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6 ある老翁-2-
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「デモスさん、いらっしゃいますか?」
民家がまばらに建つ一画に、今にも潰れそうな小さな工場がある。
カイロウは入り口にあった鐘を叩いた。
奥から白髪まじりの老翁が顔を出した。
「おや……? おやおや、もうそんな時分か。ああ、入ってくれ」
デモスは揉み手をしながらカイロウを招き入れた。
傍にあった粗末な椅子に彼を座らせる。
「水でいいかね? ああ、いや、他のものを注文されても困るのだがね」
「それで結構です」
隅に置いてあったテーブルのほこりを払い、カイロウの前まで引っ張る。
その拍子に塵が舞いあがり、デモスは咳きこんだ。
彼は一度奥に消え、水を汲んで戻ってきた。
コップは薄汚れていたが、水は驚くほど透き通っている。
「今月分です。お受け取りください」
カイロウがバッグを差し出す。
デモスは小さく息を吐いた。
「世間話のひとつもしないで、”さあ、受け取れ”というのは、うん、あまり褒められた行動では――ないぞ。
まずはその水で喉の渇きを潤すのが、そうだな、この場合、きみが踏むべき手順だと思うがどうだろうか」
「失礼しました。心得ます」
カイロウは言われたとおりにした。
「きみはまあ、その素直なところは大いに良いと思うが……反骨精神というものも必要ではないかな?
特に、何かを成し遂げようという、そういう目的があるならなおさら――ああ、いやいや、強制しているワケではないぞ」
この飄々とした老翁はいつもこうだった。
何を見て、何を考えているのか、まったく分からない。
深い考えをしているようで、そのことに踏み込もうとするとするりと躱される。
川面に浮かぶ泡のように捉えどころがなく、持って回ったような口調だが、不思議とカイロウは嫌いにはなれなかった。
「さてさて、世間に疎そうなきみが知っているかどうか分からんが……最近、外の様子がその、変わってきてな」
「また物価が上がったのでしょう?」
「うむ、その変化に気付くのは聡いな。昨日食べたものをしっかり覚えているような者は――うん、まさしくそうだ。
そうした些細なちがいにも、敏感だ。しかし、わざわざ言うようなことではない……つまるところ、ハズレだ」
彼はいたずらが上手くいった子どものように笑った。
「では――」
「変化とはいつも思いもよらぬところに生じるものよ。そのグラスの水が、例えばの話だが、次の瞬間には泥水に――変わっているかもしれんぞ」
落ち着きなく手をさすりながら、彼はわざとらしくため息をついた。
「お告げが出たらしい。あの宗教家どもにしては珍しい試みだ。他との差別化を図ったか、あるいは――」
本当に天の声を聞いたのかもしれない、と彼は不気味な笑顔をカイロウに向けた。
「それならここに来る途中で聞きましたよ。気にも留めませんでしたが」
「おお、おお、そうだったか。天のお告げも敏腕の技師には届かず……ということか。うむ、これは誤算であろうな。
銅板を叩く音が大きすぎたのか……いやいや、鉄板を切るのに着けた保護具が耳まで覆ってしまったか……」
「興味がないんです。クジラに。むしろ腹立たしいくらいで」
「感情に従えば、きみが正しい。だが、そうだな……現実的ではないぞ。目を閉じ、耳を塞ぐのは……瞑想する時だけだ。
特にきみの場合は、だ。これから戦うべき敵から目を逸らしてどうなる? 勿体ないとは思わないか?」
「敵……ですか?」
「こうしてな、しばしば儂のところにやってきて、大金を置いていく。そしてその度にだ。きみは言う。
燃料を確保しておいてほしい、と。ああ、つまり儂が余所に売ってしまわないように、と先手を打っているのだ。
だが……そうではない、な。それなら買い取ってしまえば済む話だ。それをしないのは――」
デモスの白く濁った眼がカイロウを捉えた。
彼は金縛りにあったように動けなくなってしまう。
「――できないのだ。ああ、おそらく目立ってはならない。隠居とはちがう。隠れ住んでいるのであろう、きみは。
ではなぜ見つかってはならないのか……重要なのはそこだ」
「この話は……やめましょう。世間話なら他にいくらでも――」
カイロウはどうにかやり過ごそうとしたが、彼はかまわず続けた。
「政府だろう? んん? もっと言えば空高くの――クジラ様だ。ほら見ろ、顔つきが変わったぞ。それは隠せんな。
ああ、分かるとも。あのクジラに対して良からぬことを考えている? そうだ、ずっと前から――」
デモスは苦しそうに息継ぎをし、奥に消えた。
すぐにグラス一杯の水を持って戻ってくる。
カイロウはとうに水を飲み干していた。
民家がまばらに建つ一画に、今にも潰れそうな小さな工場がある。
カイロウは入り口にあった鐘を叩いた。
奥から白髪まじりの老翁が顔を出した。
「おや……? おやおや、もうそんな時分か。ああ、入ってくれ」
デモスは揉み手をしながらカイロウを招き入れた。
傍にあった粗末な椅子に彼を座らせる。
「水でいいかね? ああ、いや、他のものを注文されても困るのだがね」
「それで結構です」
隅に置いてあったテーブルのほこりを払い、カイロウの前まで引っ張る。
その拍子に塵が舞いあがり、デモスは咳きこんだ。
彼は一度奥に消え、水を汲んで戻ってきた。
コップは薄汚れていたが、水は驚くほど透き通っている。
「今月分です。お受け取りください」
カイロウがバッグを差し出す。
デモスは小さく息を吐いた。
「世間話のひとつもしないで、”さあ、受け取れ”というのは、うん、あまり褒められた行動では――ないぞ。
まずはその水で喉の渇きを潤すのが、そうだな、この場合、きみが踏むべき手順だと思うがどうだろうか」
「失礼しました。心得ます」
カイロウは言われたとおりにした。
「きみはまあ、その素直なところは大いに良いと思うが……反骨精神というものも必要ではないかな?
