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16 楽園-6-
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2人はさらに川を遡ることにした。
これは最初の入り口からほぼ真っ直ぐに奥を目指す進路であり、クジラの中心部に向かっていることになる。
途中、あちこちに似たような小屋があった。
その周辺には人がいて、カイロウたちを見るや慌てて逃げ出す者もいれば、恐る恐る近づいてくる者もあった。
何人かは物珍しいそうに2人を見つめ、中にはコミュニケーションを図ろうとする者もいた。
だがやはり先ほどの女と同様、会話は成り立たず彼らはたどたどしいジェスチャーで切り抜けた。
「見事に誰も服を着ていないな」
「やはりそういう世界なんですよ。常識とか観念とか、そういうものが私たちとは根本的にちがうんです」
「それにしても言葉くらい何とかならないものかな。異国人というより、動物に話しかけている気分だ」
「言語もないんじゃないですか? というよりここでは必要ないのかも――」
「ないと不便だろう」
「それは私たちだからですよ。言葉はあれば良いというものでもないんです。人を傷つけたり、騙したりするのにも使えますから――」
「リエ君……?」
「言葉なんて無いほうがいいんですよ――」
彼女は力なく笑った。
陰鬱な表情は地上では暗い影を落とすだけだが、ここでは憂いを帯びた美しい女性の顔になる。
「私、ひとつ隠していました。本当は妹なんていないんです」
小さな丘を越えた時、彼女は言った。
なぜ今、そんなことを言うのか。
カイロウは訝しんだ。
「私、血の繋がりがないんですよ、誰とも。子どもに恵まれない夫婦に引き取られたんです。でもその後すぐに子どもが生まれて――」
両親は実娘だけを可愛がった、と彼女は言う。
「でも、その子がクジラに選ばれて、残ったのは他人の私だけ。居場所なんてあってないようなものでした」
なぜそれを打ち明けるのか、彼には理解できない。
同行を許してもらうための説得は済ませたハズだ。
今さら新しい事実が出てきても状況は何も変わらない。
「ドクター、ここは楽園だと思いますか?」
不意に問われ、戸惑う。
分からないと返すつもりだったが、
「そうかもしれない」
おそらく彼女が求める答えはこうだろうと予想して返す。
「私は――すみません、質問しておいて……分からないんです……」
「どうしてだい?」
「もし楽園なら、どうしてあの子は選ばれたのか、って考えてしまうんです。親の愛情を受けるだけ受けて、何の苦痛も味わっていないのに。
なのに私はといえば生みの親の顔も知らず、引き取られた先で邪魔者扱いですよ? あまりにも不公平じゃないですか」
そう思うとここが楽園であると認めたくはない、とリエは言った。
カイロウは言葉を持たない。
何を言っても、どう慰めても、彼女の心を癒すことなどできはしないだろう。
「いっそここが、子どものころ本で読んだ地獄みたいな場所だったら良かったのに――」
この時の。
助手が見せた一瞬の邪悪な表情を、彼は忘れないだろう。
おそらく鬱積した両親や妹への怨嗟が顔に出たものであろうが、ある種の執念のようなものを感じさせた。
(リエ君は妹と会うかもしれないということを考えているのだろうか……?)
