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第1章
69.小さな火種
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◆
「どうぞ、グランベル殿。中にお入りください」
北門近くに設置された兵士たちの詰め所。
そこでベルナルド商会会頭のグランベルに話しかけていたのはロイド隊長だった。
珍しい組み合わせといえばその通りだろう。ふたりの間にはほとんど接点がないはずなのだから。
にもかかわらずこんな状況が生まれたのは、とある理由がありグランベルがこの場所を訪れていたからだ。
「ご配慮いただき、誠にありがとうございます」
そう言ってグランベルが頭を下げる。
「いえ。事前にデニウス様から話を伺っていますので。何でも予定していた商品の入庫数が合わなかったとか?」
「はい。今回、エルセリアからの荷が到着したのが、運の悪いことに魔物騒動が起きた頃合いとほぼ一緒でして。予定していた一部の荷がジェネットの町まで到着していないのですよ。まあ、そちらはすでに紛失したものとして諦めておりますが、魔物騒動の混乱のせいで届いた荷まで倉庫にあった在庫と混ざってしまい、どの便が実際に届いていないのかわからない状態なのです」
「なるほど。それはさぞや大変なことでしょうな」
「ええ。当商会で働いている者たちも相当慌てていたらしく、ろくに積荷を確認せずに倉庫の中へと仕舞い込んでしまったようで……」
このときグランベルの顔に浮かんでいたのは、いかにも困った事態になったという苦々しげな表情だった。
といっても、商会員の失敗を責めている感じではなく、むしろ我々も今回の騒動の被害者なのだと言いたげな様子ではあったが。
「あれほどの大混乱ですからね。それも仕方ない話かと。それで、私どもは入市記録台帳をお見せすればよろしいのですよね?」
「はい。他国の人間には軽々しく見せられない内容だということも重々承知の上ですが……」
「今回は事情が事情ですからね。それにデニウス様が特別に許可を出しておられる。本来であればお断りするところですが、今回は特別ですよ」
「そう仰っていただければ非常に助かります」
「それで、たしか先日の北門と西門の入市状況がお知りになりたいということでしたね。えーっと、これか。こちらになります」
「ほほう、こちらが……。帳簿のほうと照らし合わせるので、少々お時間をいただきたいのですが?」
「ええ。持ち出されるのはさすがに勘弁願いますが、この場にて確認される分には構いませんよ」
横にあった戸棚からロイド隊長が1冊の台帳を取り出す。
その台帳にはどこの商会の何と言う者がどのような商品を積んで、いつ何時門を通過したのかが記されていた。
ジェネットの町へ入る場合、手ぶらの通行人ならばよほど怪しい人物でもないかぎり素通りさせているが、馬車や大荷物を運んでいる場合には逐一検問を受けることになっている。
それというのも、グラン領の外部からやってきた荷に関しては物品入市税を徴収しているからだ。
その台帳を見れば他国や他領からグラン領へ運ばれてきた物資の数量や、徴税額までもが丸わかり。グラン領の経済状況がわかってしまうため、普通なら安易に見せていいものではないはず。
「つかぬことをお尋ね致しますが、仮に当商会の荷馬車が空だった場合にもこの台帳には記入されるわけですか?」
「一応そういう決まりですからね。荷馬車の中身が空であろうが、商業用の馬車でなかろうが、名前だけは記入させていただく決まりになっていますよ」
「なるほど。して、それはどなたに対してでもでしょうか?」
「安全のためでもありますので。ただし相手が高貴なお方の場合は、代わりに従者や御者の方の名前を記入するだけで済ませますがね。それが何か?」
一連のグランベルの質問に違和感を覚えたのかも知れない。
