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17.トラウマ
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ヘルムートはハンナを下がらせてベッドの横に椅子を持ってきた。そしてぽつりぽつりと語りはじめる。
「まず俺の記憶についてだが……実は君が従兄弟殿と出掛けた日、あの後すぐに全部思い出したんだ」
――なんだって?
「じゃあなぜ黙っていたのです?」
あれはかなり前のことじゃないか。
オスカーが眉をひそめるとヘルムートはまたオスカーのベッドに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「すまない! どうしても君に自分のみっともない過去を知られたくなくて……記憶が戻ってすぐに打ち明けられなくて本当にすまなかった。君が俺の記憶のことでこんなに思いつめているとは考えもしなかったんだ」
――知られたくない過去……?
妻に知られたくないということは、やはり昔の恋人絡みだろうか。
ヘルムートは少し言いにくそうな様子で話を続ける
「実は俺は生まれつき普通よりもかなりフェロモン過多なアルファなんだ」
「フェロモン過多、ですか?」
「ああ。普通オメガやアルファの貴族はフェロモンを無闇に撒き散らさないように子どもの頃から厳しく教えられるだろう?」
「はい。我が家もそうでした」
「君は特にすごい抑制力だよ。嫁いできたときも、君の感情なんて全く読めなかった」
――それは……僕は昔から氷みたいだって言われたくらいだから……。
「俺はその真逆でね。どうやって頑張ってもフェロモンが抑えきれず漏れてしまう。しかもアルファやオメガの相手に直接触れると、心の声まで丸聞こえになってしまうくらい酷いんだ」
「あ、それって……」
彼に触れたときに聞こえるのはやはり彼の心の声だったのだ。
「君みたいな礼儀正しい高貴なオメガにとっては本当に不快だったと思う。俺も当然それはわかっていて、なるべく隠そうとしていたんだ」
「そんなことを考えてらしたんですか?」
「ああ。だから記憶を失う前は、俺のフェロモンは漏れていなかったと思う」
「ええ、結婚してすぐの頃はあなたのフェロモンをさほど感じませんでした。普通の貴族と同じように」
ヘルムートは頷いた。
「苦肉の策でな、フェロモンを消すため香水を使っていた。その上でオメガやアルファの相手には体が触れないように気をつけていたんだ。だけど記憶喪失になっていた間、俺は馬鹿みたいにそれを忘れてフェロモンを撒き散らしながら君に……君に触ってしまった。触るどころか、あんなことまで――」
大きな体のヘルムートがまるで叱られる猟犬のように震えながら泣きそうな顔をした。そこでオスカーはピンときた。
「もしかして、結婚してすぐに子どもをつくらないとかつがいにならないとおっしゃったのは……」
ヘルムートは眉間にしわを寄せて唸った。
「ああ――。君に触れる気はないと事前に伝えて安心してもらいたかったんだ。だって皇太子の妃候補だったオメガが、俺のようなアルファに嫁いできてくれたんだぞ。もし一緒に寝たりしたら俺のみっともない心の声が聞こえて、絶対に君に嫌われてしまう」
「――そんなこと思ったりしないのに」
「でも、わからないじゃないか。だからせめてしばらく一緒に暮らして――、徐々に交流を深めていこうと思っていたんだ。君はとても清らかで美しい人だから、俺みたいな武骨な軍人に触られるだなんて、ましてや初夜から共寝するなんて恐ろしいだろうと思って――決していきなりそんなことをするつもりはないと事前に説明したくてだな」
オスカーは彼の考えを聞いて開いた口が塞がらなかった。
「そんな失礼なことを夫に対して思う妻がいるわけないじゃないですか」
思わずそう言うと彼は首を振った。
「いや、いるよ。実際に俺は以前この体質のせいで恋人に笑われて結婚がだめになったことがあるんだ」
「あ……」
