36 / 48
36.逃避
しおりを挟む
僕は恐怖でパニックになるのをなんとか堪えて蒼司に背を向け、自室に戻った。深呼吸をし、クローゼットから適当に引っ張り出した服を着て、財布とスマホの入ったバッグを掴む。
(蒼司くんがあんなことするなんて――。僕のフェロモンのせいで、彼までおかしくなってしまったんだ)
一刻も早く彼から離れなければ、お互い大変なことになる。僕は急いで玄関を出た。
まだ震えが止まらず、このまま一人で電車に乗ることはできなそうだった。雨の中大きな通りまで出てタクシーを拾った。慌てて傘を忘れてきたため少し濡れたが、そんなことに構ってはいられなかった。後部座席に乗り込み、行き先を告げる。
蒼司にはああ言ったが、実家に帰るつもりはなかった。こんな状態で父に会えば、蒼司と何かあったと勘繰られてしまう。迷惑かもしれないけれど、僕は桂木を頼ることにした。
(きっと彼ならわかってくれるはず……)
行く前に連絡をしようと思ったが、スマホの充電が切れてしまっていた。
「もう、なんでこんなときに」
さっき訪れたばかりのマンションに到着し、インターホンを鳴らす。しかし、何度ボタンを押しても返事がなかった。
(うそ。さっきまで居たのに、出掛けちゃった?)
タクシーの時計ではたしか、21時くらいだったはず。
(明日は平日だし、帰ってくるよね……)
マンション前の狭い軒先で雨をしのぎながら待つ。30分くらいの間に住人らしき人が数名、立ち尽くす僕をちらちらと見ながら通り過ぎて行った。
怪しい人だと思われているかもしれない。早く帰ってこないかな――と壁にもたれてつま先を見つめていたら、雨水を蹴って走る音が近づいてきた。顔を上げてそちらを見る。
「蓉平くん! 一体どうしたんだ?」
「あ……桂木さん……よかった」
「濡れてるじゃないか。さあ、中に入って」
彼の顔を見たら安心して身体から力が抜けた。ふらついた身体を桂木に支えられる。
「おっと、大丈夫か?」
「すいません、ずっと立ってたから足が……」
元々恐怖で震えていたのもあるが、風呂上がりに雨に当たって身体が冷えていた。立っているのもやっとだったのだ。
◇◇◇
桂木は部屋に僕を招き入れ、タオルを貸してくれた。お風呂を沸かす間、分厚いブランケットでぐるぐる巻きにされる。
キッチンから物音がするなと思っていたら、桂木がマグカップを手に戻ってきた。
「どうぞ。お酒、飲めるよね?」
「これは……?」
「ラム酒入りのはちみつミルクだよ。アルコール入ってるほうが体が温まるから」
「良い匂い……」
甘くて芳醇なラム酒の香りが湯気とともに立ち昇る。一口飲むと、じんわりとアルコールに喉を刺激され、はちみつとミルクの甘さにホッとする。
「美味しいです」
「冷めないうちに全部飲んで。体の芯から温めないと」
僕は黙って言う通りにラム入りミルクを飲み干した。桂木は僕が帰った後食事をしに先日のカフェに行っていたそうだ。
「ごめんなさい……いきなり押しかけて」
「いいんだよ。でも、一体どうしたんだ? ストールを取りに来たわけじゃなさそうだね」
「はい……」
「理由を聞いてもいい?」
答えようと口を開きかけたところで、お風呂が沸いたことを知らせるメロディーが響いた。
「お風呂から上がったら、聞かせて」
僕は頷いた。
◇◇◇
風呂から上がると、タオルと一緒に未使用の下着やルームウェアが用意されていた。
(ここに来るつもりだったんだから、着替えくらい持ってくればよかった)
慌てていたのでそこまで頭が回らなかった。
服を着てリビングに戻ると、彼はロックグラスを片手にソファで雑誌を読んでいた。
「お風呂、ありがとうございました」
「ちゃんとあったまったかい?」
彼に促されて革張りの一人掛け椅子に腰掛ける。
「君も飲む?」
「いただきます」
「ロックで良いかな」
彼に渡されたグラスを見ていたら父のことを思い出した。実家ではラムやウィスキーなどをよく一緒に飲んでいた。自分よりも父の方が桂木と歳が近いのだ――とぼんやり思う。
「蓉平くん、もし何も話したくないなら無理に話さなくて良いから」
優しく声をかけられ、涙が滲んで視界が曇る。蒼司に無理やり押し倒されたショックを引きずったまま、実家に帰りたくなかった。そんな理由でここに来てしまって今更申し訳なくなる。たとえ僕が何も話さなくても彼は親切に迎え入れてくれるだろう。
(だけど、桂木さんみたいないい人に隠し事をしたまま結婚してもらうなんてやっぱりだめだ)