それにベルナルド商会の荷の一部が所在不明になっているからといって、わざわざこんなところへ確認に来るのもどこかおかしいような気がする。
そんな疑問もあってロイド隊長の顔に浮かんでいたのは、少しばかり訝しむような視線だった。
「いえ。今後マガルムークにて商売をさせていただけることになりましたので、どうせならこちらの決まりをしっかり覚えておこうかと」
「グランベル殿のお国とはやり方が違うかも知れませんな。とはいえ他国の方であっても我が領のやり方には従っていただきますが」
「いやいや。エルセリアもほとんど変わりませんよ。というか、私としてはむしろ感心したぐらいなのです。厳しく取り締まっておられるようで何よりだと」
そうはいってもグランベルの行動にそこまで不審な点は見当たらない。
そもそもグランベルへ渡した台帳に記されているのはせいぜい2,3日分の記録だけだ。それでグラン領の様子が何かわかるとも思えない。
それにグランベルはロイド隊長が見ているすぐ目の前で、台帳をペラペラと捲りながら自分の商会員の名前を見つけては、持参した帳簿らしきものと照らし合わせているだけ。
特に不自然な様子は見当たらなかった。
いずれにせよ、直々にデニウスが許可を出しているのだ。
どことなく気になるからという理由だけで、グランベルの行動を制止する権限がロイド隊長にはなかったのだが。
「ふぅ。この便とこの便か……。ジェネットの町へ到着していない便の確認ができました」
「それはよかったですな。それならもうよろしいので?」
「はい、大丈夫です。本当に助かりましたよ」
そう言って深々頭を下げようとしてくるグランベルのことを、手を振って止めに入るロイド隊長。
確認作業も思っていたより短時間で済んだようだし、おそらく自分の気のせいだろう。
そう考えたロイド隊長はグランベルが詰め所から出ていってすぐ、グランベルに覚えた違和感を頭の中から消し去っていた。
◆
月明かりが原野に伸び、その場に大勢の人影を照らし出す。周りに何もないひらけた原野には肌を刺すような冷たい風が吹いていた。
その人影は400名近い亜人の集団だった。
どうやらその亜人たちは野営の準備中らしく、焚き火の炎が風に吹かれて揺らいでいる様子がそこかしこに映っていた。
野営の準備といっても荷物を降ろし風よけとして周りに置いただけだ。この場で一晩過ごすためにいちいち天幕を張るわけにもいかないのだろう。
この強行軍も順調に行けばあと3日か4日で済むはず。少なくとも亜人たちはイオスからそう聞いている。
ただ、今夜は野ざらしのまま眠るしかないとしても、こうも寒くてはろくに眠れるかどうか。
明日も明後日も歩きっぱなしで移動することを考えると、少しでも身体を休めておきたいところなのに。
それでも雨が降っていない分マシだろう。
これで雨にでも降られたら、体力のない子供や老人連中にはかなり厳しいことになりそうだ。
そんな考えが亜人たちの頭をチラついていたが、文句を言ったところでどうにかなる状況でもない。
亜人たちは野営の準備を終えたそばから、少しでも暖を取ろうと焚き火の周りに集まり、身を寄せ合って何とか寒さを凌いでいる様子だった。
「ゴルドンの兄貴。それであんたはどう思うよ?」
「あん? どう思うっていったい何がだよ、ジータ」
「他でもないイオス様のことだよ。このままあの方に付いていって大丈夫だと思うか?」
「そりゃおめえ。マズイに決まってんだろ。税を7割も取られちまって、おめえは生きていけると思ってんのか? 元の村でだって、皆食うもんに事欠いていつもひもじい思いをしてたってのによお」
白狼族のゴルドンにそう話かけていたのは、つい先日ジェネットの町に避難してきたばかりだったという牙虎族のジータ。
ただ、ガウスが率いている集団とはまったく別の場所から来たという話で、ジェネットの町に到着するまではガウスたちとまったく面識がなかったらしい。
