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第十話
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シルベスターの屋敷での話し合いから二週間後、フローリアは修道院を出て、王都に近い五百人ほどが暮らす町を訪れていた。
黒の質素な修道服に身に纏ったフローリアを二人の聖堂騎士が付き添う。
今回の筋書きはこうだ。フローリアはいつものように神の言葉を聞き、聖堂騎士に頼んでここまで連れて来てもらった。しかし、今日はこれまでとちょっと違う。いつもは神の言葉を聞いて、奇跡を起こすまでに一週間から三週間ほどの間隔があった。しかし、今回は神の言葉から奇跡まで二日しか間隔を置かない。それはフローリアのいる修道院から奇跡の舞台となる町が近かったためだ。
もちろん、それも作戦だった。
審問官を密かに監視していた司教は彼が予想以上に勘がいいことと分かったのだ。そして、彼に関する情報を集めようと、留学時代の友人に手紙を出し、それとなく彼のことを聞いてみたら、驚くことに彼は昔、魔法を使える東の人の血を引く娘を保護したことがあったそうなのだ。その娘は孤児院に入れられたそうだが、それなら彼が魔法を知っている可能性が高い。
しかし奇跡を起こさず聖女認定は難しい。確かに今までの経歴はあるものの、それだけでは少々物足りなかった。計画ではフローリアは今もなお、これからも神の言葉を聞いていなければならないのだから。
魔法だと気付かせないように気をつけながら奇跡を起こし続け、彼に聖女と認めさせなければならない。
結局、まずは審問官に奇跡のその場に立ち合わせないことにした。彼が様子を見るのが予想されるように、こちらも彼の様子を見よう、というわけである。
だから今回はいつもよりせっかちな神の言葉と奇跡となったのだ。言い訳はもう決まっている。フローリアは神の言葉を聞いたけれど、急すぎて審問官様にお伝えするのが間に合わなかった、だ。
審問官はフローリアの奇跡の調査のために王都や王都近郊を出歩いており、今回の奇跡の地には少し前に滞在していたのを確認済みだ。これなら奇跡のそのときにいなくても、変化を確認できる。
そして何より今回の奇跡はヘラの魔法そのもの。聖堂騎士の下準備が全くない。下手に怪しまれることもないだろう。
今回の奇跡はこれまでの奇跡と一味違う。人々を救うのではなく、聖典の奇跡を再現する。そして、これはフローリアが救い主であるだけでなく、神の代弁者だと印象付けるためだ。後々に総本山の人間を動かしやすくしないといけない。
審問官がどう受け取るかが何より大事であるが、聖典と同じ奇跡はきっと彼の心に響くだろう。
今回はヘラより司教の方が慌しかった。
フローリアと司教の関係は、あくまで神の言葉を聞いて奇跡を起こすフローリアに、司教が世話をさせてもらっているという形で、立場はフローリアのほうが上。
今回は神の言葉があまりに急だったので、司教はどこにいるか分からない審問官に伝えるのに手間取ったと演出する。どこにいるか教えない審問官に対する不満をこういう形でぶつけるらしい。と、言っても司教は審問官に密かに監視をつけているからどこにいるか分からないなんてことはなかった。
審問官の非友好的な態度が立ち会えなかった原因の一つとして密かに匂わせる。相変わらず司教は人が悪い。そして自分が悪いと先に謝ってしまえば自然と相手が申し訳ないと思うだろう。相手が司教並みに図太ければ、そんな地味な嫌がらせも意味はなくなるが。
それにしても、よく考え付くものだ。
さて、今回フローリアが訪れた町には井戸があった。もう何十年も枯れずに使われている町民自慢の井戸だ。町には六つも井戸があり、そのうちの一番人家から離れたところにあるものを使う。審問官がこの町を訪れたときに、この井戸で喉の渇きを癒したと監視者が報告したからだ。
町の人々はフローリアの突然の訪問に驚きつつ、彼女が神の言葉を聞いてこの町を訪れたと知ると歓迎した。しかし、町にも多少の飢えはあるものの、困窮しているほどではない。フローリアはこれまで人々に救いをもたらしてきたが、自分たちを何から救ってくれるのか、不思議でしょうがないようだった。
人々の疑問にフローリアに付き従ってきた聖堂騎士が答えた。
「聞け、フローリア様は神の言葉を聞かれた。神は心が清く、素直なお前たちに贈り物を与えるそうだ。お前たちの星海での旅が良きものとなるだろう」
人々はその言葉を聞き、互いに顔を見合わせ、やがて歓声が上がった。
「フローリア様、聖女様! 一体何をしていただけるのでしょうか?」
群衆の中から赤子を抱いた若い母親が尋ねた。
フローリアはもう一人の聖堂騎士に頷き、彼が説明した。
「神はお前たちに、神の血が湧く井戸を与えるとおっしゃられたそうだ」