追い出されるかもしれないけど、僕は全て話すことにした。自分が引きこもりだったことや、父の再婚で義弟ができ蒼司と同居するに至ったこと、最終的に結婚相談所に行くことになった事情を説明した。
桂木は驚いたりすることもなく、静かに頷きながら聞いてくれた。
「なるほど。君みたいな若い子がどうして私のようなおじさんに会おうと思ったかずっと疑問だったんだ。でもその訳がようやくわかったよ」
「ごめんなさい。でも桂木さんのこと、おじさんだなんて思ってないし本当に素敵な方だと思ってます」
「いや、いいんだよ」
彼は話を全て聞いてもなお優しい笑顔で言う。
「話してくれてありがとう。君がその蒼司くんって子をすごく好きだっていうのがわかって私もすっきりした」
「ごめんなさい……僕……」
「ほら、泣かないで。実家に帰りたくないならしばらくここに居ていい。何も心配いらないから、今夜はもう眠りなさい」
彼は立ち上がって僕の手を引いた。
「桂木さん……本当に……あなたを騙すつもりではなかったんです」
「わかってるよ。気にしなくていい。こう見えても色々経験はしてきているからね。この程度で落ち込むほどやわじゃないよ」
肩を叩かれ、寝室に案内された。
「私はリビングで寝るから、君はベッドで寝て」
「そんな、僕がリビングで寝ます!」
「いや。君はぐっすり眠る必要がある。私の部屋に泊まるんだから、私の言うことを聞くように」
桂木は人を諭すのが上手い。僕は追い出されるどころか、部屋の主を差し置いてぬくぬくと自分だけベッドで眠ることになったのだった。
(蒼司くんがあんなことするなんて――。僕のフェロモンのせいで、彼までおかしくなってしまったんだ)
一刻も早く彼から離れなければ、お互い大変なことになる。僕は急いで玄関を出た。
まだ震えが止まらず、このまま一人で電車に乗ることはできなそうだった。雨の中大きな通りまで出てタクシーを拾った。慌てて傘を忘れてきたため少し濡れたが、そんなことに構ってはいられなかった。後部座席に乗り込み、行き先を告げる。
蒼司にはああ言ったが、実家に帰るつもりはなかった。こんな状態で父に会えば、蒼司と何かあったと勘繰られてしまう。迷惑かもしれないけれど、僕は桂木を頼ることにした。
(きっと彼ならわかってくれるはず……)
行く前に連絡をしようと思ったが、スマホの充電が切れてしまっていた。
「もう、なんでこんなときに」
さっき訪れたばかりのマンションに到着し、インターホンを鳴らす。しかし、何度ボタンを押しても返事がなかった。
(うそ。さっきまで居たのに、出掛けちゃった?)
タクシーの時計ではたしか、21時くらいだったはず。
(明日は平日だし、帰ってくるよね……)
マンション前の狭い軒先で雨をしのぎながら待つ。30分くらいの間に住人らしき人が数名、立ち尽くす僕をちらちらと見ながら通り過ぎて行った。
怪しい人だと思われているかもしれない。早く帰ってこないかな――と壁にもたれてつま先を見つめていたら、雨水を蹴って走る音が近づいてきた。顔を上げてそちらを見る。
「蓉平くん! 一体どうしたんだ?」
「あ……桂木さん……よかった」
「濡れてるじゃないか。さあ、中に入って」
彼の顔を見たら安心して身体から力が抜けた。ふらついた身体を桂木に支えられる。
「おっと、大丈夫か?」
「すいません、ずっと立ってたから足が……」
元々恐怖で震えていたのもあるが、風呂上がりに雨に当たって身体が冷えていた。立っているのもやっとだったのだ。
◇◇◇
桂木は部屋に僕を招き入れ、タオルを貸してくれた。お風呂を沸かす間、分厚いブランケットでぐるぐる巻きにされる。
キッチンから物音がするなと思っていたら、桂木がマグカップを手に戻ってきた。
「どうぞ。お酒、飲めるよね?」
「これは……?」
「ラム酒入りのはちみつミルクだよ。アルコール入ってるほうが体が温まるから」
「良い匂い……」
甘くて芳醇なラム酒の香りが湯気とともに立ち昇る。一口飲むと、じんわりとアルコールに喉を刺激され、はちみつとミルクの甘さにホッとする。
「美味しいです」
「冷めないうちに全部飲んで。体の芯から温めないと」
僕は黙って言う通りにラム入りミルクを飲み干した。桂木は僕が帰った後食事をしに先日のカフェに行っていたそうだ。
「ごめんなさい……いきなり押しかけて」
「いいんだよ。でも、一体どうしたんだ? ストールを取りに来たわけじゃなさそうだね」
「はい……」
「理由を聞いてもいい?」