これは感情を逆撫でする質問だからするワケにはいかない。
しかしこうして歩き回っていれば、いつかは彼女の妹に会うハズだ。
もちろん生き別れたのは物心つく前だから、仮に対面したとしても互いに認識はできないだろう。
もしかしたら、もう既にどこかですれ違っているかもしれない。
あるいは最初に声をかけたあの女がそうかもしれない。
もしリエが妹の存在を認識したら――。
彼女はどうするのだろうか。
それを考えるとカイロウは少しだけ恐くなった。
「さあ、行きましょう。こんな居心地の良い場所、長居していたら動けなくなります」
武器を持っているのはあなただから、とリエは先導を促した。
彼は曖昧に頷くと、川を上流に向かって歩き出した。
ここにはクジラに誘拐されたらしい人たちがいる。
文化はずいぶんと異なるようだが、リエの言うように怪我も病気もなく生きていられるらしい。
となれば娘もきっとどこかにいるハズだ。
希望が生まれたことで彼の足取りはいくらか軽くなっていた。
これは最初の入り口からほぼ真っ直ぐに奥を目指す進路であり、クジラの中心部に向かっていることになる。
途中、あちこちに似たような小屋があった。
その周辺には人がいて、カイロウたちを見るや慌てて逃げ出す者もいれば、恐る恐る近づいてくる者もあった。
何人かは物珍しいそうに2人を見つめ、中にはコミュニケーションを図ろうとする者もいた。
だがやはり先ほどの女と同様、会話は成り立たず彼らはたどたどしいジェスチャーで切り抜けた。
「見事に誰も服を着ていないな」
「やはりそういう世界なんですよ。常識とか観念とか、そういうものが私たちとは根本的にちがうんです」
「それにしても言葉くらい何とかならないものかな。異国人というより、動物に話しかけている気分だ」
「言語もないんじゃないですか? というよりここでは必要ないのかも――」
「ないと不便だろう」
「それは私たちだからですよ。言葉はあれば良いというものでもないんです。人を傷つけたり、騙したりするのにも使えますから――」
「リエ君……?」
「言葉なんて無いほうがいいんですよ――」
彼女は力なく笑った。
陰鬱な表情は地上では暗い影を落とすだけだが、ここでは憂いを帯びた美しい女性の顔になる。
「私、ひとつ隠していました。本当は妹なんていないんです」
小さな丘を越えた時、彼女は言った。
なぜ今、そんなことを言うのか。
カイロウは訝しんだ。
「私、血の繋がりがないんですよ、誰とも。子どもに恵まれない夫婦に引き取られたんです。でもその後すぐに子どもが生まれて――」
両親は実娘だけを可愛がった、と彼女は言う。
「でも、その子がクジラに選ばれて、残ったのは他人の私だけ。居場所なんてあってないようなものでした」
なぜそれを打ち明けるのか、彼には理解できない。
同行を許してもらうための説得は済ませたハズだ。
今さら新しい事実が出てきても状況は何も変わらない。
「ドクター、ここは楽園だと思いますか?」
不意に問われ、戸惑う。
分からないと返すつもりだったが、
「そうかもしれない」
おそらく彼女が求める答えはこうだろうと予想して返す。
「私は――すみません、質問しておいて……分からないんです……」
「どうしてだい?」
「もし楽園なら、どうしてあの子は選ばれたのか、って考えてしまうんです。親の愛情を受けるだけ受けて、何の苦痛も味わっていないのに。
なのに私はといえば生みの親の顔も知らず、引き取られた先で邪魔者扱いですよ? あまりにも不公平じゃないですか」
そう思うとここが楽園であると認めたくはない、とリエは言った。
カイロウは言葉を持たない。
何を言っても、どう慰めても、彼女の心を癒すことなどできはしないだろう。
「いっそここが、子どものころ本で読んだ地獄みたいな場所だったら良かったのに――」
この時の。
助手が見せた一瞬の邪悪な表情を、彼は忘れないだろう。
おそらく鬱積した両親や妹への怨嗟が顔に出たものであろうが、ある種の執念のようなものを感じさせた。
(リエ君は妹と会うかもしれないということを考えているのだろうか……?)
これは感情を逆撫でする質問だからするワケにはいかない。
しかしこうして歩き回っていれば、いつかは彼女の妹に会うハズだ。
もちろん生き別れたのは物心つく前だから、仮に対面したとしても互いに認識はできないだろう。
もしかしたら、もう既にどこかですれ違っているかもしれない。
あるいは最初に声をかけたあの女がそうかもしれない。
もしリエが妹の存在を認識したら――。
彼女はどうするのだろうか。
それを考えるとカイロウは少しだけ恐くなった。
「さあ、行きましょう。こんな居心地の良い場所、長居していたら動けなくなります」
武器を持っているのはあなただから、とリエは先導を促した。
彼は曖昧に頷くと、川を上流に向かって歩き出した。
ここにはクジラに誘拐されたらしい人たちがいる。
文化はずいぶんと異なるようだが、リエの言うように怪我も病気もなく生きていられるらしい。
となれば娘もきっとどこかにいるハズだ。
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