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第六話
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人々の希望、聖女フローリアは今日も修道院の中で祈りを捧げている。
人々は聖女こそ自分たちに救いをもたらす人であり、神の愛の象徴としていた。そしてこのイェスウェン教区の司教は総本山に聖女フローリアに事を報告した。総本山はフローリアの調査のために審問官を派遣するだろう。
フローリア計画はそこから正念場を迎える。
そしてヘラはマイルズの会社で忙しい日々を送っていた。ヘラは一番年下で新人。仕事というのはほとんど雑用だったが、それでもヘラは文句を言わずに仕事に勤しんだ。目が回るような忙しさで、フローリア計画なんて夢だったんじゃないかと思うことすらあった。
「ヘラ、この書類を海運局に届けて来い。閉まるまでに届けろよ。届け終わったら今日はもう帰っていい」
「分かりました。行って来ます」
ヘラはマイルズから分厚い封筒を受け取ると、壁にかけられた時計を見る。公的機関は午後四時に閉まる。ここから海運局までの距離を考えると、少し急いだ方がいい。
ヘラは上着を羽織ると、会社を足早に出た。
今日は運が良かったのか、予想より早く用事を終えられた。いつもの終業時刻よりも早く自由になったのだ。一昨日が給料日で、財布の中は潤っている。どこか食べに行こうか。そう考えながら道を歩いていると、ふと視界の端に何か大きな物が転がっているのが気になった。
この辺りは人通りも少ないが、公的機関の密集地に近いということもあって、王都の衛兵も入念に警備をしていた。そのためか、この辺りには物乞いや路上生活者も見当たらなかった。
物乞いや路上生活者でないなら、何か大きな荷物だろうか。
ヘラが目を向けると、足が止まった。
それは人だった。ただ、身なりからして物乞いや路上生活者ではなさそうだ。辺りに衛兵の姿や、助けを求められそうな人の姿はない。
ヘラは渋々その人に近寄った。
やはりそうだ。体つきがしっかりしている。顔もこけていない。それなりに地位のある人物と考えられる。
その人は成人した男性のようで、服は立派なものだったが、泥だらけ。顔も同じように泥で汚れていた。いや、顔を汚していたのはそれだけではない。彼は額が横一筋に斬られ、血を流していたのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
これはただごとではない。強盗か何かに襲われたのだろうか。
ヘラは男の体を揺さぶり、意識を確かめる。すぐに反応はなかった。だが、しつこく続けていると、男はうめき声をあげて、眉間を歪ませた。
「うう、ここは……?」
「大丈夫ですか?」
男は瞼を押し上げ、目を開く。泥と血に塗れた顔に二つの青い宝石が現れた。思わず息を飲み、魅入ってしまうほど美しい瞳だった。
「あなたは?」
「あっ、えっと、私は通りすがりの者です。倒れていたので、声をかけました。額を怪我されているでしょう? 医者を呼びましょうか?」
「額に怪我……? ああ、あのときの。それよりここは?」
「官公地区の外れです」
「そうですか。ありがとうございます」
男は無理に体を起こし、起き上がろうとする。しかしまだ本調子でないのか、体は危なく揺れた。
「え、ちょっと待って。そのまま行くつもりですか?」
「そのつもりです。あなたには世話になりました。それに心配をお掛けして申し訳ない。では、これにて失礼」
「え、ええ!?」
男は額の怪我を気にした様子もなく、そのまま本当にどこかへ行こうとした。ヘラは驚き、咄嗟に鞄からハンカチを取り出した。
「待って。これを!」
ハンカチを男に押し付ける。
「せめて額の怪我の血だけでもこれでぬぐってください」
それはアシュリーに会ったときに、蝶にしたレースのハンカチだった。使うつもりは全くなかったのだが、今朝慌てて家を出たときに鞄に入れてしまったのだ。このハンカチとあのときの衣装は司教からヘラに贈られたものだった。司教曰く「私が持っていても仕方ないですからね」とのことだ。でもヘラも、あんな立派な衣装は着る機会がなく、タンスの奥にしまいこまれている。でもレースのハンカチだけは小さいし、綺麗だからと取り出しやすいところに置いておいた。だからこそ今朝のように慌てて、間違い鞄に入れてしまうということが起こるのだけれど。
「どうも。でも、お返しできないかもしれませんよ?」
「構いません。怪我人を放っておく方が良くないですから」
「そうですか。では失礼」