答えようと口を開きかけたところで、お風呂が沸いたことを知らせるメロディーが響いた。
「お風呂から上がったら、聞かせて」
僕は頷いた。
◇◇◇
風呂から上がると、タオルと一緒に未使用の下着やルームウェアが用意されていた。
(ここに来るつもりだったんだから、着替えくらい持ってくればよかった)
慌てていたのでそこまで頭が回らなかった。
服を着てリビングに戻ると、彼はロックグラスを片手にソファで雑誌を読んでいた。
「お風呂、ありがとうございました」
「ちゃんとあったまったかい?」
彼に促されて革張りの一人掛け椅子に腰掛ける。
「君も飲む?」
「いただきます」
「ロックで良いかな」
彼に渡されたグラスを見ていたら父のことを思い出した。実家ではラムやウィスキーなどをよく一緒に飲んでいた。自分よりも父の方が桂木と歳が近いのだ――とぼんやり思う。
「蓉平くん、もし何も話したくないなら無理に話さなくて良いから」
優しく声をかけられ、涙が滲んで視界が曇る。蒼司に無理やり押し倒されたショックを引きずったまま、実家に帰りたくなかった。そんな理由でここに来てしまって今更申し訳なくなる。たとえ僕が何も話さなくても彼は親切に迎え入れてくれるだろう。
(だけど、桂木さんみたいないい人に隠し事をしたまま結婚してもらうなんてやっぱりだめだ)
追い出されるかもしれないけど、僕は全て話すことにした。自分が引きこもりだったことや、父の再婚で義弟ができ蒼司と同居するに至ったこと、最終的に結婚相談所に行くことになった事情を説明した。
桂木は驚いたりすることもなく、静かに頷きながら聞いてくれた。
「なるほど。君みたいな若い子がどうして私のようなおじさんに会おうと思ったかずっと疑問だったんだ。でもその訳がようやくわかったよ」
「ごめんなさい。でも桂木さんのこと、おじさんだなんて思ってないし本当に素敵な方だと思ってます」
「いや、いいんだよ」
彼は話を全て聞いてもなお優しい笑顔で言う。
「話してくれてありがとう。君がその蒼司くんって子をすごく好きだっていうのがわかって私もすっきりした」
「ごめんなさい……僕……」
「ほら、泣かないで。実家に帰りたくないならしばらくここに居ていい。何も心配いらないから、今夜はもう眠りなさい」
彼は立ち上がって僕の手を引いた。
「桂木さん……本当に……あなたを騙すつもりではなかったんです」
「わかってるよ。気にしなくていい。こう見えても色々経験はしてきているからね。この程度で落ち込むほどやわじゃないよ」
肩を叩かれ、寝室に案内された。
「私はリビングで寝るから、君はベッドで寝て」
「そんな、僕がリビングで寝ます!」
「いや。君はぐっすり眠る必要がある。私の部屋に泊まるんだから、私の言うことを聞くように」
桂木は人を諭すのが上手い。僕は追い出されるどころか、部屋の主を差し置いてぬくぬくと自分だけベッドで眠ることになったのだった。
22
お気に入りに追加
1,720
あなたにおすすめの小説
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
当たり前の幸せ
ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。
初投稿なので色々矛盾などご容赦を。
ゆっくり更新します。
すみません名前変えました。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
お客様と商品
あかまロケ
BL
馬鹿で、不細工で、性格最悪…なオレが、衣食住提供と引き換えに体を売る相手は高校時代一度も面識の無かったエリートモテモテイケメン御曹司で。オレは商品で、相手はお客様。そう思って毎日せっせとお客様に尽くす涙ぐましい努力のオレの物語。(*ムーンライトノベルズ・pixivにも投稿してます。)
欠陥αは運命を追う
豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」
従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。
けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。
※自己解釈・自己設定有り
※R指定はほぼ無し
※アルファ(攻め)視点
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる