BYOND A WORLD

四葉八朔

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第1章

64.怪物の咆哮

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 ◆

 静寂の中、コツコツという靴音が鳴り響く。
 そこにはひとり黙って石造りの螺旋階段を下りていく男の姿が見えていた。
 だが、頭からすっぽりとローブのフードをかぶっているせいで男の顔はよく見えない。
 それでなくても辺りは薄暗く、男の顔どころか周囲の様子さえも薄ぼんやりとしか見えなかったほどだ。
 壁掛けランタンや燭台のようなものは一切置かれておらず、どうやらローブ姿の男が手にする松明の灯りだけが唯一の光源らしい。
 おそらくこの場所には滅多に人が訪れないのだろう。シンと静まり返った様子の中に靴音だけが鳴り響き、男が異質な来訪客であることを伝えていた。

 この場所がどこなのかはわからない。
 とはいえ、円柱状の建造物内部であることは想像が付く。壁際に沿って、円を描くように螺旋階段が設置されていたからだ。
 そして中央部分は吹き抜けになっており、遥か下のほうまでずっと空洞が続いている様子だった。

 が、塔ではない。
 壁面には窓のようなものがどこにも見当たらなかったし、階段途中に階層なども一切存在しなかったからだ。それに息苦しさを感じそうなほど淀んだ空気が、おごそかな雰囲気を感じさせるとともに、この場所が地下であることを如実に物語っていた。
 そんな地中深い暗き場所で、ひたすら地下へと向かうローブ姿の男の足音に交じって、どこからかギシギシという金属同士が擦れるような音も聞こえてくる。

 一瞬、松明の灯りが壁際から中央部分へと向かって伸びているらしい何かを照らす。
 ローブ姿の男が地下へと下りていくたびにその何かは次第に増えていき、四方八方から中央部分に向かって伸びている様子だった。

 と、いまだ階段を下りている途中だというのに、ローブ姿の男が突然足を止める。
 そして手にした松明を上方に掲げると、暗い闇の中に何か大きな影のようなものが浮かんでいた。

「久しいな、友よ」

 ふいに男が大きな影に向かって口を開く。
 その様子からすれば、おそらく男の目の前には何者かが居るはずだ。
 だが、その言葉には返事がなかった。
 いや、もしかしたら男のほうも最初から返事など期待していなかったのかも知れない。ローブ姿の男は相手の返事すら待たずに、ひとり言葉を繋いでいたからだ。

「それにしてもいつぶりだろうね。悠久の時を過ごす者同士にとっては、一瞬のことのようにも思えるが。それでどうだい? 母なる神に少しでも祈りが届いたかな?」

 そんな男の問いかけに対し、恐ろし気な唸り声が響く。
 だが、それは返答というより地響きのような咆哮。
 そして敵意と憎悪が込められた怒りの咆哮であるようにも感じられた。

 気の弱い者ならそれだけで腰を抜かしていたはずだ。
 だが、男のほうはフードの下で愉快そうに口元を歪ませただけ。まるで目の前に相手を嘲笑っているかのようなその態度は、とても久しぶりに友人に会って再会を喜んでいるようには思えなかった。

「ふふふ……。ザルサスよ、いや、かつて我々がそう呼んでいたように、アグラと呼ぶべきかな? それは聖印が刻まれた鎖だ。いくら暴れようとも、自身が苦痛にさいなまれるだけってことぐらいわかっているだろ?」

 ギシギシと鎖がきしむ。
 だが、そんな抵抗などローブ姿の男の言うとおり無駄でしかなかった。
 上半身だけでも優に数メートルはありそうな巨体。
 松明の灯りに薄っすらと照らされたそこには、鎖に繋がれたままの巨大な怪物の姿があった。

 ◇

 現在、俺はセレネ公国所有の魔導船に乗船するため、桟橋のほうに向かっている最中だった。
 動いている魔導船にどうしても乗ってみたいと言ってきたエレナの我儘のせいだ。

 魔導船に乗せること自体は構わない。
 別に隠すこともないというか、隠さなければならないような場所は、俺たち以外にはけっして入れない仕様になっているからだ。
 だが、王女であるラウフローラや提督であるバルムンドがエレナの案内役として付いてまわるのもおかしな話。必然的に俺とリリアーテのところへそのお鉢が回ってきたというわけだった。
 まあ、マガルムークのほうの後始末はアケイオスに任せてある。エルセリア王国からの新たな使者がここ港町ポートラルゴに到着するまで、俺にこれといった用事もなかったのだが。

