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第1章
62.アグランソル
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「マヤ!」
崩れるように倒れ込み、その場に跪いてしまったマヤの元に急いでルメロが駆け寄る。
幸いにもマヤの傷はそこまで深くなさそうな感じだった。
おそらく鎧カマキリの振り下ろした前肢は中途半端にマヤの身体へと当たったのだろう。運がいいことに、マヤの背中を深く抉るほどの力はかからずに済んだようだ。
とはいえ、白を基調としたドレスが肩口から背中にかけて斬り裂かれており、薄っすらと赤く滲んでいたが。
「う、うう……」
痛みに呻くマヤの様子を見たルメロの顔が一気に青ざめる。
カイルに対して自分の身は守れるなんて大見得を切っておきながら、結局はこの有様だ。情けないとでも思っていたのかも知れない。
とはいえ、最高級の防具を装備しているルメロなら、多少魔物の襲撃を受けたところでたいした傷を負わなかったのかも知れない。身も蓋もない言い方をすれば、マヤのしたことは余計な真似でしかなかった。
しかしながら、そんなことは言い訳にもならないだろう。自らの不注意により、マヤに怪我を負わせてしまったことは間違いないのだから。
「大丈夫かい、マヤ?」
「……ル、ルメロ様?」
ルメロの声に気付いたマヤが顔を上げる。
そして、そのまま立ち上がろうとするマヤのことを、ルメロは傷に手を触れないよう注意しながら優しく制止していた。
「今は無理して動いちゃ駄目だよ。傷口が開いてしまうかも知れないからね」
「ル、ルメロ様のほうにお怪我は?」
「このとおり無事さ。マヤが身を挺して守ってくれたおかげだよ。それにしても、いったいどうしてこんな危険なことを?」
「その……。ルメロ様に襲い掛かろうとしている魔物を目にして、咄嗟に身体が」
「まったく無茶な真似を。本来なら僕のほうがマヤのことを守らなきゃいけない立場なのに。僕が肩を貸せば何とか歩けそうかい?」
「す、すみません。ルメロ様」
怪我をしたマヤに対し、相当な無理を言っていることはルメロとて理解していた。
しかし、周囲ではいまだに激しい戦闘が続いている状況。
変異種のほうも今のところはカイルが何とか注意を惹き付けている様子だったが、今すぐマヤを安全な場所へと移動させなければならない。
マヤの受け答えは比較的しっかりとしていたし、怪我のほうも一見そこまで酷くないように見える。
だが、それと相反するように顔色のほうは真っ青。そのせいでルメロの目には、マヤが相当無理をしているように映っていた。
それでもどうにか立ち上がることはできたようで、ルメロの肩を借りながらヨタヨタとした足取りで北門のほうへと歩いて行く。
と、そんなルメロたちの様子に気付いたのか、すぐにシスターらしき女性が駆け寄ってくると、ルメロたちと一緒に歩きながら魔法を使ってマヤの傷を癒し始める。
「助かるよ、シスター。それで傷はどんな具合かな?」
「出血も酷くありませんし、そこまでは傷が深くない様子。おそらく命に別条はないでしょう」
「ほっ。ならよかった」
「ただ、回復魔法の効きが悪いというか……。出血はすぐに止まったようなのですが、何故か傷口が一向に塞がらないのです。この分ではのちのちまで傷痕が残ってしまうかも知れません」
「あとになってから、その傷痕を消すことはできないのかい?」
「すみません。私の力では今行っている応急処置程度しか。そもそも一度塞がった傷痕を消し去ることは司教様クラスのお力でもまず無理だと思いますが」
「そうか……。無理を言ったみたいだ。すまなかったね」