その場に居たのはそのふたりだけではない。
それぞれの種族の中でも特に厄介者扱いされていた連中とでも言えばいいのか、族長や群れの決定にたびたび異を唱えたり、何かとケチを付けたがる亜人が30名ほどゴルドンの周りには集まっていた。
ただ、元々獣人系の亜人とは多少距離を置いている半妖精族の姿だけはその場に見られなかったが。
「でもよ。イオス様の話だと、その分収穫が多いっていうじゃねえか。だったら何とかなるんじゃ?」
「ランガ。おめえはあんな話を真に受けてんのかよ。あんなもん嘘っぱちに決まってるだろ。実際には収穫が少なかったとしても、今年は不作だったってことにすりゃあそれで済む話なんだからよ」
「そんなまさか。アグランソル様が俺たちのことを騙すはずが……」
「だから、おめえはそこから騙されてんのよ。あいつがアグランソルだなんて誰が決めた? 証拠なんかどこにもないのに馬鹿な連中が騒いでいるだけなんだよ」
「イオス様もその件については否定しておられたしな」
ゴルドンの言葉に同調するようにジータが言葉を重ねる。
その言葉を聞くかぎりではゴルドンとジータのふたりがイオスに対して懐疑的であり、ランガだけが一応はイオスのことを信じている様子らしい。
そんな3人の会話を黙って聞いていたほかの連中も、ゴルドンの言葉に頷いている連中と首を捻っている連中が半々という感じで、現在の状況に不満をこぼしている者がこの場には多かった。
「それにおりゃあよお、あいつがふらっとジェネットの町に現れたときから怪しいんじゃねえかと睨んでたんだわ。こいつは裏に何か目的があって、俺らを助けるフリをしてるのかも知れねえってな。そうでなきゃ、たまたま同じ時期にジェネットの町へやって来て、たまたま行く宛のない俺たちが安全に暮らせる場所を知っていたってことになっちまうだろ?」
「そう言われてみれば、ちょっとだけ都合が良過ぎるような気も……」
「だろ? 腕のほうはちょっとばかし立つかも知れねえが、それだけでアグランソルだと決めつけるのはおかしいだろ。それどころか俺たちのことをうまい具合に扱き使ってやろうとしている悪いやつなのかも知れねえんだぞ」
「それじゃあ、このままイオス様に付いていかないほうがいいのか?」
ゴルドンとジータの言葉を聞いて、どうやらランガも少しだけイオスに対する信頼が揺らいできたらしい。
ランガは弱々しい声を出して、ゴルドンにどうしたらいいのかと尋ねていた。
「俺は途中で抜ける気でいるがな。マガルムークを捨てるってことは、この国の裏切り者になるってことでもあるんだぞ。おめえたちはそれで良いのか?」
「だがよ。それならそれで、俺たちはいったいどこへ行けばいいっていうんだよ?」
「こうなったらマクシミリアン侯爵のところにでも行ってみるか? あそこは亜人だからって拒絶されないっていう話じゃねえか」
「え? 戦争に参加するのか?」
「ろくに武器も持たない状態で俺たちはたくさんの魔物を倒してきたんだぜ。農奴になってまたひもじい思いをするより、戦場で手柄でも立てて出世したほうがよっぽど賢い選択ってなもんよ」
「よーし、決めた。俺はゴルドンの兄貴に付いていくぞ」
「ジータ、お前……」
突然のジータの宣言にランガが驚いたような表情を浮かべる。
周りにいた亜人たちもお互いの顔を見合わせながら、ランガと同じようにゴルドンに付いていくべきか、まだ決めかねている様子だった。
「聞くところによると、マクシミリアン侯爵のほうがちょっとだけ優勢らしいじゃねえか。俺たちの出番はもうないかも知れないが、それならそれで戦争が終わったあとこれまでと同じように普通に暮せばいいだけさ」
「戦争かあ……」
そう呟いたあとランガがブルッと身を震わせる。
それは今も吹いている冷たい風のせいだったのか、戦争に参加することへの恐怖心からだったのか。
