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57.サーシャ、ヴァレンティ男爵に楯突く
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サーシャは雪国から一転、温暖な気候のクレムス王国南部へ帰ってきた。真冬でも日中は日差しが強くて上着がいらない気温で、凍える寒さだったグエルブ王国とは全然ちがう。向こうを出るときに着せられた外套やブーツを身につけていると暑いくらいだった。
サーシャの実家から馬車で小一時間ほどの距離にヴァレンティ男爵の屋敷は建っている。海に面した断崖絶壁に佇む白亜の建物をサーシャは見上げた。
(あーあ、なしてこんなところへ僕が来ないといけないんだべか。寒いところの方が性に合ってるんだけども)
屋内に入ると床はタイル敷きでつやつやしている。
使用人に案内されてサーシャはバルトロメオ・ヴァレンティ男爵の書斎を訪れた。
「サーシャ! 良く来たね。無事元気な姿を見られて安心したよ」
サーシャの顔を見るなり、デスク前に座っていた細身の男は立ち上がってこちらへやってきた。
記憶は曖昧だったけれど、改めて見てみるとやはり爬虫類っぽくて嫌な感じのする男だ――。最初に結婚の話を持ちかけられたとき聞いた話によると彼は38歳。冷たそうな三白眼がマリアーノと似ていたが、その目をデレッと垂れ下がらせてこちらに微笑みかけている。彼は馴れ馴れしくサーシャの肩を抱いて握手してきた。
(うーん、手がちょっとじめっとして気持ち悪い……)
「獣人の国は恐ろしかっただろう? 君は動物嫌いだというのに無理矢理あんな国へ行かされて、気の毒で仕方がなかったんだ。マリアーノが変わってくれるからもう心配いらないよ。もちろん君のお母さんの借金のことも私が全て取り計らっておいたからね」
(――マリアーノが変わってくれるから心配いらない?)
「……別に、獣人はおっかなくなんてなかったです。それに僕はここに連れてきてなんて頼んでないべさ。借金のことも、自分でなんとかできたのに――」
「おやおや。花嫁はちょっとご機嫌ななめかな? ははは、長旅で疲れているんだろう」
サーシャの冷たい言葉を聞いてもヴァレンティ男爵は相好を崩したまま嬉しそうにしている。
「それともお腹が空いているかな? サーシャの好きなレモンケーキを用意させよう」
「なにそれ――僕そんなの好きじゃないです」
「どうしたんだい、サーシャは私を困らせたいのかな? 可愛い君のわがままならなんでも歓迎だがね」
(なんだよこのおじさん。何言ってもデレデレして気持ち悪いなぁ)
「サーシャ、私はとにかく君の美しい姿をまたこうして見ることができて嬉しいよ。君も故郷が懐かしいだろう?」
「僕はサーシャじゃないです。僕の故郷はこんなぬくいところじゃない。もっと寒いところだよ」
「ふむ――どういうことだね?」
さすがのヴァレンティ男爵もサーシャの言葉に違和感を覚えたのか首を傾げて聞き返す。
「僕はミノルっていうんだ。サーシャじゃない。だからあんたとは結婚しない!」
「ミノル……? そうかそうかわかったぞ、疲れているんだな。セバスティアーノ! サーシャを部屋へ案内して着替えをさせてあげなさい」
ヴァレンティ男爵は壁際に控えていた侍従に声を掛けた。
「あ、したから僕はサーシャじゃ――」
「それではまたディナーで会おう私の可愛いサーシャ」
ヴァレンティ男爵はねっとりと微笑んだ。
◇
サーシャの案内された部屋は目のさめるような白壁に白い天蓋付きのベッド、床は青い模様が美しい陶器のタイル敷きだ。開け放たれた窓からは美しい海が見えていた。
「サーシャ様、こちらにお召し替えください」