「いいえ。私も出来得るかぎり頑張ってみますので」
そんなルメロたちが北門近くの広場に着いたときには、すでに避難した住民たちの姿でごった返していた。
その中には亜人の姿もあったし、マヤと同じように運ばれてきた負傷者の姿も見え隠れしている。
マヤに肩を貸して歩いてきたルメロは、そこまで来てようやくほっと一息吐くと、マヤの身体を優しく地面の上へと横たえさせた。
広場では北門に居た残りの兵士たちが街の住人のことを守っている。通常の魔物による襲撃ならば、この人数でも充分に防げるはずだ。そんな安心感が心のどこかにあったのかも知れない。
とはいえ、この場所もけっして安全とは言えなかったが。
少しだけ大通りのほうへ向かえば、そこから変異種とカイルが戦っている姿が見えるほどの距離。実際に住民のけっこうな人数が大通りまで出て、戦いの行方を固唾を呑んで見守っている様子だった。
だが、突然変異種が進行方向を変え、北門のほうに向かってこないともかぎらない。
もしそうなってしまえば、この場を守っている兵士たちでは太刀打ちできそうにもなかった。
「すまない、マヤ。僕はカイルの様子を見に行く。いざって場合にはこの僕も戦わなければならないからね」
「私のことはお気になさらずに。ですが、くれぐれもお気を付けください」
「ああ、わかってるよ。けっして無茶はしない。シスター、悪いけどマヤのことを頼むね」
それだけ言い残してルメロが大通りのほうへと駆けていく。
と、その後ろ姿を見送ったマヤの顔に、それまでルメロに見せていた愛くるしい表情が薄れ、一瞬だけ冷淡な表情が浮かんだようにも感じられた。
◆
「クソッ!」
カイルの顔に焦りの色が浮かぶ。
今のところ変異種の攻撃は一度も喰らっていなかった。
変異種の攻撃は単調といえば単調で、毒があるという尻尾は常に前方に位置取っているカイルには届かず、前肢による薙ぎ払いにさえ注意すれば良かったからだ。
そうはいっても、カイルのほうもまるで手出しできていない状況。
背中の硬い外殻だけでなく、前肢の関節部分を狙った攻撃さえ軽く弾き返される始末だ。
そんな岩でも斬り付けたような感触に、カイルも剣から手を放さないようにするだけで精一杯だった。
が、倒せないとまでは思わなかった。
一般的なクローリニードルの弱点である腹部のほうに潜り込めば、何とか傷を与えらる可能性はある。
そう考えたカイルは、果敢にも変異種の懐に何度か飛び込もうとしていた。
が、そのたびにカイルのことを丸かじりにしようとでもしているのか、頭部を近付けてくる変異種に、カイルとしては再び距離を取ることしかできないでいた。
正直なところカイルとしては、この変異種には大規模殲滅魔法が通用しないものとみて、すでに諦めている。
魔物の中には魔法に対する耐性を持ったものが稀に存在するからだ。
さきほどの魔法でほとんどダメージを与えられなかった様子からすれば、もう一度やってみたところでさほど変わらないはず。
そうやって何度も何度もダメージを与えて蓄積させていけば、そのうち倒すこともできるかも知れないが、そもそも大規模殲滅魔法ともなれば魔力の消費量が著しく、そう何度も放てないはず。
アンドリュース伯爵麾下の魔法部隊の実力にもよるが、正直もう一度放てるかどうかすら疑わしいほどだった。
誰かが囮になるしかない。
変異種の隙さえ突ければ、カイルには一太刀ぐらい浴びせられる自信があった。ただし、自分以外の誰かがその隙を作ろうとすれば、おそらく犠牲になるだろうとも考えていたが。
「俺がその犠牲になるのは御免だがな」
近くに居た重装歩兵にカイルの視線が向く。
重い鉄鎧が動きを鈍くし、炎と熱気のせいもあって変異種に近付けていないが、あいつらが囮になってくれれば隙を作れそうなのに、と。