ゴルドンとジータの間を行ったり来たりするランガの視線。そんなランガの顔に葛藤している様子が浮かんでいるように、ほかの亜人たちには見えていた。
◆
「ふふふ。ふふっ……、あはははははははははは」
室内から聞こえてきた狂ったようなクリスティーナの笑い声を耳にし、侍女のメルが驚いて椅子から立ち上がる。
本日、来客の予定はないはず。お嬢様の部屋に誰かを通したという記憶もメルにはない。
だが、中から聞こえてくる笑い声は、ひとり思い出し笑いをしているような感じでもなかった。
変わり者のクリスティーナお嬢様のことだ。また何かおかしなことを始めたのかも知れない。
そう思ったメルは、クリスティーナお嬢様の安否を確認しようと思い、念のために部屋のドアを叩いていた。
「お嬢様。いかがなされましたか?」
その問いかけには返事がなく、あいかわらず狂ったような笑い声が聞こえてくるだけ。
「クリスティーナお嬢様。大丈夫ですか? もしやどなたかと一緒におられたりします? すみませんがお部屋の中に入らさせていただきますよ」
心配になったメルがガチャリとドアノブを回し、隙間から部屋の中を覗き込む。
と、そこに見えたのは、何も身に着けていない状態で嬉しそうに笑い声をあげるクリスティーナの姿だった。
「申し訳ございません。もしかしてお着替え中でしたか?」
その声でようやくメルの存在に気づいたのか、クリスティーナが後ろを振り向く。
「あら、メル。いったいどうしたの? 私に何か用かしら?」
「いえ。お嬢様のお声が聞こえてきましたので。まさか何事かあったのかと」
「何もないわよ。そんなことでいちいち部屋の様子を見にこなくてもいいから……。いえ、そうね。ちょうどよかったわ。メル、私の身体があなたにはどう見える?」
そう言ってメルのほうへ振り返り、恥ずかしげもなくメルに全裸をさらすクリスティーナ。
といってもメルはクリスティーナお付きの侍女だ。
クリスティーナの裸体などほとんど毎日のように目にしていたし、着替えを手伝うときには直接肌に触れたりもする。今更、裸を見たぐらいでどうもこうもなかったが。
ただ、クリスティーナの質問の意図が掴めなかったせいで、メルのほうはあきらかに困惑している様子だった。
「お嬢様のお身体でしょうか? 相変わらず、お美しいかと」
「そうじゃないわよ。いつもとどこか違うところはないかしら?」
「違うところ……でしょうか? もしやお胸が大きくなられたとか?」
いささか不作法な物言いではあったが、褒め言葉には違いない。
クリスティーナお嬢様が自慢げに尋ねてきたぐらいだ。それに女性としての魅力が社交の場では有利に働くこともある。
多少、気を利かせたつもりでそう答えたメルだったが、クリスティーナの顔に浮かんだのはメルのことを馬鹿にしたような表情だった。
「ふふふ、やっぱり。以前導師様が仰られていたように、選ばれし使徒同士にしか見えないようね」
「はい?」
「もういいわ。下がりなさい、メル」
「あ、あの……。お嬢様?」
「聞こえなかったの? 私は下がれと言ったはずよ」
と、クリスティーナが少しだけ声を荒らげた瞬間――、
見えない何かに押されたかのように、メルはその場に尻もちを付いていた。
「ふふふ。そうなのね……。これが私の力。これが私に与えられたギフトなのね」
まるで赤子でも身籠ったかのように、突然自分の下腹部をさすり始めるクリスティーナ。その顔には夢見心地のようなうっとりとした表情すら浮かんでいた。
といっても、クリスティーナの気が触れたわけではない。
クリスティーナの目には、自分の下腹部に邪神ザルサスから授けられた使徒の印がはっきりと映っていたのだから。
「どうぞ、グランベル殿。中にお入りください」
北門近くに設置された兵士たちの詰め所。
そこでベルナルド商会会頭のグランベルに話しかけていたのはロイド隊長だった。
珍しい組み合わせといえばその通りだろう。ふたりの間にはほとんど接点がないはずなのだから。
