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第七章 フロマージュ
53.美耶とアフタヌーンティーへ
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結局雑誌の仕事はだめになってしまった。その後不思議なことに、笹原に連絡しようとしてもメールの返事は来なくなり、電話は通じなくなっていた。
このことは結果的に北山を喜ばせることになった。彼は自分のために仕事を辞めたのだと思ったようだった。
「わかってくれて嬉しいよ、夕希」
「はい……」
その翌月上旬に発情期が来た。夕希が一週間ほど北山に会えないと伝えると、彼はそれを敏感に察した。
「発情期だね? つらいなら僕が手伝ってあげるよ。君さえ良ければ僕の部屋で過ごさない?」
「いいえ、やっぱり僕……結婚してからがいいんです」
とてもじゃないけど、今の精神状態で彼に抱かれる気になどなれなかった。なぜなら夕希は自分の断ち切れない思いを自覚していたから。
――僕は今でもまだ隼一さんのことが好きだ――……。
隼一の元を離れて以来、彼のことはなるべく考えないようにしてきた。だけど編集長とのことがあって気持ちが溢れ出てしまったのだ。
自分の思い込みのせいで彼と酷い別れ方をした。本来優しい彼が夕希の首に歯を立てずにはいられないほど怒らせてしまった。彼は親切心から夕希に忠告してくれたのに、勘違いして逆上し、彼を責めて逃げ出した。あの人にあんなことまでさせるなんて、自分はどこまで愚かなんだろう。
今回の発情期も、隼一と会う前のように頭痛と悪夢でうなされる一週間となった。
夢の中で夕希は何度も隼一をなじった。自分が勘違いしていると今は知っているのに、夢の中の自分は繰り返し彼の優しさを踏みにじる。目が覚めてそれが夢だとわかっても、どうすることもできない無力感で涙が溢れた。
そんな発情期が終わった頃、美耶から連絡があった。以前一緒に行こうと話していたスイーツビュッフェの予定はどうなっているかという内容だった。夕希は色々と不遇続きだったためこのことをすっかり忘れていて、ホテルに電話したけど今月は予約でいっぱいだと言われてしまった。そこで夕希はラウンジのアフタヌーンティーを予約した。スイーツビュッフェに出てくるケーキの一部がアフタヌーンティーでも楽しめるのだ。
夕希はこのどうにもならない気分を上昇させるためには、美味しいものを食べるしかないと思った。
「こういうときこそ思いっきり好きなものを好きなだけ食べるんだ!」
家にこもってくよくよ悩んでいても仕方がない。過ぎたことは変えられない。それより、お腹を満たして次の手を考えないと。そうしなければなんだって上手く行くはずがないんだ。
◇
そして九月下旬のよく晴れた日に夕希は美耶とホテルのラウンジを訪れた。ゆっくり話がしたいからと、息子の朔 くんはベビーシッターに預けて来てくれたので二人きりだ。美耶はベージュのニットタンクトップに同系色のパンツ姿で、手触りの良さそうなシャツをゆるく羽織っている。着飾っているわけでもないのに相変わらず綺麗だった。夕希は服装を考える気力もなくて、ライトグレーのシャツに淡いブルーのボトムスを北山に言われるまま身につけていた。
ヴィクトリア様式のラウンジで、ダマスク織のソファに並んで腰掛ける。
今月はチョコレートがテーマのアフタヌーンティーだ。ポットサービスの紅茶とケーキスタンドがテーブルにセッティングされると美耶が目を輝かせた。
「美味しそうでどれから食べるか迷うなぁ」
ドリンクはまずアールグレイティーを頼んだ。単独だと少し癖があるアールグレイは、チョコレートの芳醇な香りと濃厚な味に良く合う。
上段のデザートを食べた美耶がぱっと笑顔になる。
「あ、夕希くんこれ中にレモン味のムースが入ってるよ。甘酸っぱくて美味しい」
「こっちのピスタチオのはかなり濃厚ですね。ボトムがザクザクしていて食感もいいです」
しばらくの間二人はチョコレートスイーツに夢中になった。甘い物ばかりでなく、サンドイッチなどのセイボリーで口直しができるのもアフタヌーンティーの魅力だ。