所詮、あまり関係がない他人の領地で起きた問題だ。そのために我が身を犠牲にするつもりは、カイルにはこれっぽっちもなかった。
今でも、アンドリュース伯爵の兵にすべてを任せ、ルメロとともに安全な場所に隠れていたほうが賢明な選択だと思っているぐらいだ。
最悪、ルメロとふたりきりこの場から逃げ出してもいっこうに構わないのだから。
その場合、ジェネットの町の住民や兵士たちにはけっこうな数の犠牲者が出るだろうが、それでも最終的にはこの変異種を倒せるはず。そうなれば残りの魔物など問題にならないだろう。
だが、そうもできない理由があった。
後ろ盾も領地も、直属の兵すら持たないルメロが、このグラン領のすべてをアンドリュース伯爵から奪い取り、マガルムーク国の玉座に臨まんとするためには……。
将来的には兵士やジェネットの町の住民だって、ルメロのものになる予定なのだから。
みすみすこの場で犠牲者を増やしてしまうのは、カイルとしては是が非でも避けたいところだった。
そんなことを考えながらよそ見をしていたせいで、カイルの注意が一瞬逸れる。
いや、おそらくそのせいだけではなかろう。
ロイド隊長が率いる兵士たちもそれなりに奮闘していたが、正直なところあまり役に立っているとは言い難かった。ほとんどひとりで変異種の注意を惹きつけているカイルにも、さすがに疲れが出てきたのかも知れない。
「ぐっ」
カイルとしては咄嗟に後方に飛んで、攻撃を躱したつもりだった。
が、気付いたときには変異種による攻撃がすぐ間近まで迫っており、カイルの回避行動は一瞬だけ遅かった。
ドンと強い衝撃を受けた瞬間カイルは、変異種の前肢に薙ぎ払われるような形で側方へと吹っ飛ばされていた。
地面の上に転がったカイルの顔が苦痛に歪む。
それでもすぐに何とか立ち上がろうとしたが、魔物が呑気に待ってくれるはずもない。すぐさまカイル目掛けて、再び変異種の攻撃が迫っていた。
――マズい。
この攻撃は避け切れない。
と、この後自分の身に襲い掛かるであろう運命を悟り、カイルが思わず目を瞑った瞬間、そのすぐそばをブワッという風だけが通り過ぎていった。
◆
「イオスの旦那!」
思わずカイルの元へと駆け寄りそうになったルメロの耳に、そんな叫び声が聞こえてくる。
名前は知らないが、黄虎族の亜人女性の声だ。
ただ、イオスという名前のほうにはルメロにも聞き覚えがあった。
流れ者の冒険者らしく、どうやらかなりの腕前のようだと以前カイルからの報告を受けていたからだ。
その冒険者の助けにより、避難民の食糧難もかろうじてどうにかなっている状態だと。
「皆、下がっていろ。あとは俺がやる」
自信満々にそう言い放ったイオスの声が、遠くルメロの耳にも届く。
倒れ込んだカイルの頭上に変異種の攻撃が迫った瞬間。
突如、群衆の中から躍り出たイオスの手によって、変異種の前肢が斬り落とされていた。
だが、その光景を遠巻きに見ていたルメロからしても、何が起きたのか正確に理解したとは言い切れないのが実際のところだった。
それほど剣筋が鋭く、イオスという冒険者が大剣を振り下ろすような仕種をした程度しかルメロの目では追えなかったからだ。
ただし、変異種が傷を負ったことは間違いない。欠けた前肢からも血液だと思われる透明な体液がポタリポタリとしたたり落ちていた。
戦闘の行方を見守っていた周囲の亜人連中からも、期待混じりのどよめきが巻き起こったぐらいだ。
ただそれは、このイオスという冒険者の実力をそれほど亜人連中が高くみているという証明でもあったが。
が、そのあとイオスは大剣を構える素振りすらしていない。
変異種に向かって、ゆっくりと歩を進めただけ。
