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12 胎動-5-
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「………………」
この男はおかしい。
ダージはそう判断することにした。
彼との取引を始めた当初からその兆候はあった。
実娘が選ばれ、妻に先立たれたことで、幸と不幸を同時に味わったために気持ちの整理がつかないのだと思っていた。
時が経てば子の栄誉を喜び、妻の過ちを受け容れていずれは落ち着くだろうと。
長い目で見て良好な付き合いができると考えたからこそ、ダンナと呼び慕ってきたのだ。
どうやらその見当ははずれてしまったようである。
彼はおもむろに立ち上がると、前金として受け取っていた金貨をテーブルに置いた。
「これは受け取れません。今回の件、報酬は不要です。あ、いや――」
思い出したようにダージは余所を向いた。
「依頼自体、なかったことにしてください。それは差し上げますから……くれぐれもオレからもらったなんて言わないでくだせえよ?」
これは控えめな拒絶だ。
本来ならこの場で地図を破り捨てたいところだったが、わずかに残った情がそれをためらわせた。
「今までどおり、調達屋としての仕事なら受けます。悪いがそれ以外の依頼は……今後は断らせてもらいますぜ」
ここがダージが歩み寄れるぎりぎりの線だ。
金払いのいい得意先を失うのは惜しい。
かといって叛逆を企てているらしい人物と取引をするのは、それだけで危険が伴う。
カイロウは何も言わなかった。
決別だなどとは思わない。
本人が今後も調達屋として働くと言っているのだ。
いわば2人の関係は振り出しに戻ったも同然。
互いをよく知らない頃の、仕事上の付き合いを続けるだけだ。
「……ダージ」
ドアに手をかけていた彼は、囁くような声に一瞬足を止める。
しばらくの沈黙。
何も言わないようならこのまま出て行こうとしたダージは、
「今まで世話になった」
背後に別れともとれる言葉を聞いた。
彼は何か返そうとしたが結局、何も思い浮かばず無言のままその場を去った。
ドアに背をあずけ、藍色の空を見上げる。
風は冷たかった。
(悪く思わないでくれよ、カイロウさん)
今になってダージは後悔した。
こんなことになるなら彼の依頼を断ればよかったと。
仕事体験ツアーだの、方舟の観察だのというバカげたことなんてしないで、調達屋として専従していればよかったと。
そうすれば彼の野心を紛らすことができたかもしれない。
なまじクジラの情報を得たことがかえって叛心を煽ったのだとすれば、ダージにも責任はある。
だが、それを止める方法はなかった。
今となっては全てが手遅れなのだ。
(オレには妻がいる。あんたと違って、まだ失うものがあるんだ。これ以上のリスクは負えねえ。分かるだろ……?)
沈みかけた太陽に向かって、彼は帰るべき家に向かって歩き出す。
不思議なことにその足はいつもより少しだけ軽く感じられた。
背中越しに調達屋を見送ったカイロウは、世界が変わったような錯覚に陥った。
一貫してダージの言い分が正しいことは分かっている。
盗みはいけないことだ、殺しはいけないことだ、と言っているのと同じだ。
彼はただ常識を語ったに過ぎない。
しかしカイロウにとっては正しくはなかった。
世の中の大半の人間が当たり前だと考えていることが、彼にはそうだと受け止められない。
大昔からの決まりだから。
人はそう言って教え諭そうとする。
それは正しいことの根拠になるのか。
大昔からの決まりがそもそも間違っていたとしたら――?
「………………」
こうした疑問を口にすることさえ、今の時代は許してくれない。
クジラへの叛逆――ただそれだけの理由で罰せられる。
いわばカイロウは未遂犯だった。
あと一歩踏み出せば、逮捕される口実を政府に与えることになる。
そうなれば最後、情報を提供したダージも無事では済まないだろう。
その弁えがあったから、カイロウは敢えて彼を突き放すしかなかった。
共犯者の烙印を押させないためには、今の内から関係を断っておく必要があった。
(それでも遅すぎるくらいか……)
思い返せばダージには随分と無理をさせてきた。
本業の調達屋という枠を越えて、なかば便利屋として依頼を出したことも多い。
慣れ過ぎてしまっていたのだ。
お互いに融通を利かせてきたから、取引相手としての線引きが曖昧になっていた。
しかしそれも今日が限りだ。
ダージは引き続き仕事を受けると言ったが、カイロウにその気はない。
あの有能な調達屋から得られるものは全て得た。
これ以上の付き合いを続けても彼に迷惑をかけるだけだ。
(悪く思わないでくれよ、ダージ。きみと違って私にはもう失うものはない。リスクは私ひとりが負うべきなんだ)
この判断に悔いはない。
今さらそれを後悔することなど許されない。
彼は自分の中の正しさに誠実だった。
だからといって自分さえ良ければ他はどうなってもいい、とは考えなかった。
娘を取り戻す!