「ここのシュークリーム好きだからチョコバージョン食べられて嬉しい」
「このバニラフレーバーの紅茶もすごく香りが良いですよ」
「ほんと? じゃあ次俺もそれ頼もう。ねえ、アプリコットのこれすごく好きかも」
美耶が指したグラスデザートはチョコレートクリームの表面がキャラメリゼされていて、香ばしさとアプリコットの酸味のバランスが絶妙だった。
「僕もこれ一番好きかもしれないです」
「でも俺、そろそろお腹いっぱいになってきたかも」
「チョコレートのデザートって重いですよね」
美耶が夕希の空になったお皿を見て感嘆する。
「夕希くん、細い体でよくそんなに食べられるよね。お腹大丈夫なの?」
「ええ、ちょっと最近嫌なことがありすぎてむしゃくしゃしていて。それに先々週が発情期だったので食欲が……」
「典型的な食欲増進だね。でも、嫌なことって?」
そこで夕希は我慢できずにこれまであったことを全部美耶に打ち明けた。同じオメガの先輩として、しかもアルファに頼るだけじゃない生き方をしている美耶になら本音が話せた。
「――というわけで、せっかくお世話になった隼一さんには酷いことしちゃったし、婚約者の友宏さんは僕のこと子作りマシンとしか思ってないし、編集長はセクハラおじさんだったし、紹介してくれた笹原さんとは連絡つかないしでもう八方塞がりなんです……」
美耶はずっと黙って頷きながら聞いてくれていた。そして少し考えた後に言った。
「ねえ、コラムではないけど夕希くんうちで仕事しない? 広報の仕事もあるし文章書く仕事もできる。もちろん在宅でね」
「え? 美耶さんの会社で……?」
「うん。もちろん夕希くんが好きな食の分野でコラムの仕事をしたいのはわかるよ。でも、こんなことになるくらいならまずは畑違いでも安全な場所で働いてみない?」
美耶は以前聞いたように、オメガ男性用マタニティウェアを製作する会社で働いている。その会社自体は夫の礼央が出資して始めたのだという。
しかし、夕希はこれまでのことを考えるとまた何かやらかしてしまいそうで怖くなった。
「でも、僕……アパレルは全く経験も無いですし、美耶さんにまで迷惑はかけられないです」
「うーん、夕希くん。君、もっと甘え上手にならなきゃダメだよ」
「あ、甘え?」
――甘え上手にならなきゃってどういうこと――……?
このことは結果的に北山を喜ばせることになった。彼は自分のために仕事を辞めたのだと思ったようだった。
「わかってくれて嬉しいよ、夕希」
「はい……」
その翌月上旬に発情期が来た。夕希が一週間ほど北山に会えないと伝えると、彼はそれを敏感に察した。
「発情期だね? つらいなら僕が手伝ってあげるよ。君さえ良ければ僕の部屋で過ごさない?」
「いいえ、やっぱり僕……結婚してからがいいんです」
とてもじゃないけど、今の精神状態で彼に抱かれる気になどなれなかった。なぜなら夕希は自分の断ち切れない思いを自覚していたから。
――僕は今でもまだ隼一さんのことが好きだ――……。
隼一の元を離れて以来、彼のことはなるべく考えないようにしてきた。だけど編集長とのことがあって気持ちが溢れ出てしまったのだ。
自分の思い込みのせいで彼と酷い別れ方をした。本来優しい彼が夕希の首に歯を立てずにはいられないほど怒らせてしまった。彼は親切心から夕希に忠告してくれたのに、勘違いして逆上し、彼を責めて逃げ出した。あの人にあんなことまでさせるなんて、自分はどこまで愚かなんだろう。
今回の発情期も、隼一と会う前のように頭痛と悪夢でうなされる一週間となった。
夢の中で夕希は何度も隼一をなじった。自分が勘違いしていると今は知っているのに、夢の中の自分は繰り返し彼の優しさを踏みにじる。目が覚めてそれが夢だとわかっても、どうすることもできない無力感で涙が溢れた。
そんな発情期が終わった頃、美耶から連絡があった。以前一緒に行こうと話していたスイーツビュッフェの予定はどうなっているかという内容だった。夕希は色々と不遇続きだったためこのことをすっかり忘れていて、ホテルに電話したけど今月は予約でいっぱいだと言われてしまった。そこで夕希はラウンジのアフタヌーンティーを予約した。スイーツビュッフェに出てくるケーキの一部がアフタヌーンティーでも楽しめるのだ。