神の血、それはぶどう酒のことを示し、聖典では神は触れただけで水をぶどう酒に変えたという。そのため、ぶどう酒は神聖なものとして扱われ、聖堂での大事な儀式では必ず用いられた。
人々が神からの贈り物に大喜びする中、騎士は静かな声でフローリアに促す。フローリアは小さく頷き、身を翻して、すぐ後ろにある井戸の前に立った。
そしていつもそうするように、そっと胸の前で手を組み、目を閉ざす。
多くの人の前でそれは起こった。
フローリアが神に祈りを捧げると、水を打ったように辺りは静まり返り、息の音すら、生唾を飲み込む音すら憚られた。音もなく、それは起こる。井戸の奥から白い光があふれ出し、フローリアから聖なる空気が漂った。変化はそれだけだった。井戸から溢れていた白い光は消え、聖女は顔を上げて、瞼を押し上げる。
「終わりました」
フローリアがようやく声を発した。他の奇跡に置いても彼女はほとんどしゃべらない。だから彼女は声を失っているのではないかという噂まであった。人々は思っていたより芯のある声に驚く。
「お疲れ様でした。フローリア様」
人々はフローリアを聖女と呼ぶが、聖堂騎士は彼女を聖女と呼ぶのはやめた。一時的なことだったが、審問官がまだ認定していないこともあって、審問官への配慮のつもりだった。
「もう、終わったのですか?」
フローリアは、人々の中から出てきた初老の男に頷いた。騎士が彼に井戸へと進むよう促した。
「さ、確かめてみなさい」
男はにこやかに微笑む騎士をいぶかしみつつ、井戸に近づく。そして眉根を寄せて、井戸を覗き込んだ。
「ん?」
井戸からぶどう酒の匂いが立ち上り、ほんのりと男の顔が赤らんだ。もしかしたらお酒に弱い人だったのかもしれない。桶を落とし、井戸の中身を汲み上げた。
「おおっ!」
男は驚嘆の声を上げる。人々は風に乗ってきたぶどう酒の匂いを嗅いだ。どよめきが広がる。引き上げられた桶の中には赤紫色の透明な液体が満ちており、吹き始めた風が辺りにぶどう酒の匂いを撒き散らす。
「おおっ、本当にぶどう酒だ」
「すごい」
「奇跡だ!」
フローリアは歓喜に沸く人々に微笑み、いつの間にか町を去っていた。
○
審問官ガルニエは風に乗って鼻に届いた匂いに眉を跳ね上げた。それは一応聖職者に属する彼にとって嗅ぎ慣れたぶどう酒のそれで、こんなにも強い匂いがまだ町に入っていないのに届くということは、町中でぶどう酒が撒き散らされているんじゃないかと思った。
匂いを嗅いでから早足になり、辿り着いた町に目を見張る。
信じられない。
一週間ほど前に訪れたとき、この町はとても穏やかなところで、また近くを通ることがあればまた寄りたいと思った。何か名物があるわけではないが、町の人々が良き神の信徒で居心地が良かったのだ。こんな素晴らしい町がこんな辺境の地にあるとは思ってもみなかった。
今、町の至るところにぶどう酒で満ちた樽が並び、積み上がっている。どこを見ても樽があり、町中がぶどう酒の匂いで満ちていた。
少し前にこの地の司教の使いがやってきて、この町で奇跡が起きたとは伝えられたが、その奇跡は町を一変させていた。
聖典には、神が信心深い者たちに報いるために、水をぶどう酒に変えたとある。この町で起こった奇跡も、それとよく似ていた。水がぶどう酒に変わるなんて信じられない話だったが、確かにこの村で使った井戸からはぶどう酒が汲みあがっているのを見た。
まさか本当に奇跡が?
ガルニエは首を振り、考えを振り払う。
彼の持論、信念は『神はいる。でも人間を見守っているだけである』だった。
神とは審判者であり、断罪人でもある。人間の生前の行いをかんがみて、楽園への道を推し量る。そういう存在なのだ。確かに聖典を見てもごくたまに人間と関わるようだったが、そもそも聖典に書かれた話というのはすべて星海の果てにある楽園でのこと。星海のうんと果てにあるこの地で神の奇跡が起きることなんて滅多にあるはずがないのだ。
だが、この町で起こったことは、その信念を揺さぶった。
「司祭様もいかがですか?」
顔なじみの町民が、マグカップになみなみとぶどう酒で満たして寄越した。
ガルニエは聖王直属の部下、審問官という立場にあったが、調査の際には旅の司祭の格好をしていた。この国の司祭の格好とは少し違うが、それでも司祭として認識させるには十分だった。審問官だと気付かれると調査に支障がきたす可能性があるので、この格好の方がずっとやり易いのだ。また、この国で今流行っている巡礼とやらの途中であるというと、人々は喜んで手を貸してくれた。
ガルニエはありがたくマグカップを受け取り、中身を少し口に含んだ。紛れもなくぶどう酒だ。味はその辺で手に入るものと大差はない。だが、井戸から汲みあがったというのはその目で見たとしても納得しきれない。頭にこびりついた信念や常識が受け入れるのを拒むのだ。
