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第五話

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 司教の改心、聖女の迎合から一ヶ月ほど経った。人々はすっかり落ち着きを取り戻し、いつもの王都が戻ってきた。しかし、前と違って期待や喜びを孕んでいる。そのせいか、人々の表情はどこか明るかった。

 ヘラはようやくマイルジーク、いやマイルズの会社に慣れてきた頃だ。ついこの間、ご本人からマイルズと呼んで構わないと言われた。これは一つ認められたと考えていいだろう。

 そして今日、ヘラはマイルズを通じて司教に呼び出された。

 伝言を預かる破目になったマイルズは少々不機嫌そうだ。

「ったく、あのクソ兄貴は昔から俺をこき使うんだ。お前も災難だな、あんなのに目を付けられてよ」

 マイルズはそれはそれは不幸な幼少期を過ごしたのだろう。隙さえあれば兄である司教をこき下ろした。時には本人に言ったことがあるらしいが、当の司教は涼しい顔をして聞いていたという。その話を聞いて、司教らしいとヘラは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 さて、司教とは聖女の迎合以来会っていないが、一体何の用があるというのだろうか。これまでの奇跡の間隔から言えば、次に呼び出されるのは季節の変わり目、今から二ヵ月ほど後のことだと思っていたのだ。

 次の奇跡はよほど大きなことを考えていて、その準備期間を長く用意したのかもしれない。

 次は一体何をやらされるのだろうか。

 ヘラは気が進まないけれど、司教の勤め先、大聖堂を訪れた。大聖堂の警備をしていた顔見知りの聖堂騎士に声をかけると、ある部屋へと通される。そこは聖歌隊が練習に使うような部屋だった。

「あれ、司教様のお部屋ではないのですか?」

「ええ。こちらに案内するように言われております。今呼んで参りますので、少々お待ちください」

 案内してくれた聖堂騎士が出て行ってすぐに、三人の中年の女性がやってきた。

「あら、あなたがヘラさんね!」

「可愛らしい子じゃない。今日はどうぞよろしくねぇ」

「さ、こっちにいらっしゃいな」

 てっきり司教がやってくるものだと思っていたので、この勢いのある三人の女性の登場にヘラは戸惑った。

「え、何ですか? 一体」

「テレハウィル様にあなたをめかすように頼まれたのですよ」

 テレハウィルって誰? と思ったが、そういえば司教はそんな名前だった気がする。それにしてもめかす、とはなぜ?

 一向に何が起こっているのか分からないヘラを気にせず、三人の女性はあっという間にヘラにきらびやかな服を着せ、化粧をし、そして髪を結い上げた。

「まぁ、いいじゃない。最高よ、私の若い頃にそっくりだわ!」

「嘘おっしゃい、あなたこんなに華奢じゃなかったわ。腹回りなんてこの子の二倍はあったでしょう」

「そんなことないわよ」

「ほらほら、そんな話はいいから! さ、ヘラさんできたわ。これで行っていらっしゃい」

「どこへ?」

 勝手に盛り上がる三人の女性の内の一人が聖堂騎士を呼んできて、ヘラは再びどこかへと案内される。

 普段とは違う、足にまとわり付くようなドレスの裾と、踵の高い靴に苦戦しながら何とか騎士の後を追う。そうして案内されたのは大聖堂の裏手、聖堂騎士団の本部の前だった。

 今日そこには珍しく馬車が停まっていて、その馬車も聖堂騎士団所有の少々ガタの来たものではなく、貴族が乗るような装飾が施された立派なものだった。

 その馬車の前には聖堂騎士団団長のロナウドと見慣れぬ貴族の青年が立っていた。

「おじさん、こんにちは。今日はどうしたんですか? それにこちらのお方は?」

 ヘラがロナウドの元に覚束ない足取りで駆け寄り、貴族の青年の方を見遣り、固まった。

「これはこれは、とても可愛らしいお嬢さんですね」

 貴族の青年、司教テレハウィルがニコリと微笑んだ。

 信じられなかった。確かに司教は王族の一員であるが、服や髪型が違うだけでまるで別人だったのだ。数年の付き合いであるヘラが気付かないほどの変貌ぶりである。

 ヘラの反応が、二人には可笑しくてクツクツと笑っている。

「全くだ。話しかけられるまで誰だか分からなかったよ」

 ヘラは紅をひかれた唇を尖らせる。

「もう、何ですか。何でこんな格好を?」

 ヘラは貴族の令嬢がするような衣装を身に纏っていた。いつもの服と違って生地が肌を滑るように撫ぜ、慣れない感覚が少しくすぐったい。このような格好に憧れていないわけではなかったが、なぜこのような格好をさせられたのかが気になるところだ。

