小さな命たち

JEDI_tkms1984

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5 猫殺し

5-2

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反復は人を成長させる。
この動作も手慣れたものだ、と美子は思った。
ほとんど毎日の付き合いだから、コツのようなものもつかめてくる。
ひとつ、小皿は等間隔に置いてはいけない。
12匹の猫たちには力関係があって、間隔を狭くすると顔を合わせた猫同士がけんかを始めてしまう。
こうなると弱い猫は餌にありつけなくなる。
ふたつ、餌を盛るのは少量ずつ。
気まぐれな生き物だから、健啖かと思いきや食べるのに飽きたようにその場を離れることもある。
衛生上、食べ残しは捨てなければならないから給餌は少なめが基本だ。
「もう来てたの」
及川奈緒が声をかけた。
「仕事終わって、すぐに来たから」
足元でじゃれつく黒猫を撫でながら美子が言った。
何匹かは奈緒の姿を見るなり、彼女のほうに駆けて行った。
同じ給餌でも、与えているものはずいぶん違う。
美子は近くの薬局で買うドライフードだけだが、奈緒の場合はドライフードにかつおやまぐろの缶詰を混ぜた特製品だ。
やはり香りと味に差が出るのか、彼らにとっては奈緒の持っている餌のほうがずっと魅力的なようである。
「この子、ちょっと怪我してるわね」
給餌しながら奈緒が目ざとく見つけた。
キジトラの前脚に毛が抜けて、かさぶたのようになっている部分がある。
「大丈夫なの?」
「どこかで擦りむいただけよ」
このあたりは接してきた時間や知識の差が顕著で、怪我と聞くと動揺してしまう美子に比して、奈緒は冷静だ。
そもそも美子は猫の些細な変化に気付いていない。
活動を続けてはいるものの、彼女の中ではまだ“飢えさせないため”といった認識で、そこまで気が回らなかった。
「犯人、まだ捕まらないの?」
「あれくらいじゃ警察は動かないわよ。見回りはしてくれてるけど、制服着てバイクに乗ってるんじゃ、抑止にはなっても逮捕は無理ね」
それでも充分なくらいだ、と奈緒は言った。
「こういうことって、他にもあるの?」
ミサキとの会話を思い出し、美子がおそるおそる尋ねた。
奈緒は答えるべきか迷った。
この呉谷美子という女はなかなか繊細だ。
意志は強いが打たれ弱いところもあり、悲惨な現実を教えれば塞ぎ込んでしまうかもしれない。
といってウソをつくのも苦手な彼女は、
「あるわよ」
事実だけを答えた。
「やっぱり、ひどい目に遭わされて……?」
そんなつらそうな顔をするなら訊かなければいいのに、と奈緒は思った。
「いろいろよ。虐待もあるし、事故――も、あるわね」
やはり仔細は伏せる。
実例の数々は美子にとって耳を塞ぎたくなるような悲惨なものばかりだ。
それが事故や病気なら諦めもつくが、少なくとも奈緒が知っている死因には、人間が関与しているのがほとんどだ。
「そう…………」
具体例を挙げてもいないのに、彼女は青白い顔をしている。
先日の虐待死を引きずっていることもあるが、美子はこの活動は理想や綺麗ごとだけで成り立っていると思っている節があった。
(言えないわね。あのことは……)
奈緒はちらりと公園の奥を見やった。
数人の子どもがドッヂボールをしている。
大半は小学生だが、何人か中学生も混じっている。
彼らは注意書きの看板があろうとなかろうと、丸くて弾む物があればそれを使って遊ぶ。
同じ動き、同じ使用法しかできない遊具と違って、たったひとつの小さな物でも扱い方は無限にある。
トランプがそうであるように、ボールも様々な使い方ができるのだ。
(あの中にいるかもしれない! あの中の誰かが……)
奈緒は拳を握った。
その雰囲気を感じ取ってか、白猫が彼女と距離を置いた。
「あ、クロじゃん!」
男の子の声がして美子は振り返った。
よく日焼けした、やんちゃそうな少年がいる。
「大虎君じゃない」
「あ、おばさん、久しぶりでっす」
「おばさんじゃなくてお姉さんって呼びなさい」
奈緒が叩く素振りをしたので、大虎は慌てて避けた。
