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第六章 サラダ

46.楽しい時間の終わり

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 ケーキを食べ、コーヒーを飲みながらしばらくとりとめのないことを話していると見覚えのあるビル群が近づいてきた。

「もしかしてそろそろ終わりですか?」
「ああそうだ。もうすぐ到着だね」

――夢みたいな時間もこれで終わりか……。
 隼一と出会ってからの数ヶ月、良いこともあったし、つらくて泣いたこともあった。だけど改めて今日こうして彼のもてなしを受け、夕希は清々しい気持ちで辞めることができそうだった。彼に向かって深く頭を下げる。

「すごく楽しかったです。ありがとうございました」
「気に入ってくれて嬉しいよ。俺もバカンスのシーズンは執筆を休むようにしているから、夏の間に色んな所へ行こう」

――そうはいかないんだって言わないと。

「隼一さん……実は僕――」
「キスしていい?」

 彼が目を細め、夕希の顔に手を添えた。この瞳に何度も吸い寄せられ、彼の香りに囚えられてきた。別れを告げる前に、もう一度だけキスがしたい。夕希は頷く代わりに目を閉じた。
 隼一の手が夕希の肩を抱き寄せ、ほどなく唇に温かいものが触れた。接しているのは唇なのに、胸がじんわりと熱くなる。
――今この瞬間だけ、僕は隼一さんの恋人。彼は僕だけのもの――。
 彼にとって自分が特別じゃないと知ってから、キスしても虚しいだけだった。でも、今夕希は自ら唇を開き、彼の舌を迎え入れた。その舌を甘く噛み、吸い、自分の舌を絡める。

「ん……ふ……」

 彼の香りに混じる貴腐ワインの熟れた芳香を味わいながら、夕希はそれを心に刻んだ。この香りはたとえお互いが今後どこへ行こうと忘れたくない。
 こうやって無防備にアルファのフェロモンを受け入れるのはオメガにとってはリスクが高い。心を開いて相手のフェロモンを受け取れば、それだけ効き目が増す。
――彼のことが好き。最後だから、今だけ全部欲しい……。
 頭の芯が痺れるような快感は何にも例えようがなかった。ただこうして熱烈に求められてキスしている間だけは、彼も僕に恋していると感じられる。
 たとえその先に嗅覚を取り戻す目的があったとしても、この瞬間彼は本能に従い夕希のフェロモンを手放しで受け取ってくれる。お互いに本能で誘い合っているから言葉に出来ないほど気持ちよくなれる。それはこうして求め合うアルファとオメガだけが共有できる唯一無二の感覚だった。

 彼の唇が離れていくのを夕希は後ろ髪を引かれる思いで見つめた。隼一は夕希の額に自分の額を合わせ「たまらなく甘くていい匂いだ」と満足そうに微笑んだ。

「これからは心配事があったらなんでも言って。俺にもっと頼って欲しい。こうやって気分転換にも連れて来られるし、仕事で悩んでるなら必ず助けになるから」

 キスの余韻で夕希の唇はじんと痺れ、頭はぼんやりしていた。だけど、今こそ別れを告げるときだ。

「退職前にコラムの仕事が決まらなくて不安だったんだろう? 君がいるお陰で俺の嗅覚も安定しているし、これから君は君の仕事に集中してくれて構わない。だから……」

 そう言って彼は黒いリングケースを夕希の手に乗せた。それを見て夕希はハッと我に返った。

「夕希、これを受け取って。俺と――」
「ごめんなさい」
「え?」
「ごめんなさい!」

 夕希は彼にケースを押し返した。彼に全て内緒にしたままこんなに気を遣わせて、さらにプレゼントなんて受け取れる立場ではない。
――馬鹿だ……最後に楽しく過ごしたいなんて思わなければよかった。
 彼の優しさに甘えすぎて、打ち明けるタイミングを見誤った。

「夕希?」
「僕、今日でアシスタントを辞めさせて欲しいと伝えるつもりだったんです」
「ああ、だからそれで構わないよ。君自身の名前で、コラムを書けるように俺も協力する。笹原さんにお願いしたらどこか書けそうな媒体を紹介してもらえるかもしれないし」

 夕希は震える声で言う。

「違うんです。僕、もう……雑誌のコラムの仕事が決まっているんです」
「え?」

 隼一が怪訝そうに眉をひそめた。

「なんだよ、どうして教えてくれなかった? もしかしてサプライズのつもりだったのか?」
「いえ、そうじゃないんです。笹原さんに紹介してもらって……」
「それならそう言ってくれたらよかったのに。なんていう雑誌?」

 夕希が雑誌名と編集長の名前を言うと、急に隼一が顔色を変えた。

「夕希、そこはだめだ」
「え?」

 思わぬ反応に夕希は驚いた。いくらなんでもだめだと言われるとは思っていなかった。
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