BYOND A WORLD

四葉八朔

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第1章

54.水面下での取引

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 ◆

「これはまた何とも芳醇な香りのする酒だな。味のほうも悪くないし、是非とも我が領で取り扱いたいものだ」
「何でも作った年や場所によって味のほうも微妙に違うのだとか。私の好みからすれば、今お飲みになられたものよりヴーヴ・セリアというワインの06年物が最高だと感じましたが」
「どれ。後で飲み比べてみることにしよう。それでアルフォンス殿のほうはどんな様子だった? いまだに癇癪を起こしているのか?」

 空になった透明のワイングラスがテーブルの上にそっと置かれる。
 テーブル上には4枚の小さな貝殻が無造作に置かれてあり、何種類かのワインボトルもその近くに並んで置かれていた。グラスやボトルは屋敷を用意してくれたお礼にと、セレネ公国からストレイル男爵へと送られた品だ。
 そのワインボトルひとつとっても精巧な意匠が施されていたし、ワイングラスのほうはジークバード伯爵がこれまで一度も見たことがないほどの透明さがあった。

 ガラス細工自体はエルセリア王国にも一応存在するが、貴族などしか所有できないぐらい高価なわりに白く濁ったようなものが多い。
 それに酒を飲むための器といえば金属製のグラスであり、樽からそのグラスへと注ぐだけで、ワインボトルのようなものは一切存在しなかったほど。
 それだけでジークバード伯爵はセレネ公国の技術力の高さに感嘆しきりの様子。まるで美術品でも見つめるような視線で、様々な角度からワインボトルを眺めていた。

「ええ。いまだに騒いでおりましたな。ですが、騒いだところでどうせ何もできやしないでしょう。アルフォンス卿に貸し与えた別邸の周りを我が兵が見張っておりますし、そもそもアルフォンス卿が連れてきた兵だけでは、フローラ様に近寄ることすらできないのですから」
「ならば良いのだが。それにしてもアルフォンス殿にもほとほと困ったものだな」
「まことに。アルフォンス卿はどうやら、セレネ公国の方々のことをアンドラゴラス王の御代に反乱に失敗して深き海へと逃げ落ち、そのまま行方知れずとなったボードウィンの生き残りあたりではないのかと疑っておられるようです」
「ふんっ。仮にそうだとしても、あのような態度はあり得ぬわ。エルセリア王国の正式な使者という立場を何と心得ておるのか……」

 そう言って盛大なため息を落とすジークバード伯爵。
 そしてテーブルの上に置いてあった貝殻をすべて手に取ると、再びテーブルの上へとばらまき始める。
 その行為に何の意味があるのかは判然としなかったが、その仕草からすればおそらく手慰み(*1)に近い遊びのようなものなのだろう。
 だが、そんな手持無沙汰な様子とは裏腹に、ジークバード伯爵の表情にはあきらかにアルファオンス男爵への非難が込められていた。

 空のワイングラスに新たなワインを注いでいる途中だったストレイル男爵の顔を見ても、似たような感情を持っているらしい。
 ただ、ストレイル男爵のほうはそのことに加え、何事か疑問に思っていることがある様子だった。
 グラスに半分ほどワインを注いだストレイル男爵の口からは、遠慮がちにジークバード伯爵へと問いかけようとする声が漏れていた。

「ジークバード様、ひとつお伺いしても?」
「ん、なんだ?」
「ラグナヒルト宰相はどうしてあのようなお方を使者として送ってきたのでしょうか?」
「ふむ、そのことか。宰相としては此度の話は潰れたほうがいいと考えたのであろうな。セレネ公国とエルセリア王国が国交を結んだところで、それによって潤うのは基本的に我が領地のみ。少なからず他領にもその影響は出ようが、それ以上に我が領が栄えることを警戒したのであろう」
「であれば、王領のほうで交易するという手もあったのでは? たしか王都のそばにもレイネという港町があったはずですが」
「レイネ港で交易するためには、セレネ公国の船にずいぶんと遠回りをさせなければならん。それのみならず、どうしてもラーカンシア諸島連邦の領海を通過することになるゆえ通行料がかかるのだ。その手はいささか現実的ではないだろうな」
「なるほど。それにしてもいくら何でもここまで致しますかね。陛下のご意向も同じということでありましょうか?」
「おそらく陛下には正確な情報をお伝えしていないのであろう。ワシが送った知らせなど、ほとんどが握りつぶされていてもおかしくないわ」
「何故そこまで……」

  この一か月余りの間、ジークバード伯爵から王都へと逐一セレネ公国に関する情報が伝えられていた。むろんジークバード伯爵としても、すべての情報をありのままに伝えたわけでもなかったのだが。
 自領の利益のために多少ぼかした部分もあるし、中央が乗り気になるように大袈裟に喧伝した部分もある。
 いずれにせよその手紙の内容を噛み砕けば、この交易がいかにエルセリア王国にとって利益をもたらすかを説いているものでしかなく、ジークバード伯爵がこの交易に乗り気であることが察せられるようなものだったが。  