にもかかわらずこんな状況が生まれたのは、とある理由がありグランベルがこの場所を訪れていたからだ。
「ご配慮いただき、誠にありがとうございます」
そう言ってグランベルが頭を下げる。
「いえ。事前にデニウス様から話を伺っていますので。何でも予定していた商品の入庫数が合わなかったとか?」
「はい。今回、エルセリアからの荷が到着したのが、運の悪いことに魔物騒動が起きた頃合いとほぼ一緒でして。予定していた一部の荷がジェネットの町まで到着していないのですよ。まあ、そちらはすでに紛失したものとして諦めておりますが、魔物騒動の混乱のせいで届いた荷まで倉庫にあった在庫と混ざってしまい、どの便が実際に届いていないのかわからない状態なのです」
「なるほど。それはさぞや大変なことでしょうな」
「ええ。当商会で働いている者たちも相当慌てていたらしく、ろくに積荷を確認せずに倉庫の中へと仕舞い込んでしまったようで……」
このときグランベルの顔に浮かんでいたのは、いかにも困った事態になったという苦々しげな表情だった。
といっても、商会員の失敗を責めている感じではなく、むしろ我々も今回の騒動の被害者なのだと言いたげな様子ではあったが。
「あれほどの大混乱ですからね。それも仕方ない話かと。それで、私どもは入市記録台帳をお見せすればよろしいのですよね?」
「はい。他国の人間には軽々しく見せられない内容だということも重々承知の上ですが……」
「今回は事情が事情ですからね。それにデニウス様が特別に許可を出しておられる。本来であればお断りするところですが、今回は特別ですよ」
「そう仰っていただければ非常に助かります」
「それで、たしか先日の北門と西門の入市状況がお知りになりたいということでしたね。えーっと、これか。こちらになります」
「ほほう、こちらが……。帳簿のほうと照らし合わせるので、少々お時間をいただきたいのですが?」
「ええ。持ち出されるのはさすがに勘弁願いますが、この場にて確認される分には構いませんよ」
横にあった戸棚からロイド隊長が1冊の台帳を取り出す。
その台帳にはどこの商会の何と言う者がどのような商品を積んで、いつ何時門を通過したのかが記されていた。
ジェネットの町へ入る場合、手ぶらの通行人ならばよほど怪しい人物でもないかぎり素通りさせているが、馬車や大荷物を運んでいる場合には逐一検問を受けることになっている。
それというのも、グラン領の外部からやってきた荷に関しては物品入市税を徴収しているからだ。
その台帳を見れば他国や他領からグラン領へ運ばれてきた物資の数量や、徴税額までもが丸わかり。グラン領の経済状況がわかってしまうため、普通なら安易に見せていいものではないはず。
「つかぬことをお尋ね致しますが、仮に当商会の荷馬車が空だった場合にもこの台帳には記入されるわけですか?」
「一応そういう決まりですからね。荷馬車の中身が空であろうが、商業用の馬車でなかろうが、名前だけは記入させていただく決まりになっていますよ」
「なるほど。して、それはどなたに対してでもでしょうか?」
「安全のためでもありますので。ただし相手が高貴なお方の場合は、代わりに従者や御者の方の名前を記入するだけで済ませますがね。それが何か?」
一連のグランベルの質問に違和感を覚えたのかも知れない。
それにベルナルド商会の荷の一部が所在不明になっているからといって、わざわざこんなところへ確認に来るのもどこかおかしいような気がする。
そんな疑問もあってロイド隊長の顔に浮かんでいたのは、少しばかり訝しむような視線だった。
「いえ。今後マガルムークにて商売をさせていただけることになりましたので、どうせならこちらの決まりをしっかり覚えておこうかと」
「グランベル殿のお国とはやり方が違うかも知れませんな。とはいえ他国の方であっても我が領のやり方には従っていただきますが」
