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15.皇太子の思惑

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 このように前触れもなく突然皇太子の来訪を知らされるなんていい迷惑だ。
 しかも今屋敷の主人は不在。夫に用があるならば宮殿で話せばよいのにと思いつつ、断ることもできずにオスカーは夫不在のまま皇太子を迎えた。

「殿下、ご機嫌麗しゅう。あいにく主人が不在なので私が代わりにご挨拶いたします」
「堅苦しい挨拶などいらん。オスカー、いやクラッセン侯爵夫人。元気にしていたか?」
「……お陰様で」
「ふむ――侯爵のお陰で元気だと?」

 以前会った時より著しく瘦せてしまったオスカーの体調が思わしくないのは見るからに明らかなはずだった。
 皇太子はこのようなくだらない話をするためにわざわざ屋敷まで訪れたのだろうか。

「はい。侯爵様のお心遣いにいつも感謝して暮らしております」
「そうか? 私は侯爵が最近屋敷に寄り付きもせず君は放っておかれていると聞いているが」

 やはり夫の不在を知っていたのだ。ではなぜここへ?
 オスカーは苛立ちを隠せず、冷たい口調で答えた。

「侯爵様は常日頃から陛下や殿下をお守りする重要な任務を果たしていますゆえ、共に過ごすことができないのも仕方がないかと。すべては皇室と帝国のため――私ごときが口を出すようなことではございません」
「ふん、本当にお前は昔から変わらないな。相変わらず本心のわからぬ冷たいオメガだ」
「ご不快に思われたのでしたらお詫びします」

 オスカーは床にひざまずいた。

「いいから立て。むしろほっとしているよ。お前が夫に対しても等しく冷淡なのだとわかったからな」

――どういう意味だ?

 皇太子が席を立ったのでオスカーは彼が帰るのだと思って見送ろうとした。しかし彼はこちらに近寄ってきて、オスカーの腕を掴んだ。

 気づけばアルファのフェロモンがオスカーの全身を覆うように忍び寄ってきていた。妙に甘い香りが鼻腔にまとわりつく。

「殿下、何を……?」

 むせ返るような強いフェロモンにオスカーは口を押さえた。胃が締め付けられて吐き気までもよおしてくる。彼にこんなふうにフェロモンを向けられたのは初めてだった。

「オスカー、私の元に戻ってきてくれ」

――え?

「今日ここへ来て、君にもう一度会って確信したのだ。私の隣にいるべきなのはベンヤミンのような下級貴族ではなく、君なのだと」
「何をおっしゃっているのですか……。私たちにはもう、決まった相手が――」
「ふん、ではこれはなんだ?」

 そう言って彼は乱暴にオスカーのうなじの髪の毛をかき上げた。オメガの妻であれば当然あるべき噛み痕が無く、処女雪のように真っさらな肌を皇太子に見られてしまった。

「決まった相手など笑わせる。お前からは侯爵の匂いが全くしないし、つがいにもなっていないのに結婚だと?」
「殿下……!」

 オスカーは彼の手を振り払った。皇太子とはいえ、貴族の妻に対してあまりにも礼を欠いている。

「聞かなかったことにいたします。今日のところはどうかお引き取り下さい」

 オスカーの声は屈辱に震えていた。

「そう睨むな。妻をつがいにもせず剣ばかり振るっている男など気にする必要はないではないか。夫に構ってもらえず寂しいのだろう? 私の元へ来い。慰めてやろう」
「お断りします、殿下」
「なぜだ?」
「殿下こそ、男爵子息とご婚約なさったではありませんか」

 オスカーがそう言うと彼は鼻で笑った。

「あんなオメガもうたくさんだよ。最初は珍しく思ったが、感情的すぎて鬱陶しいことこの上ない」

――今更そんな……。

「飽き飽きしたんだ、何もかも考えていることがフェロモンで筒抜けだなんて。それに引き換えお前は良く躾がされている。これだけ私のフェロモンを浴びても発情しないのだからな」

 皇太子が手を伸ばし、オスカーの顎をとらえた。ヘルムートに触られたときとは違ってぞわぞわと悪寒がし、鳥肌が立つ。彼のフェロモンはオスカーにとって不快でしかなかった。

「殿下……どうかお許しを」
「薄情者同士、私の気持ちがわかるだろう? お前のように冷ややかなオメガはどこを探しても他にいない。当てつけのように侯爵と結婚するとは――私が他のオメガに目移りしたものだから拗ねたふりをして気を惹こうとしたんだ。ちがうか?」
「そんな――、誤解です……!」
「わがままを言わず私の妃になれ。どうしても侯爵夫人のままでいたいなら愛人でもかまわん。氷のようなお前がベッドでどのように溶けていくのか、私はそれが是非とも見てみたいのだ」

