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11 方舟-2-
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豆を炒る音が芳ばしい香りを運んでくる。
運良く上質の野菜が手に入ったから、今日は贅沢をして華やかな昼食にしようと決めていた。
「食器ぐらい用意してくれてもいいでしょ」
すぐ後ろで椅子にもたれてぼんやりとしているダージに言う。
「そう言うな。連日、聖地の往復で疲れてるんだ。たまの休みにゃゆっくりしないとな」
「あなたはすぐそれなんだから」
いつものやりとりだから彼女もいちいち腹は立てない。
豪勢な食事ができるのも最近、彼が臨時の仕事をいくつもこなしているおかげだから文句はない。
どちらかというと不満をぶつけるふりをして、いつもどおり軽口を返してくるかを確かめる意味合いが強い。
「それよりいい匂いだな。本物はそんな香りがするのか」
「調味料にもこだわったの。せっかくの材料だから」
「そうか――」
他愛のない会話に、彼はできた妻と結ばれた幸せを噛みしめた。
彼女はとにかく料理が上手い。
どんな粗末な食材でも、必ずダージの舌を満足させる一品に仕上げる。
その理由を尋ねると決まって、料理教室に通っていたことがあるから、と答える。
それはもちろんそうなのだろうが、彼は彼女が作ってくれるからこそ美味しく感じるのだと分かっていた。
愛妻と食事をする。
これ以上の幸せはない。
その幸せを守るために、ダージは調達屋として働き続けた。
ただ働くのではない。
危険を避け、無事に生きて帰ること。
それを肝に銘じているから、彼は他の調達屋のような無茶はしない。
「お、誰か来たな」
ドアをノックする音にダージは大儀そうに立ち上がった。
外に漏れた野菜炒めの香りに引き寄せられたのかもしれない。
そんなことを考えながらドアを開ける。
「あ、ダンナ」
「なに言ってるのよ。旦那はあなたでしょ」
「いや、そうじゃなくて。どうしたんですかい? わざわざ家にまで来て」
ここまで急いできたのか、カイロウはいささか呼吸を乱していた。
「ああ、すまないな。訊きたいことがあって――」
ダージの妻と目が合い、軽く会釈する。
「訊きたいこと? あ、じゃあ寄っていきませんか? 妻の料理は美味いんだ。ダンナも知ってるでしょう?」
「いや、いやいや、長居するつもりはないよ。迷惑だろう? それよりこれについて教えてくれ」
カイロウはその場で地図を開いて見せた。
「この地点からこの地点まで、時間がかかりすぎてる。ここもだ。どうやっても計算が合わないんだが、何か知ってるかい?」
「どれどれ……」
指し示された区間に目をやる。
相当試行錯誤したようで、カイロウの細かい字で計算過程がびっしりと書き込まれている。
「ああ、これは――」
地図に落としていた視線を一瞬だけ上げて彼に向ける。
「クジラ様がそこで停まっているんですよ」
言うべきか言わざるべきか迷うところだったが、差し迫った表情だったので答えることにした。
「これは調達屋の間で使ってる地図ですから、クジラ様に関してはオレたちに必要なことしか書いてないんですわ。つまりお恵みについてだけで」
「どういうことだ?」
「この区間のどこかでクジラ様は停まるんです。で、その理由っていうのが――」
ダージは一呼吸おいて、
「選ばれた子どもたちが楽園に行くための方舟……それが往復してるってことでさあ」
ちらちらと彼の様子を窺いながら言う。
(娘を連れ去ったあれか……!)
カイロウは歯軋りした。
忘れもしない、あの瞬間だ。
愛娘を奪われ、妻を奪われたあの日。
彼の拠り所。
生きる目的。
人生の全て――。
そこに至る道が不完全な形でこの地図には記されてあった。
「ちょっと待て……だとすると……」
彼は自ら作図した紙を取り出し、地図と照らし合わせた。
「計算では次にクジラが停泊するのは2時間後。場所は……この町の近くだ!」
カイロウは彼の腕をつかんだ。
「一緒に来てくれ! 調べたいことがあるんだ!」
「へ……今からですかい?」
「当たり前だ。今からじゃなきゃ遅い」
「そう言われても――もうすぐ昼食ができあがるんで……」
急な仕事にも極力応じるようにしているダージだが、妻とのひと時を犠牲にしてまでとは考えていない。
「分かった。食べてからでいい。私も一度戻って準備する。それでいいだろう?」
「ええ、まあ……そういうことなら……」
こうも必死に頼み込んでくるからには、よほどの事情があるらしい。
となれば優位性はダージにある。
無理を聞いてやるから出すものを出せ、と言える立場だ。
「この件、ガードは必要ですかい?」
だが根がお人好しな彼は日頃の愛顧もあってか、見返りを求めるような真似はしなかった。
「いや、今回はいらない。それと急な頼みごとだ。タードナイト10キロ分支払おう」
この上得意さまは向こうから報酬を提示してくれるからだ。
「分かりました。お受けしやしょう」
破格の条件だ。
これに乗らない手はない。
30分後にもう一度来ると約束し、カイロウは急いで家に引き返した。
時間はない。
乱雑な作業台から必要な物をかき集める、
準備は入念にしたい彼だったが、今日ばかりは仕方がない。
バッグをひっつかみ、文字どおり家を飛び出す。