「いやいや。エルセリアもほとんど変わりませんよ。というか、私としてはむしろ感心したぐらいなのです。厳しく取り締まっておられるようで何よりだと」
そうはいってもグランベルの行動にそこまで不審な点は見当たらない。
そもそもグランベルへ渡した台帳に記されているのはせいぜい2,3日分の記録だけだ。それでグラン領の様子が何かわかるとも思えない。
それにグランベルはロイド隊長が見ているすぐ目の前で、台帳をペラペラと捲りながら自分の商会員の名前を見つけては、持参した帳簿らしきものと照らし合わせているだけ。
特に不自然な様子は見当たらなかった。
いずれにせよ、直々にデニウスが許可を出しているのだ。
どことなく気になるからという理由だけで、グランベルの行動を制止する権限がロイド隊長にはなかったのだが。
「ふぅ。この便とこの便か……。ジェネットの町へ到着していない便の確認ができました」
「それはよかったですな。それならもうよろしいので?」
「はい、大丈夫です。本当に助かりましたよ」
そう言って深々頭を下げようとしてくるグランベルのことを、手を振って止めに入るロイド隊長。
確認作業も思っていたより短時間で済んだようだし、おそらく自分の気のせいだろう。
そう考えたロイド隊長はグランベルが詰め所から出ていってすぐ、グランベルに覚えた違和感を頭の中から消し去っていた。
◆
月明かりが原野に伸び、その場に大勢の人影を照らし出す。周りに何もないひらけた原野には肌を刺すような冷たい風が吹いていた。
その人影は400名近い亜人の集団だった。
どうやらその亜人たちは野営の準備中らしく、焚き火の炎が風に吹かれて揺らいでいる様子がそこかしこに映っていた。
野営の準備といっても荷物を降ろし風よけとして周りに置いただけだ。この場で一晩過ごすためにいちいち天幕を張るわけにもいかないのだろう。
この強行軍も順調に行けばあと3日か4日で済むはず。少なくとも亜人たちはイオスからそう聞いている。
ただ、今夜は野ざらしのまま眠るしかないとしても、こうも寒くてはろくに眠れるかどうか。
明日も明後日も歩きっぱなしで移動することを考えると、少しでも身体を休めておきたいところなのに。
それでも雨が降っていない分マシだろう。
これで雨にでも降られたら、体力のない子供や老人連中にはかなり厳しいことになりそうだ。
そんな考えが亜人たちの頭をチラついていたが、文句を言ったところでどうにかなる状況でもない。
亜人たちは野営の準備を終えたそばから、少しでも暖を取ろうと焚き火の周りに集まり、身を寄せ合って何とか寒さを凌いでいる様子だった。
「ゴルドンの兄貴。それであんたはどう思うよ?」
「あん? どう思うっていったい何がだよ、ジータ」
「他でもないイオス様のことだよ。このままあの方に付いていって大丈夫だと思うか?」
「そりゃおめえ。マズイに決まってんだろ。税を7割も取られちまって、おめえは生きていけると思ってんのか? 元の村でだって、皆食うもんに事欠いていつもひもじい思いをしてたってのによお」
白狼族のゴルドンにそう話かけていたのは、つい先日ジェネットの町に避難してきたばかりだったという牙虎族のジータ。
ただ、ガウスが率いている集団とはまったく別の場所から来たという話で、ジェネットの町に到着するまではガウスたちとまったく面識がなかったらしい。
その場に居たのはそのふたりだけではない。
それぞれの種族の中でも特に厄介者扱いされていた連中とでも言えばいいのか、族長や群れの決定にたびたび異を唱えたり、何かとケチを付けたがる亜人が30名ほどゴルドンの周りには集まっていた。
ただ、元々獣人系の亜人とは多少距離を置いている半妖精族の姿だけはその場に見られなかったが。
「でもよ。イオス様の話だと、その分収穫が多いっていうじゃねえか。だったら何とかなるんじゃ?」
