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第八章 デセール&カフェ
57.黒馬の王子の迎え
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しばらく一人で物思いに耽っていたら、遠くから耳慣れたマフラーサウンドが聞こえてきた。
――ああ、本当に来てくれたんだ。
夕希は立ち上がり、公園から通りに出る。黒いカーボンファイバーのスラリとした車体が排気音と共に近づいてきた。
これまでの人生で夕希は散々アルファから逃げ回ってきた。しかし今は自分の弱さを認めてアルファに甘え、それに応えてもらえたことに深い安堵を覚えていた。
助手席のドアを開けて身体を滑り込ませる。すると久々に顔を合わせたにも関わらず、隼一が以前と変わらぬ様子で「お待たせいたしました、夕希様」と冗談めかして言った。
「突然電話してきたかと思ったらいきなり俺を運転手扱いとはさすがだな」
「あ、ご、ごめんなさい。僕、お財布を持たずに逃げ出しちゃって……」
いきなり電話して迎えに来させるなんて怒られるかもしれないと思ったけど、彼は眉をクイッと上げ、形の良い唇に笑みを浮かべた。
「ほう。しかも無賃乗車とは恐れ入った。ではどちらへお送りしましょうか?」
「……あ、その……」
呼びつけておいて、どこへ行くかなんて考えてもいなかった。普通に考えたら実家に送って貰うべきだろう。だけど、家に送って貰って、彼とそこでまた別れるつもりなのか――?
「隼一さんのお家にお願いします!」
「了解」
夕希が行き先を告げると同時に車が発進した。
しばらくの間、夕希は何も言えずに話をどう切り出そうかと考えていた。隼一も、前を向いたまま何も言わない。夕希はちらちらと彼の横顔を盗み見た。美耶が言っていたとおり、あまり調子が良くなさそうだ。少し目の下にクマができているし、前よりやつれた気がする。
「隼一さん、体調良くないんですか……?」
「え? ああ、まあね」
夕希の視線に気づいて彼は自分の頬をこするように撫でた。
「そんなことより、逃げ出してきたってどういうことだ? なんであんな公園にいた?」
「えっと……」
「それにしては随分良いもの付けてるじゃないか」
「え?」
「ベータだと嘘をつくのはやめたのか?」
隼一は前を向いたまま、自分の首をトントンと指差した。それで夕希は自分がネックガードを付けたままであることに気づいた。
「あ、これ……いいや、もう取っちゃおう」
「いいの?」
「要らないから、こんなもの」
夕希は忌々しい束縛の証を取り外した。そのまま窓から投げ捨ててやりたい気分だったけど、北山に返せと言われたら面倒だからやめておいた。婚約指輪もこっそり外してポケットに押し込む。
「まさか君から連絡してくるとは思ってなかった。怒ってるんだと思ってたから」
そう言われて驚いた。だって、怒られるべきなのはこちらの方だったから。
「ごめんなさい。僕がこの前怒ってたのは、全部勘違いで……」
「こっちこそ悪かった。あんな怖い思いさせるつもりじゃなかったんだ」
「いえ、あれは僕が悪かったんです」
「君に婚約者がいるって聞いたら頭に血が昇って抑えがきかなかった」
彼がその時のことを思い出したように眉根を寄せた。
「逃げてきたって、その婚約者から逃げたってことか?」
「……はい」
「俺を呼びつけておいてやっぱりその男のところに戻るなんて言わないだろうな」
夕希は首を横にふった。
「言いません」
北山の車より、夕希は久しぶりに乗った隼一の車の方が心地よかった。夜の首都高を走りながら、高層ビルの光が飛ぶように過ぎ去るのをしばらく無言で眺める。観光で訪れる人々を驚嘆させる東京の光の海だ。さっきの住宅街で見た灯りよりもずっと無機質なはずなのに、今は疎外感も寂しさも感じなかった。
「夜の首都高ってなんでこんなに綺麗なんですかね……」
「ん? ああ、そうだな」
隼一と一緒に行ったバーから見下ろす夜景も好きだけど、夕希はこうやって走りながらこの街の灯りを眺めるのが一番好きだ。大きな街の光に全身飲み込まれ、自分も無数の光の粒の一つに過ぎないと思えるから――。
この街でオメガとして生きるのは大変だしつらいことも多い。だけど自分がこの夜景の一部なんだと思えば何もかも大したことじゃないと思えてくる。
夕希は運転ができないため普段の交通手段は電車や地下鉄が多い。だけど、こうして助手席に乗るようになって、車もいいなと思うようになった。
隼一と一緒に過ごしてから、夕希は知らないことをたくさん覚えた。見たことのない風景、食べたことのない料理、味わったことのない快感、苦しくなるくらい相手を求める気持ち。この歳になって、なんでも知っているつもりになっていたけど実は何も知らなかったことに気づかされた。
――もっと一緒にいたい。彼もほんの少しで良いから僕と同じように思ってくれたらいいのに……。
そう思いながら景色を眺めていたら、三十分ほどで車は隼一のマンションに到着した。
「詳しい話は部屋の中で聞かせてくれ。俺も笹原さんから聞いた話しを君にしなきゃならない」
「え、笹原さん!?」
――僕はいくら連絡を取ろうとしてもだめだったけど、隼一さんは連絡できてるんだ。僕だけ無視されてるってこと?