あの井戸を調べる必要がある。しかし、すぐには難しいだろう。あの井戸には町の男たちが群がって、ぶどう酒を汲み上げ、樽へと移す作業を行っているのだから。
それにしても、実に残念なことだ。この町の奇跡の瞬間を目にすることができなかった。それだけではなく、フローリアという少女にも会えなかった。今回のことをイェスウェン教区の司教は迅速に対応できなかったことを謝ってきた。話を聞いてみると、彼にとっても突然の話で、気が付いたときにはもう奇跡が起きていたそうだ。別に彼は調査を妨害しようとしたわけではないようだ。いや、彼はフローリアを聖女として認定して欲しいだろうから妨害などするはずがない。ガルニエ自身、調査のためにあちこち回っていたので、伝達が遅れたのも仕方ないことだった。
ガルニエは丁度いいので、しばらくこの町の奇跡の調査を行うことにした。
あのぶどう酒の井戸は混乱を招かぬように、この町の聖職者たちが管理することになった。穏やかで、誠実そうな司祭で、補佐としては王都から聖堂騎士数人と聖職者が送られてきた。町はすっかりにぎわうようになり、気の早い者はすでに巡礼の新たな地に足を運んでいた。
あの井戸のぶどう酒は奇跡の証として、大聖堂の儀式でも用いられることになったそうだ。名物もなく、穏やかな日々を過ごしていたこの町は一躍聖なる地として敬われるようになった。
○
審問官ガルニエがぶどう酒の井戸の町での調査を終え、町を後にしてすぐ、シルベスターもその町を訪れた。奇跡の地を辿る巡礼をうたっているが、実際は魔法の経過調査である。
今回の奇跡はこれまでと趣が異なるものだったが、果たして人々は受け入れてくれただろうか。そんな気がかりも、歓喜し、神に感謝する町の人々を見て、杞憂だと分かった。
ヘラが水をぶどう酒に変えられるのを知ったとき、いつかこれを奇跡にしようと考えていた。彼女が水を他の液体に変えられるのは、何もぶどう酒だけではない。酢に変えることだってできる。でもぶどう酒の方が衝撃は大きい。何て言ったって神の血とも言われるぐらいの代物なのだから、フローリアにぴったりだ。
井戸は町の司祭によって厳重に管理され、今は人が近づけないようになっている。井戸の周りには天幕が張られ、今度そこに石造りの廟を建てるという。
シルベスターは井戸を管理している司祭の下へ赴き、井戸を調べさせて欲しいと申し出た。まず断られたが、司教の紋が入った指輪を見せると、すぐに許可を出してくれた。司教様々である。
井戸の周りに張られた天幕の前には顔なじみの聖堂騎士が立ち、警備をしていた。シルベスターは聖堂騎士に会釈をして、町の司祭から調査の許可を得たことを伝えると、快く中へと招き入れてくれた。
天幕は革でできているためか、天幕の入り口を捲り上げると、中からむわっと温かいぶどう酒の匂いに襲われた。酒に強いシルベスターでも思わず足を進ませるのをためらった。
「しばらくここを開けておきますね」
「そうですね。お願いします」
聖堂騎士の気遣いに礼をいい、シルベスターは外の冷たくて新鮮な空気を深く吸い込んで、中へと踏み込んだ。
中は薄暗い。天幕の縫い目から光が差し込み、天幕の中の唯一の光源となっていた。
「学者様、お待ちください」
聖堂騎士の一人が細長い木の棒を手に、中へ入り、手の届かないところにある切れ目を押し開く。そして切れ目に短い木の棒を差し込んでつっかえとする。どうやらあれは天窓のようなものらしい。おかげで天幕の中に光と風が入り、暗さとむせ返るぶどう酒の香りが和らいだ。
聖堂騎士は天幕のすべての天窓を開け終えると、外にいますと声をかけて、出て行った。
しかし、すごいものだ。
ヘラは屋敷でグラスの中の水をぶどう酒に変えた。あれはたった一杯の水だった。しかし、目の前にはその何十倍、何百倍も水を湛えた井戸がある。この井戸は水ではなくぶどう酒を湧き出すのだ。
魔法というものに出会ってそこそこ経ったが、シルベスターの心を魅了してやまない。そしてそれを自在にできるヘラがうらやましくてたまらなかった。だが、同時に恐ろしくもある。今まで彼女が見せた魔法は、使い方次第では簡単に世界を変えてしまう。シルベスターだって呆気なく、跡形もなく消し飛ばすことができるのだ。それをしないのは、ヘラがそうしないだけであるという、ただそれだけのことなのだ。
奇跡を終えたヘラは、王都の片隅にある宿にやってきて、そこでシルベスターと司教に成功を報告した。あの町を奇跡の舞台としたのは、あの町が理想の町だったから。ヘラはあの町にある六つの井戸の内、一つを魔法でぶどう酒の湧く井戸へと変えた。司教は他の井戸にぶどう酒が滲まないか心配したが、ヘラは大丈夫だと断言した。彼女がそういうのなら、大丈夫だろう。事実、他の井戸からぶどう酒が出たという話は聞かなかった。