男は危なっかしい足取りで、またフラフラと路地の奥へと消えていった。あれで良かったのかどうか分からないが、何もしないよりはいいだろう。ヘラは自分にそう言い聞かせて、男が消えた路地を見つめていた。
それから数週間後のことだった。またもヘラはマイルズを通じて司教に呼び出された。大至急とのことで、ヘラは仕事を中断して、会社から大聖堂まで走っていくことになった。マイルズの会社も、大聖堂も王都の同じ地区にあったが、地区の端と端。大通りを通ればある程度早かったが、とにかく距離があり、行く手を馬車に阻まれること数回。思うように進まず、焦りが募る。
大聖堂の司教の元に着いたのは、会社を出て一刻も経った頃だった。
「遅くなって申し訳ありません」
ヘラが大慌てで司教の元に駆けつけると、客人との面談中だった。何も考えずに部屋へと飛び込んだために、ヘラは耳まで赤くなった。
「し、失礼しました」
「ヘラさん、大丈夫ですよ。私たちはあなたを待っていたのですから」
「え?」
私たちと言われて、司教と向かい合って座る客人を見遣る。服装からして貴族もしくは商人かと思ったが、らしさがない。そして、その客にはどこか見覚えがあったがどこで会ったかさっぱり分からない。仕事で届け物をした先にいたひとだろうか。
「ああ、この子です。この子に間違いありません」
「やはりそうでしたか」
客人はヘラを見ていい、司教も安心した様子。
客人は立ち上がり、ヘラに握手を求めた。ヘラは勢いに圧されて握手に応じた。
「あの、失礼ですがどこかでお会いしましたか?」
「はい。二週間ほど前に官公地区で、怪我して倒れていた私にハンカチを貸してくれたでしょう?」
ヘラはようやく思い出した。
「ああ、あのときの。良かった、無事だったのですね」
見ると、客人の額には横に一筋の傷跡がある。そして、その下には思わず息をのむ美しい青い瞳。きちんとした身なりをしたら、見られる人だった。
「私はヘラと言います」
「私はシルベスターです。あの時は大した礼もせず去ってしまい、大変失礼なことをいたしました」
「いえ、とんでもありません。私はほとんど何もできませんでしたし、お礼をしていただくようなことはしておりません。ところでどうしてこちらに? 私が司教様と知り合いだとよく分かりましたね」
「あのハンカチですよ」
司教が口を挟んだ。
「ハンカチですか?」
シルベスターは懐から件のレースのハンカチを取り出した。それは確かにあのとき渡したハンカチで、シルベスターが血を拭ったためか、綺麗に洗ってあったが跡が見られた。血の汚れはそう簡単にはとれないので、もう諦めるしかないだろう。
でも調べてみたらレースのハンカチは頑張ればヘラでも買える手頃なものだった。いっそ自分で買うのも手である。
シルベスターは両手でハンカチを広げた。
「このレースの模様です。レースの模様が司教のことを示していましたから」
「そうなんですか?」
「その様子だと気付いていなかったみたいですね」
苦笑いを浮かべる司教。
後で教えてもらったことだが、王族にはそれぞれ自分の象徴となる紋章があるそうだ。司教の象徴は孔雀と月見草をあしらったもので、その孔雀と月見草をモチーフにした品を贈るということはその人物を自分の庇護下に入れるという意味があるそうだ。そして万が一の場合、保護して貰えたりと何かと融通を利かせてもらえるというわけだ。
まさか司教はそのことをヘラが知らず、その庇護の証明となるものをあっさり人に渡すとは思わなかったようだ。
後日、紋章と庇護のことを教えてくれたマイルズは、一連のハンカチの流れに腹を抱えて笑った。曰く「あの兄が庇護下に置いた人物にあしらわれるとはな」と。別にヘラはそういうつもりは全くなく、知らなかったのだから仕方ないと思うものの、やはり司教に悪い気がした。
「でも、こうして戻ってきたのですから」
シルベスターは司教を慰める。
「そうですね、次は別のものにしましょう。そうそう、ヘラさん、彼は学者なのですよ」
「へぇー、学者なんですか!」
この食糧難において、畑を耕すわけでも、工房に勤めるでもなく、ただ本を読み、実るか分からない学問に身を投じるというのは、それだけ優れた頭を持ち、金銭面を支援してくれる後援者が不可欠だった。もちろん、学者を偽る者もいるが、司教が学者と認めたのなら、まず信じて大丈夫だろう。
「彼には、ヘラさんが来るまでに話しておきました。これからは彼も協力者ですよ」
「協力? 何のことですか?」
「フローリアですよ」
司教はあまりにあっさりとその名を口にするので、ヘラは言葉を失う。そして一人慌てていると、男二人はその様子をほほえましく見守っていた。