「みょおおおおおおおおおおおお!」

 大通りに出た途端。
 魚の干物の匂いにでも釣られたのか、奇声を発した孫六が露店のほうへと駆け寄っていく。

 今、この場に居るのは俺とリリアーテと孫六、そしてエレナとマーカス少年の4人と1匹。
 正直、孫六まで連れてくることになるのは予定外だった。
 一緒にお船に乗りに行きましょうというエレナの言葉を理解したのかどうかは不明だが、孫六のほうがすっかりお出掛けする気になってしまったからだ。

 世話役のリリアーテの話によれば、単純な会話程度なら孫六もある程度は理解しているとのこと。それだけにとどまらず、微妙な鳴き声の変化から推測した結果、極めて単純ではあるものの、一定の行動パターンに沿った発声もしているとの話だった。
 といっても今回は俺たちが揃って屋敷から出ていくときに、のこのこと孫六も一緒に付いてきただけ。
 そうでなくても普段から孫六のことはリリアーテに任せっきりだ。そのリリアーテが屋敷から出ていこうとする姿を見て、当たり前のように自分も付いてくる気になっただけなのかも知れない。

「孫六。あなたはさっきおやつを食べたばかりでしょう?」
「みょ? みょおお。みょっ! みょっ!」
「駄目よ。帰る頃には夕ご飯の時間だと思うからね。もう少し我慢して」
「みょおおお……」

 露店においてあった魚の干物に、今にもかぶりつきそうになっていた孫六のことをリリアーテが止めに入る。
 孫六が何と言っているのか俺にはわからなかったが、何となくニュアンスは伝わってくる。
 というか、鳴き声がどうこう以前の問題で、あの程度のやり取りなら誰が見ても何となく理解できたはずだ。俺だけではなく、エレナにも今のやり取りがどういう意味なのかわかったぐらいなのだから。

「ちょっとぐらい夕飯前に買い食いしたっていいじゃないの。孫六、どの魚が欲しかったの? 私が買ってあげるからね」
「おいおい。あまり孫六を甘やかすなよ」

 勝手に餌を与えるなと言っているわけではない。
 孫六は人間が食べるようなものならほとんどのものは平気だし、少しぐらい間食したってそれほど問題はない。
 それにエレナは孫六のことを気に入っている様子。
 問題はその想いが片想いで、エレナが近付くたびに孫六がすぐに逃げ出してしまうことだろう。そのせいで、孫六と何とかお近づきになりたいと願っているエレナが苦戦していることも俺は知っていた。
 ただし、そのご機嫌取りのためだけにあれやこれやと、やたら与えてしまっていたらキリがない。俺としてはその辺を注意しただけなのだが。

「レッドさんってあれよね。まるでスチュワードみたいだわ。ねっ、マーカス。そう思わない?」
「あ、いえ……」
「ふん。どこのどいつかは知らんが、俺に似ているってことは相当にいい男なんだろうな」
「眉間に皺を寄せながら、お嬢様あれはいけません、お嬢様これをしてはなりませんって、いつもいつもお小言ばかり言う我が家の家令よ。ちなみに私のおじいちゃんと言っていいぐらいの年齢だけどね」
「ほお。そいつはずいぶんと道理のわかった立派なお方じゃないか。そのスチュワードさんとやらも苦労しているに違いないがな」
「それはどういう意味よ?」
「そのままの意味だ。我儘なお嬢様に振り回されて、さぞや苦労しているだろうってな。どこかの誰かさんがどうしても魔導船に乗りたいっていうので、今もこうして付き合わされているぐらいだからな」

 そんな俺の言葉を聞いたエレナが忌々しげに鼻を鳴らす。

「ふんっ。レッドさんって女性にモテないでしょ?」
「は? これまでの話と女性にモテるかモテないかにいったい何の関係が?」
「レディーが多少我儘を言ったぐらいでいちいち文句を言わないで、黙ってエスコートするのが紳士ってものでしょ? セレネ公国ではもしかして違うのかしら?」
「そのレディーっていうのが貞淑な淑女だったらな。お転婆なお嬢さんの相手は最初から俺の専門外なんだよ。というか、そもそも俺は孫六に物をあげるなと言っているわけではないぞ」