「これから人に会いに行きます。それであなたにも支度をして貰ったのです。この馬車で行くんですよ」

 司教が示した馬車は貴族が乗るような装飾が施されていたものの、所有を示す紋章がなかった。お忍びなのだろうか。

 実を言うと、ヘラは馬車に乗るのが二回目だった。一回目はもうずっと昔のように思える八年前、村が焼かれて王都に運ばれた時だ。ただそのときは気を失っていて記憶にない。

「さ、それでは参りましょうか。ヘラお嬢様」

 司教はいたずらっぽく言うと、レースの手袋で包まれたヘラの手を取った。



「これから誰と会うのですか?」

「それは着いてからのお楽しみです」

 馬車の中で、ヘラは向かいの司教に尋ねても、面白がるようにそう答えるだけだった。

 それにしても不思議だ。ヘラの知る司教は法衣を着て、たまに聖職者らしいことを言ったりやったりする人で、こうして貴族らしい(と言ってもこの人は末席でも王族だ)格好をしているとどうも調子が狂う。

 そうして馬車に揺られること半刻ほどして、一軒の店の前で停まった。

「着いたようですね」

 司教はこれまた紳士的にヘラをエスコートし、店の中へと連れ込んだ。店に入る瞬間、チラリと店の看板を見た。王都の高級住宅街の近くにあり、名門貴族御用達の高級料理店の名前が書いてあったような気がして、背筋がぞっとした。

 ウエイターに案内された小部屋にはすでに先客がいた。司教と同じくらいの年頃のこれまた貴族らしい男だった。

「やぁ、今日は早いのですね」

「そうか? 私はいつも通りに来たのだが」

「では私どもが遅かったのでしょう。お待たせして申し訳ありません」

「いや、構わない。そちらのご令嬢は?」

 先に待っていた男は初めて会うヘラに目を向ける。

「ご紹介します。こちらがヘラさん。今はマイルズの会社で働いているのですよ」

「ああ、あなたが。私はアシュリーだ。しばらくの付き合いとなることだろう、どうぞよろしく頼む」

「こちらこそよろしくお願いいたします。アシュリー様」

 できるだけお嬢様らしく、ヘラは挨拶をした。今までこうして貴族の人ときちんと合う場面などほとんどなかった。だから女学校で遠目に見ていた貴族の子女たちを思い出し、彼女たちの真似をした。真似だから立派なものではないだろうけれど、見れたものであったと思いたい。

 アシュリーの後ろには護衛らしき男が一人両腕を後ろに回して立って控えていた。専属の護衛を引き連れていることを考えても、アシュリーは貴族としてもかなり高位に名を連ねる人物と考えて間違いないだろう。そもそも司教とこうやって親しげに話していることを考えても、下手な貴族ではないのは確かだ。

 アシュリーに促され、ヘラも司教も彼と同じ円卓に着いた。

「それにしても、本当に普通の子なのだな」

 アシュリーはヘラを見つめて言った。ヘラは何のことか分からずキョトンとする。

「それはそうですよ。ごく普通の子です。でも、それが大事なのですよ」

「お前に絡まれたのが不運だったな。全く、昔からとんでもない奴だと思っていたが、ここまでやるとは思いもしなかった」

 似たようなことを、弟のマイルズも言っていた気がする。どうやら司教は昔からこういう人だったらしい。

「あなたが慎重すぎるのですよ。大きな変化を求めるなら、それ相応の行動が必要です」

「私はお前と違って背負うものがあるんだ。分の悪い賭けなんぞできるか」

「これは賭けではないと何度も言っていますよね?」

「私から見たら賭けそのものだ。ま、それもうまくいっているからこうして集まることになったのだが」

 ふとアシュリーは司教の周りを見渡して驚いた。

「お前、今日は一人なのか?」

「ヘラさんがいますよ」

「そういうことじゃない。護衛はどうした? 前はロナウドとか言うのを連れていただろう」

「ああ、彼はね」

 司教は苦笑を浮かべる。

「この前の一件であなたと会うのをものすごく嫌がってしまいまして……。無理をさせると心労から卒倒してしまうかもしれないので、今日は連れて来ていません」

「それは仕方ないことだが、誰か護衛を付けるべきだ」

「大丈夫ですよ。私には神のご加護がありますから」

「神に見放されたら終わりだぞ」

「敬虔な信徒である私を、神が見放すわけがありません」

 アシュリーは鼻で笑う。

 そのときカートを押したウエイターがやってきて、三人の前に料理を並べていった。

 それにしても、司教はどうしてヘラをアシュリーに会わせたのだろう。こんな高級なお店にも慣れた様子のアシュリーは明らかに裕福で、名門の貴族だろうと考えられる。王族の司教ともこうして親しいし、昔なじみのようだから、もしかしたらヘラも名前は知っているかもしれない。