セバスティアーノと呼ばれた年配の侍従が華やかなフリルのブラウスや派手な刺繍入りベストを用意していた。しかしサーシャはそれを断った。
「僕はこのままでいい」
「ですが、ディナーの席にそのお召し物では……」
サーシャはグエルブ王国で着せられた外出着の上にイデオンからもらったウールのマントを羽織っていた。ディナーの席にふさわしい姿とは言えない。
「ディナーはいらない。お腹空いてないし」
「……それは困りましたね。旦那様にぜひこちらを着て出席して頂くようにと申し付けられておりまして」
侍従はしつこく言い募り「せめてそのマントだけでも洗濯させていただきます」と言って脱がせようとしてきた。サーシャはマントを取られないように引っ張ってぴしゃりと言い返す。
「触らないで! じゃあその旦那様に言ってやってよ。僕はこのマント脱ぐ気はないから。あと、僕はサーシャじゃなくてミ・ノ・ル!」
しばらく押し問答した末、セバスティアーノはサーシャの強情さに負けて部屋を出ていった。
「はぁ……。こうやって記憶がおかしくなったフリしてたら、あの人僕との結婚あきらめてくんないべか?」
サーシャはバルコニーに出て海を眺め、ため息をついた。
「……何か変だと思ったけど、さっきのヴァレンティ男爵の口ぶりだと最初から僕と花嫁交代させるためにマリアーノをグエルブ王国に送り込んだってこと?」
バルコニーの手摺に顎をのせる。日が落ちかけて少し冷たくなった風が頬を撫でていく。
「したけどまさかイデオン様がマリアーノのうなじを噛んじゃうだなんて……。僕があんなに頑張っても噛んでくんなかったのにさぁ。やっぱり慣れてるオメガは有利ってわけ? ひどいよね、僕は前世でも恋人いなかったし慣れてないのは仕方ないべさ」
(マリアーノのことなんて無理矢理つっぱねて僕のことを選んでくれたらよかったのにさ……)
マリアーノはサーシャと似たような見た目をしていた。もしかするとこの髪型や体型がイデオンの好みだっただけなのだろうか。
もはやサーシャの中で借金のことなどどうでもよくなっていた。
とにかく、イデオンが自分ではなくマリアーノを選んだことが胸に引っかかって離れない。
イデオンの香りがするマントに顔を埋める。
「あのまんまお別れなんて寂しいよ……。迎えに来てくんないと僕、本当にヴァレンティ男爵のものになっちゃうよ?」
サーシャの実家から馬車で小一時間ほどの距離にヴァレンティ男爵の屋敷は建っている。海に面した断崖絶壁に佇む白亜の建物をサーシャは見上げた。
(あーあ、なしてこんなところへ僕が来ないといけないんだべか。寒いところの方が性に合ってるんだけども)
屋内に入ると床はタイル敷きでつやつやしている。
使用人に案内されてサーシャはバルトロメオ・ヴァレンティ男爵の書斎を訪れた。
「サーシャ! 良く来たね。無事元気な姿を見られて安心したよ」
サーシャの顔を見るなり、デスク前に座っていた細身の男は立ち上がってこちらへやってきた。
記憶は曖昧だったけれど、改めて見てみるとやはり爬虫類っぽくて嫌な感じのする男だ――。最初に結婚の話を持ちかけられたとき聞いた話によると彼は38歳。冷たそうな三白眼がマリアーノと似ていたが、その目をデレッと垂れ下がらせてこちらに微笑みかけている。彼は馴れ馴れしくサーシャの肩を抱いて握手してきた。
(うーん、手がちょっとじめっとして気持ち悪い……)
「獣人の国は恐ろしかっただろう? 君は動物嫌いだというのに無理矢理あんな国へ行かされて、気の毒で仕方がなかったんだ。マリアーノが変わってくれるからもう心配いらないよ。もちろん君のお母さんの借金のことも私が全て取り計らっておいたからね」
(――マリアーノが変わってくれるから心配いらない?)
