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17 オリジン-13-

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 夜の蒸し暑さは彼らの信心深さによるものだ。

 信者は熱心に呪文を唱え、崇拝するクジラ様に全てを捧げると誓う。

 その様子に大教祖は満足げに頷いた。

 いよいよ時が来たのだ。

 海の向こう。

 ぼやけた暗闇の奥に。

「クジラ様がお見えになったぞ!」

 最高幹部が叫んだ。

 唸り声をあげながら、濃度の異なる黒色の輪郭が覗いた。

 夢に見たとおりだ、と老女は思った。

 自分の能力はまだ衰えていないと安堵する。

 これだけの騒ぎになって、クジラが姿さえ見せないとなれば沽券に関わる。

 ひとまず大教祖としての地位は保てたようだ。

 残る問題は光の正体。

「おお、クジラ様!」

「どうかお恵みを! 光を!」

 信者たちは快哉を叫んだ。

 富、名声、出世、成功、愛する者との婚姻、長寿。

 人間が求めるものに際限はない。

 敬虔な信者はクジラへの畏敬から望みを口にすることはないが、入信して日の浅い者は欲しいものを述べた。

 神は存在するだけでいいのか、それとも何かをもたらしてはじめて存在する意義を持つのか。

 それを教義として定め、人々を導くべき大教祖だったが、この時ばかりは考えてはいなかった。

 聞こえたからだ。

 荒々しく、不気味で、神々しいたけりが。

 風となって彼らの皮膚を、耳朶を打つ。

「クジラ様のお声だ……」

 幹部は涙を流し、その場にひざまずいた。

 他の信者たちもそれに倣う。

 大教祖だけは呆けたように立ちすくんでいた。

 漆黒の空に赤い光が灯った。

 ちょうどクジラの口にあたる位置だ。

「見よ! 教祖様のおっしゃったとおりだ!」

「光だ! 光だ! ああ、クジラ様! 我らに道をお示しください!」

「お導きを――」

 祈り、すがり、拝む信者たちの声を聞きながら。

 大教祖は空に浮かぶ光をただ見つめていた。

 この光景は夢で何度も見ている。

 いつも、いつも、同じ場所、同じ時間、同じ光を。

 そしていつも夢はここで終わる。

 だが今日はそうではない。

 この続きが見られるのだ。

 その瞬間を大教祖は待った。

 赤い光は輪郭を絵の具で塗り重ねるように大きくなっていく。

「ついに――」

 彼女が呟いた時だった。



 家を飛び出したダージは、妻と一緒にそれを眺めていた。

 辺りがにわかに騒がしくなり、様子を見ようと外に出たのだった。

 近隣の住人たちがそろって空に浮かぶ光を指差していた。

 巨大な花火だの、幽霊だの、たんなる科学現象だのと囁き合っている。

「何かが燃えているのかしら?」

 妻の呟きに彼はかぶりを振った。

「燃えてたら落ちるだろ。それにあそこは海の上なんだ。誰かが言ってるように科学現象だろう」

 その方面の知識がないから適当に答えるしかない。

 彼が考えているのは全く別のことだ。

(今夜、クジラはこの近くには来ないハズだぞ……)

 うっすらと浮かびあがる輪郭は、もちろん彼らのいる場所からも見えている。

 あれほどの巨体を見間違うハズもない。

(もしかしてクジラの口が光っているのか?)

 その疑問に応えるように赤い光は膨れ上がった。



 ドラッグの密売人を捕まえ、待機所で一息ついていたネメアは仲間に呼び出された。

 突然、海上で異変が起こったため一帯は騒然となっている。

 怪我人や、混乱に乗じて悪事を働く者が出るかもしれないので至急、警戒に当たってほしいとのことだった。

 この程度の忙しさは想定内だ。

 人が多ければ問題も生じやすい。

 それゆえに教団も報酬をはずんでくれるから文句はない。

「クジラ様が現れたらしい」

 彼女を呼びに来た仲間はそう言った。

「別に珍しいことじゃないわね。それでどうしてこんな騒ぎになるのかしら」

 それなりに賑わっていた通りは人の数が一気に増え、互いに肩が擦れ合うくらいに混雑していた。

 流れは完全に止まっており、皆一様に空を見上げている。

「ほら、あれだ」

 仲間が指差した先を見て、ネメアは首をかしげた。

(赤色の光……? 方舟かしら?)