そのあまりにも悠然とした自然な態度に、ルメロはまるで時が遅くなったかのような錯覚に陥りそうになっていた。
「危ない!」
と、誰かの口からそんな叫び声が聞こえてくる。
ルメロの目にも怒り狂った変異種が、頭からイオス目掛けて襲い掛かろうとする姿が映っていた。
あと数センチ。
イオスまであと数センチのところにまで迫った変異種の頭部が、何故かそこで唐突に動きを止める。
だが、今度はルメロにも何が起きたのかわかった。
変異種の口の中にイオスの掲げ持った大剣が深々と刺さっていたからだ。
口腔内に刺さった異物に驚き、その場から逃れようとして暴れ始める変異種。
その動きに合わせるようにイオスは大剣を一旦引き抜くと、まるで軽業師のように身を躍らせて荒れ狂う変異種の背に飛び乗っていた。
と、硬い外殻など物ともせず、イオスの大剣が真上から変異種の頭部に向けて一直線に穿たれていた。
◆
「アグランソル!!!」
ひとたびそんな声が上がった瞬間、その言葉がまるでさざ波のように周囲へと伝播していく。
そして、次々とその場にひれ伏しはじめる亜人の姿がそこにはあった。
いや、何も亜人だけではない。
ジェネットの町の住人にも、ちらほらとだが平伏する人間が出始めている。
ほぼひとりで変異種を倒したイオスのことを、皆まるで神でも称えるかのように拝み始める光景がその場にはあった。
いまだ魔物のすべてがジェネットの町から居なくなったわけではない。
ただ、イオスの手により変異種が倒されたことで、ほかの魔物は統率を失ったようにも見える。
中には逃げ出すような素振りを見せる魔物もいたほどだ。あとは城の兵士たちの手によって、一体一体始末されていくだけだろう。
「そんな馬鹿な。アグラが消えて久しい今の時代に、アグランソルなんてものがこの世に現れるはずが……」
そんな中、すぐにカイルへと駆け寄り、怪我の様子を確認し始めたルメロの口からは、信じられないとでも言いたげな呟きが漏れていた。
崩れるように倒れ込み、その場に跪いてしまったマヤの元に急いでルメロが駆け寄る。
幸いにもマヤの傷はそこまで深くなさそうな感じだった。
おそらく鎧カマキリの振り下ろした前肢は中途半端にマヤの身体へと当たったのだろう。運がいいことに、マヤの背中を深く抉るほどの力はかからずに済んだようだ。
とはいえ、白を基調としたドレスが肩口から背中にかけて斬り裂かれており、薄っすらと赤く滲んでいたが。
「う、うう……」
痛みに呻くマヤの様子を見たルメロの顔が一気に青ざめる。
カイルに対して自分の身は守れるなんて大見得を切っておきながら、結局はこの有様だ。情けないとでも思っていたのかも知れない。
とはいえ、最高級の防具を装備しているルメロなら、多少魔物の襲撃を受けたところでたいした傷を負わなかったのかも知れない。身も蓋もない言い方をすれば、マヤのしたことは余計な真似でしかなかった。
しかしながら、そんなことは言い訳にもならないだろう。自らの不注意により、マヤに怪我を負わせてしまったことは間違いないのだから。
「大丈夫かい、マヤ?」
「……ル、ルメロ様?」
ルメロの声に気付いたマヤが顔を上げる。
そして、そのまま立ち上がろうとするマヤのことを、ルメロは傷に手を触れないよう注意しながら優しく制止していた。
「今は無理して動いちゃ駄目だよ。傷口が開いてしまうかも知れないからね」
「ル、ルメロ様のほうにお怪我は?」
「このとおり無事さ。マヤが身を挺して守ってくれたおかげだよ。それにしても、いったいどうしてこんな危険なことを?」
「その……。ルメロ様に襲い掛かろうとしている魔物を目にして、咄嗟に身体が」
「まったく無茶な真似を。本来なら僕のほうがマヤのことを守らなきゃいけない立場なのに。僕が肩を貸せば何とか歩けそうかい?」