シルベスターは井戸からぶどう酒を汲み上げたり、中を覗き込んだりした。魔法が使えない自分ができる調査なんて、限られている。目で見て、耳を澄ませ、匂いを嗅いで、味を確かめて、触れてみるぐらいだ。半刻ほど調べてみたが、井戸からぶどう酒が汲みあがるというだけで、他は何もおかしくなかった。
そろそろ外に出よう。このぶどう酒の匂いに酔ったのか、頭がクラクラする。ふと足元を見たときだ。一つだけ色の違う石を見つけた。気になって拾い上げて、そのまま天幕を出た。日の光の下で石を見ると、それまで酔いかけていた頭が、血が引くように覚めていった。
シルベスターの拾い上げた石は、親指大で、緑色をしていた。羊の丘で見つかったという石ととてもよく似ていたのだ。
慌てて屋敷に戻り、少年からもらった石と見比べても、大きさ、形が多少異なるだけで、同じ色、同じ固さをしている。さらに、二つとも奇跡の起きた地で見つかった。つまり魔法を使ったその場所で。
魔法に関係するものだろうか。それならシルベスターが知らないわけだし、鉱石標本の中にもないわけだ。
○
週末、ヘラが屋敷を訪れると、着いて早々に、シルベスターに裏庭へと連れ出された。そして、シルベスターからあるものを渡される。
「この石を持って、何か魔法を使ってください」
「あれ、この石って」
「ええ、羊の丘で見つかったものです」
「魔法って何でもいいんですか?」
「はい。でも効果の分かり易いものでお願いします」
ヘラは石を包み込むように握る。
何でもいいといわれると困るのだ。しばし考え込んで、昨日夢で見たものにしようと決めた。
ヘラは最近、不思議な夢を見るようになった。
誰かから魔法を教わるという夢だ。その誰か、というのはいつも違う姿をしている。はじめは母や、焼かれた村の友達だったりした。そのうちロナウドになったり、司教になったり、シルベスターだったこともある。夢だからだろう、魔法が使えない人から魔法を教わるのだ。そして、教わる魔法はそのときはまだ使えないもので、その夢のあと、目覚めてから急に使えるようになっている。
きっと魔女の血、東の人の血が夢を見せるのだろう。不思議なものだった。
その夢は他の夢とはもちろん違う。夢の中なのに意識ははっきりしているし、自分が寝ていると分かっているのだ。魔法を教えてくれる人は誰かの姿を借りているが、いつも異様な気配を発していて、姿は違えど、必ず同じ人で男だと分かっていた。そしてその異様な気配というのはちょっと怖かった。怖いけれど、悪い人ではないと分かっていた。そもそも人であるかどうかも怪しかった。
ヘラは目を閉じて、ついいつもの癖で石を握りながら胸の前で手を組んだ。もちろんそんな姿勢をしなくなって魔法は使える。でも神秘的に見せるなら、祈る姿はぴったりだった。
ヘラが魔法を使うと、小さく地面が揺れた。シルベスターは慣れない感覚に声を上げて驚いた。この国では地震というものはまず無い。ヘラは自分が起こしたことだから驚くことはなかった。
次の瞬間、二人の前に水晶の柱が空に向かって突き上がる。高さはシルベスターよりも高いぐらい。そして、柱は今もなおゆっくりと高さを増していた。このままでは裏庭を囲う塀を越してしまう。
「あ、あれ?」
ヘラは目を開き、慌てて魔法を止めた。
「水晶の柱……オベリスクですか。見事なものです」
美しいものは人の心を惹きつける。これも奇跡に使えそうだとシルベスターの目が語っていた。
昨日夢で教わったばかりの魔法、当然使うのも、誰かに見せるのも初めてだった。だからだろうか、危うく魔法の制御を失うところだった。
戸惑うヘラにシルベスターに声をかける。
「どうしましたか?」
「魔法の手ごたえがいつもと違って……。初めて使う魔法だったからでしょうか?」
「その石を持っているのは関係ありませんか?」
「あっ」
ヘラは握りこんだ緑の石のことをすっかり忘れていた。
「そうかもしれません。お返ししますね」
ヘラは緑の石をシルベスターに押し付け、さっきと同じ魔法を使ってみる。水晶の柱が二本となる。しかし、さっきと同じようにやったはずなのに、二本目のほうが短く、細くなった。でも魔法の制御を失うなんて危ないことは欠片もなかった。
「さっきと感触が違います」
「なるほど。これは面白い!」
シルベスターは満足げに頷き、青く美しい瞳が細められた。
「あの石はどうやら魔法を増強することができるようですね。これは使えそうです」
シルベスターは先日奇跡を起こしたぶどう酒の井戸の町で、似たような緑の石を見つけたことを語った。
「どちらも共通するのは奇跡の起きた地、魔法を使った場所だということ。何か魔法に関係するものだと考えたのです」
「だから私に魔法を使わせたのですね」
「その通りです」
シルベスターは新しい発見に大喜びだ。いそいそと手帳を懐から取り出し、何やら書き込み始めた。
