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6.事故と記憶喪失
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そんなある日、ヘルムートがいつもどおりに朝屋敷を出て数時間が経った。
騎兵隊長の彼は宮殿周辺の警護にあたっている。普段なら帰宅は夕刻なのだが、その日はまだ明るいうちに彼が帰ってきた。しかも複数の隊員たちに担がれてきたので何事かと思えば、頭を強く打ったのだという。
「任務中に馬が暴走し、隊長は部下をかばって怪我をされたのです」
頭に巻かれた包帯には血が滲んでいた。それを見てオスカーが怯えているうちに、執事のウォレスがヘルムートを寝室へ案内する。
オスカーは彼の寝室には一度も入ったことがなく、どこになにがあるかもわからなかった。すべて執事と使用人らが取り計らい、隊員たちはヘルムートをベッドに寝かせると屋敷を辞した。
オスカーはせめて夫のそばにいようと、主治医の診察中も部屋の片隅に立っていた。そして寝室から誰もいなくなると、ベッドの脇に置かれた椅子に座る。
診察中にヘルムートは意識を取り戻したが、どうも頭がぼんやりしているようで何も言わない。オスカーもなんと声をかけてよいかわからず、無言で付き添うことしかできなかった。
翌日になると彼の意識もはっきりし、会話も問題なく出来るようになった。しかし、そのときはじめて彼が記憶を失っていることが判明したのだった。
医師に診察してもらったところ「一時的なものだからすぐ元に戻るはず」と言われた。けれど今のヘルムートはオスカーのことも、隊員や友人知人のことも覚えていないという。
そして、オスカーが彼の配偶者なのだと名乗ると驚くべきことに彼は嬉しそうに目尻を下げた。碧色の瞳が明るく煌めいている。
「俺は随分美人と結婚したんだな」
「え……?」
そんなこと、嫁いできてから一度たりとも言われたことがなかった。以前の彼はオスカーに興味がなく、文句も言わなければ褒められることもなかったのに――。
混乱して彼の隣に座ったまま硬直していると、ヘルムートが腕を伸ばしてオスカーの手を握った。彼の手に触れた瞬間、新緑のように清涼な香りが鼻をかすめ、不思議な高揚感に包まれる。
彼のフェロモンだ――と思った瞬間『綺麗な瞳だ』『この人が妻か』『いい香りがする』という声が頭の中で繰り返し響いた。びっくりして彼の顔を窺うと、口を閉じたままじっとこちらを見つめている。
「侯爵様……?」
初めて彼と会った日、背中に触れた彼の手から流れ込んできたのと同じような「声」。あの日は幻聴だと思ったけれど、今はもっとはっきりと聞こえる。ヘルムートの手から伝わってくるこれは――彼の心の声?
これまで皇太子に嫁ぐため、特に厳しく感情的なフェロモンを出すことを禁じられてきた。自分の周辺のオメガやアルファもまたそのように育てられた貴族が多く、オスカーは他人のフェロモンに間近で触れた経験が少ない。
――夫婦ならこれが普通なのか? どう反応したらいいんだろう。
戸惑うオスカーに向かって彼は微笑む。
「よろしく、オスカー。記憶が戻るまで、わからないことは君に聞けばいいね?」
「……はい。僕も嫁いできたばかりでわからないことも多いですが――」
「ありがとう」
会話をしている間も、触れた手を通して彼の感情が流れ込んでくる。喜びや感謝の気持ちに溢れたその声がくすぐったくて、オスカーはパッと彼の手を離して「失礼します」と立ち上がった。
その瞬間、彼の表情が曇った。自分よりもかなり大柄な人なのに、幼児のように不安げな顔をする。オスカーはそれを見て不思議と胸が締め付けられる気がした。
「また様子を見に参ります。困ったことがあったらいつでもお呼び下さい」
騎兵隊長の彼は宮殿周辺の警護にあたっている。普段なら帰宅は夕刻なのだが、その日はまだ明るいうちに彼が帰ってきた。しかも複数の隊員たちに担がれてきたので何事かと思えば、頭を強く打ったのだという。
「任務中に馬が暴走し、隊長は部下をかばって怪我をされたのです」
頭に巻かれた包帯には血が滲んでいた。それを見てオスカーが怯えているうちに、執事のウォレスがヘルムートを寝室へ案内する。
オスカーは彼の寝室には一度も入ったことがなく、どこになにがあるかもわからなかった。すべて執事と使用人らが取り計らい、隊員たちはヘルムートをベッドに寝かせると屋敷を辞した。
オスカーはせめて夫のそばにいようと、主治医の診察中も部屋の片隅に立っていた。そして寝室から誰もいなくなると、ベッドの脇に置かれた椅子に座る。
診察中にヘルムートは意識を取り戻したが、どうも頭がぼんやりしているようで何も言わない。オスカーもなんと声をかけてよいかわからず、無言で付き添うことしかできなかった。
翌日になると彼の意識もはっきりし、会話も問題なく出来るようになった。しかし、そのときはじめて彼が記憶を失っていることが判明したのだった。
医師に診察してもらったところ「一時的なものだからすぐ元に戻るはず」と言われた。けれど今のヘルムートはオスカーのことも、隊員や友人知人のことも覚えていないという。
そして、オスカーが彼の配偶者なのだと名乗ると驚くべきことに彼は嬉しそうに目尻を下げた。碧色の瞳が明るく煌めいている。
「俺は随分美人と結婚したんだな」
「え……?」
そんなこと、嫁いできてから一度たりとも言われたことがなかった。以前の彼はオスカーに興味がなく、文句も言わなければ褒められることもなかったのに――。
混乱して彼の隣に座ったまま硬直していると、ヘルムートが腕を伸ばしてオスカーの手を握った。彼の手に触れた瞬間、新緑のように清涼な香りが鼻をかすめ、不思議な高揚感に包まれる。
彼のフェロモンだ――と思った瞬間『綺麗な瞳だ』『この人が妻か』『いい香りがする』という声が頭の中で繰り返し響いた。びっくりして彼の顔を窺うと、口を閉じたままじっとこちらを見つめている。
「侯爵様……?」
初めて彼と会った日、背中に触れた彼の手から流れ込んできたのと同じような「声」。あの日は幻聴だと思ったけれど、今はもっとはっきりと聞こえる。ヘルムートの手から伝わってくるこれは――彼の心の声?
これまで皇太子に嫁ぐため、特に厳しく感情的なフェロモンを出すことを禁じられてきた。自分の周辺のオメガやアルファもまたそのように育てられた貴族が多く、オスカーは他人のフェロモンに間近で触れた経験が少ない。
――夫婦ならこれが普通なのか? どう反応したらいいんだろう。
戸惑うオスカーに向かって彼は微笑む。
「よろしく、オスカー。記憶が戻るまで、わからないことは君に聞けばいいね?」
「……はい。僕も嫁いできたばかりでわからないことも多いですが――」
「ありがとう」
会話をしている間も、触れた手を通して彼の感情が流れ込んでくる。喜びや感謝の気持ちに溢れたその声がくすぐったくて、オスカーはパッと彼の手を離して「失礼します」と立ち上がった。
その瞬間、彼の表情が曇った。自分よりもかなり大柄な人なのに、幼児のように不安げな顔をする。オスカーはそれを見て不思議と胸が締め付けられる気がした。
「また様子を見に参ります。困ったことがあったらいつでもお呼び下さい」
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