「大丈夫、口外しませんって」
シルベスターが言った。
「司教様には私の新しい後援者となってもらいますから」
「そうなんですか?」
「ええ、彼は信頼できる、とても優秀な学者ですからね」
初対面のはずなのに、司教はすごくシルベスターを信用しているようだった。ヘラには分からないけれど、信用に足る何かがあったのだろう。
「それにしてもあの時助けてくれたあなたは聖女のような人だと思いましたが、本当に聖女とは……」
ヘラはぶんぶんと首を振り回す。
「ち、違います。私は全然そんなのじゃないんです。ふりをしているだけなんです」
「でもあの時私を助け起こしてくれたでしょう? あそこに捨てられてから大分経っていた。それでも私を助けてくれたのはあなただけのようですし……」
「たまたまですよ」
「偶然も神のお導きでしょう。でも、こうして名高いあなたを迎えることができたのは喜ばしいことです。私にとってもヘラさんはまさに聖女ですよ」
司教が言った。
「シルベスターさんは有名な方なのですか?」
「呼び捨てで構いませんよ」
シルベスターが言った。でもシルベスターはヘラより十は年上のようだし、ヘラは曖昧に笑っておいた。
「彼は切れ者として有名でしてね。若いのにいろんなことを思いつくと噂を耳にしていました」
「そうなのですか。でもどうして協力をして貰うのですか?」
「これから審問官様がいらっしゃるでしょう? そうなると私はそちらに掛かりっきりになってしまうのです。ですから、奇跡の発案者として、彼を雇ったのです」
「ついでに魔法の研究を、ですね」
「ええ、お願いします」
「そういうことなんですね」
これまでの奇跡は司教が考え、ヘラが実行してきたものだった。けれども審問官が来たなら司教とフローリアは距離を置かないといけないだろう。下手に怪しまれて計画がばれるのはまずい。
ならいっそ、奇跡の内容を考えるのを別の人に託してしまおうというわけだ。そして、これはヘラにとっても好都合だった。ヘラが大聖堂を訪れるより、司教の雇われ学者の下へ通うほうがよっぽど自然だったのだ。
「それで、ヘラさん。彼の魔法の研究のために協力してあげてください。彼には王都の外れに屋敷を与えるので、そこに通ってくれればいいですから」
「分かりました」
そして、シルベスターの協力で、フローリア計画は思わぬ方向に突き進むこととなる。
人々は聖女こそ自分たちに救いをもたらす人であり、神の愛の象徴としていた。そしてこのイェスウェン教区の司教は総本山に聖女フローリアに事を報告した。総本山はフローリアの調査のために審問官を派遣するだろう。
フローリア計画はそこから正念場を迎える。
そしてヘラはマイルズの会社で忙しい日々を送っていた。ヘラは一番年下で新人。仕事というのはほとんど雑用だったが、それでもヘラは文句を言わずに仕事に勤しんだ。目が回るような忙しさで、フローリア計画なんて夢だったんじゃないかと思うことすらあった。
「ヘラ、この書類を海運局に届けて来い。閉まるまでに届けろよ。届け終わったら今日はもう帰っていい」
「分かりました。行って来ます」
ヘラはマイルズから分厚い封筒を受け取ると、壁にかけられた時計を見る。公的機関は午後四時に閉まる。ここから海運局までの距離を考えると、少し急いだ方がいい。
ヘラは上着を羽織ると、会社を足早に出た。
今日は運が良かったのか、予想より早く用事を終えられた。いつもの終業時刻よりも早く自由になったのだ。一昨日が給料日で、財布の中は潤っている。どこか食べに行こうか。そう考えながら道を歩いていると、ふと視界の端に何か大きな物が転がっているのが気になった。
この辺りは人通りも少ないが、公的機関の密集地に近いということもあって、王都の衛兵も入念に警備をしていた。そのためか、この辺りには物乞いや路上生活者も見当たらなかった。
物乞いや路上生活者でないなら、何か大きな荷物だろうか。
ヘラが目を向けると、足が止まった。
それは人だった。ただ、身なりからして物乞いや路上生活者ではなさそうだ。辺りに衛兵の姿や、助けを求められそうな人の姿はない。
ヘラは渋々その人に近寄った。
やはりそうだ。体つきがしっかりしている。顔もこけていない。それなりに地位のある人物と考えられる。
その人は成人した男性のようで、服は立派なものだったが、泥だらけ。顔も同じように泥で汚れていた。いや、顔を汚していたのはそれだけではない。彼は額が横一筋に斬られ、血を流していたのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
これはただごとではない。強盗か何かに襲われたのだろうか。