「す、すみません。ルメロ様」
怪我をしたマヤに対し、相当な無理を言っていることはルメロとて理解していた。
しかし、周囲ではいまだに激しい戦闘が続いている状況。
変異種のほうも今のところはカイルが何とか注意を惹き付けている様子だったが、今すぐマヤを安全な場所へと移動させなければならない。
マヤの受け答えは比較的しっかりとしていたし、怪我のほうも一見そこまで酷くないように見える。
だが、それと相反するように顔色のほうは真っ青。そのせいでルメロの目には、マヤが相当無理をしているように映っていた。
それでもどうにか立ち上がることはできたようで、ルメロの肩を借りながらヨタヨタとした足取りで北門のほうへと歩いて行く。
と、そんなルメロたちの様子に気付いたのか、すぐにシスターらしき女性が駆け寄ってくると、ルメロたちと一緒に歩きながら魔法を使ってマヤの傷を癒し始める。
「助かるよ、シスター。それで傷はどんな具合かな?」
「出血も酷くありませんし、そこまでは傷が深くない様子。おそらく命に別条はないでしょう」
「ほっ。ならよかった」
「ただ、回復魔法の効きが悪いというか……。出血はすぐに止まったようなのですが、何故か傷口が一向に塞がらないのです。この分ではのちのちまで傷痕が残ってしまうかも知れません」
「あとになってから、その傷痕を消すことはできないのかい?」
「すみません。私の力では今行っている応急処置程度しか。そもそも一度塞がった傷痕を消し去ることは司教様クラスのお力でもまず無理だと思いますが」
「そうか……。無理を言ったみたいだ。すまなかったね」
「いいえ。私も出来得るかぎり頑張ってみますので」
そんなルメロたちが北門近くの広場に着いたときには、すでに避難した住民たちの姿でごった返していた。
その中には亜人の姿もあったし、マヤと同じように運ばれてきた負傷者の姿も見え隠れしている。
マヤに肩を貸して歩いてきたルメロは、そこまで来てようやくほっと一息吐くと、マヤの身体を優しく地面の上へと横たえさせた。
広場では北門に居た残りの兵士たちが街の住人のことを守っている。通常の魔物による襲撃ならば、この人数でも充分に防げるはずだ。そんな安心感が心のどこかにあったのかも知れない。
とはいえ、この場所もけっして安全とは言えなかったが。
少しだけ大通りのほうへ向かえば、そこから変異種とカイルが戦っている姿が見えるほどの距離。実際に住民のけっこうな人数が大通りまで出て、戦いの行方を固唾を呑んで見守っている様子だった。
だが、突然変異種が進行方向を変え、北門のほうに向かってこないともかぎらない。
もしそうなってしまえば、この場を守っている兵士たちでは太刀打ちできそうにもなかった。
「すまない、マヤ。僕はカイルの様子を見に行く。いざって場合にはこの僕も戦わなければならないからね」
「私のことはお気になさらずに。ですが、くれぐれもお気を付けください」
「ああ、わかってるよ。けっして無茶はしない。シスター、悪いけどマヤのことを頼むね」
それだけ言い残してルメロが大通りのほうへと駆けていく。
と、その後ろ姿を見送ったマヤの顔に、それまでルメロに見せていた愛くるしい表情が薄れ、一瞬だけ冷淡な表情が浮かんだようにも感じられた。
◆
「クソッ!」
カイルの顔に焦りの色が浮かぶ。
今のところ変異種の攻撃は一度も喰らっていなかった。
変異種の攻撃は単調といえば単調で、毒があるという尻尾は常に前方に位置取っているカイルには届かず、前肢による薙ぎ払いにさえ注意すれば良かったからだ。
そうはいっても、カイルのほうもまるで手出しできていない状況。
背中の硬い外殻だけでなく、前肢の関節部分を狙った攻撃さえ軽く弾き返される始末だ。
