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第一章 オードヴル
1.美食家αとの出会い
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東京メトロ日比谷線某駅から歩くこと約十分。早瀬夕希は外資系高級ホテルの豪奢なエレベーターの中にいた。男性と連れ立って上層階の部屋に向かっている。
――どうしてこうなったんだ……? いや、声を掛けたのは僕なんだけど。
夕希は隣に立つ黒いジャケット姿のミステリアスな男性を見上げた。
鷲尾隼一。今メディアで話題の美食評論家で、夕希のようにグルメに興味のある人間なら誰でも知っている人物だ。
海外育ちの資産家アルファ男性で、三十二歳。現在は美食コラムニストとして世界中の三つ星レストランを巡って食べ歩いている。俳優並に容姿端麗なので、テレビや雑誌にも引っ張りだこ。SNSでも人気があって、美食界のインフルエンサーでもある。
つい三十分ほど前まで夕希は一階のレストランで苺のスイーツビュッフェを楽しんでいた。
本当はお互いアルファ嫌いのオメガで意気投合したグルメ仲間の実佳と一緒に来るはずだった。しかし彼女に最近アルファの恋人ができてしまい、男一人参加になってしまった。
「アルファに求められる喜びを知っちゃったんだ」なんて言われてなんだか裏切られた気分だった。だけどここのビュッフェは何ヶ月も前からじゃないと予約が取れない人気店なのでキャンセルという選択肢はない。
いつものようにケーキと飲み物のカップを綺麗に並べ、夕希はグルメブログに載せるための写真をデジタル一眼レフカメラで撮影した。
そして苺とバニラのヴェリーヌを一口食べてその美味しさでドタキャンされた寂しさもモヤモヤも吹き飛んだ――……と思ったその時。
ケーキや紅茶の甘い香りの中に、ウッディ系の男性的な香りが混じった。同時に隣の席の女性客が「あれ鷲尾隼一じゃない?」と黄色い声を上げたので、レストランに併設されたラウンジに有名人が座っているのに気づいた。
なんとそこにいたのはグルメ好きの夕希が勝手に師と仰いでいる美食家だった。その彼とたまたま目が合った瞬間、男性向けフレグランスのような、品があって甘くないスモーキーな香りが鼻孔を貫いた。匂いに続いて急に体の芯が熱くなり、夕希は息を呑んだ。
――まさかこれ、アルファのフェロモン……?
夕希の第二の性はオメガだ。しかもアルファに対してちょっとした因縁があってあまりお近づきになりたくないと思っている。それなのに気がつくと夕希は自分の名刺にブログのURLを書きつけて立ち上がっていた。
アルファとの接触をなるべく避けてきた夕希が自分からアルファ青年に声を掛けることなど普段ならありえない。しかし、美食コラムニストを目指してグルメブログを書いている夕希はどうしてもこの機会に鷲尾隼一とコンタクトを取りたかった。
◆◆◆
美食評論家の鷲尾隼一はホテルのラウンジで気の乗らない打ち合わせに相槌を打っていた。退屈な話が終わればすぐにでも帰るつもりだ。
隼一はここ数ヶ月の間、匂いのしなくなった自分の鼻にうんざりしていた。そして正面に座っている女性編集者の話を聞き流していると、いつもと違う空気を感じ取った。他でもない、使えなくなったはずの自分の鼻で。
――匂いがする……?
