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3.火災と前世の記憶
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グエルブ王国はサーシャのいるクレムス王国の北端と隣接する獣人の国だ。
人口の8割が獣人で、残り2割の人間は元々あの地に住んでいる原住民族。
サーシャが知る限り、貴族の人間が他国からグエルブに嫁いだという話は聞いたことがなかった。
(そもそも、僕はうちにいる猟犬たちですら怖いっていうのに……。グエルブ国王はたしか雪豹ではなかったか?)
幼い頃小型の犬にお尻を噛まれたことがあり、それ以来サーシャは動物全般が怖くなってしまった。なのに豹なんてとんでもない――。
「父上、どちらの嫁ぎ先もあんまりではありませんか」
「仕方ないんだ。お前が嫁に行ってくれたら借金を肩代わりしてもらえる。このままでは領民たちが暴動を起こしかねない状況だ。せめて借金だけでも返さねばこの屋敷を維持することすら危うい」
「そんな……」
「それに北の国の縁談に関してはわがクレムス国王からの打診でもあるのだ」
「国王から?」
「グエルブ王国とは今現在まだ同盟を結べていない。それで、こちら側のことを信用してもらうために我が国の王家の血を引く者から花嫁を選び送り出す必要があるんだ」
昨年獣人国グエルブとわがクレムス王国の代表者会談の直前に獣人側の国王夫妻が暗殺される事件があった。
グエルブ王太子(現国王)は人間側による犯行だと主張して交渉が決裂。
(それで新しいグエルブ国王に嫁ぐオメガが必要ってことか……)
「一晩あげるから、よく考えてみなさい」
「――はい」
「話は以上だ。私は人と会う用事があるからね。サーシャ、明日の夜に答えを聞くよ」
「わかりました、父上」
◇
自室へ向かって廊下を歩きながらサーシャは頭を悩ませていた。
(ヴァレンティ男爵に嫁ぐのなんて絶対に嫌だ。しかし、獣人の国へ嫁ぐのも想像の域を超えている)
しかし現在王室の中に獣人と結婚し子を生むことができる年齢のオメガは一人もいない。
そこで親戚筋のオメガであるサーシャと、お隣のデーア大公国の公女ディアナにこの縁談が持ちかけられているそうだ。
(結婚と言ってもこれは要するに人質になりに行くようなもの――)
ディアナはまだオメガだとわかったばかりの18歳。
自分が獣を恐れて逃げれば彼女が雪豹王の元へ嫁がねばならなくなる。彼女とは年も近く、幼い頃からお互いの国を行き来する仲だった。そしてなんといってもディアナは最近恋人ができたと手紙で報告してくれていた。
(可愛いディアナに恋を諦めさせて獣人に嫁がせるだなんて酷な話だ。この僕が……北の国へ?)
そんなこと今まで考えもしなかった。現在住んでいる地域は年中花が咲いているくらい温かい。サーシャは寒がりで、この地域の冬ですら震えて過ごすほどだ。
サーシャが寒い地域のことを頭に思い描いていると、廊下の向こうからバタバタと数名の使用人が駆けてくる。
「サーシャお坊ちゃま! お逃げください。あちらで火の手が上がっております!」
「え……?」
「火事です、お坊ちゃま!」
慌てた様子の年老いた使用人に急かされて外へ逃げ出す。
すると、厩舎の方で火が燃え盛っているのが見えた。
サーシャたちは念の為丘を少し登ったところまでやってきた。これだけ離れた場所に逃げれば危険はない。それはわかっているのに、サーシャはなぜだか全身が震えて恐怖で固まってしまった。
遠くに聞こえるパチパチと爆ぜる藁の音。煙の匂いがサーシャの肺をぎりぎりと締め付ける。
「はぁ……っはぁ……っ、く、苦しい……」
「え? 坊ちゃま、どうなさいました?」
使用人が体を支えてくれる。
「息が――できな……」
目の前が真っ赤に染まり、サーシャは全身が猛烈な熱に包まれたように感じた。
(燃える火、煙……牛の騒ぐ声と羊たちの絶叫。小屋が燃えて――僕は羊のヨウちゃんを抱きしめて……天井が……)
「坊ちゃま? 坊ちゃま、お気を確かに!」
そこでサーシャの意識は途切れた。
◇
ベッドの上で目を覚ましたサーシャは、見慣た部屋のはずなのにここが自分の部屋ではないような不思議な感覚を味わっていた。
(――ここは……僕の部屋、だよね? えーとたしか名前はサーシャ……だよな?)