彼の探究心に火がついた。こうなるともう、彼を止めることはできない。ヘラは緑の石について調べたがる彼に付き合うことになるだろう、と腹をくくった。
黒の質素な修道服に身に纏ったフローリアを二人の聖堂騎士が付き添う。
今回の筋書きはこうだ。フローリアはいつものように神の言葉を聞き、聖堂騎士に頼んでここまで連れて来てもらった。しかし、今日はこれまでとちょっと違う。いつもは神の言葉を聞いて、奇跡を起こすまでに一週間から三週間ほどの間隔があった。しかし、今回は神の言葉から奇跡まで二日しか間隔を置かない。それはフローリアのいる修道院から奇跡の舞台となる町が近かったためだ。
もちろん、それも作戦だった。
審問官を密かに監視していた司教は彼が予想以上に勘がいいことと分かったのだ。そして、彼に関する情報を集めようと、留学時代の友人に手紙を出し、それとなく彼のことを聞いてみたら、驚くことに彼は昔、魔法を使える東の人の血を引く娘を保護したことがあったそうなのだ。その娘は孤児院に入れられたそうだが、それなら彼が魔法を知っている可能性が高い。
しかし奇跡を起こさず聖女認定は難しい。確かに今までの経歴はあるものの、それだけでは少々物足りなかった。計画ではフローリアは今もなお、これからも神の言葉を聞いていなければならないのだから。
魔法だと気付かせないように気をつけながら奇跡を起こし続け、彼に聖女と認めさせなければならない。
結局、まずは審問官に奇跡のその場に立ち合わせないことにした。彼が様子を見るのが予想されるように、こちらも彼の様子を見よう、というわけである。
だから今回はいつもよりせっかちな神の言葉と奇跡となったのだ。言い訳はもう決まっている。フローリアは神の言葉を聞いたけれど、急すぎて審問官様にお伝えするのが間に合わなかった、だ。
審問官はフローリアの奇跡の調査のために王都や王都近郊を出歩いており、今回の奇跡の地には少し前に滞在していたのを確認済みだ。これなら奇跡のそのときにいなくても、変化を確認できる。
そして何より今回の奇跡はヘラの魔法そのもの。聖堂騎士の下準備が全くない。下手に怪しまれることもないだろう。
今回の奇跡はこれまでの奇跡と一味違う。人々を救うのではなく、聖典の奇跡を再現する。そして、これはフローリアが救い主であるだけでなく、神の代弁者だと印象付けるためだ。後々に総本山の人間を動かしやすくしないといけない。
審問官がどう受け取るかが何より大事であるが、聖典と同じ奇跡はきっと彼の心に響くだろう。
今回はヘラより司教の方が慌しかった。
フローリアと司教の関係は、あくまで神の言葉を聞いて奇跡を起こすフローリアに、司教が世話をさせてもらっているという形で、立場はフローリアのほうが上。
今回は神の言葉があまりに急だったので、司教はどこにいるか分からない審問官に伝えるのに手間取ったと演出する。どこにいるか教えない審問官に対する不満をこういう形でぶつけるらしい。と、言っても司教は審問官に密かに監視をつけているからどこにいるか分からないなんてことはなかった。
審問官の非友好的な態度が立ち会えなかった原因の一つとして密かに匂わせる。相変わらず司教は人が悪い。そして自分が悪いと先に謝ってしまえば自然と相手が申し訳ないと思うだろう。相手が司教並みに図太ければ、そんな地味な嫌がらせも意味はなくなるが。
それにしても、よく考え付くものだ。
さて、今回フローリアが訪れた町には井戸があった。もう何十年も枯れずに使われている町民自慢の井戸だ。町には六つも井戸があり、そのうちの一番人家から離れたところにあるものを使う。審問官がこの町を訪れたときに、この井戸で喉の渇きを癒したと監視者が報告したからだ。
町の人々はフローリアの突然の訪問に驚きつつ、彼女が神の言葉を聞いてこの町を訪れたと知ると歓迎した。しかし、町にも多少の飢えはあるものの、困窮しているほどではない。フローリアはこれまで人々に救いをもたらしてきたが、自分たちを何から救ってくれるのか、不思議でしょうがないようだった。
人々の疑問にフローリアに付き従ってきた聖堂騎士が答えた。
「聞け、フローリア様は神の言葉を聞かれた。神は心が清く、素直なお前たちに贈り物を与えるそうだ。お前たちの星海での旅が良きものとなるだろう」
人々はその言葉を聞き、互いに顔を見合わせ、やがて歓声が上がった。
「フローリア様、聖女様! 一体何をしていただけるのでしょうか?」
群衆の中から赤子を抱いた若い母親が尋ねた。
フローリアはもう一人の聖堂騎士に頷き、彼が説明した。
「神はお前たちに、神の血が湧く井戸を与えるとおっしゃられたそうだ」
神の血、それはぶどう酒のことを示し、聖典では神は触れただけで水をぶどう酒に変えたという。そのため、ぶどう酒は神聖なものとして扱われ、聖堂での大事な儀式では必ず用いられた。
