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11.戻りかける記憶

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 オスカーが火傷を負った日からヘルムートの様子が少し変わった。頭痛がすると言って部屋にこもるようになったのだ。医師の診察を受けたところ、記憶が戻りはじめているせいで頭痛が起きているそうだ。

 幸いその翌週には頭痛も治まり、ヘルムートの記憶もところどころ抜けてはいるもののおよそ五、六年前のことまでは思い出せるようになったという。ここまで回復すれば通常の任務には支障がないと判断され、無理のない範囲で騎兵隊にも復帰という形になった。

 ヘルムートは相変わらずオスカーに対して優しいままだった。しかし、記憶が完全に戻ればまた結婚当初の冷淡な彼に戻るかもしれない。彼の温かい愛情を知ってしまった今、また寂しく惨めな結婚生活に逆戻りすることにオスカーは恐怖を覚えた。

――きっと記憶のない彼をヒートで誘惑したと思われて……軽蔑されるだろうな。

 彼にとっては記憶を取り戻すのが一番だ。しかしまた夫との関係が悪くなると思うとオスカーは記憶の回復を喜ぶことができなかった。



 そんなある日、宮廷医師のフランツから街に出る用事があるので付き合わないかと打診があった。
 ヘルムートの許可を得て久々にひと回り年上の従兄弟と帝都へ外出させてもらうことにした。

 ここ最近ヘルムートは任務に戻っており日中は不在だ。一人で屋敷にいると彼の記憶が戻った後のことばかり考えて気が塞ぐ。通常の買い物は使用人が全て済ましてしまうからオスカーが街に出ることはほとんどない。従兄弟と共に街へ出て、のんびりと薬屋や書店を回るのは良い気分転換になった。

 帰り道に馬車で揺られながら従兄弟がオスカーに問いかける。

「オスカー、以前届けた薬を本当に飲んだのか?」
「はい。手紙でお伝えしたとおり、事情があって侯爵様は子どもを望んでいませんので」
「そんなはずは……本当に確認したのか? 結婚したのに子を望まないアルファなんていないだろう」
「結婚したときにはっきりおっしゃいました」
「オスカー。もし侯爵殿から酷い扱いを受けているなら可愛い従兄弟のために私から話してみよう」
「いいえ、ご心配には及びません。侯爵様は僕を気遣ってくださっています」
「そうとは思えないが……。そうだ、クラッセン侯爵家の主治医はたしかバーナー先生だったね」
「はい。兄さんもご存知の方なのですか?」
「ああ、僕の恩師でね。彼は産科学にも明るい方だから、君が身ごもった際にも安心だと思っていたんだ」
「――そうですか」
「君の母上に先月お会いしたが、良い知らせはまだかと心配していたよ。もうすぐ結婚して一年になるしね」

――なんだ、忙しいフランツ兄さんが珍しく会おうと言ってくれたのは母の代わりに探りを入れるためだったのか……。

 しかし貴族のアルファに嫁いだオメガの母親としては、そのことが気になるのも無理はない。

「とにかく、僕にはまだそういった診察の必要はありません。母にそう伝えてください」
「浮かない顔をして、やはり侯爵殿から不当な扱いを受けてるんじゃないのか? やはり私が――」
「兄さん、僕ももう子どもじゃありません。彼も怪我をしましたし、それどころじゃないんです」
「だがもう復帰したと聞いているよ。まさか他に何か問題でも?」
「そんなのありません。兄さんこそ一体いつになったら結婚なさるんですか?」

 オスカーが反撃すると彼は咳払いをして話題を変えた。

「それはそうと――殿下の話は聞いているか?」

――自分の結婚の話になるとすぐ逃げるんだから。

「いいえ、何も」
「そうか。実は殿下と婚約者のベンヤミンは最近うまくいってないようでね」
「でも殿下は彼にあんなに熱を上げていたじゃありませんか」
「まあね。しかし燃え上がったのはいっときで、やはり彼との育ちの違いが気になりだしたらしい」
「今更そんな……」
「君の母上もたいそう呆れていらっしゃるよ」

 皇太子がベンヤミンとうまくいこうが別れようがもはやオスカーにとってはどうでもよいことだ。それよりも、今は夫の記憶が戻ることの方がずっと気がかりだった。



 馬車で屋敷まで送ってもらい、玄関へ足を踏み入れたオスカーは仰天した。エントランスホールの花瓶が割れて床に花が散らばっている。

「何があったんだ……?」
「お帰りなさいませ、奥様」

 それを片付けていた使用人に尋ねたところ、ヘルムートが帰宅後オスカーの不在を知ると急に取り乱して調度品を壊したのだという。オスカーはすぐさま彼の書斎へ向かい、ドアをノックする。

「ヘルムート? 入ります」
「ああオスカー。帰ってきたんだな」

 夫は椅子から立ち上がってこちらへやってくるとオスカーを強く抱きしめた。彼に触れられた部分からは『もう会えないかと思った』『怖かった』という不安と恐怖が伝わってくる。

「一体どうなさったんです?」
「君が突然いなくなるから驚いたんだ! 他の男と出ていったと聞いて俺がどれだけ心配したか――」

――え?

「ですが、今朝従兄弟と会うと申し上げましたよね」
「なに、そうだったか? そうだ、そうだった……」

 彼は頭を押さえて唸った。

「俺は君が出迎えてくれなかったから……てっきりもう会えないんだと思って……そしたら頭が痛くなって――」
「もしかして傷が痛むんですか?」
「なんでもない。そんなことより君は俺のフェロモンが嫌になったのか? ちゃんと隠すようにするからもう俺を置いて出ていったりしないでくれ」

 混乱しているのか彼の考えていることはよくわからなかった。ただ暗い雲のように渦巻く感情が伝わってくるばかりだ。

「落ち着いてください。僕が出ていくなんてそんなことはありません。ヘルムート、お医者様を呼びますから寝室へ行きましょう」

 オスカーはなんとか彼をなだめ、主治医を呼び安定剤を処方してもらった。

 目の前でベッドに横たわり寝息を立てる夫を見つめる。彼を診察した医師は「過去と現在の記憶が衝突して混乱状態に陥っている。間もなく全て思い出すでしょうから、くれぐれも無理をさせないように」と念を押した。

 彼の手をそっと握るとぬくもりが伝わってきてオスカーは涙ぐんだ。

――もうすぐ記憶が戻る……。

「そしたらこうしてあなたに触れることもできなくなるの?」

 彼が記憶を失ってもう四ヶ月近くになる。あんなに冷たかった彼が胸の内をさらけ出し愛情を注いでくれるようになって、オスカーは今まで押し殺していた感情を彼の前でだけは表せるようになっていた。

――だけどもうそれも終わりだ。

 彼がこんなふうに取り乱したりしないためにも、記憶が戻るのが一番良い。だけどそうすれば彼に求められることはなくなる。

――僕は何もかも失うんだ……。

 そんなどん底の気分の中、彼が記憶を失って二度目の発情期がやってきた。
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