そんな岩でも斬り付けたような感触に、カイルも剣から手を放さないようにするだけで精一杯だった。
が、倒せないとまでは思わなかった。
一般的なクローリニードルの弱点である腹部のほうに潜り込めば、何とか傷を与えらる可能性はある。
そう考えたカイルは、果敢にも変異種の懐に何度か飛び込もうとしていた。
が、そのたびにカイルのことを丸かじりにしようとでもしているのか、頭部を近付けてくる変異種に、カイルとしては再び距離を取ることしかできないでいた。
正直なところカイルとしては、この変異種には大規模殲滅魔法が通用しないものとみて、すでに諦めている。
魔物の中には魔法に対する耐性を持ったものが稀に存在するからだ。
さきほどの魔法でほとんどダメージを与えられなかった様子からすれば、もう一度やってみたところでさほど変わらないはず。
そうやって何度も何度もダメージを与えて蓄積させていけば、そのうち倒すこともできるかも知れないが、そもそも大規模殲滅魔法ともなれば魔力の消費量が著しく、そう何度も放てないはず。
アンドリュース伯爵麾下の魔法部隊の実力にもよるが、正直もう一度放てるかどうかすら疑わしいほどだった。
誰かが囮になるしかない。
変異種の隙さえ突ければ、カイルには一太刀ぐらい浴びせられる自信があった。ただし、自分以外の誰かがその隙を作ろうとすれば、おそらく犠牲になるだろうとも考えていたが。
「俺がその犠牲になるのは御免だがな」
近くに居た重装歩兵にカイルの視線が向く。
重い鉄鎧が動きを鈍くし、炎と熱気のせいもあって変異種に近付けていないが、あいつらが囮になってくれれば隙を作れそうなのに、と。
所詮、あまり関係がない他人の領地で起きた問題だ。そのために我が身を犠牲にするつもりは、カイルにはこれっぽっちもなかった。
今でも、アンドリュース伯爵の兵にすべてを任せ、ルメロとともに安全な場所に隠れていたほうが賢明な選択だと思っているぐらいだ。
最悪、ルメロとふたりきりこの場から逃げ出してもいっこうに構わないのだから。
その場合、ジェネットの町の住民や兵士たちにはけっこうな数の犠牲者が出るだろうが、それでも最終的にはこの変異種を倒せるはず。そうなれば残りの魔物など問題にならないだろう。
だが、そうもできない理由があった。
後ろ盾も領地も、直属の兵すら持たないルメロが、このグラン領のすべてをアンドリュース伯爵から奪い取り、マガルムーク国の玉座に臨まんとするためには……。
将来的には兵士やジェネットの町の住民だって、ルメロのものになる予定なのだから。
みすみすこの場で犠牲者を増やしてしまうのは、カイルとしては是が非でも避けたいところだった。
そんなことを考えながらよそ見をしていたせいで、カイルの注意が一瞬逸れる。
いや、おそらくそのせいだけではなかろう。
ロイド隊長が率いる兵士たちもそれなりに奮闘していたが、正直なところあまり役に立っているとは言い難かった。ほとんどひとりで変異種の注意を惹きつけているカイルにも、さすがに疲れが出てきたのかも知れない。
「ぐっ」
カイルとしては咄嗟に後方に飛んで、攻撃を躱したつもりだった。
が、気付いたときには変異種による攻撃がすぐ間近まで迫っており、カイルの回避行動は一瞬だけ遅かった。
ドンと強い衝撃を受けた瞬間カイルは、変異種の前肢に薙ぎ払われるような形で側方へと吹っ飛ばされていた。
地面の上に転がったカイルの顔が苦痛に歪む。
それでもすぐに何とか立ち上がろうとしたが、魔物が呑気に待ってくれるはずもない。すぐさまカイル目掛けて、再び変異種の攻撃が迫っていた。
――マズい。
この攻撃は避け切れない。
