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14.別居
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発情期が明けてもオスカーはヘルムートのことを避け続けた。一時的にせよ彼に愛されていると勘違いして一人で盛り上がっていたのが滑稽で惨めで、彼の顔を見ることができなかった。
彼は部屋に閉じこもったままの妻に食べ物や花、衣類や本などを次々に届けてくれた。しかしオスカーはそんな夫の気遣いに対してもはや心動かされることもない。これらが自分に向けられた愛情ではないと知ってしまった以上、心は空虚なままだった。
――また一人きりの寂しい生活に戻っただけ。この数ヶ月は、過ぎた願望が生み出した幻だったのだと思おう。
そうやって割り切ったつもりだった。しかし無防備に開いてしまった心に受けた傷は深く、簡単に元通りにはならない。彼がオスカーに面会を求めるのを諦め、結婚当初のように誰かと出掛けていくのを知った時はへ泥のように黒く薄汚い感情が胸を渦巻いた。
――僕なんていなくても構わないんだ。
以前の自分ならこんなことくらいで心を乱されたりしなかった。しかし仮初めであったとしても愛される気分を味わった今では――。
こんな気持ちになるくらいなら、彼と触れ合うべきではなかった。あんなに強く抱きしめられて、皮膚に残るこの感触を忘れるには一体どれだけの夜を一人で過ごせば良いのだろう。
なるべく彼と顔を合わせないよう彼が屋敷にいるときは部屋にこもり、彼が出掛けたときだけ外へ出て庭を眺めては少し慰められた気持ちになった。
それでも会えない彼への思いは日に日に募り、忘れようとすればするほどオスカーは彼の幻影に苦しめられた。
あの優しい眼差し、朗らかな笑顔、触れるたびに聞こえる愛の言葉の数々――……。
◇
季節が移ろい、屋敷の周辺は雪に閉ざされた。ヘルムートと顔を合わせなくなってしばらく経っても心の中から彼の影が消える気配はなかった。食べ物が喉を通らず、最近はスープくらいしか口にしていない。
ヘルムートはオスカーに愛想を尽かしたのか、とうとう屋敷を出ていってしまった。執事に聞いたところによると彼は騎兵隊の隊舎で寝起きしているそうだ。
これで本当に『お払い箱』――。この国では離婚することは宗教上許されていないため、関係が破綻した夫婦は愛人をつくったり別居したりする。彼が別居を選んだ以上、この関係もいよいよ終わりなのだとオスカーは静かに枕を濡らした。
◇
夫が屋敷を離れた後、オスカーの寂しい暮らしの中で唯一話し相手となってくれたのが女使用人のハンナだった。火傷の件があって以来顔を合わせるたびに少しずつ言葉を交わすようになり、今では一緒に裁縫をして過ごす仲だ。オスカーは部屋に彼女を招き、最近は刺繍を習っている。針仕事に集中しているときだけはヘルムートのことを忘れられるのだった。
「ここがうまくいかないんだ」
「奥様、そこのステッチはこうしたほうがようございます」
夫に置き去りにされた妻を使用人たちが心の中でどう思っているかはわからない。しかし彼女のお陰でオスカーへの悪口が耳に入ることはなかった。
しばらく黙って繕い物をしていた彼女がぽつりと言う。
「奥様のことを最初は皆誤解していたんです。冷たい方だと」
氷に例えられるくらいだからそう思われても仕方がないだろう。
「ですが、旦那様が記憶を失くしてから奥様が優しい方だとわかりました」
彼女はオスカーのお陰で仕事を失わなかったからそう思っているだけだ。オスカーは彼女に自分を重ねて救っただけで、自分が本当に優しい人間だとは思わなかった。
「だから私、旦那様に怒っているんです。こんなに優しい奥様を置いていかれるなんて」
オスカーは手を止めて顔を上げる。
「私達はそりゃ、旦那様に拾ってもらって感謝しています。だけど……奥様はどんどん元気がなくなって、こんなにやつれていらっしゃるのに」
「そんなことないよ。お前のお陰でこうして刺繍をして楽しんでいる」
「奥様。私は悔しゅうございます。旦那様は奥様がいらしてから性格が変わったようになってしまって」
――僕が来てから?