自分の名前は一応わかるし、ここが自分の生家なのもうっすらと覚えている。だけどサーシャはさっきの火事騒ぎでとある記憶を思い出してしまった。
「僕、ここに生まれる前はニホンっちゅう国の中のホッカイドウってとこに住んでた。牧場主の息子で――羊小屋が火事になって死んだんだ……!」
頭が痛い。サーシャの身体の中にいきなりもう一人の自分――たしか名前はミノル――が割り込んだみたいな感覚だ。
前世の実家では牧場経営をしていて、牛と羊を飼っていた。それである日羊小屋が火事になって、どうしてもヨウちゃんという雄羊を助けたくて炎の中に飛び込んで――。
「ヨウちゃん……僕と一緒に死んじゃった……」
ヨウちゃんを抱えて逃げようとしたとき天井の梁材が崩れてきた。
ヨウちゃんは出産にも立ち会ったからすごく思い入れの深い羊だった。まさか自分だけこんな別世界に生まれ変わって前世の記憶を思い出すなんて。
そろそろとベッドから起き上がり鏡の前に立った。
頭は痛いけど、身体に怪我を負ったわけでも火傷したわけでもない。
鏡の中にいるのはニホン人だったときとは全く違う姿。
髪の毛は艶のあるミルクティー色で、顎の辺りまでのショートボブヘア。もともと色白な方だったけど、彫りの深い顔立ちで、透き通るような白い肌だ。目の色は鳶色。全体的に整っていて自分の姿ながら非の打ち所がない美少年だ。
(――田舎もんの僕がなしてこったらキラキラな見た目に……? こういう柄じゃないんだけども……)
「まあ……考えてもしょーがないさ。なんとかこっちの世界でうまいこと生きてくしかないっしょ!」
とりあえず外は暗くて夜のようなので、サーシャは寝てからまた明日考えようと思った。するとそのときコンコンコン、とノックの音がした。
「サーシャ坊ちゃま。お休みのところ申し上げにくいのですが……旦那様がお呼びでございます」
人口の8割が獣人で、残り2割の人間は元々あの地に住んでいる原住民族。
サーシャが知る限り、貴族の人間が他国からグエルブに嫁いだという話は聞いたことがなかった。
(そもそも、僕はうちにいる猟犬たちですら怖いっていうのに……。グエルブ国王はたしか雪豹ではなかったか?)
幼い頃小型の犬にお尻を噛まれたことがあり、それ以来サーシャは動物全般が怖くなってしまった。なのに豹なんてとんでもない――。
「父上、どちらの嫁ぎ先もあんまりではありませんか」
「仕方ないんだ。お前が嫁に行ってくれたら借金を肩代わりしてもらえる。このままでは領民たちが暴動を起こしかねない状況だ。せめて借金だけでも返さねばこの屋敷を維持することすら危うい」
「そんな……」
「それに北の国の縁談に関してはわがクレムス国王からの打診でもあるのだ」
「国王から?」
「グエルブ王国とは今現在まだ同盟を結べていない。それで、こちら側のことを信用してもらうために我が国の王家の血を引く者から花嫁を選び送り出す必要があるんだ」
昨年獣人国グエルブとわがクレムス王国の代表者会談の直前に獣人側の国王夫妻が暗殺される事件があった。
グエルブ王太子(現国王)は人間側による犯行だと主張して交渉が決裂。
(それで新しいグエルブ国王に嫁ぐオメガが必要ってことか……)
「一晩あげるから、よく考えてみなさい」
「――はい」
「話は以上だ。私は人と会う用事があるからね。サーシャ、明日の夜に答えを聞くよ」
「わかりました、父上」
◇
自室へ向かって廊下を歩きながらサーシャは頭を悩ませていた。
(ヴァレンティ男爵に嫁ぐのなんて絶対に嫌だ。しかし、獣人の国へ嫁ぐのも想像の域を超えている)
しかし現在王室の中に獣人と結婚し子を生むことができる年齢のオメガは一人もいない。
そこで親戚筋のオメガであるサーシャと、お隣のデーア大公国の公女ディアナにこの縁談が持ちかけられているそうだ。
(結婚と言ってもこれは要するに人質になりに行くようなもの――)
ディアナはまだオメガだとわかったばかりの18歳。
自分が獣を恐れて逃げれば彼女が雪豹王の元へ嫁がねばならなくなる。彼女とは年も近く、幼い頃からお互いの国を行き来する仲だった。そしてなんといってもディアナは最近恋人ができたと手紙で報告してくれていた。
(可愛いディアナに恋を諦めさせて獣人に嫁がせるだなんて酷な話だ。この僕が……北の国へ?)
