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63.二度と離さない(1)

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イデオンはマリアーノを捕獲した後、獣化して雪豹の姿で夜通し駆け抜けた。
人間が馬車でグエルブ王国からクレムス王国のヴァレンティ邸のある地域まで移動しようと思うと、峠を越えるために約一週間ほど時間がかかる。
しかし雪豹姿のイデオンならば急峻な崖をすばやく登り降りすることができるため、3日あれば現地に到着できるのだった。

全速力でクレムス王国に駆けつけたイデオンは、国境を越えてすぐにクレムス王国の使者及びデーア大公国の使者と会うことができた。ヨエルが連絡を取ってくれた人間たちで、彼らの言うことには既にデーア大公国グスタフ大公の指示によりヴァレンティ邸の近くに兵が配備されているという。

クレムス王国入りしてから一旦獣人の姿に戻ったイデオンはデーア大公国の使者に尋ねる。

「なぜデーア大公国から兵が出ているのだ?」
「はっ。グスタフ殿下におかれましては、アッサール前グエルブ国王のとむらい合戦であるとのことでなんとしても自ら赴かねば気が済まないと……」
「なに? まさかグスタフ公が自ら兵を率いているのか?」
「左様でございます」

(なんということだ。一国の主がわざわざ父のために……)

「レオナルド陛下からはヴァレンティ邸差し押さえ手続き完了の報告書と、屋敷の図面を預かっております」

クレムス王国側の使者によると、その図面の中の一室にサーシャが現在幽閉されているという。ヴァレンティ男爵はサーシャを花嫁として迎えると聞いていたのに鍵を掛けて閉じ込めているとはなにごとかとイデオンは憤った。

「我々も詳しくはわからないのですが、どうやらサーシャ様は脱走を図られたためやむなく幽閉されたということです」

これは屋敷内の使用人から聞き出した情報らしい。

(あんな華奢な身で脱走などとはサーシャも無茶なことを……!)

更にイデオンはこの屋敷の設計を行った技師と、実際に施工を行った者たちに話を聞いてサーシャの居場所へ辿り着くまでのルートを確認した。イデオンが獣化すれば守りが手薄な崖の斜面側から秘密裏に邸内へ侵入できそうだった。

「それではまず俺がサーシャを救出する。合図を待ってグスタフ公の兵により屋敷を制圧してほしい」
「お任せください、イデオン陛下」





その日の黄昏時を待ち、イデオンは再び獣化した姿でヴァレンティ邸の背後にそびえる崖の上から屋敷を見下ろした。
クレムス王国の南部はイデオンの故郷グエルブ王国よりもかなり気温が高い。真冬でも雪が降ることは稀で、今も崖には草木が生えている。

イデオンは頭に叩き込んだ屋敷の図面を思い浮かべながら崖の傾斜を窺い、降りていくルートを見極める。

(よし、行こう)

一つ深呼吸したイデオンはするすると急な斜面を駆け下りる。灰色がかった白い毛に黒い斑点模様の雪豹の姿は斜面の岩や草木に溶け込んでしまう。遠目には見張りの者にもほとんど背景と区別がつかないだろう。
柔らかく体をしならせて跳躍し、イデオンはとうとう屋敷の屋根に降り立った。





その後も計画通り順調に屋敷の中に潜り込み、雪豹王は音もなく廊下を駆け抜けた。
そしてついに目的の部屋に辿り着く。鍵のかかる部屋なので事前にクレムス王国の使者から合鍵を入手し首から下げていた。しかし雪豹王が頭で扉を押すと鍵はかかっておらず、そのままドアは開いてしまった。
イデオンは拍子抜けし、しかし罠かもしれぬと疑いつつ細心の注意を払って侵入する。
中には人の気配があり、すすり泣くような音が聞こえた。

(サーシャか……?)

窓の無い薄暗い室内でイデオンは目を凝らす。雪豹は夜行性で夜目が効くから、すぐにその姿を見つけることができた。

(いた、サーシャだ!)

サーシャは部屋の奥のベッド脇で床に座り込んでいた。イデオンの渡したマントを羽織り、膝に額を擦り付けるようにして泣いている。

「どうしよう……誰か助けて」

か細い声と共に、ライラックの甘い香りが漂よってきた。

(ああ……サーシャ。お前はあのときのまま変わらない――)

イデオンは孤独にうずくまるサーシャを見て懐かしい匂いに触れ、初めてサーシャに出会ったときのことを思い出した。

(あのときもお前はひとりぼっちで困り果てていた……)

昔も今も、このオメガを助けるのは自分の役目なのだと不思議な因果を感じる。
獣化しているため言葉を話せないイデオンは愛しい妻へと静かに歩み寄った。そして幼い日にそうしたのと同じように、尻尾で優しくサーシャの頭を撫でた。

(俺だ、サーシャ。迎えに来たぞ――)

ミルクティー色の髪の毛の艶やかな感触を確かめていると、サーシャがゆっくり顔を上げてこちらを見た。久しぶりに会う妻の涙にぬれた目と視線が合ったが、今の自分は雪豹の姿だ。もしかするとサーシャは目の前の獣がイデオンであるとわからないかもしれない。
そう思っていたら、妻の口から自然とつぶやきが溢れた。

「あ……あの時のワンちゃん……」

(むぅ……、だから俺はワンちゃんではない……!)

「犬だと思いこんでたけど、雪豹だったんだ――あのワンちゃんは、イデオン様だったんだ!」

(サーシャ、俺だとわかってくれるのか?)

サーシャの瞳に希望の炎が灯るのをイデオンは見た。
イデオンは嬉しくて頷き、喉を鳴らす。

「イデオン様、来てくれたんだね!」

そう言ってサーシャがこちらの首に抱きついてきた。イデオンは嗅ぎ慣れたライラックの香りを間近で吸い込み、心から安堵した。少しやつれているように見えるが、サーシャの表情は明るい。

(良かった……安心しろ、俺が来たからにはもう大丈夫だ)

イデオンは言葉を話せない代わりに、サーシャに頬ずりして顔を舐めた。すると妻は「こちょばしいよ」と言って笑った。サーシャの鈴の音のような笑い声を久々に聞いてイデオンは胸がじんわりと温かくなる。

(早くお前を安全な場所に連れていってやろう。こっちだ)

イデオンはサーシャのマントを咥えて引っ張った。

「あ、逃げるんだね!」

サーシャがイデオンに従って立ち上がる。そして二人で連れ立って部屋の外へと出ようとしたその時――イデオンの左肩に焼けるような痛みが走った。

「そこまでだ、雪豹の王よ」

そう声を掛けてきたのはヴァレンティ男爵だった。そしてサーシャがこちらを見て悲痛な叫び声を上げる。

「イデオン様!」

(やけに順調だとは思ったが、サーシャを見つけてうかつにも油断した……!)

ヴァレンティ男爵の両隣には護衛の男が立っており一人は弓を、もう一人は剣を構えている。
そしてイデオンの左肩には護衛の一人が放った矢が刺さっていた。
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