と、この後自分の身に襲い掛かるであろう運命を悟り、カイルが思わず目を瞑った瞬間、そのすぐそばをブワッという風だけが通り過ぎていった。
◆
「イオスの旦那!」
思わずカイルの元へと駆け寄りそうになったルメロの耳に、そんな叫び声が聞こえてくる。
名前は知らないが、黄虎族の亜人女性の声だ。
ただ、イオスという名前のほうにはルメロにも聞き覚えがあった。
流れ者の冒険者らしく、どうやらかなりの腕前のようだと以前カイルからの報告を受けていたからだ。
その冒険者の助けにより、避難民の食糧難もかろうじてどうにかなっている状態だと。
「皆、下がっていろ。あとは俺がやる」
自信満々にそう言い放ったイオスの声が、遠くルメロの耳にも届く。
倒れ込んだカイルの頭上に変異種の攻撃が迫った瞬間。
突如、群衆の中から躍り出たイオスの手によって、変異種の前肢が斬り落とされていた。
だが、その光景を遠巻きに見ていたルメロからしても、何が起きたのか正確に理解したとは言い切れないのが実際のところだった。
それほど剣筋が鋭く、イオスという冒険者が大剣を振り下ろすような仕種をした程度しかルメロの目では追えなかったからだ。
ただし、変異種が傷を負ったことは間違いない。欠けた前肢からも血液だと思われる透明な体液がポタリポタリとしたたり落ちていた。
戦闘の行方を見守っていた周囲の亜人連中からも、期待混じりのどよめきが巻き起こったぐらいだ。
ただそれは、このイオスという冒険者の実力をそれほど亜人連中が高くみているという証明でもあったが。
が、そのあとイオスは大剣を構える素振りすらしていない。
変異種に向かって、ゆっくりと歩を進めただけ。
そのあまりにも悠然とした自然な態度に、ルメロはまるで時が遅くなったかのような錯覚に陥りそうになっていた。
「危ない!」
と、誰かの口からそんな叫び声が聞こえてくる。
ルメロの目にも怒り狂った変異種が、頭からイオス目掛けて襲い掛かろうとする姿が映っていた。
あと数センチ。
イオスまであと数センチのところにまで迫った変異種の頭部が、何故かそこで唐突に動きを止める。
だが、今度はルメロにも何が起きたのかわかった。
変異種の口の中にイオスの掲げ持った大剣が深々と刺さっていたからだ。
口腔内に刺さった異物に驚き、その場から逃れようとして暴れ始める変異種。
その動きに合わせるようにイオスは大剣を一旦引き抜くと、まるで軽業師のように身を躍らせて荒れ狂う変異種の背に飛び乗っていた。
と、硬い外殻など物ともせず、イオスの大剣が真上から変異種の頭部に向けて一直線に穿たれていた。
◆
「アグランソル!!!」
ひとたびそんな声が上がった瞬間、その言葉がまるでさざ波のように周囲へと伝播していく。
そして、次々とその場にひれ伏しはじめる亜人の姿がそこにはあった。
いや、何も亜人だけではない。
ジェネットの町の住人にも、ちらほらとだが平伏する人間が出始めている。
ほぼひとりで変異種を倒したイオスのことを、皆まるで神でも称えるかのように拝み始める光景がその場にはあった。
いまだ魔物のすべてがジェネットの町から居なくなったわけではない。
ただ、イオスの手により変異種が倒されたことで、ほかの魔物は統率を失ったようにも見える。
中には逃げ出すような素振りを見せる魔物もいたほどだ。あとは城の兵士たちの手によって、一体一体始末されていくだけだろう。
「そんな馬鹿な。アグラが消えて久しい今の時代に、アグランソルなんてものがこの世に現れるはずが……」
そんな中、すぐにカイルへと駆け寄り、怪我の様子を確認し始めたルメロの口からは、信じられないとでも言いたげな呟きが漏れていた。
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