ヘラは男の体を揺さぶり、意識を確かめる。すぐに反応はなかった。だが、しつこく続けていると、男はうめき声をあげて、眉間を歪ませた。
「うう、ここは……?」
「大丈夫ですか?」
男は瞼を押し上げ、目を開く。泥と血に塗れた顔に二つの青い宝石が現れた。思わず息を飲み、魅入ってしまうほど美しい瞳だった。
「あなたは?」
「あっ、えっと、私は通りすがりの者です。倒れていたので、声をかけました。額を怪我されているでしょう? 医者を呼びましょうか?」
「額に怪我……? ああ、あのときの。それよりここは?」
「官公地区の外れです」
「そうですか。ありがとうございます」
男は無理に体を起こし、起き上がろうとする。しかしまだ本調子でないのか、体は危なく揺れた。
「え、ちょっと待って。そのまま行くつもりですか?」
「そのつもりです。あなたには世話になりました。それに心配をお掛けして申し訳ない。では、これにて失礼」
「え、ええ!?」
男は額の怪我を気にした様子もなく、そのまま本当にどこかへ行こうとした。ヘラは驚き、咄嗟に鞄からハンカチを取り出した。
「待って。これを!」
ハンカチを男に押し付ける。
「せめて額の怪我の血だけでもこれでぬぐってください」
それはアシュリーに会ったときに、蝶にしたレースのハンカチだった。使うつもりは全くなかったのだが、今朝慌てて家を出たときに鞄に入れてしまったのだ。このハンカチとあのときの衣装は司教からヘラに贈られたものだった。司教曰く「私が持っていても仕方ないですからね」とのことだ。でもヘラも、あんな立派な衣装は着る機会がなく、タンスの奥にしまいこまれている。でもレースのハンカチだけは小さいし、綺麗だからと取り出しやすいところに置いておいた。だからこそ今朝のように慌てて、間違い鞄に入れてしまうということが起こるのだけれど。
「どうも。でも、お返しできないかもしれませんよ?」
「構いません。怪我人を放っておく方が良くないですから」
「そうですか。では失礼」
男は危なっかしい足取りで、またフラフラと路地の奥へと消えていった。あれで良かったのかどうか分からないが、何もしないよりはいいだろう。ヘラは自分にそう言い聞かせて、男が消えた路地を見つめていた。
それから数週間後のことだった。またもヘラはマイルズを通じて司教に呼び出された。大至急とのことで、ヘラは仕事を中断して、会社から大聖堂まで走っていくことになった。マイルズの会社も、大聖堂も王都の同じ地区にあったが、地区の端と端。大通りを通ればある程度早かったが、とにかく距離があり、行く手を馬車に阻まれること数回。思うように進まず、焦りが募る。
大聖堂の司教の元に着いたのは、会社を出て一刻も経った頃だった。
「遅くなって申し訳ありません」
ヘラが大慌てで司教の元に駆けつけると、客人との面談中だった。何も考えずに部屋へと飛び込んだために、ヘラは耳まで赤くなった。
「し、失礼しました」
「ヘラさん、大丈夫ですよ。私たちはあなたを待っていたのですから」
「え?」
私たちと言われて、司教と向かい合って座る客人を見遣る。服装からして貴族もしくは商人かと思ったが、らしさがない。そして、その客にはどこか見覚えがあったがどこで会ったかさっぱり分からない。仕事で届け物をした先にいたひとだろうか。
「ああ、この子です。この子に間違いありません」
「やはりそうでしたか」
客人はヘラを見ていい、司教も安心した様子。
客人は立ち上がり、ヘラに握手を求めた。ヘラは勢いに圧されて握手に応じた。
「あの、失礼ですがどこかでお会いしましたか?」
「はい。二週間ほど前に官公地区で、怪我して倒れていた私にハンカチを貸してくれたでしょう?」
ヘラはようやく思い出した。
「ああ、あのときの。良かった、無事だったのですね」
見ると、客人の額には横に一筋の傷跡がある。そして、その下には思わず息をのむ美しい青い瞳。きちんとした身なりをしたら、見られる人だった。
「私はヘラと言います」
「私はシルベスターです。あの時は大した礼もせず去ってしまい、大変失礼なことをいたしました」
「いえ、とんでもありません。私はほとんど何もできませんでしたし、お礼をしていただくようなことはしておりません。ところでどうしてこちらに? 私が司教様と知り合いだとよく分かりましたね」
「あのハンカチですよ」
司教が口を挟んだ。
「ハンカチですか?」
シルベスターは懐から件のレースのハンカチを取り出した。それは確かにあのとき渡したハンカチで、シルベスターが血を拭ったためか、綺麗に洗ってあったが跡が見られた。血の汚れはそう簡単にはとれないので、もう諦めるしかないだろう。
