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第八章 デセール&カフェ

58.美食家αの愛すべき失敗

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 久しぶりに隼一の自宅を訪れて、さぞ懐かしく感じるだろうと思った。しかし玄関のドアが開いて中に入った瞬間、夕希は鼻をつく匂いに驚いた。

「隼一さんこれ何の匂い? 焦げ臭い!」
「匂い?」
「まさか火事じゃ――?」

 夕希は急いで廊下を突き進んだ。リビングのドアを開けると更に強い匂いが漂ってきた。しかも、室内は薄っすら煙っている。
――何が燃えてるの!?
 アロマとかそんな匂いじゃない。油と、焦げた肉の匂いだろうか。料理をしない隼一の自宅でどうしてこんな匂いがするのかと不思議に思いながら、キッチンを覗いた。

「な、なにこれ……!?」

 そこは酷いありさまだった。焦げた黒い塊が油切りの網にごっそり乗せられ、キッチンペーパーがあちこちに散乱し、小麦粉は飛び散っているし、卵の殻がシンク内に大量に投げ込まれている。夕希はまず換気扇のスイッチを押した。

「隼一さんこれ……まさか料理してたんですか?」
「ああ、そうだ。途中で君から電話が来たから片付ける暇がなかった」

 彼はすごく気まずそうな顔で言った。電話で忙しいって言ってたのはこのこと――?

「隼一さん、火を使う時は換気扇回さないとだめじゃないですか!」
「そうなのか、すまない。知らなくて――」

 夕希は思わずきつい口調で言ってしまった。料理しないからって、まさか換気扇の存在を知らないとは思わなかった。夕希の剣幕に気圧されながら彼は鼻をひくつかせた。

「俺は匂いがしないから全然気づかなかった」
「はぁ? この匂いがわからないんですか!?」

 焦げ臭くて、換気扇を回しても部屋に匂いが染み付いてしまいそうなくらいなのに?

「ああ。だって、君が出ていってしまったからね」
「え、ちょっと待って。まさか、また匂いがしなくなっちゃったんですか?」
「だからそうだと言っている。君がいないのに勝手に嗅覚が戻るわけないじゃないか」

――は? なんで……? 

「あの後他のオメガと会ってたんじゃないんですか?」
「なんで他のオメガなんかと会わないといけないんだ」
「だって、一夜を共にする相手には困ってないって言ったじゃないですか。オメガと……キスすれば嗅覚が戻るのに……」

 夕希がそう言うと彼は思い切り嫌そうな顔をした。

「君は何を勘違いしてるんだ? そっちから電話してきたから俺の気持ちがやっとわかってくれたと思ったんだが違うようだな」
「え……?」
「俺は君のことが好きだから一緒にいたかったし、キスしたいと思った。別にオメガなら誰でも良いとかそういうことじゃないぞ」

――好き? 僕のことが?

「え、でも嗅覚のために僕をアシスタントにしたんじゃ――」

 まだそんなことを言ってるのか、と隼一はため息をついた。

「それを説明しようとしたら君が以前怒って逃げたんだろ。たしかに最初は嗅覚を取り戻す目的で仕事を依頼した側面もある。礼央からいい加減オメガと寝ろってせっつかれてたからな」

――やっぱり礼央さんから事前にそういう指示があったんじゃないか。

「だけどその後君と一緒に過ごしてみて、嗅覚のことはもうどうでも良くなった。無理してベータのふりをしながら一生懸命記事を書いている君がいじらしくて、俺のために料理してくれる姿が愛しかった。嗅覚の件抜きに君に触れたくてたまらなくなったんだ。そんなこと、君はわかってくれてると思ってた」
「そんなの……言ってくれなきゃわかるわけないじゃないですか!」
「だってずっと一緒にいたんだぞ? あんなに何度もキスしたのに、匂いでわかるだろ」
 
 二人はしばらく無言で睨み合った。お互い思い込みが激しいタイプな上、言葉が足りなかったということか。
 隼一がきまり悪そうに髪の毛をかき上げ、沈黙を破った。

「あー……俺が悪かったよ。大体どんなオメガも向こうから近寄ってくるのが普通でね。俺がいくらアプローチしても全然なびかないオメガなんて今までいなかったからどうしていいかわからなかったんだ」

 彼はそう言って夕希の手を取り、許しを請うように唇を押し当てた。

「俺としてはこんなふうに最大限愛情表現をしているつもりだったんだ。だけど、君は蝶々みたいにあっちへヒラヒラこっちへヒラヒラ、近寄って来たかと思えばスッとどこかへ飛んで行ってしまうし。にこにこしていたかと思えばいきなり怒り出すし」

――だって、ベータのふりしたオメガにアプローチしてくるアルファがいるなんて思わないじゃないか。しかも彼のような上流階級のアルファが僕なんかを本気で相手にするわけないって思ってたし……。

「あの日、君に言われたことをずっと考えていた」
「え……僕、なんて言いましたっけ」

 夕希は自分が勘違いして何を言ったのか思い出すのも怖かった。

「『オメガが自分の思い通りにならないと気がすまないんだろう』って。俺はそんなこと考えたこともなかったよ。でも、君が言うなら俺にもそういう傲慢さがあったんだろう。それで俺は、君がどうしたら戻ってきて安心して一緒にいられるだろうかと考えた。その結果……ああなった」

 そう言って彼がキッチンの惨状を指差した。夕希は話の意味がわからず首を傾げる。

「え? どういうことですか?」
「君が俺に弁当を作ってくれたのが本当に嬉しかったんだ。俺は、料理はしない主義だ。だけど君のためなら変われるってところを見せたかった。上手く料理して、君をもてなせるようになるまで頑張ろうって決めたんだ。ちゃんと上達したら君を招いて食事会をしようと思ってた」

――え、そんなことを考えてたの……!?

「だけど、まさか君の方から連絡してくるとは想定外だったよ。こんな格好悪いところを見せたくなかったんだが……」

 彼が珍しく顔を赤くして照れくさそうに頭をかいた。
――もしかして、僕が電話した時不機嫌そうだったのって料理が上手く行かなかったから……?

「あの、ちなみにあの黒いのってなんなんですか? 何を作ってたの?」

 夕希はキッチンの黒い塊を見た。すると隼一が当然という様子で答える。

「唐揚げに決まってるだろう。その横のは卵焼きだ。君が作ってくれたのを再現しようとしたんだがちょっと……失敗した」

 隼一は誰が見ても完璧なアルファで、人気の美食評論家で、高級レストランで食事するのが当たり前という人だ。そんな彼が、自宅で夕希をもてなすために黒焦げの唐揚げを必死で作っていただなんて。その様子を想像したら急に目頭が熱くなった。

「隼一さん……」

 彼がこんなことまでしてくれるとは思ってもみなかった。夕希は自分の都合ばかり考えて逃げ回っていたのに、彼はこうやっていつも想像を超える優しさを行動で示してくれる。夕希は涙ぐみながら微笑んだ。

「僕……なんて言っていいか……すごく嬉しいです」 

 すると彼が安心したように頬を緩めた。

「少しは信じてくれた? 俺がちゃんと君のことを好きだって」
「はい。疑ってばかりで勘違いで逃げ回って……本当に馬鹿でした」

 隼一は夕希を優しく抱き締めた。夕希も彼の背中をギュッと抱き返す。

「じゃあもう逃げないって約束してくれるんだな?」
「もちろんです。だって僕が逃げたら、誰が片付けるんです?」

 夕希はキッチンの唐揚げになり損なった物を指差した。

「えーと……。戻ってきてくれて早々で悪いが、一緒に片付けてくれるか?」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「はい」
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