人々が神からの贈り物に大喜びする中、騎士は静かな声でフローリアに促す。フローリアは小さく頷き、身を翻して、すぐ後ろにある井戸の前に立った。
そしていつもそうするように、そっと胸の前で手を組み、目を閉ざす。
多くの人の前でそれは起こった。
フローリアが神に祈りを捧げると、水を打ったように辺りは静まり返り、息の音すら、生唾を飲み込む音すら憚られた。音もなく、それは起こる。井戸の奥から白い光があふれ出し、フローリアから聖なる空気が漂った。変化はそれだけだった。井戸から溢れていた白い光は消え、聖女は顔を上げて、瞼を押し上げる。
「終わりました」
フローリアがようやく声を発した。他の奇跡に置いても彼女はほとんどしゃべらない。だから彼女は声を失っているのではないかという噂まであった。人々は思っていたより芯のある声に驚く。
「お疲れ様でした。フローリア様」
人々はフローリアを聖女と呼ぶが、聖堂騎士は彼女を聖女と呼ぶのはやめた。一時的なことだったが、審問官がまだ認定していないこともあって、審問官への配慮のつもりだった。
「もう、終わったのですか?」
フローリアは、人々の中から出てきた初老の男に頷いた。騎士が彼に井戸へと進むよう促した。
「さ、確かめてみなさい」
男はにこやかに微笑む騎士をいぶかしみつつ、井戸に近づく。そして眉根を寄せて、井戸を覗き込んだ。
「ん?」
井戸からぶどう酒の匂いが立ち上り、ほんのりと男の顔が赤らんだ。もしかしたらお酒に弱い人だったのかもしれない。桶を落とし、井戸の中身を汲み上げた。
「おおっ!」
男は驚嘆の声を上げる。人々は風に乗ってきたぶどう酒の匂いを嗅いだ。どよめきが広がる。引き上げられた桶の中には赤紫色の透明な液体が満ちており、吹き始めた風が辺りにぶどう酒の匂いを撒き散らす。
「おおっ、本当にぶどう酒だ」
「すごい」
「奇跡だ!」
フローリアは歓喜に沸く人々に微笑み、いつの間にか町を去っていた。
○
審問官ガルニエは風に乗って鼻に届いた匂いに眉を跳ね上げた。それは一応聖職者に属する彼にとって嗅ぎ慣れたぶどう酒のそれで、こんなにも強い匂いがまだ町に入っていないのに届くということは、町中でぶどう酒が撒き散らされているんじゃないかと思った。
匂いを嗅いでから早足になり、辿り着いた町に目を見張る。
信じられない。
一週間ほど前に訪れたとき、この町はとても穏やかなところで、また近くを通ることがあればまた寄りたいと思った。何か名物があるわけではないが、町の人々が良き神の信徒で居心地が良かったのだ。こんな素晴らしい町がこんな辺境の地にあるとは思ってもみなかった。
今、町の至るところにぶどう酒で満ちた樽が並び、積み上がっている。どこを見ても樽があり、町中がぶどう酒の匂いで満ちていた。
少し前にこの地の司教の使いがやってきて、この町で奇跡が起きたとは伝えられたが、その奇跡は町を一変させていた。
聖典には、神が信心深い者たちに報いるために、水をぶどう酒に変えたとある。この町で起こった奇跡も、それとよく似ていた。水がぶどう酒に変わるなんて信じられない話だったが、確かにこの村で使った井戸からはぶどう酒が汲みあがっているのを見た。
まさか本当に奇跡が?
ガルニエは首を振り、考えを振り払う。
彼の持論、信念は『神はいる。でも人間を見守っているだけである』だった。
神とは審判者であり、断罪人でもある。人間の生前の行いをかんがみて、楽園への道を推し量る。そういう存在なのだ。確かに聖典を見てもごくたまに人間と関わるようだったが、そもそも聖典に書かれた話というのはすべて星海の果てにある楽園でのこと。星海のうんと果てにあるこの地で神の奇跡が起きることなんて滅多にあるはずがないのだ。
だが、この町で起こったことは、その信念を揺さぶった。
「司祭様もいかがですか?」
顔なじみの町民が、マグカップになみなみとぶどう酒で満たして寄越した。
ガルニエは聖王直属の部下、審問官という立場にあったが、調査の際には旅の司祭の格好をしていた。この国の司祭の格好とは少し違うが、それでも司祭として認識させるには十分だった。審問官だと気付かれると調査に支障がきたす可能性があるので、この格好の方がずっとやり易いのだ。また、この国で今流行っている巡礼とやらの途中であるというと、人々は喜んで手を貸してくれた。
ガルニエはありがたくマグカップを受け取り、中身を少し口に含んだ。紛れもなくぶどう酒だ。味はその辺で手に入るものと大差はない。だが、井戸から汲みあがったというのはその目で見たとしても納得しきれない。頭にこびりついた信念や常識が受け入れるのを拒むのだ。
あの井戸を調べる必要がある。しかし、すぐには難しいだろう。あの井戸には町の男たちが群がって、ぶどう酒を汲み上げ、樽へと移す作業を行っているのだから。