「ランガ。おめえはあんな話を真に受けてんのかよ。あんなもん嘘っぱちに決まってるだろ。実際には収穫が少なかったとしても、今年は不作だったってことにすりゃあそれで済む話なんだからよ」
「そんなまさか。アグランソル様が俺たちのことを騙すはずが……」
「だから、おめえはそこから騙されてんのよ。あいつがアグランソルだなんて誰が決めた? 証拠なんかどこにもないのに馬鹿な連中が騒いでいるだけなんだよ」
「イオス様もその件については否定しておられたしな」
ゴルドンの言葉に同調するようにジータが言葉を重ねる。
その言葉を聞くかぎりではゴルドンとジータのふたりがイオスに対して懐疑的であり、ランガだけが一応はイオスのことを信じている様子らしい。
そんな3人の会話を黙って聞いていたほかの連中も、ゴルドンの言葉に頷いている連中と首を捻っている連中が半々という感じで、現在の状況に不満をこぼしている者がこの場には多かった。
「それにおりゃあよお、あいつがふらっとジェネットの町に現れたときから怪しいんじゃねえかと睨んでたんだわ。こいつは裏に何か目的があって、俺らを助けるフリをしてるのかも知れねえってな。そうでなきゃ、たまたま同じ時期にジェネットの町へやって来て、たまたま行く宛のない俺たちが安全に暮らせる場所を知っていたってことになっちまうだろ?」
「そう言われてみれば、ちょっとだけ都合が良過ぎるような気も……」
「だろ? 腕のほうはちょっとばかし立つかも知れねえが、それだけでアグランソルだと決めつけるのはおかしいだろ。それどころか俺たちのことをうまい具合に扱き使ってやろうとしている悪いやつなのかも知れねえんだぞ」
「それじゃあ、このままイオス様に付いていかないほうがいいのか?」
ゴルドンとジータの言葉を聞いて、どうやらランガも少しだけイオスに対する信頼が揺らいできたらしい。
ランガは弱々しい声を出して、ゴルドンにどうしたらいいのかと尋ねていた。
「俺は途中で抜ける気でいるがな。マガルムークを捨てるってことは、この国の裏切り者になるってことでもあるんだぞ。おめえたちはそれで良いのか?」
「だがよ。それならそれで、俺たちはいったいどこへ行けばいいっていうんだよ?」
「こうなったらマクシミリアン侯爵のところにでも行ってみるか? あそこは亜人だからって拒絶されないっていう話じゃねえか」
「え? 戦争に参加するのか?」
「ろくに武器も持たない状態で俺たちはたくさんの魔物を倒してきたんだぜ。農奴になってまたひもじい思いをするより、戦場で手柄でも立てて出世したほうがよっぽど賢い選択ってなもんよ」
「よーし、決めた。俺はゴルドンの兄貴に付いていくぞ」
「ジータ、お前……」
突然のジータの宣言にランガが驚いたような表情を浮かべる。
周りにいた亜人たちもお互いの顔を見合わせながら、ランガと同じようにゴルドンに付いていくべきか、まだ決めかねている様子だった。
「聞くところによると、マクシミリアン侯爵のほうがちょっとだけ優勢らしいじゃねえか。俺たちの出番はもうないかも知れないが、それならそれで戦争が終わったあとこれまでと同じように普通に暮せばいいだけさ」
「戦争かあ……」
そう呟いたあとランガがブルッと身を震わせる。
それは今も吹いている冷たい風のせいだったのか、戦争に参加することへの恐怖心からだったのか。
ゴルドンとジータの間を行ったり来たりするランガの視線。そんなランガの顔に葛藤している様子が浮かんでいるように、ほかの亜人たちには見えていた。
◆
「ふふふ。ふふっ……、あはははははははははは」
室内から聞こえてきた狂ったようなクリスティーナの笑い声を耳にし、侍女のメルが驚いて椅子から立ち上がる。
本日、来客の予定はないはず。お嬢様の部屋に誰かを通したという記憶もメルにはない。
だが、中から聞こえてくる笑い声は、ひとり思い出し笑いをしているような感じでもなかった。
変わり者のクリスティーナお嬢様のことだ。また何かおかしなことを始めたのかも知れない。