――そういうことか。
「その方がオリヴィア様ですか?」
「えっ! なんで君がその名を知ってるんだ!?」
ヘルムートは真っ青な顔で叫んだ。
「あなたが寝言でおっしゃったんです。『行くなオリヴィア』と」
「嘘だ……そんなまさか、俺はなんて馬鹿なんだ」
ヘルムートが両手で頭を抱えた。
彼によるとオリヴィアは彼のはじめての恋人だった。しかしいざキスをしようというときに緊張と不安の感情が伝わると彼女は大笑いしてヘルムートを馬鹿にしたのだという。結婚も考えていた相手だったが、彼女はこんなおかしなアルファとは一緒にいられないと去っていった。
それ以来、ヘルムートはアルファやオメガの相手に触れるのが怖くて、任務以外ではベータとしか関わらなくなったそうだ。
「だけど君が皇太子との婚約をやめて結婚相手を探していると知って……身の程知らずにも申し込んでしまった。君は覚えていないだろうが俺達は一度会ったことがある。その時一度言葉を交わしたが、俺が触れても君は嫌な顔をしなかったんだ。俺はそれが嬉しくて、ずっと忘れられなかった」
――あの日のこと、彼も覚えていたのか。
「でもやっぱり俺は君みたいな人にはふさわしくないな。さっきは皇太子を追い返してしまったが、それも勝手だった。どうしても君を渡したくなかったんだ。でも君が皇太子を選ぶなら――」
「選びません!」
ヘルムートの暴走があまりに酷くてオスカーは我慢できずに起き上がった。
「僕は皇太子のことなんてなんとも思っていませんし、さっきあなたが来てくれてどれだけ安堵したことか。あなたはもう僕と一緒にいたくないんだとばかり思ってましたから」
「そんなわけないだろう?」
「だって、あなたは屋敷を出ていったじゃありませんか。僕と住む気がなくなったのだと――きっと他所に恋人でもできたんだと思って僕は……」
「違うんだ」と彼がオスカーの手を握る。そこから伝わる彼の心中は懺悔の気持ちでいっぱいだ。久々に触れる彼の手の感触と心の声にオスカーは胸が苦しくなるほどの懐かしさを覚えた。
「前回の発情期のとき既に俺は記憶が戻っていたが言い出せず、君に嫌われるのが怖くて焦っていたんだ。それで子どもさえできたら君の気持ちを繋ぎ止められるんじゃないかと思った。だけど無理強いした後君に拒絶されて目が覚めたよ。君の気持ちも考えず、強引で自分勝手な行いだったと――」
彼がまさかオスカーと同じような理由で子どもを望んでいたとは思わなかった。
「だからといって君を置いて屋敷を出ていこうなんて思ってはいなかった。誓うよ。俺が隊舎に詰めていたのは皇太子のせいなんだ」
「皇太子のせい、ですか?」
オスカーはなぜここで皇太子が出てくるのかわからなかった。
「現在帝国軍が西方へ出征しているのは知っているか?」
「そういえば、西側の国境付近で隣国と小競り合いがあったと聞きました」
「ああ。その件で宮殿の警護が手薄になっていたところへ、暗殺騒ぎが起きてな」
「暗殺ですって?」
「そう、皇太子の食事に毒が盛られた。それで夜の見廻りが強化されたんだ。だが遠征もあって人員が足りていない。部下に休みをろくにやれない中俺だけ帰るわけにもいかなかった。それで隊舎に詰めていたんだ」
「そうだったんですか……」
てっきり彼が愛想を尽かして出ていったのだとばかり思っていた。一人で勘違いしていたのが恥ずかしい。
「だが、暗殺未遂は狂言だった」
「え――?」
状況に不審な点があると報告を受けて調べたところ、皇太子が自ら毒を盛るよう指示していたことがわかったそうだ。
「一体どうして……?」
「皇太子は君を手に入れようと計画していたんだ。そして俺を屋敷から引き離すために夜間の警護を増やした」
「そんな、まさか――だってそこまでする理由がないでしょう?」
「殿下は君と俺がまだつがいになっていないことを知っていた。それで君を本気で俺から奪おうと考えたようだ」
では彼がこの屋敷に現れたのは思い付きじゃなく、計画されていたことだったというのか。