 カイロウの依頼を立て続けに受けたせいか、彼女の中でクジラといえば方舟という図式が成り立っていた。

 だから海上に浮かぶそれも、そういう色をした方舟もあるのかもしれないとしか思わなかった。

 子どもや物資を運ぶ以外の役目で飛ぶこともあるだろう、と。

 実際、光はこちらに近づいてきているのだ。



 両手を縛られたデモスは、役人に連れられながらそれを見ていた。

 怪しい取引をしている男をかくまい、その逃亡を幇助ほうじょした罪で厳しい取り調べを受ける予定となっていた。

 テラが忠告にやって来た時点で覚悟はできている。

 退くワケにはいかない。

 クジラに挑む強い意志がカイロウにあるのならば、手を貸してもいいと本気で思っていたからだ。

 それがかつて反体制を掲げて戦ったデモスの、守るべき節義である。

(今宵はずいぶんと明るいな……)

 彼は苦笑した。

 自分はこれから暗く、冷たい牢獄に閉じ込められるというのに、暗いハズの夜が明るいとはどういうことなのか。

 もしかしたら永遠に日の光を見ることができなくなるかもしれないのに?

(いや、ちがう、な。儂は牢屋の中で死ぬことはないだろう)

 獄死は罪人にとっては名誉である。

 それ以上は公権力の及ばない地位を手に入れた、と言いかえることができるからだ。

 つまり自由を奪う鉄格子が、同時に自分を守る鉄壁の役目も果たしてくれる。

(一切の言い分を聞き届けられることなく処刑されるにちがいない)

 それもかまわない、と彼は思った。

 もう充分に生き、やり残したこともない。

 カイロウとその助手の安否が気がかりだが、彼らなら上手くやるだろう。

(最期に光を拝んでおくとしよう――)

 彼がゆっくりと顔を上げた時、光はもうそこまで迫っていた。



 脹れあがった赤い光は港にぶつかった。

 凄まじい衝撃が港湾の施設を一瞬にして塵に変え、係留していた船は紙切れのように飛ばされた。

 それにやや遅れて耳をつんざく音が広がった。

 光と熱は勢いを落とすことなく陸地を舐めるように滑る。

 その針路上にあったものは空気でさえ跡形もなく消し飛んだ。

 屋台は光に焼かれ、熱に熔かされた。

 ドラッグの取引をしていた男は飛んできた支柱に腹を貫かれた。

 グッズを売っていた店主は押し寄せてきた熱波に呑まれた。

 人々の営みを半円状にえぐり取りながら、光はひたすらに陸地の奥へ奥へと突き進む。

 大教祖はようやく理解した。

 なぜ予知夢が、いつもここで終わるのか。

 なぜこの続きが見られないのか。

 彼女は知った。

 だがその理解はもう何の意味も成さなかった。

 眼前に迫るそれを直視した彼女は一瞬で視力を失った。

 その0.1秒後には体を焼かれ、光が彼女の体を通り過ぎる前に意識ごと蒸発した。

 神殿も、支局も、民家も、工場も。

 あらゆるものが地上から消え去った。

 なおも侵攻を止めない熱源は、とっくに通り過ぎた地面が冷え固まることさえ許さなかった。

 それどころか自身が溶かした一切を併せ呑むように、ますますその輝きを強くしていく。

 光は山に大きな穴を空けた。

 吹き上げられた大量の海水が降り注ぎ、押し寄せ、地上はほとんど見えなくなった。
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