夕希はこのどうにもならない気分を上昇させるためには、美味しいものを食べるしかないと思った。
「こういうときこそ思いっきり好きなものを好きなだけ食べるんだ!」
家にこもってくよくよ悩んでいても仕方がない。過ぎたことは変えられない。それより、お腹を満たして次の手を考えないと。そうしなければなんだって上手く行くはずがないんだ。
◇
そして九月下旬のよく晴れた日に夕希は美耶とホテルのラウンジを訪れた。ゆっくり話がしたいからと、息子の朔 くんはベビーシッターに預けて来てくれたので二人きりだ。美耶はベージュのニットタンクトップに同系色のパンツ姿で、手触りの良さそうなシャツをゆるく羽織っている。着飾っているわけでもないのに相変わらず綺麗だった。夕希は服装を考える気力もなくて、ライトグレーのシャツに淡いブルーのボトムスを北山に言われるまま身につけていた。
ヴィクトリア様式のラウンジで、ダマスク織のソファに並んで腰掛ける。
今月はチョコレートがテーマのアフタヌーンティーだ。ポットサービスの紅茶とケーキスタンドがテーブルにセッティングされると美耶が目を輝かせた。
「美味しそうでどれから食べるか迷うなぁ」
ドリンクはまずアールグレイティーを頼んだ。単独だと少し癖があるアールグレイは、チョコレートの芳醇な香りと濃厚な味に良く合う。
上段のデザートを食べた美耶がぱっと笑顔になる。
「あ、夕希くんこれ中にレモン味のムースが入ってるよ。甘酸っぱくて美味しい」
「こっちのピスタチオのはかなり濃厚ですね。ボトムがザクザクしていて食感もいいです」
しばらくの間二人はチョコレートスイーツに夢中になった。甘い物ばかりでなく、サンドイッチなどのセイボリーで口直しができるのもアフタヌーンティーの魅力だ。
「ここのシュークリーム好きだからチョコバージョン食べられて嬉しい」
「このバニラフレーバーの紅茶もすごく香りが良いですよ」
「ほんと? じゃあ次俺もそれ頼もう。ねえ、アプリコットのこれすごく好きかも」
美耶が指したグラスデザートはチョコレートクリームの表面がキャラメリゼされていて、香ばしさとアプリコットの酸味のバランスが絶妙だった。
「僕もこれ一番好きかもしれないです」
「でも俺、そろそろお腹いっぱいになってきたかも」
「チョコレートのデザートって重いですよね」
美耶が夕希の空になったお皿を見て感嘆する。
「夕希くん、細い体でよくそんなに食べられるよね。お腹大丈夫なの?」
「ええ、ちょっと最近嫌なことがありすぎてむしゃくしゃしていて。それに先々週が発情期だったので食欲が……」
「典型的な食欲増進だね。でも、嫌なことって?」
そこで夕希は我慢できずにこれまであったことを全部美耶に打ち明けた。同じオメガの先輩として、しかもアルファに頼るだけじゃない生き方をしている美耶になら本音が話せた。
「――というわけで、せっかくお世話になった隼一さんには酷いことしちゃったし、婚約者の友宏さんは僕のこと子作りマシンとしか思ってないし、編集長はセクハラおじさんだったし、紹介してくれた笹原さんとは連絡つかないしでもう八方塞がりなんです……」
美耶はずっと黙って頷きながら聞いてくれていた。そして少し考えた後に言った。
「ねえ、コラムではないけど夕希くんうちで仕事しない? 広報の仕事もあるし文章書く仕事もできる。もちろん在宅でね」
「え? 美耶さんの会社で……?」
「うん。もちろん夕希くんが好きな食の分野でコラムの仕事をしたいのはわかるよ。でも、こんなことになるくらいならまずは畑違いでも安全な場所で働いてみない?」
美耶は以前聞いたように、オメガ男性用マタニティウェアを製作する会社で働いている。その会社自体は夫の礼央が出資して始めたのだという。
しかし、夕希はこれまでのことを考えるとまた何かやらかしてしまいそうで怖くなった。
「でも、僕……アパレルは全く経験も無いですし、美耶さんにまで迷惑はかけられないです」
「うーん、夕希くん。君、もっと甘え上手にならなきゃダメだよ」
「あ、甘え?」
――甘え上手にならなきゃってどういうこと――……?
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