 この国では、高貴な人は名前が長いので、名乗るときは略称、愛称を告げる。アシュリーというのもそうだろう。だとすると、その略称から本名を辿れるはずだ。アシュリーから連想できる有力貴族は誰かいただろうか。ヘラの知る貴族なんてたかが知れている。でも、全く知らないわけではない。

 そのとき、パッと閃いた。でも、即座に否定した。

 いや、まさか。ありえない。でもそうするといろいろ納得できるのだ。信じがたいけれど、やっぱりそうなのだろうか。

「ヘラさん、どうしましたか? どこか具合が悪いのですか?」

 司教がボーっと料理の皿を見つめていたヘラに声をかけた。

「いいえ、ちょっと考え事をしていて。大丈夫です。具合は悪くありません」

「そう、それは良かった」

 皿の上には見たことも、想像もしたことのない料理が載っている。

 肉が分厚くて、添えてある野菜も青々としている。白濁のスープにはしっかりと煮込まれた根菜がぎっしりと浮いているし、パンなんて手の平よりも大きなものが五、六個も籠に載っている。

 世界的な食糧難と叫ばれる中、土地の痩せたこの王国は世界的に見ても特に酷い状況だった。毎年のようにたくさんの餓死者が出るし、毎年冬を乗り越えるのが精一杯というのはよく聞く話だ。

 王都でも住民の七割を占めると言われる下流市民はその日食べるのがやっとで、ヘラのように幸運に恵まれた中流階級も将来への不安がぬぐえない。貴族などの食事も年々酷くなっていると聞いていたが、それでもやはり、食べ物やお金というのは、あるところにはあるのだ。

 しかし、それを今ここで声高に批判しても仕方ない。初めて食べられる分厚いステーキなるものを味わう方がお利口だった。

 ヘラはテーブルマナーを心得ているが、自信がなく、貴人の前で粗相をしないか不安で、チビチビと小さく切り分けて口に運んだ。

「さて、アシュリー。君も知っての通り、聖女は今、王都郊外の修道院の中にいます。いよいよ次の段階に進もうと考えています」

「ああ、総本山を騙すんだろう?」

「言い方というものがありますよ。何を信じるかは、人の自由です」

「それをお前が言うのか」

 司教は小さく咳払いをした。

「ここからはあなたの協力が不可欠ですからね。国を挙げての事業となりますから」

「そうだな。それにしても珍しい。お前はいつも相手に望む返事しかさせないように追い詰めてから要望を切り出すだろう。今日は違うのだな」

「おや、お忘れですか? こちらのヘラさんは魔女ですよ。何もしなくてもあなたを殺すことができます」

 途端、アシュリーの後ろに控えていた護衛が隠し持っていたナイフを抜き放つ。

「待て。冗談だ」

 アシュリーは手を伸ばし、自身の護衛を制した。ヘラは一瞬向けられた殺気に震えながらも、護衛が手にしたナイフの柄を見逃さなかった。

 そこには王国騎士団の紋章が確かに刻まれており、ヘラはアシュリーの正体を確信した。

 彼はこの国の王アシュレイティスその人なのだ。

 そして、今日ヘラが彼と会うことになったのは間違いなく、聖女フローリアに関する事だろう。

「全く、少し言動に気をつけてくれ。こっちの気が持たない」

「すみません」

 と、言いつつ、司教の顔は全くそう思っていないとかかれていた。

「ともかく、あなたは反対しないようですね」

「失敗したら全部お前のせいにするからな」

「それは怖いですね。うまくいったら美味しいところをもらうのでしょう?」

「当たり前だ。何が悪い」

「いいえ、何も。あなたのために尽くさせてもらいましょう。ですが、一つお約束ください。万が一のことがあったとき、ヘラさんはもちろん、私の配下のロナウドたちや聖職者に恩情をかけてください。地獄に堕ちるのは私一人で十分でしょう?」

「審判を下すのは神だ。私がどうこうできるものではない。だが、私が賢王として後々まで語られるために、約束しよう」

「ありがとうございます」

 ヘラは、二人のやり取りを見ていてまたもある感覚に襲われる。司教がいい人か悪い人か分からなくなったのだ。これまでも何か悪い人と、少し悪いほうに傾いていたが、たまに実はそうではないのかもと揺さぶられるのだ。