それにしても、実に残念なことだ。この町の奇跡の瞬間を目にすることができなかった。それだけではなく、フローリアという少女にも会えなかった。今回のことをイェスウェン教区の司教は迅速に対応できなかったことを謝ってきた。話を聞いてみると、彼にとっても突然の話で、気が付いたときにはもう奇跡が起きていたそうだ。別に彼は調査を妨害しようとしたわけではないようだ。いや、彼はフローリアを聖女として認定して欲しいだろうから妨害などするはずがない。ガルニエ自身、調査のためにあちこち回っていたので、伝達が遅れたのも仕方ないことだった。
ガルニエは丁度いいので、しばらくこの町の奇跡の調査を行うことにした。
あのぶどう酒の井戸は混乱を招かぬように、この町の聖職者たちが管理することになった。穏やかで、誠実そうな司祭で、補佐としては王都から聖堂騎士数人と聖職者が送られてきた。町はすっかりにぎわうようになり、気の早い者はすでに巡礼の新たな地に足を運んでいた。
あの井戸のぶどう酒は奇跡の証として、大聖堂の儀式でも用いられることになったそうだ。名物もなく、穏やかな日々を過ごしていたこの町は一躍聖なる地として敬われるようになった。
○
審問官ガルニエがぶどう酒の井戸の町での調査を終え、町を後にしてすぐ、シルベスターもその町を訪れた。奇跡の地を辿る巡礼をうたっているが、実際は魔法の経過調査である。
今回の奇跡はこれまでと趣が異なるものだったが、果たして人々は受け入れてくれただろうか。そんな気がかりも、歓喜し、神に感謝する町の人々を見て、杞憂だと分かった。
ヘラが水をぶどう酒に変えられるのを知ったとき、いつかこれを奇跡にしようと考えていた。彼女が水を他の液体に変えられるのは、何もぶどう酒だけではない。酢に変えることだってできる。でもぶどう酒の方が衝撃は大きい。何て言ったって神の血とも言われるぐらいの代物なのだから、フローリアにぴったりだ。
井戸は町の司祭によって厳重に管理され、今は人が近づけないようになっている。井戸の周りには天幕が張られ、今度そこに石造りの廟を建てるという。
シルベスターは井戸を管理している司祭の下へ赴き、井戸を調べさせて欲しいと申し出た。まず断られたが、司教の紋が入った指輪を見せると、すぐに許可を出してくれた。司教様々である。
井戸の周りに張られた天幕の前には顔なじみの聖堂騎士が立ち、警備をしていた。シルベスターは聖堂騎士に会釈をして、町の司祭から調査の許可を得たことを伝えると、快く中へと招き入れてくれた。
天幕は革でできているためか、天幕の入り口を捲り上げると、中からむわっと温かいぶどう酒の匂いに襲われた。酒に強いシルベスターでも思わず足を進ませるのをためらった。
「しばらくここを開けておきますね」
「そうですね。お願いします」
聖堂騎士の気遣いに礼をいい、シルベスターは外の冷たくて新鮮な空気を深く吸い込んで、中へと踏み込んだ。
中は薄暗い。天幕の縫い目から光が差し込み、天幕の中の唯一の光源となっていた。
「学者様、お待ちください」
聖堂騎士の一人が細長い木の棒を手に、中へ入り、手の届かないところにある切れ目を押し開く。そして切れ目に短い木の棒を差し込んでつっかえとする。どうやらあれは天窓のようなものらしい。おかげで天幕の中に光と風が入り、暗さとむせ返るぶどう酒の香りが和らいだ。
聖堂騎士は天幕のすべての天窓を開け終えると、外にいますと声をかけて、出て行った。
しかし、すごいものだ。
ヘラは屋敷でグラスの中の水をぶどう酒に変えた。あれはたった一杯の水だった。しかし、目の前にはその何十倍、何百倍も水を湛えた井戸がある。この井戸は水ではなくぶどう酒を湧き出すのだ。
魔法というものに出会ってそこそこ経ったが、シルベスターの心を魅了してやまない。そしてそれを自在にできるヘラがうらやましくてたまらなかった。だが、同時に恐ろしくもある。今まで彼女が見せた魔法は、使い方次第では簡単に世界を変えてしまう。シルベスターだって呆気なく、跡形もなく消し飛ばすことができるのだ。それをしないのは、ヘラがそうしないだけであるという、ただそれだけのことなのだ。
奇跡を終えたヘラは、王都の片隅にある宿にやってきて、そこでシルベスターと司教に成功を報告した。あの町を奇跡の舞台としたのは、あの町が理想の町だったから。ヘラはあの町にある六つの井戸の内、一つを魔法でぶどう酒の湧く井戸へと変えた。司教は他の井戸にぶどう酒が滲まないか心配したが、ヘラは大丈夫だと断言した。彼女がそういうのなら、大丈夫だろう。事実、他の井戸からぶどう酒が出たという話は聞かなかった。
シルベスターは井戸からぶどう酒を汲み上げたり、中を覗き込んだりした。魔法が使えない自分ができる調査なんて、限られている。目で見て、耳を澄ませ、匂いを嗅いで、味を確かめて、触れてみるぐらいだ。半刻ほど調べてみたが、井戸からぶどう酒が汲みあがるというだけで、他は何もおかしくなかった。