ダージの家までは走っても10分はかかるうえ、かなり高台にある。
軽量とはいえ荷物を抱えて駆けるのは、運動不足のカイロウには堪えた。
運良く上質の野菜が手に入ったから、今日は贅沢をして華やかな昼食にしようと決めていた。
「食器ぐらい用意してくれてもいいでしょ」
すぐ後ろで椅子にもたれてぼんやりとしているダージに言う。
「そう言うな。連日、聖地の往復で疲れてるんだ。たまの休みにゃゆっくりしないとな」
「あなたはすぐそれなんだから」
いつものやりとりだから彼女もいちいち腹は立てない。
豪勢な食事ができるのも最近、彼が臨時の仕事をいくつもこなしているおかげだから文句はない。
どちらかというと不満をぶつけるふりをして、いつもどおり軽口を返してくるかを確かめる意味合いが強い。
「それよりいい匂いだな。本物はそんな香りがするのか」
「調味料にもこだわったの。せっかくの材料だから」
「そうか――」
他愛のない会話に、彼はできた妻と結ばれた幸せを噛みしめた。
彼女はとにかく料理が上手い。
どんな粗末な食材でも、必ずダージの舌を満足させる一品に仕上げる。
その理由を尋ねると決まって、料理教室に通っていたことがあるから、と答える。
それはもちろんそうなのだろうが、彼は彼女が作ってくれるからこそ美味しく感じるのだと分かっていた。
愛妻と食事をする。
これ以上の幸せはない。
その幸せを守るために、ダージは調達屋として働き続けた。
ただ働くのではない。
危険を避け、無事に生きて帰ること。
それを肝に銘じているから、彼は他の調達屋のような無茶はしない。
「お、誰か来たな」
ドアをノックする音にダージは大儀そうに立ち上がった。
外に漏れた野菜炒めの香りに引き寄せられたのかもしれない。
そんなことを考えながらドアを開ける。
「あ、ダンナ」
「なに言ってるのよ。旦那はあなたでしょ」
「いや、そうじゃなくて。どうしたんですかい? わざわざ家にまで来て」
ここまで急いできたのか、カイロウはいささか呼吸を乱していた。
「ああ、すまないな。訊きたいことがあって――」
ダージの妻と目が合い、軽く会釈する。
「訊きたいこと? あ、じゃあ寄っていきませんか? 妻の料理は美味いんだ。ダンナも知ってるでしょう?」
「いや、いやいや、長居するつもりはないよ。迷惑だろう? それよりこれについて教えてくれ」
カイロウはその場で地図を開いて見せた。
「この地点からこの地点まで、時間がかかりすぎてる。ここもだ。どうやっても計算が合わないんだが、何か知ってるかい?」
「どれどれ……」
指し示された区間に目をやる。
相当試行錯誤したようで、カイロウの細かい字で計算過程がびっしりと書き込まれている。
「ああ、これは――」
地図に落としていた視線を一瞬だけ上げて彼に向ける。
「クジラ様がそこで停まっているんですよ」
言うべきか言わざるべきか迷うところだったが、差し迫った表情だったので答えることにした。
「これは調達屋の間で使ってる地図ですから、クジラ様に関してはオレたちに必要なことしか書いてないんですわ。つまりお恵みについてだけで」
「どういうことだ?」
「この区間のどこかでクジラ様は停まるんです。で、その理由っていうのが――」
ダージは一呼吸おいて、
「選ばれた子どもたちが楽園に行くための方舟……それが往復してるってことでさあ」
ちらちらと彼の様子を窺いながら言う。
(娘を連れ去ったあれか……!)
カイロウは歯軋りした。
忘れもしない、あの瞬間だ。
愛娘を奪われ、妻を奪われたあの日。
彼の拠り所。
生きる目的。
人生の全て――。
そこに至る道が不完全な形でこの地図には記されてあった。
「ちょっと待て……だとすると……」
彼は自ら作図した紙を取り出し、地図と照らし合わせた。
「計算では次にクジラが停泊するのは2時間後。場所は……この町の近くだ!」
カイロウは彼の腕をつかんだ。
「一緒に来てくれ! 調べたいことがあるんだ!」
「へ……今からですかい?」
「当たり前だ。今からじゃなきゃ遅い」
「そう言われても――もうすぐ昼食ができあがるんで……」
急な仕事にも極力応じるようにしているダージだが、妻とのひと時を犠牲にしてまでとは考えていない。
「分かった。食べてからでいい。私も一度戻って準備する。それでいいだろう?」
「ええ、まあ……そういうことなら……」
こうも必死に頼み込んでくるからには、よほどの事情があるらしい。
となれば優位性はダージにある。
無理を聞いてやるから出すものを出せ、と言える立場だ。
「この件、ガードは必要ですかい?」
だが根がお人好しな彼は日頃の愛顧もあってか、見返りを求めるような真似はしなかった。
「いや、今回はいらない。それと急な頼みごとだ。タードナイト10キロ分支払おう」
この上得意さまは向こうから報酬を提示してくれるからだ。
「分かりました。お受けしやしょう」
破格の条件だ。
これに乗らない手はない。
30分後にもう一度来ると約束し、カイロウは急いで家に引き返した。
時間はない。
乱雑な作業台から必要な物をかき集める、
準備は入念にしたい彼だったが、今日ばかりは仕方がない。
バッグをひっつかみ、文字どおり家を飛び出す。
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