辺りを見回し、その香りの出どころを探す。
隼一はラウンジに隣接するレストランの一席に目を凝らした。さらりとした栗色の髪に、優しい顔立ちの青年が一人で食事をしている。まるで青いぶどうを思わせる若々しい香り――。こちらからの強い視線に、向こうも隼一の存在に気がついた。青年と視線が絡んだ瞬間隼一は確信した。
――彼の匂いだ。
「先生」と声を掛けられ、隼一は視線を打ち合わせ相手の女性に戻した。
「どうかなさいましたか?」
「笹原さん、この匂いわかる?」
「え? なんの匂いですか?」
「ぶどうを搾ったみたいな――」
笹原は鼻をひくつかせて首をかしげた。なるほどベータの彼女にわからないということはこれはオメガのフェロモン香なのか――。
息を吸い込むと、ここ数ヶ月何も感じ取ることのなかった隼一の鼻孔を清々しい香りが通り抜けて行く。
――なんとしてもこの香りの持ち主を捕まえなければ。
隼一がもう一度彼に視線を送ると再び目が合った。その後青年が立ち上がったと思うとこちらにやってきて隼一に声を掛けた。
「あの」
普段はファンに声を掛けられても相手にしない隼一だが、この香りを無視することはできなかった。
「何か?」
「いきなりすみません。僕、鷲尾さんのファンです。よければここでグルメブログを書いているので読んでみて下さい。鷲尾さんみたいな美食コラムニストになりたいんです」
隼一は彼の差し出した名刺を受け取った。裏面にはURLが走り書きされている。
――早瀬夕希。はやせゆき? それともゆうきか。
隼一は青年が赤面すると同時に香りが少し変化したのを感じ取った。
――爽やかさに甘さが混じった……? 面白い。彼ならばこの退屈な日常を変えてくれるかもしれない。
◇◇◇
夕希は無視される覚悟で声を掛けた。しかし彼の反応は予想外だった。名刺を渡して立ち去ろうとしたら彼は夕希を引き止めて「話しがしたいから待っているように」と言ったのだ。
そんなわけで今一緒に彼の部屋に向かっている。誰にも聞かれたくない話だから部屋に来てくれと言われたが、一体何の話だろう。
夕希は隣の隼一をちらちらと盗み見る。
――さっき名刺を渡したときは緊張しすぎて顔をよく見られなかったけど、鷲尾さんって近くで見たら背が高くてテレビで見るよりもめちゃくちゃイケメンだ……。
ハイブランドのシックなジャケットを嫌味なく着こなし、近寄ると香水なのか信じられないほどいい匂いがする。ゆるいウェーブのかかった黒髪に彫りの深い端正な顔立ち。長いまつ毛に縁取られたブラウンにもグリーンにも見える不思議な色の瞳――と彼の横顔に見惚れていたら隼一が突然こちらを振り向いた。夕希は彼と目が合ってハッとする。
「君は香水をつけているのか?」
「えっ。あ、はい」
夕希はアルファ避けのために自分がオメガだとバレないよう香水を付けていた。それに勘づかれたのかと思いドキッとしたが、隼一は不思議そうな顔をして言う。
「どうぞ?」
気づくとエレベーターは目的のフロアに到着していて、隼一はドアが閉まらぬよう手で押さえながら夕希に降りるよう促しているのだった。
隼一がカードキーでドアを開けて部屋に入り、夕希はその後に続く。中はモノトーンを基調にしたモダンテイストのジュニアスイートルームだった。
――ひっろい……!
部屋の広さに驚いてキョロキョロしている夕希をよそに、隼一はバスルームを指して言う。
「じゃあまずシャワーを浴びてきてくれ」
「はい!?」
――どうしてこうなったんだ……? いや、声を掛けたのは僕なんだけど。
夕希は隣に立つ黒いジャケット姿のミステリアスな男性を見上げた。
鷲尾隼一。今メディアで話題の美食評論家で、夕希のようにグルメに興味のある人間なら誰でも知っている人物だ。
海外育ちの資産家アルファ男性で、三十二歳。現在は美食コラムニストとして世界中の三つ星レストランを巡って食べ歩いている。俳優並に容姿端麗なので、テレビや雑誌にも引っ張りだこ。SNSでも人気があって、美食界のインフルエンサーでもある。
つい三十分ほど前まで夕希は一階のレストランで苺のスイーツビュッフェを楽しんでいた。
本当はお互いアルファ嫌いのオメガで意気投合したグルメ仲間の実佳と一緒に来るはずだった。しかし彼女に最近アルファの恋人ができてしまい、男一人参加になってしまった。
「アルファに求められる喜びを知っちゃったんだ」なんて言われてなんだか裏切られた気分だった。だけどここのビュッフェは何ヶ月も前からじゃないと予約が取れない人気店なのでキャンセルという選択肢はない。
いつものようにケーキと飲み物のカップを綺麗に並べ、夕希はグルメブログに載せるための写真をデジタル一眼レフカメラで撮影した。
そして苺とバニラのヴェリーヌを一口食べてその美味しさでドタキャンされた寂しさもモヤモヤも吹き飛んだ――……と思ったその時。
ケーキや紅茶の甘い香りの中に、ウッディ系の男性的な香りが混じった。同時に隣の席の女性客が「あれ鷲尾隼一じゃない?」と黄色い声を上げたので、レストランに併設されたラウンジに有名人が座っているのに気づいた。
なんとそこにいたのはグルメ好きの夕希が勝手に師と仰いでいる美食家だった。その彼とたまたま目が合った瞬間、男性向けフレグランスのような、品があって甘くないスモーキーな香りが鼻孔を貫いた。匂いに続いて急に体の芯が熱くなり、夕希は息を呑んだ。
――まさかこれ、アルファのフェロモン……?