「知ってる子?」
「戸塚大虎君。向かいの団地に住んでるの」
「おばさん、個人情報ですよ! 俺の許可なく勝手に言いふらして」
「生意気ね。最近は小学生でもそんなこと言うの?」
軽口を叩き合う2人は、美子には齢の離れた姉弟のように見えた。
「大丈夫よ。この人、悪い人じゃないから」
奈緒がそう言ってくれたので、美子は嬉しくなった。
そこまで認めてくれているのか、という自信もつく。
「おばさん、はじめまして。俺、戸塚大虎っていいます」
「これはご丁寧に。呉谷美子よ。及川さんのお手伝いをしてるの」
ハキハキした物言いに彼女は好感を持った。
挨拶もしっかりできる、良い子だ。
「こいつらの世話をしてるんですか?」
「ええ、そうなの。私なんてまだまだだけどね」
謙遜する美子を、大虎はじっと見つめた。
「おばさんも何匹か引き取ってるんですか?」
「え……?」
おばさんと言われたことも軽くショックだったが、引き取る、の意味が分からなかった彼女は気の抜けた声を出した。
「こーら、おばさんって言っちゃだめでしょ」
「じゃあ、お姉さん?」
「どうして疑問調なのよ」
また2人のかけあいが始まる。
「あの、引き取るっていうのは……?」
「この子たちのことを言ってるのよ。元々はね、16匹くらいいたのよ」
「そんなにたくさん?」
「もうちょっと多かったかしら。とにかくその中でも怪我や病気で弱ってる子、年をとってる子をうちで飼ってるの。できることなら、みんな引き取ってあげたいんだけどね。そうもいかないし」
美子は無知を恥じた。
慈悲とか思いやりとか、言葉にすれば簡単な活動のように思えるが、その実は見えないところでの努力が大きい。
外で世話をしている猫を家で飼うという発想は彼女にはなかったし、奈緒もわざわざそれに触れることはなかった。
それだけにここにいる子たち以外にも、奈緒が責任をもって飼育している猫がいることに、美子は見識の狭さを自覚させられる。
「知らなかったわ……」
そう呟くが、知ってしまっては素通りすることはできない。
「私もそうしたほうがいいわよね」
意地か反射か、そうは言うものの、呉谷家で猫を飼うのは不可能に近い。
「できればそうしてくれたほうが私もありがたいけど、強要はできないわ。家庭の状況なんかも違うわけだし」
そう言われては返す言葉がない。
こればかりは努力でどうにかなる問題ではなかった。
「ごめんなさい……」
「気にすることないわ。こうやって毎日来るだけで立派よ」
「そうじゃないの。及川さんが引き取ってるなんて思いもしなくて。考え方がまだまだ甘かったんだなって」
そんなことないわ、という言葉を期待していなかったといえばウソになる。
「そうね。甘いといえば甘いわね」
奈緒ははっきりと、大虎にも聞かせるように言った。
「でも、おば……美子おばさんも世話してるんですよね。こいつらも喜んでるんじゃないですか?」
大虎は黒猫の頭を撫でながら言った。
美子は曖昧に頷いた。
「ねえ、大虎君。ここであったこと、知ってる?」
奈緒が小声で訊いた。
「知ってます」
瞬時に険しい顔つきになったことから、彼は詳しい状況も知っているのだろうと、奈緒は思った。
「ひどいっすよね……」
「ひどいなんてものじゃないわ。あんなやり口……」
「あいつ、おばさんたちが見てる子じゃないですよね」
「ええ、私たちが世話をしてるのは、ここにいるので全部だから。別の場所で殺って、ここに置いていったのよ、きっと」
大虎の手前我慢していたが、彼女は怒りに打ち震えていた。
脳裏に半年前の光景が蘇る。
白い粉にまみれて、苦しそうに舌を出して絶命した仔猫の最期が。
ビクンビクンと徐々に弱くなっていく痙攣。
全身がひとつ脈打つ度に、死神が音も立てずに忍び寄ってくる。
喉の焼けつく痛みに、動かせぬ体で水を求めた仔猫の、苦悶の表情が。
彼女には忘れられない。
「同じ奴かもしれないですね」
大虎に言われて、奈緒はハッとした。
「同じ……」
不思議な話ではない。
小動物を意味もなく殺す輩が、たった1匹で満足するとは限らない。
むしろ猫を殺すという行為や結果に快楽を感じていて、それをまた味わいたいがために次々と――と想像するほうが納得できる。