そろそろ外に出よう。このぶどう酒の匂いに酔ったのか、頭がクラクラする。ふと足元を見たときだ。一つだけ色の違う石を見つけた。気になって拾い上げて、そのまま天幕を出た。日の光の下で石を見ると、それまで酔いかけていた頭が、血が引くように覚めていった。
シルベスターの拾い上げた石は、親指大で、緑色をしていた。羊の丘で見つかったという石ととてもよく似ていたのだ。
慌てて屋敷に戻り、少年からもらった石と見比べても、大きさ、形が多少異なるだけで、同じ色、同じ固さをしている。さらに、二つとも奇跡の起きた地で見つかった。つまり魔法を使ったその場所で。
魔法に関係するものだろうか。それならシルベスターが知らないわけだし、鉱石標本の中にもないわけだ。
○
週末、ヘラが屋敷を訪れると、着いて早々に、シルベスターに裏庭へと連れ出された。そして、シルベスターからあるものを渡される。
「この石を持って、何か魔法を使ってください」
「あれ、この石って」
「ええ、羊の丘で見つかったものです」
「魔法って何でもいいんですか?」
「はい。でも効果の分かり易いものでお願いします」
ヘラは石を包み込むように握る。
何でもいいといわれると困るのだ。しばし考え込んで、昨日夢で見たものにしようと決めた。
ヘラは最近、不思議な夢を見るようになった。
誰かから魔法を教わるという夢だ。その誰か、というのはいつも違う姿をしている。はじめは母や、焼かれた村の友達だったりした。そのうちロナウドになったり、司教になったり、シルベスターだったこともある。夢だからだろう、魔法が使えない人から魔法を教わるのだ。そして、教わる魔法はそのときはまだ使えないもので、その夢のあと、目覚めてから急に使えるようになっている。
きっと魔女の血、東の人の血が夢を見せるのだろう。不思議なものだった。
その夢は他の夢とはもちろん違う。夢の中なのに意識ははっきりしているし、自分が寝ていると分かっているのだ。魔法を教えてくれる人は誰かの姿を借りているが、いつも異様な気配を発していて、姿は違えど、必ず同じ人で男だと分かっていた。そしてその異様な気配というのはちょっと怖かった。怖いけれど、悪い人ではないと分かっていた。そもそも人であるかどうかも怪しかった。
ヘラは目を閉じて、ついいつもの癖で石を握りながら胸の前で手を組んだ。もちろんそんな姿勢をしなくなって魔法は使える。でも神秘的に見せるなら、祈る姿はぴったりだった。
ヘラが魔法を使うと、小さく地面が揺れた。シルベスターは慣れない感覚に声を上げて驚いた。この国では地震というものはまず無い。ヘラは自分が起こしたことだから驚くことはなかった。
次の瞬間、二人の前に水晶の柱が空に向かって突き上がる。高さはシルベスターよりも高いぐらい。そして、柱は今もなおゆっくりと高さを増していた。このままでは裏庭を囲う塀を越してしまう。
「あ、あれ?」
ヘラは目を開き、慌てて魔法を止めた。
「水晶の柱……オベリスクですか。見事なものです」
美しいものは人の心を惹きつける。これも奇跡に使えそうだとシルベスターの目が語っていた。
昨日夢で教わったばかりの魔法、当然使うのも、誰かに見せるのも初めてだった。だからだろうか、危うく魔法の制御を失うところだった。
戸惑うヘラにシルベスターに声をかける。
「どうしましたか?」
「魔法の手ごたえがいつもと違って……。初めて使う魔法だったからでしょうか?」
「その石を持っているのは関係ありませんか?」
「あっ」
ヘラは握りこんだ緑の石のことをすっかり忘れていた。
「そうかもしれません。お返ししますね」
ヘラは緑の石をシルベスターに押し付け、さっきと同じ魔法を使ってみる。水晶の柱が二本となる。しかし、さっきと同じようにやったはずなのに、二本目のほうが短く、細くなった。でも魔法の制御を失うなんて危ないことは欠片もなかった。
「さっきと感触が違います」
「なるほど。これは面白い!」
シルベスターは満足げに頷き、青く美しい瞳が細められた。
「あの石はどうやら魔法を増強することができるようですね。これは使えそうです」
シルベスターは先日奇跡を起こしたぶどう酒の井戸の町で、似たような緑の石を見つけたことを語った。
「どちらも共通するのは奇跡の起きた地、魔法を使った場所だということ。何か魔法に関係するものだと考えたのです」
「だから私に魔法を使わせたのですね」
「その通りです」
シルベスターは新しい発見に大喜びだ。いそいそと手帳を懐から取り出し、何やら書き込み始めた。
彼の探究心に火がついた。こうなるともう、彼を止めることはできない。ヘラは緑の石について調べたがる彼に付き合うことになるだろう、と腹をくくった。
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