そんなこと今まで考えもしなかった。現在住んでいる地域は年中花が咲いているくらい温かい。サーシャは寒がりで、この地域の冬ですら震えて過ごすほどだ。
サーシャが寒い地域のことを頭に思い描いていると、廊下の向こうからバタバタと数名の使用人が駆けてくる。
「サーシャお坊ちゃま! お逃げください。あちらで火の手が上がっております!」
「え……?」
「火事です、お坊ちゃま!」
慌てた様子の年老いた使用人に急かされて外へ逃げ出す。
すると、厩舎の方で火が燃え盛っているのが見えた。
サーシャたちは念の為丘を少し登ったところまでやってきた。これだけ離れた場所に逃げれば危険はない。それはわかっているのに、サーシャはなぜだか全身が震えて恐怖で固まってしまった。
遠くに聞こえるパチパチと爆ぜる藁の音。煙の匂いがサーシャの肺をぎりぎりと締め付ける。
「はぁ……っはぁ……っ、く、苦しい……」
「え? 坊ちゃま、どうなさいました?」
使用人が体を支えてくれる。
「息が――できな……」
目の前が真っ赤に染まり、サーシャは全身が猛烈な熱に包まれたように感じた。
(燃える火、煙……牛の騒ぐ声と羊たちの絶叫。小屋が燃えて――僕は羊のヨウちゃんを抱きしめて……天井が……)
「坊ちゃま? 坊ちゃま、お気を確かに!」
そこでサーシャの意識は途切れた。
◇
ベッドの上で目を覚ましたサーシャは、見慣た部屋のはずなのにここが自分の部屋ではないような不思議な感覚を味わっていた。
(――ここは……僕の部屋、だよね? えーとたしか名前はサーシャ……だよな?)
自分の名前は一応わかるし、ここが自分の生家なのもうっすらと覚えている。だけどサーシャはさっきの火事騒ぎでとある記憶を思い出してしまった。
「僕、ここに生まれる前はニホンっちゅう国の中のホッカイドウってとこに住んでた。牧場主の息子で――羊小屋が火事になって死んだんだ……!」
頭が痛い。サーシャの身体の中にいきなりもう一人の自分――たしか名前はミノル――が割り込んだみたいな感覚だ。
前世の実家では牧場経営をしていて、牛と羊を飼っていた。それである日羊小屋が火事になって、どうしてもヨウちゃんという雄羊を助けたくて炎の中に飛び込んで――。
「ヨウちゃん……僕と一緒に死んじゃった……」
ヨウちゃんを抱えて逃げようとしたとき天井の梁材が崩れてきた。
ヨウちゃんは出産にも立ち会ったからすごく思い入れの深い羊だった。まさか自分だけこんな別世界に生まれ変わって前世の記憶を思い出すなんて。
そろそろとベッドから起き上がり鏡の前に立った。
頭は痛いけど、身体に怪我を負ったわけでも火傷したわけでもない。
鏡の中にいるのはニホン人だったときとは全く違う姿。
髪の毛は艶のあるミルクティー色で、顎の辺りまでのショートボブヘア。もともと色白な方だったけど、彫りの深い顔立ちで、透き通るような白い肌だ。目の色は鳶色。全体的に整っていて自分の姿ながら非の打ち所がない美少年だ。
(――田舎もんの僕がなしてこったらキラキラな見た目に……? こういう柄じゃないんだけども……)
「まあ……考えてもしょーがないさ。なんとかこっちの世界でうまいこと生きてくしかないっしょ!」
とりあえず外は暗くて夜のようなので、サーシャは寝てからまた明日考えようと思った。するとそのときコンコンコン、とノックの音がした。
「サーシャ坊ちゃま。お休みのところ申し上げにくいのですが……旦那様がお呼びでございます」
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