(この子が見つけてくれたのよね……)
彼女は黒猫と遊んでいる大虎を見つめた。


半年ほど前。
今と同じくこの公園で活動していた奈緒は、猫の数が1匹足りないことに気付いた。
アメリカンショートヘアに似た柄のミックスで、野良にしては穏やかな顔つきの仔猫だった。
何で判断しているのか、奈緒が公園に近づくと、いつも一番にやって来て定位置につく。
餌をねだることはなく、小皿にフードを盛り分けている奈緒の顔を、じっと見上げているような大人しい子だった。
食に貪欲ではなかったので、しょっちゅう他の猫に横取りされていた。
それがまた愛おしくなって、奈緒はその猫を特別目にかけていたのだ。
それがその日に限ってはやって来なかった。
気まぐれな生き物だから、と彼女は納得しようとしたが、その子は一日も欠かさず奈緒に会いに来ていたのだ。
まさか何かあったのでは、という不安がよぎる。
周囲は交通量も多く、事故に遭うという可能性もなくはない。
人間と違って健康状態の遷移が早いから、昨夜のうちに病に罹り進行が早かったばかりに……という事態も想定できる。
いずれにしても屋外を生活の基盤としている猫の場合、その最期を看取るのはかなり難しい。
事故死なら遺骸を早々に片付けられてしまうし、病気や寿命だと弱みを外敵に見せないように、猫は誰にも見つからない場所に姿を隠す。
そしてそのまま息絶えることになり、時間とともに土に還ってしまう。
その点、奈緒は常に覚悟していた。
こうして世話をしている子たちの中で、ある日突然に姿を見せなくなった個体があったとしたら――。
その子が明日も明後日も、いつまでも現れなかったら――。
それが別れである、と彼女は思っていた。
しかし翌日。
亡骸すら拝めないと諦めていた奈緒は、思わぬかたちでその覚悟を裏切られることになってしまった。
「おばさん!」
いつものように小皿を並べていたところに、男の子が走ってきた。
猫たちは闖入者に驚いて蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。
「何するのよ! みんな逃げちゃったじゃない!」
普段、努めて感情の波を抑えている奈緒は、お気に入りの子がいなくなったこともあって、つい声を荒らげてしまった。
実際、こういう活動をしていると嫌がらせを受けることも何度かあったため、日頃の鬱憤が小爆発を起こしたようなものだった。
「おばさん、いつもここで餌やってるよね?」
怒鳴られても怯まない男の子は勇気があるといえるが、これは言葉選びがまずかった。
「きみ、どこの子……?」
相手は子どもだ。
怒るな。
冷静になれ。
奈緒は自分に言い聞かせる。
活動家が最も嫌う言葉のひとつは、“餌やり”だ。
これには“無責任な”という見えない接頭語が付いていて、地域猫活動の内容をよく知らない者が頭ごなしに否定する際の、常套句のようなものだった。
「そんなの後でいいよ。とにかく来て!」
男の子は奈緒の腕を掴んで引っ張った。
躾のなっていない子だ、と奈緒は思ったが、不意を衝かれたこともあり、また彼の表情が妙に切迫していたようだったのでそのままついて行くことにした。
「どこ行くのよ?」
「いいから!」
男の子は公園を飛び出し、迂回するように裏手の茂みに案内した。
公園と道路の境目になっている鉄柵。
誰も手入れしておらず、大人の膝の高さにまで生長した雑草が覆う一帯で。
奈緒は探していた仔猫と再会した。
白い粉を大量に浴び、もがき苦しんで土にまみれた薄汚れた姿は、アメリカンショートヘアのようだった柄の美しさを微塵も感じさせない。
「なに……これ……?」
手足が激しく痙攣している。
それだけではない。
ピンク色の舌が獲物を突き刺すようにまっすぐ伸びて、まるで何かを求めるように目をぎらつかせている。
奈緒は動けなかった。
理解が及ばなかった。
何が起きているのか、彼女の麻痺した脳がそれを知ろうとしなかった。
「おばさん!」
すぐ横で男の子が叫び、彼女は我に返った。
その時にはもう、仔猫は息絶えていた。
(なんなの、いったい……?)