――ああ、本当に来てくれたんだ。
夕希は立ち上がり、公園から通りに出る。黒いカーボンファイバーのスラリとした車体が排気音と共に近づいてきた。
これまでの人生で夕希は散々アルファから逃げ回ってきた。しかし今は自分の弱さを認めてアルファに甘え、それに応えてもらえたことに深い安堵を覚えていた。
助手席のドアを開けて身体を滑り込ませる。すると久々に顔を合わせたにも関わらず、隼一が以前と変わらぬ様子で「お待たせいたしました、夕希様」と冗談めかして言った。
「突然電話してきたかと思ったらいきなり俺を運転手扱いとはさすがだな」
「あ、ご、ごめんなさい。僕、お財布を持たずに逃げ出しちゃって……」
いきなり電話して迎えに来させるなんて怒られるかもしれないと思ったけど、彼は眉をクイッと上げ、形の良い唇に笑みを浮かべた。
「ほう。しかも無賃乗車とは恐れ入った。ではどちらへお送りしましょうか?」
「……あ、その……」
呼びつけておいて、どこへ行くかなんて考えてもいなかった。普通に考えたら実家に送って貰うべきだろう。だけど、家に送って貰って、彼とそこでまた別れるつもりなのか――?
「隼一さんのお家にお願いします!」
「了解」
夕希が行き先を告げると同時に車が発進した。
しばらくの間、夕希は何も言えずに話をどう切り出そうかと考えていた。隼一も、前を向いたまま何も言わない。夕希はちらちらと彼の横顔を盗み見た。美耶が言っていたとおり、あまり調子が良くなさそうだ。少し目の下にクマができているし、前よりやつれた気がする。
「隼一さん、体調良くないんですか……?」
「え? ああ、まあね」
夕希の視線に気づいて彼は自分の頬をこするように撫でた。
「そんなことより、逃げ出してきたってどういうことだ? なんであんな公園にいた?」
「えっと……」
「それにしては随分良いもの付けてるじゃないか」
「え?」
「ベータだと嘘をつくのはやめたのか?」
隼一は前を向いたまま、自分の首をトントンと指差した。それで夕希は自分がネックガードを付けたままであることに気づいた。
「あ、これ……いいや、もう取っちゃおう」
「いいの?」
「要らないから、こんなもの」
夕希は忌々しい束縛の証を取り外した。そのまま窓から投げ捨ててやりたい気分だったけど、北山に返せと言われたら面倒だからやめておいた。婚約指輪もこっそり外してポケットに押し込む。
「まさか君から連絡してくるとは思ってなかった。怒ってるんだと思ってたから」
そう言われて驚いた。だって、怒られるべきなのはこちらの方だったから。
「ごめんなさい。僕がこの前怒ってたのは、全部勘違いで……」
「こっちこそ悪かった。あんな怖い思いさせるつもりじゃなかったんだ」
「いえ、あれは僕が悪かったんです」
「君に婚約者がいるって聞いたら頭に血が昇って抑えがきかなかった」
彼がその時のことを思い出したように眉根を寄せた。
「逃げてきたって、その婚約者から逃げたってことか?」
「……はい」
「俺を呼びつけておいてやっぱりその男のところに戻るなんて言わないだろうな」
夕希は首を横にふった。
「言いません」
北山の車より、夕希は久しぶりに乗った隼一の車の方が心地よかった。夜の首都高を走りながら、高層ビルの光が飛ぶように過ぎ去るのをしばらく無言で眺める。観光で訪れる人々を驚嘆させる東京の光の海だ。さっきの住宅街で見た灯りよりもずっと無機質なはずなのに、今は疎外感も寂しさも感じなかった。
「夜の首都高ってなんでこんなに綺麗なんですかね……」
「ん? ああ、そうだな」
隼一と一緒に行ったバーから見下ろす夜景も好きだけど、夕希はこうやって走りながらこの街の灯りを眺めるのが一番好きだ。大きな街の光に全身飲み込まれ、自分も無数の光の粒の一つに過ぎないと思えるから――。
この街でオメガとして生きるのは大変だしつらいことも多い。だけど自分がこの夜景の一部なんだと思えば何もかも大したことじゃないと思えてくる。
夕希は運転ができないため普段の交通手段は電車や地下鉄が多い。だけど、こうして助手席に乗るようになって、車もいいなと思うようになった。
隼一と一緒に過ごしてから、夕希は知らないことをたくさん覚えた。見たことのない風景、食べたことのない料理、味わったことのない快感、苦しくなるくらい相手を求める気持ち。この歳になって、なんでも知っているつもりになっていたけど実は何も知らなかったことに気づかされた。
――もっと一緒にいたい。彼もほんの少しで良いから僕と同じように思ってくれたらいいのに……。
そう思いながら景色を眺めていたら、三十分ほどで車は隼一のマンションに到着した。
「詳しい話は部屋の中で聞かせてくれ。俺も笹原さんから聞いた話しを君にしなきゃならない」
「え、笹原さん!?」
――僕はいくら連絡を取ろうとしてもだめだったけど、隼一さんは連絡できてるんだ。僕だけ無視されてるってこと?
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