「俺も今日まで殿下がなぜこんな馬鹿な芝居を打ったのか理由がわからなかった。暗殺が狂言だとわかったものの、どんな裏があるのか明らかになるまで警護を緩めるわけにもいかず帰ってこられなかったんだ。だが、ハンナが俺を呼びに来てくれて皇太子が予定にない行動をしているのを知った」
ヘルムートが拳を握り、自分の膝を叩いた。
皇太子の予定は近衛騎兵隊長であるヘルムートも当然知らされている。しかし行程表には今日クラッセン邸を訪れるという記載はなく一日宮殿にいる予定だったのだそうだ。
「妃候補だった君との婚約を反故にして恥をかかせておきながら、今更君を奪おうとするなんて――俺はどうしても許せなかった」
それで彼は皇太子に対して遠慮もせずに威嚇のフェロモンを発していたのか。本来反逆罪に問われかねない行いだが、あちらも国に危険が及ぶ可能性を顧みず自らの欲望のために動いている。その後ろめたさがあるから、ヘルムートのことを罰したりはできないだろう。
「皇太子は今更冷静になって、君を手放したことを後悔したにちがいない。婚約者のベンヤミンではあまりにも家の格が違いすぎてなんの後ろ盾にもならないしな」
「でも、どうして僕たちがまだつがいじゃないと殿下は知っていたのでしょう?」
「それは多分ウォレスによる告げ口だ」
ウォレスはヘルムートが近衛騎兵隊の隊長に任命されたときに皇太子から下賜された執事なのだそうだ。
「うちの使用人は田舎者が多くて、ウォレスだけが下級貴族出身だ。君がここに嫁いでくる際にも安心して任せられると期待していたというのに――この屋敷内の出来事は彼から皇太子に筒抜けになっていたというわけさ」
「……それじゃあ、ともかくあなたは僕のことが嫌になって出ていったわけじゃないんですね?」
「もちろんだ。だけど君を一人にして不安にしたのは事実だし俺が悪かった。この通り謝るよ」
ヘルムートがまた頭を下げた。
「そんなに謝らないでください」
「いいや、だめなんだ。俺はもう一つ君に謝らなくちゃいけないことがある」
「――なんですって?」
これ以上何があるというのか。身構えたオスカーの腹の上に彼がそっと手を乗せた。
「君のお腹には、赤ん坊がいる」
「まず俺の記憶についてだが……実は君が従兄弟殿と出掛けた日、あの後すぐに全部思い出したんだ」
――なんだって?
「じゃあなぜ黙っていたのです?」
あれはかなり前のことじゃないか。
オスカーが眉をひそめるとヘルムートはまたオスカーのベッドに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「すまない! どうしても君に自分のみっともない過去を知られたくなくて……記憶が戻ってすぐに打ち明けられなくて本当にすまなかった。君が俺の記憶のことでこんなに思いつめているとは考えもしなかったんだ」
――知られたくない過去……?
妻に知られたくないということは、やはり昔の恋人絡みだろうか。
ヘルムートは少し言いにくそうな様子で話を続ける
「実は俺は生まれつき普通よりもかなりフェロモン過多なアルファなんだ」
「フェロモン過多、ですか?」
「ああ。普通オメガやアルファの貴族はフェロモンを無闇に撒き散らさないように子どもの頃から厳しく教えられるだろう?」
「はい。我が家もそうでした」
「君は特にすごい抑制力だよ。嫁いできたときも、君の感情なんて全く読めなかった」
――それは……僕は昔から氷みたいだって言われたくらいだから……。
「俺はその真逆でね。どうやって頑張ってもフェロモンが抑えきれず漏れてしまう。しかもアルファやオメガの相手に直接触れると、心の声まで丸聞こえになってしまうくらい酷いんだ」
「あ、それって……」
彼に触れたときに聞こえるのはやはり彼の心の声だったのだ。
「君みたいな礼儀正しい高貴なオメガにとっては本当に不快だったと思う。俺も当然それはわかっていて、なるべく隠そうとしていたんだ」
「そんなことを考えてらしたんですか?」
「ああ。だから記憶を失う前は、俺のフェロモンは漏れていなかったと思う」