「ふむ。南のロレーヌ殿の様子が最近おかしいと耳にしたことは?」
「いえ、寡聞にも存じ上げませぬ。ロレーヌ卿といえば南方の弱小貴族をまとめ上げておられるお方ですよね。そのロレーヌ卿の様子がおかしいと?」
「実際のところどうなのかはわからぬがな。ただ最近頻繁に招宴を催し、多くの地方貴族や豪商を集めているというのは事実だそうだ。おそらくそのせいで、宰相としては少々過敏になっているのであろうよ」
「まさかマガルムークのような反乱の兆しが、このエルセリア王国内にも?」
「そのようなことはない……と、断言したいところではあるが。が、正直なところロレーヌ殿の動きはこのワシも気になっていたところだ。気まぐれで招宴を催しているのならばいいが、何か目的があって人を集めているとなると……」
「なるほど、そんなことが。ただ、そうなってくるとセレネ公国との交渉再開はいささか難しいものになってくるのでは?」
「否。こんなこともあろうかと、王都の屋敷に居るシオンの元にレオン団長を向かわせた。宰相に対する手土産を持たせてな」
「ご子息であられる子爵様のところにですか。それでその手土産とはいったい?」
「魔晶石の採掘権だ。レオンに持たせた書状にはルーベン以南の領地すべてを陛下に献上する予定でいることが書かれてある」

 そんなジークバード伯爵の言葉を受け、ストレイル男爵の顔に驚きの表情が浮かぶ。
 ルーベンの町はジークバードが統治している領地内では比較的小さいほうだが、同時に一番南にある要所でもあり、そこを献上するということはジークバード伯爵の領地が減るだけではなく、経済的な損失も大きかったからだ。

「あの土地を手放す気ですか? 確かに年々採掘量が減ってきておりますが、まだまだ採掘が見込めるという話だったはずですが」
「仕方あるまい。何事もバランスが肝要。そのような見返りでも与えなければ、宰相とて今の意見を変えようとはしまい。一応早馬にて、宰相との交渉は上手くいっているとの知らせがシオンから届いているので、おそらくそちらのほうは問題がないだろう。その分セレネ公国のと交易で儲ければいいだけの話よ」

 再び手にした貝殻をテーブルの上にばらまいたあと、そう言ってストレイル男爵に向かってにやりと笑うジークバード伯爵。
 その言葉を聞いたストレイル男爵の顔には、ようやく納得がいったとでも言いたげな表情が浮かんでいた。

「確かに。それだけの利益が見込める取引ではあるかと」
「実物を送っていないので宰相はいまだ気付いておらぬのであろうよ。塩ひとつとってもマガルムークで産出している岩塩よりも良質であることにな。ほかにも鉄鉱石、石炭、砂糖、絹、油、貴金属類、香辛料など多くの必需品が、現在の相場よりも安く手に入るのだ。魔晶石の採掘権など手放したところでいっこうに惜しくないわ。とはいえ、セレネ公国という国がどれだけ信用できるかにかかってくるがな」
「そればかりは実際に付き合ってみないことにはなんとも言えませんな。ただ、これまで話してみたかぎりでは、こちらが友好的に接すれば大丈夫かと。バルムンド提督から、今後数年間は両者の合意がないかぎり価格を変更しないという内約もいただいておりますので」

 ストレイル男爵としても他人を見る目には自信があるつもりだった。
 これまでセレネ公国側の人間と話してみたかぎりでは、何か裏があるようにも思えなかった。
 確かにエルセリア王国のほうに有利な条件過ぎて怪しいところはあったが、はたしてそれをすることに何の意味があるのかとも思う。
 きちんと現物を確認してからの支払いで構わないという話だったし、交易品に明らかな不備があった場合には返金に応じるとまで言ってきているぐらいだ。
 少なくともセレネ公国と名乗る人間がこちらのことを嵌めようとしているわけではないはず。
 といっても、セレネ公国が提示してきたすべての品がエルセリア王国の相場よりも安かったわけではなく、こちらにとってはありふれた品を高額で買い取るとも言ってきている。
 おそらくセレネ公国とエルセリア王国ではこれまで全く違う歴史を辿ってきた分、物の価値にずいぶんと違いがあり、あの提示額でも充分な儲けが見込めるのだろうと、ストレイル男爵はそう考えていた。

「だが、怒らせればあれか……」
「はい。兵たちに命じ海の中へと潜らせて確認してみましたが、海底深くまで大きく地面がえぐられていたそうです。あの魔導砲とやらが街のほうに向けられていれば今頃は」
「魔導士たちの障壁で防げるものなのか、早急に調べる必要がありそうだな。それで領民への被害は?」
「波のほうが荒くなって、海辺にあった物が多少流されたそうですが、ポートラルゴの住民にさしたる被害は出ておりません。セレネ公国の船が大挙して押し寄せてきているため、漁師たちも怖がって海に出ることを控えていたようです」
「そうか。こちらから相手を怒らせるようなことをしたのだ。さすがにそのことについて文句を言うこともできぬか……」
「そうですな。アルフォンス卿の兵たちがフローラ様に襲い掛かったときには、さすがにこの私も肝を冷やしましたぞ」
「とはいえ、あちらも本気で怒っているようには見えなかったがな。セレネ公国のあれは脅しというか、警告であろう」
「そう見て間違いないかと。ただし、警告といえど威力のほうは本物。あれを目の当たりにしてもなお、ボードウィンの残党だと喚いているアルファンス卿のことが某には理解できませぬ」
「まあ良い。どうせあと数日の辛抱であろう。新たな使者殿が到着し次第、アルフォンス殿には早々に王都へとお引き取り願うつもりだ」

 すべて表になった貝殻を見て満足そうな様子を漏らしたあと、ジークバード伯爵はそう言って再びワイングラスへと手を伸ばす。
 ストレイル男爵の屋敷内の一室には、その夜遅くまで酒を酌み交わしながら密談を交わすふたりの声が聞こえていた。


 *1 てなぐさみ。手先で物をもてあそぶこと。暇つぶし。
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