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第1話 神威のサムライ
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安政三年(1856年)、江戸――。
神田八丁掘りに面した町人町であった神田小伝馬町には、『麻屋』と呼ばれる一軒の飯屋があった。
暮れ五つ(午後8時頃)をすでに過ぎていたこともあり、さして広くない店内には酒気の匂いを充満させた町人や浪人者たちでごった返していた。
店内にいる人間たちは日頃溜まった鬱憤を酒で発散させるように陽気に騒いでいたが、その中で一番奥の席にいた二人組みだけは、まるで通夜のような神妙な面持ちでお互い向き合いながら座っていた。
一人は長身痩躯ながら30の半ばを過ぎた厳格な顔付きをしており、白の長着に漆黒の袴を着用していた。
月代を綺麗に剃って髷を結っていることから、男は浪人者ではなく武士だとわかる。
もう一人はやや幼さが目立つ部分もあるが、均衡のとれた顔貌は質実剛健を地でいくような雰囲気が滲み出ていた青年であった。
青年の名前は、片桐進之介。
若干20歳の若さでありながら、神田小伝馬町に道場を構える剣術道場の師範代を務める人物であった。
「どうだ、お主も一献」
進之介の対面に座っていた佐々木京馬は、進之介のお猪口に酒を注ごうと徳利を持つ手を伸ばしたが、進之介は無言のまま首を左右に振ってそれを拒否した。
進之介は京馬と同じ白の長着に漆黒の袴を着用していたが、妙なことに髷を結ってはいなかった。
眉に軽く届くほどに短く切り揃えられた進之介の前髪の下には、先ほどから憂鬱な表情が浮かんでいる。
京馬は自分のお猪口に酒を注ぎ、ぐいっと一気に飲み干す。
「のう、進之介。酷かもしれんが、諦めるというわけにはいかんのか?」
京馬がため息とともに呟くと、進之介は懐から一本の簪を取り出した。
薄い桃色の色彩が目立つ、桜の形を模した特注品の簪であった。
「佐々木師範、私は信じております。必ず梓さまはご無事でいると」
「進之介……」
京馬は進之介の言葉を聞き、胸を杭で打たれるような思いに駆られた。
佐々木京馬と片桐進之介の二人は、神威一刀流という流派の剣を学んでいる。
二人は師である武峰鬼柳斎の元で研鑽を積み、今では京馬は師範となり、進之介は師範代となっていた。
本来ならば20歳前の進之介には師範代の称号すら過分ともいえたのだが、鬼柳斎は進之介の尋常ならざる剣才に惚れ込んでいた。
齢7つで神威一刀流の内弟子となり、決して門人を褒めないと言われた鬼柳斎に「麒麟児」とまで言わしめた進之介は、16の頃には師範代の称号を与えられたのである。
酒に酔わず女に溺れず、持って生まれた天賦の才を凌駕するほどに修練に明け暮れた進之介。
そんな今まで剣のみに生きてきた進之介にも、密かに思いを寄せる女性がいた。
武峰梓。
鬼柳斎の一人娘である。
梓は進之介より二歳年下の近隣では評判の美人と噂され、梓目当てで入門を希望する輩も大勢いた。
当時の門下生の中では梓は誰の元に嫁に行くのか話題になったが、鬼柳斎は常々より梓は進之介と婚姻させると漏らしていた。
そうなれば進之介は鬼柳斎に代わって神威一刀流の後継者という立場になる。
周りの門下生の中でこのことに不満を持つ輩は一人もいなかった。
皆、口を揃えて進之介ならば致し方ないと納得していた。
それほどまでに進之介は門下生から慕われている存在だったのである。
そして進之介自身、表には出さずとも心の中の高揚を抑えることはできなかった。
内弟子となったときから、密かに思いを寄せていた梓との婚姻である。
進之介は師範代となってからも今まで以上に剣の修練に明け暮れた。
それから3年後、進之介が19歳のときである。
ある初雪が降った寒々しい夜に、進之介は鬼柳斎に道場に呼ばれた。
進之介と鬼柳斎の二人以外誰もいない道場内は、恐ろしいほど緊迫した雰囲気と静寂に包まれていた。
武者窓から入ってくる月明かりの中、鬼柳斎は進之介に一本の刀を手渡した。
珍しい朱色の柄巻きに丸形の鍔《つば》。
鞘から抜いた刀身に浮かぶ刃文は乱れるところのない直刃であり、地肌は木を縦に切った平行線のような柾目肌。
刃長二尺五寸(約76センチ)とこの時代の打刀にしてはやや長く、反りが目立つ切っ先が大きい大刀であった。
口伝によれば古の鋼により鍛えられし業物とあり、神威一刀流の跡目に受け継がれる宝刀。
銘を〈神威〉といった。
進之介は師より直々に〈神威〉を手渡されると、歓喜の涙を流した。
これを渡されるということは、すなわち免許皆伝と流派の後継者に選ばれたことを意味していたからである。