 アシュリーは一転、声を明るくして言った。

「そうだ。せっかくだしヘラ、いいか」

「はい、何でしょうか」

 ヘラはナイフとフォークを置く。

「簡単なものでいい。何か魔法を見せてくれないか?」

「いいですよ」

 と快く返事をして、円卓を見渡す。食べ物を使うのは良くない。皿とか調度品も高そうだし、やめよう。

 そこで、出かける前、大聖堂で三人の女性にめかされているときのことを思い出した。

「見ていてくださいね」

 ヘラはめかされていたときに渡されたレースのハンカチを取り出した。緻密に編まれたレースはとても綺麗で、普段使いはできそうにない。

 そんなレースのハンカチを広げ、左手に被せた。そして、目を閉じる。魔法を使うと、ハンカチは独りでに浮き上がり、折れたり伸びたりしながら形を成す。

 そして、レースのハンカチは布でできた少し大きな蝶となる。蝶はヘラの左手にとまると、ゆっくりと翅を広げたり閉ざしたりと優雅に佇む。ヘラはそっと手で押し上げると、レースの蝶は飛び立ち、円卓の上をふわふわと舞った。

「これは見事だ」

「ありがとうございます」

 魔法を見慣れている司教も蝶の美しさに目を細め、アシュリーの後ろに控える護衛も唖然としていた。

 蝶は二、三周円卓の上を舞うと、再びヘラの左手にとまり、そして一瞬でくたりと体を崩し、元のレースのハンカチに戻った。

「魔法は、もっといろいろできるのだろう? 大聖堂の前では水を清めたと聞いている」

「はい。水の浄化ですね。ご存知でしょうけれど、花を咲かせたり、毒を取り除いたりすることもできます」

「それはいい。なんなら今から私の毒見役にならないか? ヘラは食べなくて済むのだろう?」

「やめてください、奇跡は個人が独占していい物ではありませんよ」

 と、司教が言うと渋い顔でアシュリーが言い返す。

「それをお前が言うのか? お前は似たようなことをしているだろう」

「私は多数のために務めておりますから。ただ、それが個人の願望と合致しただけですよ」

「ふん、うまくやったものだ」

 アシュリーの嫌味に司教は動じない。

「しかし、前にも薬草を生やしたと聞く。それをうまく使えば麦の収穫量も上がるのではないか?」

「そんな大きなことはできません。私の力は広い範囲には及びませんし、連続して使おうものならすぐに疲れてしまいます」

 ヘラが慌てて首を振り、司教が付け足した。

「それに、そんなことができるなら、とっくにやっていますよ。こんなまどろっこしい事をせずにね」

「その通りだ。だが、この国のために何か役立てないかと思ったんだ。ただでさえ、この国の大地は実りが乏しいのだから」

 この国、イェスウェン王国はひとつの大陸だった。海の向こうに広がる大陸と比べたらあまりにも小さいが、それでも大陸と呼ぶにふさわしい大きさを誇る。

 そして、どういうわけかこの大陸だけ土地が痩せていた。未開拓の土地にはうっそうと木々が生い茂っているものの、伐採し、開墾するとどうしても豊かさが失われた。土地が呪われているとも言われるし、神に見放された土地とも言われる。ともかく、開墾してもその労力に見合う収穫を得られないのだった。

「でも、その状況も楽園の叡智を手にして必ずや変えて見せましょう」

 司教は言い放ち、威勢のいい従兄弟にアシュリーは相変わらずだ、と笑った。

 それからアシュリーは護衛に三つのグラスにワインを注がせて、それぞれの前に置かせた。

「今日このときを始まりにしようじゃないか。この国を豊かにし、人々から飢えを追い払う。明るい未来のために」

 アシュリーはグラスを掲げ、中身を一口で飲み干した。

「いいですね。それでは未来のために」

 司教もすっとワインを飲み干した。

 飲み干した二人に見つめられ、ヘラも両手でワイングラスを持ち上げた。これを飲んだら本当に後戻りができなくなる気がした。でも、元々後戻りできるとは思っていなかったじゃないか。今さらだ。

 人々は奇跡を起こす聖女フローリアに救いの願いを抱いている。

 それに応えられるのは、それを演じるヘラしかいなかった。

「未来のために」

 ヘラも二人に倣って、ワインを一口で飲み込んだ。初めて飲むワインはあんまり美味しいものじゃなかった。
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