特に、何かを成し遂げようという、そういう目的があるならなおさら――ああ、いやいや、強制しているワケではないぞ」
この飄々とした老翁はいつもこうだった。
何を見て、何を考えているのか、まったく分からない。
深い考えをしているようで、そのことに踏み込もうとするとするりと躱される。
川面に浮かぶ泡のように捉えどころがなく、持って回ったような口調だが、不思議とカイロウは嫌いにはなれなかった。
「さてさて、世間に疎そうなきみが知っているかどうか分からんが……最近、外の様子がその、変わってきてな」
「また物価が上がったのでしょう?」
「うむ、その変化に気付くのは聡いな。昨日食べたものをしっかり覚えているような者は――うん、まさしくそうだ。
そうした些細なちがいにも、敏感だ。しかし、わざわざ言うようなことではない……つまるところ、ハズレだ」
彼はいたずらが上手くいった子どものように笑った。
「では――」
「変化とはいつも思いもよらぬところに生じるものよ。そのグラスの水が、例えばの話だが、次の瞬間には泥水に――変わっているかもしれんぞ」
落ち着きなく手をさすりながら、彼はわざとらしくため息をついた。
「お告げが出たらしい。あの宗教家どもにしては珍しい試みだ。他との差別化を図ったか、あるいは――」
本当に天の声を聞いたのかもしれない、と彼は不気味な笑顔をカイロウに向けた。
「それならここに来る途中で聞きましたよ。気にも留めませんでしたが」
「おお、おお、そうだったか。天のお告げも敏腕の技師には届かず……ということか。うむ、これは誤算であろうな。
銅板を叩く音が大きすぎたのか……いやいや、鉄板を切るのに着けた保護具が耳まで覆ってしまったか……」
「興味がないんです。クジラに。むしろ腹立たしいくらいで」
「感情に従えば、きみが正しい。だが、そうだな……現実的ではないぞ。目を閉じ、耳を塞ぐのは……瞑想する時だけだ。
特にきみの場合は、だ。これから戦うべき敵から目を逸らしてどうなる? 勿体ないとは思わないか?」
「敵……ですか?」
「こうしてな、しばしば儂のところにやってきて、大金を置いていく。そしてその度にだ。きみは言う。
燃料を確保しておいてほしい、と。ああ、つまり儂が余所に売ってしまわないように、と先手を打っているのだ。
だが……そうではない、な。それなら買い取ってしまえば済む話だ。それをしないのは――」
デモスの白く濁った眼がカイロウを捉えた。
彼は金縛りにあったように動けなくなってしまう。
「――できないのだ。ああ、おそらく目立ってはならない。隠居とはちがう。隠れ住んでいるのであろう、きみは。
ではなぜ見つかってはならないのか……重要なのはそこだ」
「この話は……やめましょう。世間話なら他にいくらでも――」
カイロウはどうにかやり過ごそうとしたが、彼はかまわず続けた。
「政府だろう? んん? もっと言えば空高くの――クジラ様だ。ほら見ろ、顔つきが変わったぞ。それは隠せんな。
ああ、分かるとも。あのクジラに対して良からぬことを考えている? そうだ、ずっと前から――」
デモスは苦しそうに息継ぎをし、奥に消えた。
すぐにグラス一杯の水を持って戻ってくる。
カイロウはとうに水を飲み干していた。
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