〈神威〉を手に取りながら、当時の進之介は心に固く誓った。
神威一刀流の更なる繁栄と、婚姻を結ぶ梓を絶対に幸せにしてみせると。
しかしこの時、運命の歯車は狂い始めていた。
進之介が道場で歓喜の涙を流している頃、同じ敷地内にある母屋は騒然としていた。
寝所から梓の姿が忽然と消えていたのである。
使用人たちは一晩中屋敷内を隈なく探したが、結局梓は見つからなかった。
翌日からは門下生たちも近辺を探索したが、一向にその足取りは掴めない。
その中で唯一見つかったといえば、屋敷からほど近い溜池の傍に落ちていた梓が常日頃から使っていた特注品の簪であった。
この日以降、世間では梓は〝神隠し〟に遭ったと噂になり、近隣の住人たちは恐怖で震え上がった。
その〝神隠し〟事件から、もう1年である。
20歳になった進之介の剣はますます磨きがかかってきたものの、口数は滅法少なくなり、他の人間と微妙に距離を置くようになった。
それだけならばまだよかったほうであった。
何と進之介は梓が行き方知れずになった半月後に、短刀で自分の髷をばっさりと切り落としたのである。
もともと進之介は剃り込みを入れず長髪を髷の形に結っていただけであったが、それでも自分から武士の誇りを切り落とした進之介に、門下生一同は言葉を失った。
師である鬼柳斎が何故そのような真似をしたかと問いかけると、進之介はただ黙って切り落とした髷を鬼柳斎に手渡した。
「私は今まで何かに願を賭けるということをしたことはありません。しかし、私は初めて願を賭けてみようと思います。梓さまのご無事をこれに……」
その日から進之介は、梓が無事で帰るまで髷を結わぬことを固く決意したのである。
それ以来、進之介は艶のある黒髪をうなじの辺りくらいで短く切り揃えていた。
京馬は空になったお猪口に酒を注ぐと、もう一度ぐいっと一気に飲み干した。
「まだ宵の口だがそろそろ帰るか。酒を飲みすぎて誰ぞに不覚を取るというのも馬鹿らしい話だからな」
京馬は隣の席に立て掛けていた刀を取ると、おもむろに席から立ち上がった。
進之介も簪を懐に仕舞い込み、京馬に続いて席を立った。
店の外に出るなり、進之介は手をかざして宙を見上げた。
「進之介、わしはこれより帰宅するがお主はどうする? 屋敷に戻るか」
一拍の間を置いて、進之介は答えた。
「私は少し寄るところがありますので、これにて」
進之介は京馬に軽く一礼をすると、踵を返して歩き出した。
「哀れな……」
京馬の声も虚しく、進之介の姿は雑踏の中へと消えていった。
神田八丁掘りに面した町人町であった神田小伝馬町には、『麻屋』と呼ばれる一軒の飯屋があった。
暮れ五つ(午後8時頃)をすでに過ぎていたこともあり、さして広くない店内には酒気の匂いを充満させた町人や浪人者たちでごった返していた。
店内にいる人間たちは日頃溜まった鬱憤を酒で発散させるように陽気に騒いでいたが、その中で一番奥の席にいた二人組みだけは、まるで通夜のような神妙な面持ちでお互い向き合いながら座っていた。
一人は長身痩躯ながら30の半ばを過ぎた厳格な顔付きをしており、白の長着に漆黒の袴を着用していた。
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もう一人はやや幼さが目立つ部分もあるが、均衡のとれた顔貌は質実剛健を地でいくような雰囲気が滲み出ていた青年であった。
青年の名前は、片桐進之介。
若干20歳の若さでありながら、神田小伝馬町に道場を構える剣術道場の師範代を務める人物であった。
「どうだ、お主も一献」
進之介の対面に座っていた佐々木京馬は、進之介のお猪口に酒を注ごうと徳利を持つ手を伸ばしたが、進之介は無言のまま首を左右に振ってそれを拒否した。
進之介は京馬と同じ白の長着に漆黒の袴を着用していたが、妙なことに髷を結ってはいなかった。
眉に軽く届くほどに短く切り揃えられた進之介の前髪の下には、先ほどから憂鬱な表情が浮かんでいる。
京馬は自分のお猪口に酒を注ぎ、ぐいっと一気に飲み干す。
「のう、進之介。酷かもしれんが、諦めるというわけにはいかんのか?」
京馬がため息とともに呟くと、進之介は懐から一本の簪を取り出した。
薄い桃色の色彩が目立つ、桜の形を模した特注品の簪であった。
「佐々木師範、私は信じております。必ず梓さまはご無事でいると」
「進之介……」
京馬は進之介の言葉を聞き、胸を杭で打たれるような思いに駆られた。
佐々木京馬と片桐進之介の二人は、神威一刀流という流派の剣を学んでいる。
二人は師である武峰鬼柳斎の元で研鑽を積み、今では京馬は師範となり、進之介は師範代となっていた。
本来ならば20歳前の進之介には師範代の称号すら過分ともいえたのだが、鬼柳斎は進之介の尋常ならざる剣才に惚れ込んでいた。
