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第六章 サラダ
44.夕希の誕生日
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それからというものの、夕希の気持ちは上昇と下降を繰り返していた。その割に発情期後の食欲増進は穏やかで、ここ数年で初めて四半期ごとのスイーツビュッフェに行かずに過ごせた。隼一と共に過ごした数ヶ月の間、いつになく美味しいものを食べさせてもらっていたからだろうか。
仕事面でも進展があった。笹原の紹介してくれた編集長と面接をし、雑誌の仕事をさせてもらえることになったのだ。結婚後の未来になかなか希望を見いだせずにいたけど、笹原のおかげで心の拠り所を得られた。たとえ望まぬ相手と結婚しても仕事さえあれば、自分のアイデンティティを失わずにいられる気がする。
気持ちは依然として不安定な状態のままだったが、夕希はついに二十八歳の誕生日を迎えた。
この日は日曜日で、夕希はいつものように金曜の夜から隼一の自宅にいた。彼が今夜どんなディナーを予約しているのかはわからない。ただ、夕希は新しい仕事の見習い期間ということで、今日中に編集長宛に記事の原稿を送らなければならなかった。
実は隼一にはまだ雑誌の仕事については話していない。彼の元を去ることと一緒に、今夜伝えるつもりだ。彼には今日は自分のブログに載せる記事を書きたいと事前に伝えてあった。隼一からは夕方までに終わらせてくれれば構わないと言われた。
夕希は部屋にこもって記事を書き上げた。編集長にメールで原稿を送った後リビングに顔を出すと、隼一は雑誌を読みながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「お待たせしました、終わりました」
メガネを掛けた彼が顔を上げた。
「お疲れ様」
「すみません。急いで支度しますね。何を着たらいいですか?」
「そのままで良いよ」
「え?」
夕希は思わず自分の身体を見下ろす。隼一が買ってくれたハイブランドの洋服ではあるけど、部屋着にしているベージュのサマーニットに白いスキニーパンツという普通の格好だ。
「でも、ジャケットも着なくていいんですか?」
「だって暑いだろう。俺もこのまま行くから」
彼も普段家で過ごすときによく着ている黒のTシャツにテーパードパンツというラフな姿だ。てっきりドレスコードのあるようなお店に連れて行かれるものと思っていた。彼のことだから夕希のためにスーツを新調しているんじゃないかと予想していたくらいなのに。
「手ぶらでいいよ。さあ行こう」
隼一はウォークインクローゼットから生成りのエスパドリーユを選び取った。夕希が何を履いたらいいか聞くと「これにしたら」と先日フィレンツェで買ってきてくれた革のサンダルを勧められる。
――サンダル? 一体どんなお店に行くつもりなの?
いくら隼一が有名人だといっても、高級料理店にサンダル履きは許されないだろう。夕希はちょっと心配になってきた。
「どこに行くんですか?」
「お楽しみだよ」
◇
七月の東京は十六時を過ぎてもまだまだ暑い。彼は日差しを避けるためにサングラスをかけ、行き先を告げぬまま車を走らせた。
彼のマンションから十五分ほどで目的地に到着した。高層のオフィスビルが立ち並ぶエリアに車を停める。彼について少し歩くと、運河が見えてきた。
「今日はあれに乗って海の上でのんびりしようと思って」
「あ……」
階段を降りると桟橋に中型のクルーザーが係留されているのが見えた。今夜は何料理のレストランに行くのかな、と考えていたけどこういうことか。なるほど、貸切の船に乗るならスーツも革靴も必要無い。
「今日は天気が良いからちょうどこれから夕日も見られるよ」
「僕、クルーズなんて初めてです」
「ほんと? 船酔いは大丈夫かな。それを聞きそびれてて心配だったんだけど」
「車酔いもしたことないし、大丈夫だと思います」
「良かった。夕希、フレンチレストランだと緊張するって言ってたから。誕生日くらいリラックスして欲しくてね」
――そんなこと気にしてくれてたんだ……。
さすがにもう冷や汗をかくことは無くなったけど、未だに高級レストランは慣れない。以前そんなふうにこぼした夕希の一言を彼は覚えていてくれたのだ。
乗船し、前方デッキに出る。ゆったりした広さのベンチシートが設置され、後方デッキにはテーブルとソファが置かれていた。
この辺りは高層マンションやオフィスビルに囲まれているが、運河という水辺の空間があるだけで開放的な印象を受ける。夕希が住んでいるのと同じ品川区なのに、今までこの辺りに来たことがなく、船からの眺めはいつもとちがう非日常の世界だった。
デッキから周囲を窺っていると、クルーザーが出港した。外に出ると夕方でも汗ばむくらい暑いが、船が走り出したら風が頬を撫でて行くのがとても気持ちが良い。
「わあっ、すごいすごい! 結構速いですね」
「ああ」
「涼しい~! あ、湾に出ますよ隼一さん」
夕希は初めてのクルーズに興奮してついはしゃいでしまった。髪の毛が風で乱れるのも爽快だ。夕希がずっと喋りっぱなしなので隼一がついに笑いだした。
「楽しい?」
「すごく!」
「良かった、久々に笑顔が見られた」
「え……?」
「最近夕希の元気が無かったから」
――バレてたのか。
「それは――退職前の引き継ぎが忙しくて、ちょっと疲れてたんです」
「そうか、お疲れ様。今日は誕生祝いと退職祝いをかねて心置きなく飲もう」
隼一はあらかじめ用意されていたシャンパンを開けた。グラスに注いで貰って二人で乾杯する。潮風を切りながら進む船上で、明るいうちからシャンパンを飲むなんて悪いことをしている気分だ。だけどそれが逆に愉快だった。