そう思ったメルは、クリスティーナお嬢様の安否を確認しようと思い、念のために部屋のドアを叩いていた。
「お嬢様。いかがなされましたか?」
その問いかけには返事がなく、あいかわらず狂ったような笑い声が聞こえてくるだけ。
「クリスティーナお嬢様。大丈夫ですか? もしやどなたかと一緒におられたりします? すみませんがお部屋の中に入らさせていただきますよ」
心配になったメルがガチャリとドアノブを回し、隙間から部屋の中を覗き込む。
と、そこに見えたのは、何も身に着けていない状態で嬉しそうに笑い声をあげるクリスティーナの姿だった。
「申し訳ございません。もしかしてお着替え中でしたか?」
その声でようやくメルの存在に気づいたのか、クリスティーナが後ろを振り向く。
「あら、メル。いったいどうしたの? 私に何か用かしら?」
「いえ。お嬢様のお声が聞こえてきましたので。まさか何事かあったのかと」
「何もないわよ。そんなことでいちいち部屋の様子を見にこなくてもいいから……。いえ、そうね。ちょうどよかったわ。メル、私の身体があなたにはどう見える?」
そう言ってメルのほうへ振り返り、恥ずかしげもなくメルに全裸をさらすクリスティーナ。
といってもメルはクリスティーナお付きの侍女だ。
クリスティーナの裸体などほとんど毎日のように目にしていたし、着替えを手伝うときには直接肌に触れたりもする。今更、裸を見たぐらいでどうもこうもなかったが。
ただ、クリスティーナの質問の意図が掴めなかったせいで、メルのほうはあきらかに困惑している様子だった。
「お嬢様のお身体でしょうか? 相変わらず、お美しいかと」
「そうじゃないわよ。いつもとどこか違うところはないかしら?」
「違うところ……でしょうか? もしやお胸が大きくなられたとか?」
いささか不作法な物言いではあったが、褒め言葉には違いない。
クリスティーナお嬢様が自慢げに尋ねてきたぐらいだ。それに女性としての魅力が社交の場では有利に働くこともある。
多少、気を利かせたつもりでそう答えたメルだったが、クリスティーナの顔に浮かんだのはメルのことを馬鹿にしたような表情だった。
「ふふふ、やっぱり。以前導師様が仰られていたように、選ばれし使徒同士にしか見えないようね」
「はい?」
「もういいわ。下がりなさい、メル」
「あ、あの……。お嬢様?」
「聞こえなかったの? 私は下がれと言ったはずよ」
と、クリスティーナが少しだけ声を荒らげた瞬間――、
見えない何かに押されたかのように、メルはその場に尻もちを付いていた。
「ふふふ。そうなのね……。これが私の力。これが私に与えられたギフトなのね」
まるで赤子でも身籠ったかのように、突然自分の下腹部をさすり始めるクリスティーナ。その顔には夢見心地のようなうっとりとした表情すら浮かんでいた。
といっても、クリスティーナの気が触れたわけではない。
クリスティーナの目には、自分の下腹部に邪神ザルサスから授けられた使徒の印がはっきりと映っていたのだから。
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
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巻き込まれた薬師の日常
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商人見習いの少年に憑依した薬師の研究・開発日誌です。自分の居場所を見つけたい、認められたい。その心が原動力となり、工夫を凝らしながら商品開発をしていきます。巻き込まれた薬師は、いつの間にか周りを巻き込み、人脈と産業の輪を広げていく。現在3章継続中です。【カクヨムでも掲載しています】レイティングは念の為です。
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