「……別に、獣人はおっかなくなんてなかったです。それに僕はここに連れてきてなんて頼んでないべさ。借金のことも、自分でなんとかできたのに――」
「おやおや。花嫁はちょっとご機嫌ななめかな? ははは、長旅で疲れているんだろう」
サーシャの冷たい言葉を聞いてもヴァレンティ男爵は相好を崩したまま嬉しそうにしている。
「それともお腹が空いているかな? サーシャの好きなレモンケーキを用意させよう」
「なにそれ――僕そんなの好きじゃないです」
「どうしたんだい、サーシャは私を困らせたいのかな? 可愛い君のわがままならなんでも歓迎だがね」
(なんだよこのおじさん。何言ってもデレデレして気持ち悪いなぁ)
「サーシャ、私はとにかく君の美しい姿をまたこうして見ることができて嬉しいよ。君も故郷が懐かしいだろう?」
「僕はサーシャじゃないです。僕の故郷はこんなぬくいところじゃない。もっと寒いところだよ」
「ふむ――どういうことだね?」
さすがのヴァレンティ男爵もサーシャの言葉に違和感を覚えたのか首を傾げて聞き返す。
「僕はミノルっていうんだ。サーシャじゃない。だからあんたとは結婚しない!」
「ミノル……? そうかそうかわかったぞ、疲れているんだな。セバスティアーノ! サーシャを部屋へ案内して着替えをさせてあげなさい」
ヴァレンティ男爵は壁際に控えていた侍従に声を掛けた。
「あ、したから僕はサーシャじゃ――」
「それではまたディナーで会おう私の可愛いサーシャ」
ヴァレンティ男爵はねっとりと微笑んだ。
◇
サーシャの案内された部屋は目のさめるような白壁に白い天蓋付きのベッド、床は青い模様が美しい陶器のタイル敷きだ。開け放たれた窓からは美しい海が見えていた。
「サーシャ様、こちらにお召し替えください」
セバスティアーノと呼ばれた年配の侍従が華やかなフリルのブラウスや派手な刺繍入りベストを用意していた。しかしサーシャはそれを断った。
「僕はこのままでいい」
「ですが、ディナーの席にそのお召し物では……」
サーシャはグエルブ王国で着せられた外出着の上にイデオンからもらったウールのマントを羽織っていた。ディナーの席にふさわしい姿とは言えない。
「ディナーはいらない。お腹空いてないし」
「……それは困りましたね。旦那様にぜひこちらを着て出席して頂くようにと申し付けられておりまして」
侍従はしつこく言い募り「せめてそのマントだけでも洗濯させていただきます」と言って脱がせようとしてきた。サーシャはマントを取られないように引っ張ってぴしゃりと言い返す。
「触らないで! じゃあその旦那様に言ってやってよ。僕はこのマント脱ぐ気はないから。あと、僕はサーシャじゃなくてミ・ノ・ル!」
しばらく押し問答した末、セバスティアーノはサーシャの強情さに負けて部屋を出ていった。
「はぁ……。こうやって記憶がおかしくなったフリしてたら、あの人僕との結婚あきらめてくんないべか?」
サーシャはバルコニーに出て海を眺め、ため息をついた。
「……何か変だと思ったけど、さっきのヴァレンティ男爵の口ぶりだと最初から僕と花嫁交代させるためにマリアーノをグエルブ王国に送り込んだってこと?」
バルコニーの手摺に顎をのせる。日が落ちかけて少し冷たくなった風が頬を撫でていく。
「したけどまさかイデオン様がマリアーノのうなじを噛んじゃうだなんて……。僕があんなに頑張っても噛んでくんなかったのにさぁ。やっぱり慣れてるオメガは有利ってわけ? ひどいよね、僕は前世でも恋人いなかったし慣れてないのは仕方ないべさ」
(マリアーノのことなんて無理矢理つっぱねて僕のことを選んでくれたらよかったのにさ……)
マリアーノはサーシャと似たような見た目をしていた。もしかするとこの髪型や体型がイデオンの好みだっただけなのだろうか。
もはやサーシャの中で借金のことなどどうでもよくなっていた。
とにかく、イデオンが自分ではなくマリアーノを選んだことが胸に引っかかって離れない。
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