「ええ、結婚してすぐの頃はあなたのフェロモンをさほど感じませんでした。普通の貴族と同じように」
ヘルムートは頷いた。
「苦肉の策でな、フェロモンを消すため香水を使っていた。その上でオメガやアルファの相手には体が触れないように気をつけていたんだ。だけど記憶喪失になっていた間、俺は馬鹿みたいにそれを忘れてフェロモンを撒き散らしながら君に……君に触ってしまった。触るどころか、あんなことまで――」
大きな体のヘルムートがまるで叱られる猟犬のように震えながら泣きそうな顔をした。そこでオスカーはピンときた。
「もしかして、結婚してすぐに子どもをつくらないとかつがいにならないとおっしゃったのは……」
ヘルムートは眉間にしわを寄せて唸った。
「ああ――。君に触れる気はないと事前に伝えて安心してもらいたかったんだ。だって皇太子の妃候補だったオメガが、俺のようなアルファに嫁いできてくれたんだぞ。もし一緒に寝たりしたら俺のみっともない心の声が聞こえて、絶対に君に嫌われてしまう」
「――そんなこと思ったりしないのに」
「でも、わからないじゃないか。だからせめてしばらく一緒に暮らして――、徐々に交流を深めていこうと思っていたんだ。君はとても清らかで美しい人だから、俺みたいな武骨な軍人に触られるだなんて、ましてや初夜から共寝するなんて恐ろしいだろうと思って――決していきなりそんなことをするつもりはないと事前に説明したくてだな」
オスカーは彼の考えを聞いて開いた口が塞がらなかった。
「そんな失礼なことを夫に対して思う妻がいるわけないじゃないですか」
思わずそう言うと彼は首を振った。
「いや、いるよ。実際に俺は以前この体質のせいで恋人に笑われて結婚がだめになったことがあるんだ」
「あ……」
――そういうことか。
「その方がオリヴィア様ですか?」
「えっ! なんで君がその名を知ってるんだ!?」
ヘルムートは真っ青な顔で叫んだ。
「あなたが寝言でおっしゃったんです。『行くなオリヴィア』と」
「嘘だ……そんなまさか、俺はなんて馬鹿なんだ」
ヘルムートが両手で頭を抱えた。
彼によるとオリヴィアは彼のはじめての恋人だった。しかしいざキスをしようというときに緊張と不安の感情が伝わると彼女は大笑いしてヘルムートを馬鹿にしたのだという。結婚も考えていた相手だったが、彼女はこんなおかしなアルファとは一緒にいられないと去っていった。
それ以来、ヘルムートはアルファやオメガの相手に触れるのが怖くて、任務以外ではベータとしか関わらなくなったそうだ。
「だけど君が皇太子との婚約をやめて結婚相手を探していると知って……身の程知らずにも申し込んでしまった。君は覚えていないだろうが俺達は一度会ったことがある。その時一度言葉を交わしたが、俺が触れても君は嫌な顔をしなかったんだ。俺はそれが嬉しくて、ずっと忘れられなかった」
――あの日のこと、彼も覚えていたのか。
「でもやっぱり俺は君みたいな人にはふさわしくないな。さっきは皇太子を追い返してしまったが、それも勝手だった。どうしても君を渡したくなかったんだ。でも君が皇太子を選ぶなら――」
「選びません!」
ヘルムートの暴走があまりに酷くてオスカーは我慢できずに起き上がった。
「僕は皇太子のことなんてなんとも思っていませんし、さっきあなたが来てくれてどれだけ安堵したことか。あなたはもう僕と一緒にいたくないんだとばかり思ってましたから」
「そんなわけないだろう?」
「だって、あなたは屋敷を出ていったじゃありませんか。僕と住む気がなくなったのだと――きっと他所に恋人でもできたんだと思って僕は……」
「違うんだ」と彼がオスカーの手を握る。そこから伝わる彼の心中は懺悔の気持ちでいっぱいだ。久々に触れる彼の手の感触と心の声にオスカーは胸が苦しくなるほどの懐かしさを覚えた。
「前回の発情期のとき既に俺は記憶が戻っていたが言い出せず、君に嫌われるのが怖くて焦っていたんだ。それで子どもさえできたら君の気持ちを繋ぎ止められるんじゃないかと思った。だけど無理強いした後君に拒絶されて目が覚めたよ。君の気持ちも考えず、強引で自分勝手な行いだったと――」
