれたままである。ロシアの国力をみれば当時の日本の領土の一部を占領することはさほど難しくはなかったと考えられるからである。

 その後の明治維新において薩摩や長州を中心とする新政府が自分たちにとって不都合な歴史資料を処分した可能性は否定できない。その一つとして日露戦争開戦の大義名分のために江戸時代のロシアとの経緯を不都合と捉えたのかもしれない。開戦当時の日露の国力差をみれば大国ロシアとの戦いを回避する動きは十分あり得る。そのため開国時にすでに締結されたロシアとの通商条約の経緯を処分して開戦反対派との混乱を避ける必要があったと考えられる。
 隣国ロシアは地下資源、農林水産物にめぐまれ軍事力も日本よりはるかに優れている。様々な国際情勢の変化やAIなどの未知のテクノロジーの進展をみたとき、我々がロシアといかに相対すかを探るために歴史の裏に隠れた真実を読み解くことが強く求められる。

                            ―おわり―
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