そのために必要以上の犠牲を払ってはならない。
ましてや他人の生命や財産を脅かすようなことは――。
この男はおかしい。
ダージはそう判断することにした。
彼との取引を始めた当初からその兆候はあった。
実娘が選ばれ、妻に先立たれたことで、幸と不幸を同時に味わったために気持ちの整理がつかないのだと思っていた。
時が経てば子の栄誉を喜び、妻の過ちを受け容れていずれは落ち着くだろうと。
長い目で見て良好な付き合いができると考えたからこそ、ダンナと呼び慕ってきたのだ。
どうやらその見当ははずれてしまったようである。
彼はおもむろに立ち上がると、前金として受け取っていた金貨をテーブルに置いた。
「これは受け取れません。今回の件、報酬は不要です。あ、いや――」
思い出したようにダージは余所を向いた。
「依頼自体、なかったことにしてください。それは差し上げますから……くれぐれもオレからもらったなんて言わないでくだせえよ?」
これは控えめな拒絶だ。
本来ならこの場で地図を破り捨てたいところだったが、わずかに残った情がそれをためらわせた。
「今までどおり、調達屋としての仕事なら受けます。悪いがそれ以外の依頼は……今後は断らせてもらいますぜ」
ここがダージが歩み寄れるぎりぎりの線だ。
金払いのいい得意先を失うのは惜しい。
かといって叛逆を企てているらしい人物と取引をするのは、それだけで危険が伴う。
カイロウは何も言わなかった。
決別だなどとは思わない。
本人が今後も調達屋として働くと言っているのだ。
いわば2人の関係は振り出しに戻ったも同然。
互いをよく知らない頃の、仕事上の付き合いを続けるだけだ。
「……ダージ」
ドアに手をかけていた彼は、囁くような声に一瞬足を止める。
しばらくの沈黙。
何も言わないようならこのまま出て行こうとしたダージは、
「今まで世話になった」
背後に別れともとれる言葉を聞いた。
彼は何か返そうとしたが結局、何も思い浮かばず無言のままその場を去った。
ドアに背をあずけ、藍色の空を見上げる。
風は冷たかった。
(悪く思わないでくれよ、カイロウさん)
今になってダージは後悔した。
こんなことになるなら彼の依頼を断ればよかったと。
仕事体験ツアーだの、方舟の観察だのというバカげたことなんてしないで、調達屋として専従していればよかったと。
そうすれば彼の野心を紛らすことができたかもしれない。
なまじクジラの情報を得たことがかえって叛心を煽ったのだとすれば、ダージにも責任はある。
だが、それを止める方法はなかった。
今となっては全てが手遅れなのだ。
(オレには妻がいる。あんたと違って、まだ失うものがあるんだ。これ以上のリスクは負えねえ。分かるだろ……?)
沈みかけた太陽に向かって、彼は帰るべき家に向かって歩き出す。
不思議なことにその足はいつもより少しだけ軽く感じられた。
背中越しに調達屋を見送ったカイロウは、世界が変わったような錯覚に陥った。
一貫してダージの言い分が正しいことは分かっている。
盗みはいけないことだ、殺しはいけないことだ、と言っているのと同じだ。
彼はただ常識を語ったに過ぎない。
しかしカイロウにとっては正しくはなかった。
世の中の大半の人間が当たり前だと考えていることが、彼にはそうだと受け止められない。
大昔からの決まりだから。
人はそう言って教え諭そうとする。
それは正しいことの根拠になるのか。
大昔からの決まりがそもそも間違っていたとしたら――?
「………………」
こうした疑問を口にすることさえ、今の時代は許してくれない。
クジラへの叛逆――ただそれだけの理由で罰せられる。
いわばカイロウは未遂犯だった。
あと一歩踏み出せば、逮捕される口実を政府に与えることになる。
そうなれば最後、情報を提供したダージも無事では済まないだろう。
その弁えがあったから、カイロウは敢えて彼を突き放すしかなかった。
共犯者の烙印を押させないためには、今の内から関係を断っておく必要があった。
(それでも遅すぎるくらいか……)
思い返せばダージには随分と無理をさせてきた。
本業の調達屋という枠を越えて、なかば便利屋として依頼を出したことも多い。
慣れ過ぎてしまっていたのだ。
お互いに融通を利かせてきたから、取引相手としての線引きが曖昧になっていた。
しかしそれも今日が限りだ。
ダージは引き続き仕事を受けると言ったが、カイロウにその気はない。
あの有能な調達屋から得られるものは全て得た。
これ以上の付き合いを続けても彼に迷惑をかけるだけだ。
(悪く思わないでくれよ、ダージ。きみと違って私にはもう失うものはない。リスクは私ひとりが負うべきなんだ)
この判断に悔いはない。
今さらそれを後悔することなど許されない。
彼は自分の中の正しさに誠実だった。
だからといって自分さえ良ければ他はどうなってもいい、とは考えなかった。
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そのために必要以上の犠牲を払ってはならない。
ましてや他人の生命や財産を脅かすようなことは――。
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