齢7つで神威一刀流の内弟子となり、決して門人を褒めないと言われた鬼柳斎に「麒麟児」とまで言わしめた進之介は、16の頃には師範代の称号を与えられたのである。
酒に酔わず女に溺れず、持って生まれた天賦の才を凌駕するほどに修練に明け暮れた進之介。
そんな今まで剣のみに生きてきた進之介にも、密かに思いを寄せる女性がいた。
武峰梓。
鬼柳斎の一人娘である。
梓は進之介より二歳年下の近隣では評判の美人と噂され、梓目当てで入門を希望する輩も大勢いた。
当時の門下生の中では梓は誰の元に嫁に行くのか話題になったが、鬼柳斎は常々より梓は進之介と婚姻させると漏らしていた。
そうなれば進之介は鬼柳斎に代わって神威一刀流の後継者という立場になる。
周りの門下生の中でこのことに不満を持つ輩は一人もいなかった。
皆、口を揃えて進之介ならば致し方ないと納得していた。
それほどまでに進之介は門下生から慕われている存在だったのである。
そして進之介自身、表には出さずとも心の中の高揚を抑えることはできなかった。
内弟子となったときから、密かに思いを寄せていた梓との婚姻である。
進之介は師範代となってからも今まで以上に剣の修練に明け暮れた。
それから3年後、進之介が19歳のときである。
ある初雪が降った寒々しい夜に、進之介は鬼柳斎に道場に呼ばれた。
進之介と鬼柳斎の二人以外誰もいない道場内は、恐ろしいほど緊迫した雰囲気と静寂に包まれていた。
武者窓から入ってくる月明かりの中、鬼柳斎は進之介に一本の刀を手渡した。
珍しい朱色の柄巻きに丸形の鍔《つば》。
鞘から抜いた刀身に浮かぶ刃文は乱れるところのない直刃であり、地肌は木を縦に切った平行線のような柾目肌。
刃長二尺五寸(約76センチ)とこの時代の打刀にしてはやや長く、反りが目立つ切っ先が大きい大刀であった。
口伝によれば古の鋼により鍛えられし業物とあり、神威一刀流の跡目に受け継がれる宝刀。
銘を〈神威〉といった。
進之介は師より直々に〈神威〉を手渡されると、歓喜の涙を流した。
これを渡されるということは、すなわち免許皆伝と流派の後継者に選ばれたことを意味していたからである。
〈神威〉を手に取りながら、当時の進之介は心に固く誓った。
神威一刀流の更なる繁栄と、婚姻を結ぶ梓を絶対に幸せにしてみせると。
しかしこの時、運命の歯車は狂い始めていた。
進之介が道場で歓喜の涙を流している頃、同じ敷地内にある母屋は騒然としていた。
寝所から梓の姿が忽然と消えていたのである。
使用人たちは一晩中屋敷内を隈なく探したが、結局梓は見つからなかった。
翌日からは門下生たちも近辺を探索したが、一向にその足取りは掴めない。
その中で唯一見つかったといえば、屋敷からほど近い溜池の傍に落ちていた梓が常日頃から使っていた特注品の簪であった。
この日以降、世間では梓は〝神隠し〟に遭ったと噂になり、近隣の住人たちは恐怖で震え上がった。
その〝神隠し〟事件から、もう1年である。
20歳になった進之介の剣はますます磨きがかかってきたものの、口数は滅法少なくなり、他の人間と微妙に距離を置くようになった。
それだけならばまだよかったほうであった。
何と進之介は梓が行き方知れずになった半月後に、短刀で自分の髷をばっさりと切り落としたのである。
もともと進之介は剃り込みを入れず長髪を髷の形に結っていただけであったが、それでも自分から武士の誇りを切り落とした進之介に、門下生一同は言葉を失った。
師である鬼柳斎が何故そのような真似をしたかと問いかけると、進之介はただ黙って切り落とした髷を鬼柳斎に手渡した。
「私は今まで何かに願を賭けるということをしたことはありません。しかし、私は初めて願を賭けてみようと思います。梓さまのご無事をこれに……」
その日から進之介は、梓が無事で帰るまで髷を結わぬことを固く決意したのである。
それ以来、進之介は艶のある黒髪をうなじの辺りくらいで短く切り揃えていた。
京馬は空になったお猪口に酒を注ぐと、もう一度ぐいっと一気に飲み干した。
「まだ宵の口だがそろそろ帰るか。酒を飲みすぎて誰ぞに不覚を取るというのも馬鹿らしい話だからな」
京馬は隣の席に立て掛けていた刀を取ると、おもむろに席から立ち上がった。
進之介も簪を懐に仕舞い込み、京馬に続いて席を立った。
店の外に出るなり、進之介は手をかざして宙を見上げた。
「進之介、わしはこれより帰宅するがお主はどうする? 屋敷に戻るか」
一拍の間を置いて、進之介は答えた。
「私は少し寄るところがありますので、これにて」
進之介は京馬に軽く一礼をすると、踵を返して歩き出した。
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