でも調べてみたらレースのハンカチは頑張ればヘラでも買える手頃なものだった。いっそ自分で買うのも手である。
シルベスターは両手でハンカチを広げた。
「このレースの模様です。レースの模様が司教のことを示していましたから」
「そうなんですか?」
「その様子だと気付いていなかったみたいですね」
苦笑いを浮かべる司教。
後で教えてもらったことだが、王族にはそれぞれ自分の象徴となる紋章があるそうだ。司教の象徴は孔雀と月見草をあしらったもので、その孔雀と月見草をモチーフにした品を贈るということはその人物を自分の庇護下に入れるという意味があるそうだ。そして万が一の場合、保護して貰えたりと何かと融通を利かせてもらえるというわけだ。
まさか司教はそのことをヘラが知らず、その庇護の証明となるものをあっさり人に渡すとは思わなかったようだ。
後日、紋章と庇護のことを教えてくれたマイルズは、一連のハンカチの流れに腹を抱えて笑った。曰く「あの兄が庇護下に置いた人物にあしらわれるとはな」と。別にヘラはそういうつもりは全くなく、知らなかったのだから仕方ないと思うものの、やはり司教に悪い気がした。
「でも、こうして戻ってきたのですから」
シルベスターは司教を慰める。
「そうですね、次は別のものにしましょう。そうそう、ヘラさん、彼は学者なのですよ」
「へぇー、学者なんですか!」
この食糧難において、畑を耕すわけでも、工房に勤めるでもなく、ただ本を読み、実るか分からない学問に身を投じるというのは、それだけ優れた頭を持ち、金銭面を支援してくれる後援者が不可欠だった。もちろん、学者を偽る者もいるが、司教が学者と認めたのなら、まず信じて大丈夫だろう。
「彼には、ヘラさんが来るまでに話しておきました。これからは彼も協力者ですよ」
「協力? 何のことですか?」
「フローリアですよ」
司教はあまりにあっさりとその名を口にするので、ヘラは言葉を失う。そして一人慌てていると、男二人はその様子をほほえましく見守っていた。
「大丈夫、口外しませんって」
シルベスターが言った。
「司教様には私の新しい後援者となってもらいますから」
「そうなんですか?」
「ええ、彼は信頼できる、とても優秀な学者ですからね」
初対面のはずなのに、司教はすごくシルベスターを信用しているようだった。ヘラには分からないけれど、信用に足る何かがあったのだろう。
「それにしてもあの時助けてくれたあなたは聖女のような人だと思いましたが、本当に聖女とは……」
ヘラはぶんぶんと首を振り回す。
「ち、違います。私は全然そんなのじゃないんです。ふりをしているだけなんです」
「でもあの時私を助け起こしてくれたでしょう? あそこに捨てられてから大分経っていた。それでも私を助けてくれたのはあなただけのようですし……」
「たまたまですよ」
「偶然も神のお導きでしょう。でも、こうして名高いあなたを迎えることができたのは喜ばしいことです。私にとってもヘラさんはまさに聖女ですよ」
司教が言った。
「シルベスターさんは有名な方なのですか?」
「呼び捨てで構いませんよ」
シルベスターが言った。でもシルベスターはヘラより十は年上のようだし、ヘラは曖昧に笑っておいた。
「彼は切れ者として有名でしてね。若いのにいろんなことを思いつくと噂を耳にしていました」
「そうなのですか。でもどうして協力をして貰うのですか?」
「これから審問官様がいらっしゃるでしょう? そうなると私はそちらに掛かりっきりになってしまうのです。ですから、奇跡の発案者として、彼を雇ったのです」
「ついでに魔法の研究を、ですね」
「ええ、お願いします」
「そういうことなんですね」
これまでの奇跡は司教が考え、ヘラが実行してきたものだった。けれども審問官が来たなら司教とフローリアは距離を置かないといけないだろう。下手に怪しまれて計画がばれるのはまずい。
ならいっそ、奇跡の内容を考えるのを別の人に託してしまおうというわけだ。そして、これはヘラにとっても好都合だった。ヘラが大聖堂を訪れるより、司教の雇われ学者の下へ通うほうがよっぽど自然だったのだ。
「それで、ヘラさん。彼の魔法の研究のために協力してあげてください。彼には王都の外れに屋敷を与えるので、そこに通ってくれればいいですから」
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そして、シルベスターの協力で、フローリア計画は思わぬ方向に突き進むこととなる。
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