 彼の口の端が持ち上がり、ブルーの目が三日月のように細められた。皇太子が笑うのを初めて見たオスカーはその恐ろしさにぞっとしてしまう。逃げ出したいのに、彼のフェロモンのせいで足がすくんで動けない。

――ヘルムートの優しい笑顔とは全然違う……。

 さあ、と言って皇太子が無理やり手を引き部屋を出ようとする。オスカーはそれに抗い後ろへ下がった。

「オスカー、私と来るんだ」
「いけません。この国で離婚が認められないのはご存知でしょう」

 しかし皇太子はオスカーの言葉を笑い飛ばした。

「私を誰だと思っている? 次期皇帝だぞ。くだらない規律など変えてやる」
「殿下お願いです。……せめてフェロモンをお収めください」
「ははは! ベンヤミンに教えてもらったのだ。たまにはこうやってオメガにフェロモンを浴びせてやるのが有効だとね」
「苦しいのです。殿下……」
「苦しいんじゃなく、気持ちが良いのだろう? 意地を張らず私についてくればやめてやる」

――気持ち良いわけがない。この方は一体何をお考えなんだ? 誰か……。どうして誰も止めに入ってくれない……?

 皇太子の従者も、侯爵家の執事ウォレスも隅に控えているのに助けてはくれない。オスカーは立っていられずとうとう床に膝をついた。
 それを見下ろして皇太子は勝ち誇ったように笑う。オスカーを抱きかかえようとしたその腕を払い除けたいのに、めまいがして体の力が抜ける。

――もうどうにでもなれ。どうせヘルムートにとって僕はいらない妻なんだから。

 オスカーが諦めて皇太子の腕にぐったりと体を預けた瞬間、応接間のドアがけたたましい音を立てて開いた。

「殿下、妻から手をお離しください」

 現れたのは騎兵隊の制服姿の夫だった。

――ヘルムート……?

「おやおや、これは侯爵殿。宮殿の警護もせず持ち場を離れるとはどうかしたのか?」
「殿下こそ、どうして騎兵隊長である私に行き先も知らせず、我が家へお忍びでいらしたのでしょう」

 二人は無表情で対峙する。

「この近くで用事があったのだ。ついでに昔馴染みである侯爵夫人に挨拶していこうかとね」
「できれば、我々騎兵隊にも一言お声掛けいただきたかったですね。本日は妻の体調も優れませんのでどうかまた日を改めてご挨拶させてください」

 ヘルムートが足音高く近寄ってきたかと思うとオスカーの体を皇太子の手からひったくるように奪い返した。
 横抱きにされ、守るように両腕で締め付けられ少し苦しい。けれどもさっきまで皇太子の威圧フェロモンで具合が悪かったのがすっと楽になる。

 彼に触れた瞬間『間に合った』という安堵と殿下に対する怒りの感情が流れ込んできた。

――でも、どうしてヘルムートがここへ……?

 皇太子はブロンドの髪の毛をかきあげながらわざとらしくため息をついた。

「少し寄り道したくらいで堅苦しいことを言わないでくれ」
「陛下や殿下をお守りするのが我々の務めです。恐れながら殿下が行き先を告げずに外出なさると、我々もお守りするのが難しくなるのをご理解ください」

 ヘルムートの体温が若干高くなり、彼から威嚇のフェロモンが立ち昇るのが感じられた。

「ふん。君が不在がちなので奥方が退屈していると聞いて顔を見に来ただけだ。そんなに妻が大事ならそうとわかるように刻印しておくんだな」
「ご忠告ありがたく胸に刻みます。ただ、殿下は先日も暗殺未遂に遭われたばかり。護衛も付けずに出歩かれては危険ですから、私の妻よりもご自身のお身体を心配なさってください」

――暗殺未遂……?

 アルファの二人は口元に笑みを湛えたままお互いに一歩も引かず、目には見えない応酬を繰り広げている。
 皇太子の放つ香りが不快で、オスカーは夫にしがみついた。そうするとヘルムートのフェロモンに包まれ守られているような気がするのだった。
 オスカーの様子に一瞥をくれた皇太子が攻撃的なフェロモンを出すのをやめた。

「近衛騎兵隊長の心遣いに感謝しよう」

 ヘルムートが部屋の外へ声を掛けると別室に控えていた隊員が数名現れた。

「部下が宮殿までお連れします」

ほっとした途端にオスカーの意識は途切れてしまった。
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