夕希の第二の性はオメガだ。しかもアルファに対してちょっとした因縁があってあまりお近づきになりたくないと思っている。それなのに気がつくと夕希は自分の名刺にブログのURLを書きつけて立ち上がっていた。
アルファとの接触をなるべく避けてきた夕希が自分からアルファ青年に声を掛けることなど普段ならありえない。しかし、美食コラムニストを目指してグルメブログを書いている夕希はどうしてもこの機会に鷲尾隼一とコンタクトを取りたかった。
◆◆◆
美食評論家の鷲尾隼一はホテルのラウンジで気の乗らない打ち合わせに相槌を打っていた。退屈な話が終わればすぐにでも帰るつもりだ。
隼一はここ数ヶ月の間、匂いのしなくなった自分の鼻にうんざりしていた。そして正面に座っている女性編集者の話を聞き流していると、いつもと違う空気を感じ取った。他でもない、使えなくなったはずの自分の鼻で。
――匂いがする……?
辺りを見回し、その香りの出どころを探す。
隼一はラウンジに隣接するレストランの一席に目を凝らした。さらりとした栗色の髪に、優しい顔立ちの青年が一人で食事をしている。まるで青いぶどうを思わせる若々しい香り――。こちらからの強い視線に、向こうも隼一の存在に気がついた。青年と視線が絡んだ瞬間隼一は確信した。
――彼の匂いだ。
「先生」と声を掛けられ、隼一は視線を打ち合わせ相手の女性に戻した。
「どうかなさいましたか?」
「笹原さん、この匂いわかる?」
「え? なんの匂いですか?」
「ぶどうを搾ったみたいな――」
笹原は鼻をひくつかせて首をかしげた。なるほどベータの彼女にわからないということはこれはオメガのフェロモン香なのか――。
息を吸い込むと、ここ数ヶ月何も感じ取ることのなかった隼一の鼻孔を清々しい香りが通り抜けて行く。
――なんとしてもこの香りの持ち主を捕まえなければ。
隼一がもう一度彼に視線を送ると再び目が合った。その後青年が立ち上がったと思うとこちらにやってきて隼一に声を掛けた。
「あの」
普段はファンに声を掛けられても相手にしない隼一だが、この香りを無視することはできなかった。
「何か?」
「いきなりすみません。僕、鷲尾さんのファンです。よければここでグルメブログを書いているので読んでみて下さい。鷲尾さんみたいな美食コラムニストになりたいんです」
隼一は彼の差し出した名刺を受け取った。裏面にはURLが走り書きされている。
――早瀬夕希。はやせゆき? それともゆうきか。
隼一は青年が赤面すると同時に香りが少し変化したのを感じ取った。
――爽やかさに甘さが混じった……? 面白い。彼ならばこの退屈な日常を変えてくれるかもしれない。
◇◇◇
夕希は無視される覚悟で声を掛けた。しかし彼の反応は予想外だった。名刺を渡して立ち去ろうとしたら彼は夕希を引き止めて「話しがしたいから待っているように」と言ったのだ。
そんなわけで今一緒に彼の部屋に向かっている。誰にも聞かれたくない話だから部屋に来てくれと言われたが、一体何の話だろう。
夕希は隣の隼一をちらちらと盗み見る。
――さっき名刺を渡したときは緊張しすぎて顔をよく見られなかったけど、鷲尾さんって近くで見たら背が高くてテレビで見るよりもめちゃくちゃイケメンだ……。
ハイブランドのシックなジャケットを嫌味なく着こなし、近寄ると香水なのか信じられないほどいい匂いがする。ゆるいウェーブのかかった黒髪に彫りの深い端正な顔立ち。長いまつ毛に縁取られたブラウンにもグリーンにも見える不思議な色の瞳――と彼の横顔に見惚れていたら隼一が突然こちらを振り向いた。夕希は彼と目が合ってハッとする。
「君は香水をつけているのか?」
「えっ。あ、はい」
夕希はアルファ避けのために自分がオメガだとバレないよう香水を付けていた。それに勘づかれたのかと思いドキッとしたが、隼一は不思議そうな顔をして言う。
「どうぞ?」
気づくとエレベーターは目的のフロアに到着していて、隼一はドアが閉まらぬよう手で押さえながら夕希に降りるよう促しているのだった。
隼一がカードキーでドアを開けて部屋に入り、夕希はその後に続く。中はモノトーンを基調にしたモダンテイストのジュニアスイートルームだった。
――ひっろい……!
部屋の広さに驚いてキョロキョロしている夕希をよそに、隼一はバスルームを指して言う。
「じゃあまずシャワーを浴びてきてくれ」
「はい!?」
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