茂みの奥に白い足跡が点々と続いている。
仔猫はどこかで何かをされ、ここまで逃げてきて力尽きた――。
しばらく経って冷静になった彼女でも、この程度しか分からなかった。
「ヘンな鳴き声がしたから見てみたら、こいつが……」
男の子がばつ悪そうに呟いた。
「どうして私を連れてきたの?」
奈緒は仔猫から目を離さずに訊いた。
「おばさんがいつも餌やりしてるの知ってたから……こいつもおばさんが見てた奴かもと思って、それで連れてきたんだ」
「そう……」
戸塚大虎と名乗った男の子は、さらに詳しい状況を話した。
友だちとサッカーをした後、家に帰ろうとしたところ、鳴き声がしたという。
猫のようで猫でないような、悲鳴にちかい声だったので、大虎は気になって辺りの様子を探った。
しばらくして声の出所がこの茂みだと分かり、覗いてみると横になって全身を痙攣させている仔猫を見つけたという。
「触ってない?」
「うん、触らないほうがいいと思って」
「そう、えらいわ」
奈緒は無表情のまま言った。
「ありがとう、よく教えてくれたわね」
「どうするんですか?」
「市に連絡して引き取ってもらうの。このままじゃかわいそうでしょ?」
発見した以上、死骸をそのままにしておくわけにはいかない。
といってこの時間では役所に連絡がつかないため、明日までは放置するか持ち帰るかしなければならない。
当然、放置などできない彼女は家のベランダに安置しようと思ったが、何となくその作業を大虎に見られたくない気がした。
「あとは私がやっておくわ」
やっておく、とはつまり事後の一切のことである。
「いいんですか?」
大虎が向ける疑うような視線が、責任感によるものか好奇心によるものか、奈緒には分からなかった。
「ええ、見つけてくれて、ありがとうね」
顛末を見届けたがっているふうの大虎に帰るように言い、奈緒はその場を立ち去っていく後ろ姿を見送った。
彼の靴底には白い粉が付着していた。

次の日、開庁と同時に奈緒は役所に連絡を入れた。
市の衛生局がやって来て、その日のうちに手際よく処分した。
局員は合掌こそしてくれたが、ゴミを片付けるように作業を済ませたので、奈緒は別れを惜しむ心情には至れなかった。
が、それでも良かった、と彼女は思っている。
律儀に手順を踏めば喪失感が大きくなるからだ。
仔猫は衛生局で保管され、他の死骸が集まるか、ある程度の期間を置いてから焼却される。
仔猫を見送ったあと、奈緒は人づてに公園の裏で起こったことを知った。
何者かが団地に備え付けの消火器でいたずらをしたらしい。
通りのあちこちに噴霧され、今も地面や壁に消火剤が付着しているという。
目撃者はなく、周囲には監視カメラも設置していなかったため、犯人の特定は難しいということだった。
奈緒はあの仔猫が粉にまみれていたのは、消火器の煙を浴びたか、付着した消火剤を踏んだのだと思った。
猫は体が汚れるとすぐに舐めとって綺麗にする習性がある。
しかし消火剤には猫が死に至るような物質は使われない。
だから悪意ある何者かが消火器に何かを混入し、それが付着した体を舐めたことで喉が焼けつく等して痙攣を起こしたのではないか。
奈緒はそう考えた。
猫殺し、というのは世間では意外に多い。
通り魔的な犯行ではなく、いずれも入念な下調べや準備をしているものだ。
たとえば毒餌。
猫にとって何が有害か、そしてそれを調達するのが如何に容易であるかは、インターネットで調べればすぐに分かる。
犯人はそうして作った毒餌を置き、獲物が食いつくのを辛抱強く待つ。
少量でも口にすれば死に至る、という寸法である。
餌ではなく、有害な物質そのものを仕掛けるという方法もある。
除草剤などの手軽に購入できる薬剤を通り道に撒くだけだ。
そこを歩いた猫は手足についた汚れを取ろうと、グルーミングを始める。
そうして薬剤を舐めた猫は、何が原因かも分からないうちに絶命する。
直接手を下したい輩の場合、彼らは標的が横切るまで我慢ができない。
里親募集の貼り紙や譲渡会の開催を目ざとくみつけ、真摯で柔和な仮面をかぶって名乗り出る。
かくして手に入れた里子は、晴れて里親の玩具となる。
親の仇かの如く、肉体的に苦痛を与えて死に至らしめる動画を、喜々としてネットに公開する狂人もいる。
こうした手合いが世の中に何人もいることを奈緒は知っているが、それがごく近くに潜んでいるとなると、恐怖と怒りを感じざるを得ない。
「犯人見つけたら、俺がぶん殴ってやりますよ!」
両の拳をぶつけて言う大虎は頼もしかったが、
「だめよ、そんな危ないこと。何をされるか分からないわ」
奈緒が慌てて止めた。
「ああいうのはね、いつか人間を標的にするの。必ずね。大虎君も気を付けるのよ? 怪しい奴を見かけたらすぐに逃げなさい」
という奈緒の言葉に、美子はミサキとの会話を思い出した。
大虎はやんちゃな少年らしい笑顔で言った。
「俺なら大丈夫っすよ!」
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