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第五章 ヴィアンド

37.フェロモンと嗅覚の関係

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 彼がソファで待っている間、夕希はキッチンに立ってコーヒーを淹れた。用意する間に立ちのぼるこの深みのある匂いも、今の彼には感じられないのだ。湯気を立てるコーヒーカップをテーブルに置く。

「どうぞ」
「ありがとう」
「大丈夫ですよ、きっとまた良くなります。礼央さんも、ストレスが原因になるって言ってたじゃないですか。考え過ぎないほうがいいですよ」
「そうだな。そうだった……」

 二人でコーヒーを飲みながら、夕希は彼の気が紛れるように話を振った。

「そういえば隼一さん、昨日匂いがわかるようになった時に効果がどうのって言ってましたよね。何か心当たりがあるんですか?」
「え? ああ、そうなんだ。実は礼央から聞いたんだが――」

 彼はこの前礼央とフレンチレストランに行った際、二人だけ別室に移動したときのことを教えてくれた。専門的な話はよくわからない部分もあった。だけど要するに、アルファが極度のストレスにより嗅覚を失った場合、その解決法として発情中のオメガとの性行為が有効だという話だった。夕希は信じられなくて、彼がふざけているんじゃないかと思った。

「そんなの、冗談でしょう?」
「いや、大真面目さ。そもそもアルファがどうやってオメガのフェロモンを感じ取ると思う?」
「さあ……」

 夕希が首を傾げると、隼一は石膏像を思わせるその美しい顔の中心部を指差した。

「アルファとオメガの鼻には、普通の嗅覚を感じる部分とは別に、フェロモン物質を受容じゅようする鋤鼻器官じょびきかんというものがあるんだ」

――ああ、そういえば昨日も何か言ってたような。

「多くの人間……つまりベータはこの鋤鼻器じょびきが胎児のうちに退化してしまう。だから彼らはオメガのフェロモンを関知できない」
「なるほど……」

 特に深く考えたこともなかったけど、アルファだけがオメガのフェロモンを感じ取れるのはそういうことだったんだ。

「礼央が言うにはこの鋤鼻器でオメガのフェロモンを受容し、肉体的に満足感を得ることがアルファには必要不可欠な刺激らしい」
「はぁ……」

 いまいちよく理解できずまた首を傾げると、彼は夕希の手からコーヒーカップを取り上げてテーブルに置いた。何をするのかと黙って見ていたら、突然彼が夕希をソファに押し倒した。
――え、何?

「要するに、オメガとこうやって触れ合ってストレス発散しないと俺たちアルファは使い物にならない出来損ないだってこと」

 真面目に話しを聞いていたつもりなのに、気がついたら彼にのしかかられ口付けされていた。しかも、欲情を煽るような深いキスだ。彼の大きな手で顎を固定されていて、顔を背けることもできない。

「んっ……」

――せっかく抑制剤を飲んでるっていうのに、何するんだよ……!
 熱い舌が口中を思うさま這い回る感触に、だんだん頭がぼんやりしてくる。勝手をされて腹立たしいのに、本能がアルファを求めるあまり身動きができなくなった。彼の舌先が夕希の柔らかい部分を蹂躙じゅうりんし尽くした後、ようやく離れていった。その頃には夕希の身体はすっかり弛緩しかんし、抵抗する気力もなくなっていた。

「はぁっ……はぁ……なにを……」
「ああ、最高に美味い……夕希、もっとしていい?」

 思わず頷きかけたが、尚も覆いかぶさってくる彼の身体を必死に押しとどめる。

「だ、だめ! 何考えてるんですか? 僕、薬を飲んでやっと抑えてるんですよ」
「わかってる。でも君がこんなに近くにいるのに我慢しろっていうのか?」
「だから僕は帰るって言ったじゃないですか!」
「俺を見捨てるの?」

 彼はわざとらしく拗ねた言い方をして、夕希の首筋を舐めた。

「あっ!」

 唇を吸われるよりもっと直接的な、ぞくぞくするような快感が背筋を走る。

「やめて、だめ」
「可愛い……夕希、もっと味わいたいんだ。お願い」
「だめです、どいてください……!」

 彼は盛りのついたオス犬のように、夕希の顔といい首といいあちこちキスして匂いを嗅いでくる。本当は身体に火がついてうずいているけれど、こんなことをしている場合ではない。

「隼一さん! いい加減にしないと怒りますよ。あなたがふざけてるから仕事が進まないって笹原さんに言っちゃいますからね!」

 笹原の名前を出した途端に正気を取り戻したのか、彼は不満そうな顔をしながらもやっとどけてくれた。

「昨日はあんなに君から積極的に誘ってくれたのに」
「あ、あれは発情しておかしくなってたんです!」
「最中も『もっと』と可愛くおねだりしてくれて――」
「わー! やめてくださいってば!」

 夕希が彼の口を塞ごうと手を伸ばすと、彼はその手に笑いながらキスした。慌てて手を引っ込めてなるべく冷たい調子で言う。

「笹原さんからの確認事項、僕が代わりにお酒を飲んでチェックしますから」

 すると彼は「はいはい、わかりましたよ」と渋々頷いた。
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