 大人げない対応だということは俺もわかっている。
 といっても、別にエレナのことを嫌っているわけではない。多少生意気なところはあるが、貴族の娘でこれだったら割とまともなほうではないかと思っているぐらいだ。
 ただ、エレナとの出会いが少しばかり険呑な空気になってしまったこともある。
 それでなくても娘を送ってきたジークバード伯爵の真意がいまいち読めなくて、今も警戒してエレナの出方をうかがっているぐらいだ。
 といっても、セレネ公国の人間が全員エレナに対して友好的に接していたら、それはそれで裏に何かありそうだと怪しまれてしまうだけだろう。
 バルムンドだったりラウフローラ辺りがエレナに対して比較的友好的に接している分、俺が冷たい対応をする役回りになっても問題ないっちゃあないんだが。

 とはいえ、エレナがセレネ公国にとって大切な客人であることも間違いない。
 将来的に婚姻関係を結ぶためではないかというバルムンドの予想が当たっていなかったとしても、ジークバード伯爵のほうに何かしらの意図があって娘を送り込んできたことは確実だろう。
 好印象を持たれた方が何かと情報を得やすいのはそのとおりだろうが、その役目は俺ではなくバルムンドたちに任せるつもりでいた。

「むっ。なんでお父様は選りによってこんな人を……」
「エレナお嬢様!」
「わかっているわよ、マーカス。セレネ公国の方々と親交を深めるためにやってきたんだから、ちょっとぐらいのことで喧嘩腰になるなって言いたいんでしょ。ふんっ!  おじさん、このお魚をちょうだい」

 本来エレナは先日のことを詫びに来たはず。
 マーカスに注意されてそのことを思い出したのか、エレナはそれ以上言い返すのを止め、俺に背を向けて露店の主人へと話しかけていた。

「へ、へえ。お嬢様。おひとつで?」

 おそらく目の前の店主もすぐにエレナのことを貴族の娘か何かだと気付いたのだろう。
 挙動不審というか、少しだけおどおどした様子でエレナに聞き返していたぐらいだ。
 エレナはいかにも高級そうなホルターネックドレス姿。それに俺たちの恰好も町の住人とはいささか様相が異なっていたこともある。
 店主の目には少なくとも一般人の集団のようには映らなかったに違いない。

「そうね。2枚ほど貰おうかしら? あまりたくさんあげると、文句を言い出しそうな人がそばに居るからね」
「ひとつ80ガルドなので、ふたつなら160ガルドになります」
「ごめんなさい。生憎と今、持ち合わせがないのよね。私はここの領主であるジークバード伯爵の娘のエレナよ。悪いけど、ストレイル男爵か代官代理のハワードのほうから代金をもらってくれない?」
「今、小銭の持ち合わせがないんだったら俺が払うぞ」
「結構よ。私が孫六にあげるために買うんだもの」
「何もこんなことで恩に着せようってつもりじゃないんだ。考えてみろ。ここの店主がたかが160ガルドぽっちの小銭のために、わざわざ貴族様に取り立てにいくと思うか?」
「うっ……。そうね、わかったわよ。今回はレッドさんに立て替えておいてもらうことにするわ」

 さすがに今回は俺の意見のほうが正しいと思ったのか、素直に俺の言葉を受け入れるエレナ。
 多少生意気なところはあるが、こうして素直な一面があるのを見ると、俺も思わずエレナに対して好意を持ちそうになる。その感情は生意気で手間のかかる妹に対するものに近いような気もするが。
 日に焼けた肌が真っ白なドレスをより際立たせ、亜麻色の髪が夕日に映える。
 聞くところによれば、エレナは領内でもたびたび噂になるほどの美姫らしい。地球人である俺の感覚からしても、そのことに関してはケチの付けようがないほど。

 腰の財布から商品の代金を取り出している俺のすぐ隣で、魚の干物を嬉しそうに孫六に差し出すエレナの顔は、愛くるしいまでの笑顔に包まれていた。

「みょ?」
「ああ、いいぞ。有難くいただいておけ」
「みょおおおおおお!!」

 俺が許可した途端、エレナに近付いていって魚の干物へとかぶりつく孫六。
 ようやく孫六と間近で触れ合えたエレナの顔にも喜びが浮かんでいた。
 ひそかにそんな様子を微笑ましく見守る中、ジェネットの町から臨む海岸線にはゆっくりと夕日が沈んでいく光景が映っていた。
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