彼がまさかオスカーと同じような理由で子どもを望んでいたとは思わなかった。
「だからといって君を置いて屋敷を出ていこうなんて思ってはいなかった。誓うよ。俺が隊舎に詰めていたのは皇太子のせいなんだ」
「皇太子のせい、ですか?」
オスカーはなぜここで皇太子が出てくるのかわからなかった。
「現在帝国軍が西方へ出征しているのは知っているか?」
「そういえば、西側の国境付近で隣国と小競り合いがあったと聞きました」
「ああ。その件で宮殿の警護が手薄になっていたところへ、暗殺騒ぎが起きてな」
「暗殺ですって?」
「そう、皇太子の食事に毒が盛られた。それで夜の見廻りが強化されたんだ。だが遠征もあって人員が足りていない。部下に休みをろくにやれない中俺だけ帰るわけにもいかなかった。それで隊舎に詰めていたんだ」
「そうだったんですか……」
てっきり彼が愛想を尽かして出ていったのだとばかり思っていた。一人で勘違いしていたのが恥ずかしい。
「だが、暗殺未遂は狂言だった」
「え――?」
状況に不審な点があると報告を受けて調べたところ、皇太子が自ら毒を盛るよう指示していたことがわかったそうだ。
「一体どうして……?」
「皇太子は君を手に入れようと計画していたんだ。そして俺を屋敷から引き離すために夜間の警護を増やした」
「そんな、まさか――だってそこまでする理由がないでしょう?」
「殿下は君と俺がまだつがいになっていないことを知っていた。それで君を本気で俺から奪おうと考えたようだ」
では彼がこの屋敷に現れたのは思い付きじゃなく、計画されていたことだったというのか。
「俺も今日まで殿下がなぜこんな馬鹿な芝居を打ったのか理由がわからなかった。暗殺が狂言だとわかったものの、どんな裏があるのか明らかになるまで警護を緩めるわけにもいかず帰ってこられなかったんだ。だが、ハンナが俺を呼びに来てくれて皇太子が予定にない行動をしているのを知った」
ヘルムートが拳を握り、自分の膝を叩いた。
皇太子の予定は近衛騎兵隊長であるヘルムートも当然知らされている。しかし行程表には今日クラッセン邸を訪れるという記載はなく一日宮殿にいる予定だったのだそうだ。
「妃候補だった君との婚約を反故にして恥をかかせておきながら、今更君を奪おうとするなんて――俺はどうしても許せなかった」
それで彼は皇太子に対して遠慮もせずに威嚇のフェロモンを発していたのか。本来反逆罪に問われかねない行いだが、あちらも国に危険が及ぶ可能性を顧みず自らの欲望のために動いている。その後ろめたさがあるから、ヘルムートのことを罰したりはできないだろう。
「皇太子は今更冷静になって、君を手放したことを後悔したにちがいない。婚約者のベンヤミンではあまりにも家の格が違いすぎてなんの後ろ盾にもならないしな」
「でも、どうして僕たちがまだつがいじゃないと殿下は知っていたのでしょう?」
「それは多分ウォレスによる告げ口だ」
ウォレスはヘルムートが近衛騎兵隊の隊長に任命されたときに皇太子から下賜された執事なのだそうだ。
「うちの使用人は田舎者が多くて、ウォレスだけが下級貴族出身だ。君がここに嫁いでくる際にも安心して任せられると期待していたというのに――この屋敷内の出来事は彼から皇太子に筒抜けになっていたというわけさ」
「……それじゃあ、ともかくあなたは僕のことが嫌になって出ていったわけじゃないんですね?」
「もちろんだ。だけど君を一人にして不安にしたのは事実だし俺が悪かった。この通り謝るよ」
ヘルムートがまた頭を下げた。
「そんなに謝らないでください」
「いいや、だめなんだ。俺はもう一つ君に謝らなくちゃいけないことがある」
「――なんですって?」
これ以上何があるというのか。身構えたオスカーの腹の上に彼がそっと手を乗せた。
「君のお腹には、赤ん坊がいる」
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