ここ最近のもやもやしていた気分も、面倒な後先のことも、今は全部陸に置いて来たことにしよう。この海の上で、そんなつまらないことを考える必要なんてない。
仕事面でも進展があった。笹原の紹介してくれた編集長と面接をし、雑誌の仕事をさせてもらえることになったのだ。結婚後の未来になかなか希望を見いだせずにいたけど、笹原のおかげで心の拠り所を得られた。たとえ望まぬ相手と結婚しても仕事さえあれば、自分のアイデンティティを失わずにいられる気がする。
気持ちは依然として不安定な状態のままだったが、夕希はついに二十八歳の誕生日を迎えた。
この日は日曜日で、夕希はいつものように金曜の夜から隼一の自宅にいた。彼が今夜どんなディナーを予約しているのかはわからない。ただ、夕希は新しい仕事の見習い期間ということで、今日中に編集長宛に記事の原稿を送らなければならなかった。
実は隼一にはまだ雑誌の仕事については話していない。彼の元を去ることと一緒に、今夜伝えるつもりだ。彼には今日は自分のブログに載せる記事を書きたいと事前に伝えてあった。隼一からは夕方までに終わらせてくれれば構わないと言われた。
夕希は部屋にこもって記事を書き上げた。編集長にメールで原稿を送った後リビングに顔を出すと、隼一は雑誌を読みながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「お待たせしました、終わりました」
メガネを掛けた彼が顔を上げた。
「お疲れ様」
「すみません。急いで支度しますね。何を着たらいいですか?」
「そのままで良いよ」
「え?」
夕希は思わず自分の身体を見下ろす。隼一が買ってくれたハイブランドの洋服ではあるけど、部屋着にしているベージュのサマーニットに白いスキニーパンツという普通の格好だ。
「でも、ジャケットも着なくていいんですか?」
「だって暑いだろう。俺もこのまま行くから」
彼も普段家で過ごすときによく着ている黒のTシャツにテーパードパンツというラフな姿だ。てっきりドレスコードのあるようなお店に連れて行かれるものと思っていた。彼のことだから夕希のためにスーツを新調しているんじゃないかと予想していたくらいなのに。
「手ぶらでいいよ。さあ行こう」
隼一はウォークインクローゼットから生成りのエスパドリーユを選び取った。夕希が何を履いたらいいか聞くと「これにしたら」と先日フィレンツェで買ってきてくれた革のサンダルを勧められる。
――サンダル? 一体どんなお店に行くつもりなの?
いくら隼一が有名人だといっても、高級料理店にサンダル履きは許されないだろう。夕希はちょっと心配になってきた。
「どこに行くんですか?」
「お楽しみだよ」
◇
七月の東京は十六時を過ぎてもまだまだ暑い。彼は日差しを避けるためにサングラスをかけ、行き先を告げぬまま車を走らせた。
彼のマンションから十五分ほどで目的地に到着した。高層のオフィスビルが立ち並ぶエリアに車を停める。彼について少し歩くと、運河が見えてきた。
「今日はあれに乗って海の上でのんびりしようと思って」
「あ……」
階段を降りると桟橋に中型のクルーザーが係留されているのが見えた。今夜は何料理のレストランに行くのかな、と考えていたけどこういうことか。なるほど、貸切の船に乗るならスーツも革靴も必要無い。
「今日は天気が良いからちょうどこれから夕日も見られるよ」
「僕、クルーズなんて初めてです」
「ほんと? 船酔いは大丈夫かな。それを聞きそびれてて心配だったんだけど」
「車酔いもしたことないし、大丈夫だと思います」
「良かった。夕希、フレンチレストランだと緊張するって言ってたから。誕生日くらいリラックスして欲しくてね」
――そんなこと気にしてくれてたんだ……。
さすがにもう冷や汗をかくことは無くなったけど、未だに高級レストランは慣れない。以前そんなふうにこぼした夕希の一言を彼は覚えていてくれたのだ。
乗船し、前方デッキに出る。ゆったりした広さのベンチシートが設置され、後方デッキにはテーブルとソファが置かれていた。
この辺りは高層マンションやオフィスビルに囲まれているが、運河という水辺の空間があるだけで開放的な印象を受ける。夕希が住んでいるのと同じ品川区なのに、今までこの辺りに来たことがなく、船からの眺めはいつもとちがう非日常の世界だった。
デッキから周囲を窺っていると、クルーザーが出港した。外に出ると夕方でも汗ばむくらい暑いが、船が走り出したら風が頬を撫でて行くのがとても気持ちが良い。
「わあっ、すごいすごい! 結構速いですね」
「ああ」
「涼しい~! あ、湾に出ますよ隼一さん」
夕希は初めてのクルーズに興奮してついはしゃいでしまった。髪の毛が風で乱れるのも爽快だ。夕希がずっと喋りっぱなしなので隼一がついに笑いだした。
「楽しい?」
「すごく!」
「良かった、久々に笑顔が見られた」
「え……?」
「最近夕希の元気が無かったから」
――バレてたのか。
「それは――退職前の引き継ぎが忙しくて、ちょっと疲れてたんです」
「そうか、お疲れ様。今日は誕生祝いと退職祝いをかねて心置きなく飲もう」
隼一はあらかじめ用意されていたシャンパンを開けた。グラスに注いで貰って二人で乾杯する。潮風を切りながら進む船上で、明るいうちからシャンパンを飲むなんて悪いことをしている気分だ。だけどそれが逆に愉快だった。
ここ最近のもやもやしていた気分も、面倒な後先のことも、今は全部陸に置いて来たことにしよう。この海の上で、そんなつまらないことを考える必要なんてない。
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