性格が変わったのは記憶を失ってからだと思っていたオスカーは首を傾げた。
そして長くここに勤めている彼女ならあのことを知っているかもしれないと思いつく。
「そういえば……お前はオリヴィアという人を知っている?」
すると彼女の顔色がさっと変わった。
「奥様、その方のことをどこで――?」
「侯爵様の口からだよ。ねえ、オリヴィアと会ったことがあるの?」
「――はい。あれは六、七年ほど前でしょうか……オリヴィア様は旦那様の恋人でした。ですが、私も詳しくは存じ上げませんが、最後は旦那様と喧嘩なさって出ていかれたようです」
「そうか……」
「だから私、奥様みたいな方が嫁いで来てくださって喜んでいたんです。それなのに旦那様ったら――」
そこで彼女ははっとして口を押さえた。
「あ、私ったらすみません! 差し出がましいことを」
するとそのときドアをノックする音がして執事のウォレスが部屋に入ってきた。
「奥様、実は急な話なのですが――これから皇太子殿下がお見えになると知らせが来まして」
「殿下が……?」
――なぜ彼が? 今はヘルムートもいないのに……。
オスカーは体調も優れず、なんとなく嫌な予感がした。執事が出て行った後でハンナにこっそり耳打ちする。
「ねえ、君に頼みたいことがあるんだけど――」
「はい、奥様。なんでしょう?」
彼は部屋に閉じこもったままの妻に食べ物や花、衣類や本などを次々に届けてくれた。しかしオスカーはそんな夫の気遣いに対してもはや心動かされることもない。これらが自分に向けられた愛情ではないと知ってしまった以上、心は空虚なままだった。
――また一人きりの寂しい生活に戻っただけ。この数ヶ月は、過ぎた願望が生み出した幻だったのだと思おう。
そうやって割り切ったつもりだった。しかし無防備に開いてしまった心に受けた傷は深く、簡単に元通りにはならない。彼がオスカーに面会を求めるのを諦め、結婚当初のように誰かと出掛けていくのを知った時はへ泥のように黒く薄汚い感情が胸を渦巻いた。
――僕なんていなくても構わないんだ。
以前の自分ならこんなことくらいで心を乱されたりしなかった。しかし仮初めであったとしても愛される気分を味わった今では――。
こんな気持ちになるくらいなら、彼と触れ合うべきではなかった。あんなに強く抱きしめられて、皮膚に残るこの感触を忘れるには一体どれだけの夜を一人で過ごせば良いのだろう。
なるべく彼と顔を合わせないよう彼が屋敷にいるときは部屋にこもり、彼が出掛けたときだけ外へ出て庭を眺めては少し慰められた気持ちになった。
それでも会えない彼への思いは日に日に募り、忘れようとすればするほどオスカーは彼の幻影に苦しめられた。
あの優しい眼差し、朗らかな笑顔、触れるたびに聞こえる愛の言葉の数々――……。
◇
季節が移ろい、屋敷の周辺は雪に閉ざされた。ヘルムートと顔を合わせなくなってしばらく経っても心の中から彼の影が消える気配はなかった。食べ物が喉を通らず、最近はスープくらいしか口にしていない。
ヘルムートはオスカーに愛想を尽かしたのか、とうとう屋敷を出ていってしまった。執事に聞いたところによると彼は騎兵隊の隊舎で寝起きしているそうだ。
これで本当に『お払い箱』――。この国では離婚することは宗教上許されていないため、関係が破綻した夫婦は愛人をつくったり別居したりする。彼が別居を選んだ以上、この関係もいよいよ終わりなのだとオスカーは静かに枕を濡らした。
◇
夫が屋敷を離れた後、オスカーの寂しい暮らしの中で唯一話し相手となってくれたのが女使用人のハンナだった。火傷の件があって以来顔を合わせるたびに少しずつ言葉を交わすようになり、今では一緒に裁縫をして過ごす仲だ。オスカーは部屋に彼女を招き、最近は刺繍を習っている。針仕事に集中しているときだけはヘルムートのことを忘れられるのだった。
「ここがうまくいかないんだ」
「奥様、そこのステッチはこうしたほうがようございます」
夫に置き去りにされた妻を使用人たちが心の中でどう思っているかはわからない。しかし彼女のお陰でオスカーへの悪口が耳に入ることはなかった。
しばらく黙って繕い物をしていた彼女がぽつりと言う。
「奥様のことを最初は皆誤解していたんです。冷たい方だと」
氷に例えられるくらいだからそう思われても仕方がないだろう。
「ですが、旦那様が記憶を失くしてから奥様が優しい方だとわかりました」
彼女はオスカーのお陰で仕事を失わなかったからそう思っているだけだ。オスカーは彼女に自分を重ねて救っただけで、自分が本当に優しい人間だとは思わなかった。
「だから私、旦那様に怒っているんです。こんなに優しい奥様を置いていかれるなんて」
オスカーは手を止めて顔を上げる。
「私達はそりゃ、旦那様に拾ってもらって感謝しています。だけど……奥様はどんどん元気がなくなって、こんなにやつれていらっしゃるのに」
「そんなことないよ。お前のお陰でこうして刺繍をして楽しんでいる」
「奥様。私は悔しゅうございます。旦那様は奥様がいらしてから性格が変わったようになってしまって」
――僕が来てから?
性格が変わったのは記憶を失ってからだと思っていたオスカーは首を傾げた。
そして長くここに勤めている彼女ならあのことを知っているかもしれないと思いつく。
「そういえば……お前はオリヴィアという人を知っている?」
すると彼女の顔色がさっと変わった。
「奥様、その方のことをどこで――?」
「侯爵様の口からだよ。ねえ、オリヴィアと会ったことがあるの?」
「――はい。あれは六、七年ほど前でしょうか……オリヴィア様は旦那様の恋人でした。ですが、私も詳しくは存じ上げませんが、最後は旦那様と喧嘩なさって出ていかれたようです」
「そうか……」
「だから私、奥様みたいな方が嫁いで来てくださって喜んでいたんです。それなのに旦那様ったら――」
そこで彼女ははっとして口を押さえた。
「あ、私ったらすみません! 差し出がましいことを」
するとそのときドアをノックする音がして執事のウォレスが部屋に入ってきた。
「奥様、実は急な話なのですが――これから皇太子殿下がお見えになると知らせが来まして」
「殿下が……?」
――なぜ彼が? 今はヘルムートもいないのに……。
オスカーは体調も優れず、なんとなく嫌な予感がした。執事が出て行った後でハンナにこっそり耳打ちする。
「ねえ、君に頼みたいことがあるんだけど――」
「はい、奥様。なんでしょう?」
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